第55話 封環
エルンストと剣を交えた翌朝、俺は宿の食堂で遅めの朝食を取っていた。
昨日の戦いは負けたのに、妙に気分がよかった。最後に喉元へ剣を突きつけられた攻防を思い返しながらパンをちぎっていると、入口の方から聞き慣れた声がした。
「アレン、ちょっといい?」
顔を上げると、フィアナがこちらへ歩いてくるところだった。横髪を留めた淡い青の髪紐はいつも通りだったが、表情にはわずかな硬さがある。
「どうした?」
向かいの席を勧めると、フィアナは腰を下ろし、両手を膝の上で組んでから一度だけ息を整えた。
「今朝、神託があったの」
手にしていたパンを皿へ戻す。
「久しぶりだな」
「うん。王都に来てからは初めて」
「何があった?」
「見た、って言っていいのか分からないんだけど……暗い場所だった。真っ暗というより、何もないところにいるみたいな感じで、その中に光がいくつもあったの」
フィアナは記憶を辿るように視線を落とした。
「近くじゃなくて、離れたところに一つずつ。数えようとしたんだけど、途中からよく分からなくなって」
「三つとか四つじゃなく?」
「もっとあったと思う」
神託の中では、見たものと感じたものの境目が曖昧になることがある。それは以前にも聞いていた。
「言葉は?」
「声は聞いてない。でも、戻ってきた時に意味だけ残ってた」
そこでフィアナは少し迷い、俺を見た。
「――眠りは、ひとつではない」
聞いても、意味はまるで分からない。
「眠り、か」
「私も分からない。人が眠ってる感じじゃなかったと思う。でも、そうとしか言えなくて」
「頭痛は? エルムの地下みたいな感じはなかった?」
「大丈夫。白いところも見てないし、あの時ほど強くなかったと思う」
少なくとも、今すぐ身体に異常が出ている様子はない。
さらに聞こうとしたところで食堂の扉が開き、こちらを見つけたセレナが迷いなく歩いてきた。
「アレンいた。ちょうどよかったわ」
俺たちのところまで来たところでフィアナの表情に気づき、足を止める。
「何かあった?」
「今朝、神託があったの」
フィアナが暗い場所と複数の光、それから最後に残った言葉を簡単に説明すると、セレナは向かいの椅子を引いた。
「頭痛や、白い空間に入るような感じは?」
「どっちもなかった」
「場所の感覚は? 遠くへ呼ばれてる感じとか」
フィアナは少し考えてから首を振る。
「遠くって感じはしなかった。だから余計に気になって」
「そう」
セレナは手帳を取り出しかけたが、そこで俺は彼女が最初に何か言いかけていたことを思い出した。
「それで、俺に何の用だったんだ?」
「ああ、そうだったわ」
「忘れてただろ」
「神託の話を聞いたら、そっちが先でしょう」
悪びれもせず言って、セレナは手帳をいったん閉じる。
「人に会うの。ザビーネ・ローゼン」
聞き覚えのある名前だった。
「『封環』?」
「そうよ」
王都に常駐する白金級の一人で、結界や封鎖、魔術災害への対処を得意としていると聞いている。
クラウディアさんにガルド、アルノルトさん、レナードさん。それに今度はザビーネだ。
「王都に来てから会う相手がおかしいんだよ」
「今さら気づいたの?」
「黒鋼級に白金級が何人目だよ」
「王都なんだから仕方ないでしょう」
セレナは当然のように言うが、その一言で済ませていいのかは少し疑問だった。
隣でフィアナが小さく笑う。その表情がさっきより柔らかくなったのを見て、俺も少し肩の力を抜いた。
「灰色の構造物を見てもらうのか?」
「ええ。昨日、ギルドから返事が来たの。午前なら時間を取れるって」
「じゃあ、私も行っていい?」
フィアナがすぐに聞いた。
「今の神託と関係があるかは分からないけど、地下のことなら……何もしないで待ってるより、自分で見たい」
セレナはほとんど迷わなかった。
「来た方がいいわ。何も起きないなら、それも確かめられるもの」
俺にも異論はない。エルムやセレスで、施設がフィアナへ普通とは違う反応をしたのは事実だ。
「じゃあ三人か」
「現地にはエーベルもいるわ」
