第56話 応える光
王立史料院へ戻った午後、俺たちはエミリアを交えて、百八十年ほど前の道路や水路の補修記録を洗い直した。
午前中に見た灰色の構造物には、ザビーネの結界にもフィアナにも目立った反応がなかった。だから今度は構造物そのものではなく、同じ頃に王都の地下で何が起きていたのかを探すことになった。
「少し気になる偏りがあります」
エミリアが机の上へ三冊の記録を並べる。
一つは地下水路の一部を閉じて迂回路を作った記録。もう一つは道路下に空洞が見つかり、通行を止めた記録。最後の一つには、建物地下の異常を理由に一部を使用禁止にしたとあった。
「全部、同じ頃なんですか?」
フィアナが、地図へ置かれた印を見ながら聞く。
「数か月の範囲です。ただ、場所はかなり離れています」
中央市場南東の調査地点とも、それぞれ距離がある。一本の水路や一つの地下空間で簡単につながるようには見えなかった。
「同じ年なら、何か関係がある?」
「まだ何とも言えないわ」
セレナは地図から目を離さず答えた。
「王都くらい大きければ、地下工事や崩落が同じ時期に重なることはあるでしょうし」
「私も同じ考えです。ただ、これまで別々に見ていた記録が近い時期に集中していることは確かですから、前後の年まで広げて確認する価値はあります」
エミリアの言葉を聞きながら、フィアナは三つの印を見つめていた。
「今朝見た光も、離れたところにいくつもあった」
「ええ。だから、もう少し探してみましょう」
セレナはそれ以上を結びつけず、新しい資料を引き寄せた。
結局、その日は答えらしいものまでは見つからなかった。
ただ、百八十年ほど前の王都で、離れた複数の場所に地下の異常を思わせる記録が残っていた。その事実だけを持ち帰ることになった。
◇
それから三日ほど、王都では目立った異変もなく時間が過ぎた。
セレナとエミリアは史料院へ通い続け、フィアナも神殿での用事がない日は顔を出している。ミラはレナードのところへ通い、ユリウスもガルドに捕まって、移動しながら魔法を使う練習を続けていた。
俺も空いた時間の大半を訓練へ回していたが、剣を持った状態でも足運びを崩さず動ける時間が、ようやく増えてきた。
剣を抜くと、それまでできていた動きが崩れる。
最初は理由がよく分からなかったが、今なら少し分かる。敵を見て間合いを測り、構えた瞬間に、身体が勝手に「斬るための形」へ戻ろうとするのだ。
足を止め、腰を決め、上半身を先に作る。
長く染みついた動きを捨てる必要はない。ただ、それを必要になる前から出さない。
その感覚が剣を持ったままでも残るようになった頃、訓練場の端で見ていたクラウディアが立ち上がった。
「アレン、そろそろもう一回やってみる?」
何を、とは聞く必要がなかった。
少し離れたところで腕を組んでいたガルドも、俺を見て鼻を鳴らす。
「ちょうどいいだろ」
「ガルドもやるのか?」
「俺は見る」
「楽でいいな」
「教えることが減ってきた奴に、ずっと張り付いてても仕方ねえだろ」
褒められているのか放置されているのか微妙だったが、少なくとも止める理由はない。
俺が壁際から訓練用の木剣を取ると、クラウディアも一本を手にして向かいへ立った。
最初に戦った時と同じ訓練場だったが、あの時とは足元の見え方が違う。
「準備いい?」
「お願いします」
ガルドが片手を上げる。
「始め」
今度は、すぐには踏み込まなかった。
クラウディアも動かず、数歩分の距離を挟んでこちらを見ている。以前なら、この静けさに耐えきれず自分から距離を詰めていた気がする。
右へ半歩。
剣先は動かない。
さらに前へ出るように見せながら、左へ身体をずらした。
「へえ」
クラウディアが小さく呟いた次の瞬間、その姿が一気に近づいた。
正面から受けず、斜めへ足を出しながら剣を合わせる。乾いた音が響いたが、腕に大きな重さは来ない。最初から押し切るつもりの一撃ではないらしい。
こちらの剣を滑らせるように外した一撃が、そのまま肩口へ返ってくる。
土魔法で足元を固め、半歩だけ止まった。
そこで追わない。
右にも左にも動ける距離を残したまま構え直すと、クラウディアがわずかに目を細めた。
再び踏み込んでくる。
今度は二歩。
一歩目で間合いを潰され、二歩目で正面を外された。
剣ではなく、肩を見る。腰、足。
左だ。
判断と同時に足元へ風を流し、前へ出る。横から来た一撃へ自分の剣を置き、押し返すのではなく触れるだけで軌道をずらした。