さらに人数が増えるらしい。俺は残っていたパンを手に取った。
「分かった。とりあえず、これだけ食わせてくれ」
「急がなくていいわよ」
「それを最初に言ってくれ」
◇
ザビーネ・ローゼンとは、王都冒険者ギルドの奥にある小さな打ち合わせ室で会った。
先に来ていた女性は、机いっぱいに広げられた旧水路の図面へ目を落としている。暗褐色の髪を邪魔にならないよう後ろでまとめ、長衣の下には軽い防具を着けていた。壁際には細身の杖と短剣が立て掛けられている。
三十代後半ほどに見える。
「ザビーネ、今日はありがとう」
「セレナね」
顔を上げたザビーネは、俺とフィアナへ順に視線を移した。
「そっちがアレンとフィアナ?」
「はい。アレンです」
「フィアナです。よろしくお願いします」
「話は聞いてるわ。座って」
俺たちが席につくと、ザビーネは机の上の図面を指先で軽く叩いた。
「旧水路で見つかった灰色の構造物については、ギルドから一通り聞いてるわ。正体は分からないし、下手に魔法を使っていいものかも判断できない。それで私が呼ばれた、というところまで」
「ええ。まずは周囲の魔力や、こちらから術を使った時に変な反応が出ないか見てもらいたいの」
セレナが答えてから、フィアナへ目を向けた。
「ただ、今朝になって一つ増えたわ。フィアナが神託を受けたの」
ザビーネの視線がフィアナへ移る。
「どんなものだった?」
フィアナが朝のことを要点だけ説明すると、ザビーネは「眠りは、ひとつではない」という部分で一度だけ目を細めた。
「頭痛や、白い空間に入る感覚は?」
「ありませんでした。エルムの地下で起きた時より、ずっと弱かったと思います」
「今のところ、その神託と旧水路の構造物が関係しているかは分からないのね」
「ええ。時期が重なっただけかもしれないわ」
セレナが答えると、ザビーネは短く頷いた。
「なら、現場でフィアナに何か変化が出るかも見ましょう。神託の意味を考えるのは、それからでいいわ」
その場で意味を決めつけることはせず、ザビーネは図面へ視線を戻した。
「構造物の方も確認しておくわ。最初に露出してから、直接魔法を使った人はいる?」
「いないわ。周囲の土を動かす時には使ってるけど、構造物そのものには当ててない」
「触れたり、削ったりは?」
「表面を軽く確かめた程度よ。傷をつけるようなことはしてない。熱や音、臭い、色にも変化は確認されてないわ」
「作業員の体調不良は?」
「それも聞いてない」
ザビーネは聞いた内容を図面の端へ短く書き込み、そこから伸びる線を指した。
「この二つ目の面が出たのは?」
「二日前。構造物を追って掘ったんじゃなくて、補修のために崩れた土を除けたら横にも続いてたの」
セレナが別の紙を広げる。最初に見つかった平らな面と、その端から直角に続くもう一枚の面が簡単な線で描かれていた。
ザビーネはしばらくそれを見てから、俺へ視線を向ける。
「エルムとセレスで似たものを見たって?」
「表面の感じは似ています。ただ、同じ種類の設備かまでは分かりません」
「文字は?」
「今見えている範囲にはありません」
「百八十一年前の記録にはあったわ」
セレナが続ける。
「硬くて平らな面についての記述と、その近くで採られた文字の写し。アレンが読めたのは『保守』と『通路』」
「同じ場所?」
「そこまでは分からないわ。写ししか残ってないもの」
ザビーネはもう一度図面へ目を落としたあと、ためらいなく立ち上がった。
「じゃあ、見に行きましょう」
「もういいの?」
「残りは現場で聞いた方が早いわ」
セレナもすぐに鞄を持つ。
「同感ね」
話が早い。
◇
中央市場の南東は、数日前と比べてかなり片づいていた。
崩落箇所の周囲では補修が進み、閉まっていた店にも客が戻り始めている。荷車が避けていた道も一部は使えるようになっていたが、旧水路へ降りる一角だけはまだ柵で区切られ、通行人が入らないようになっていた。
入口で話を通していると、ほどなくエーベルが地下から上がってくる。
「今日は人数が増えましたね」
俺たちを見回したあと、ザビーネへ目を向けた。
「市の水路を担当しているエーベルです」
「ザビーネ・ローゼン。今朝はどう?」
「変化はありません。構造物側へは寄らず、水路の補修だけ進めています」
「大きな振動が出る作業は?」
「今日はありません。この先で必要になりますが、その前に連絡する予定です」
「分かった。案内して」
作業に必要な者だけで地下へ降りる。
湿った石段を下り、古い水路沿いを進むにつれて市場の喧騒は遠ざかり、代わりに水の流れる音が近くなった。
やがて崩れた側壁の奥に、灰色の面が見えてくる。
最初に見た時より周囲の土が整理され、平らな面の端からもう一枚が直角に続いていることが分かりやすくなっていた。どちらも先はまだ土の中へ埋もれている。
ザビーネは数歩手前で止まり、周囲を見渡した。
「ここから先、少し空けて」
エーベルと作業員が下がると、ザビーネは杖を構え、灰色の面の手前へ小さな結界を張った。
派手な光は出ない。ただ空気の輪郭がわずかに揺らぎ、薄い境目だけがしばらくそこに残る。位置と広さを変えてもう一度同じ術を使うと、ザビーネはその形をじっと見つめた。
「何を見てるんですか?」
「周囲の魔力の偏りと、こっちの術への干渉。何か強く出てるなら、結界にも癖が出るわ」
「今は?」
「目立ったものはない」
杖を下ろし、今度はフィアナを見る。
「何か変わった?」
フィアナは灰色の面をしばらく見つめ、自分の感覚を確かめるように首を振った。
「……何も。頭も痛くないです」
「今朝の神託に近い感じは?」
「違うと思います。少なくとも、ここへ来たから強くなった感じはしません」
「分かった」
セレナがその返答を手帳へ書き留める。
神託も、文字も、目立った魔力反応もない。何かが起きることを期待していたわけではないが、今のところ、この灰色の構造物と朝の神託を直接つなぐものは見つからなかった。
「もう少し近くで見てもいい?」
セレナが灰色の面へ視線を向けたまま聞く。
「何を確認するの?」
「角よ。二つの面の境目に継ぎ目がないか見たい。ここからだと表面が滑らかなのは分かるけど、それ以上は見えないわ」
「見るだけなら」
ザビーネは先に床と壁際の状態を確かめ、自分で数歩進んでから振り返った。
「壁際の土は踏まないで。表面にも触らないこと」
「分かったわ」
セレナが進み、呼ばれた俺も後へ続く。
近くで見ると、二つの灰色の面は綺麗に直角で交わっている。それなのに、境目に継ぎ目らしい線は見当たらない。
「文字は?」
「ない」
「こっち側も?」
セレナが少し身体をずらしたので、見える範囲を追ってみる。
「何も見えないな。線みたいなものも、少なくとも俺には分からない」
セレナは角をしばらく眺めていたが、手を伸ばすことなく立ち上がった。
「戻りましょう」
元の位置まで下がると、ザビーネが聞く。
「十分?」
「今日はね。近くで見ても境目が分からないなら、目で増やせる情報はもう少なそうだわ」
「次は?」
「記録と照らす。似た形がないか探して、それから必要なら術式を考える」
「試すものが決まったら、内容を先に送って」
「分かったわ」
そこでエーベルが図面を広げた。
「水路の補修ですが、構造物側を避けると少し遠回りになります。こちらから石を組み直す形で進めようと思っています」
ザビーネが図面を覗き込む。
「その方がいい。振動が大きくなる作業だけ、日が決まったら知らせて」
「分かりました」
「エーベル」
今度はセレナが口を挟んだ。
「ここの水量、しばらく見てもらえる?」
「どの程度までです?」
「急に増えた、減ったが分かれば十分よ。毎日細かく測らなくていいわ。温度も、普段と違う時だけ残してほしいの。それと、変な音がしたら教えて」
エーベルが苦笑する。
「だんだん仕事が増えてきましたね」
「全部毎日測れとは言ってないわ」
「分かってますよ。そのくらいならやっておきます」
セレナは満足したらしく、手帳を閉じた。
俺はもう一度、土の中へ消えていく灰色の面を見る。
神託とのつながりは分からない。文字もなく、