手応えが消えた時には、もう次の足を出している。
そのまま振ると、クラウディアの身体が初めて大きく横へずれた。
届かない。
それでも、前よりは近い。
「まだ」
声と一緒に、足元へ風が走った。
消えたようには見えない。それでも、俺が次の一歩を出すより速い。
喉元へ伸びてくる切っ先を見て、右足を土魔法で止めながら身体を沈める。避けきれないと判断し、内側から跳ね上げると、乾いた音とともに俺の方が弾かれた。
それでも倒れず、左足を後ろへ送る。
動ける余地は残っている。
クラウディアが間を空けず追ってきたので、今度は下がらずに内側へ入った。
一瞬だけ、右が空く。
風を使って二歩目を伸ばし、身体を返しながら振り抜く。
今なら届く。
そう思った瞬間、クラウディアが半歩だけ下がった。
大きく逃げたわけでもないのに、俺の一撃は身体の手前を通り過ぎる。そのまま体勢を戻そうとした時には、もう首筋へ切っ先が添えられていた。
「そこまで」
ガルドの声が飛ぶ。
俺は息を吐きながら剣を下ろした。
「……届いたと思ったんですけどね」
クラウディアも構えを解く。
「うん。前よりは」
「前よりは?」
「前なら、そこまで来なかったから」
喜んでいいのか迷う言い方だった。
ガルドも歩いてきて、俺の立っていた場所とクラウディアの位置を見比べる。
「途中までは悪くなかったな」
「最後が駄目だった?」
「分かってんじゃねえか」
自分でも分かっていた。
右が空いた瞬間、そこしか見えなくなった。届くと思って、当てることだけを考えた。
「せっかく次に動ける場所を残してたのに、最後に全部使ったね」
クラウディアが言う。
「はい」
「今の返事は、本当に分かってる?」
「さすがに今回は」
「じゃあ、次はやらない?」
「それは無理です」
クラウディアが笑った。
「正直でよろしい」
「調子乗んなよ。まだ負けてんだろ」
横からガルドに言われ、俺は手の中の剣を握り直す。
「分かってるよ」
「ならもう一回」
「今すぐ?」
「嫌なら休め」
言い方が腹立つ。
「やる」
「そうこなくちゃ」
クラウディアが楽しそうに距離を取った。
二度目は、一度目より早く負けた。
◇
夕方、宿へ戻る頃には、腕も脚もかなり重くなっていた。
部屋へ上がる前に水でも飲もうと食堂へ向かっていると、階段の途中でフィアナと鉢合わせる。
「アレン」
呼び止めた声に、足を止めた。
フィアナは手すりへ片手を置いたまま、いつものように続けようとしない。
「どうした?」
「また見た」
その一言で、身体に残っていた疲れを忘れた。
「神託?」
「うん。さっき、部屋で少し休んでたら急に」
顔色までは悪くない。ただ、もう片方の手で淡い青の髪紐の端を何度も触っている。
「頭は?」
「大丈夫。でも、前よりはっきりしてた」
食堂へ行くのはやめて、人の出入りが少ない廊下の窓際へ移った。
「前と同じ場所だったと思う。暗くて、何もないみたいなところ」
「光もあった?」
「あった。でも、今度は最初から全部見えてたわけじゃないの」
フィアナは記憶を探るように目を閉じた。
「最初は一つだけ。それが急にはっきりして……少し離れたところでもう一つ、そのあと、もっと遠いところでもう一つ」
「三つが順番に?」
「うん」
三日前の神託では、数えることもできないほどの光が、離れた場所に存在していた。
今度は、そのうち三つが順番に現れた。
「『眠りは、ひとつではない』」
俺が呟くと、フィアナも小さく頷いた。
「私もそれを思った。言葉は何もなかったけど……何かが起きてるみたいだった」
「起きる?」
「目が覚めるっていうのとは違うと思う。人でもない。でも、一つずつ何かが動き始めるみたいな……うまく言えない」
そこから先は、本人にも言葉にできないらしい。
「セレナには?」
「まだ。先にアレンを見つけたから」
「じゃあ、一緒に行こう」
歩き出そうとすると、フィアナはその場に残ったままだった。
「アレン」
振り返る。
「もう一つあるの」
「何?」
「前より、近かった気がする」
「光が?」
「ううん。場所そのものが」
フィアナは自分でも確信を持てないのか、少し眉を寄せた。
「ここに近づいてる、ってことか?」
「分からない。でも……前は遠くから見てる感じだったのに、今日は違った」
それ以上は聞いても、答えは出そうになかった。
俺たちには、神託が何を示しているのか確かめる手段がまだない。
ただ三日前には意味の分からなかった「眠り」という言葉が、今は少しだけ違って聞こえていた。




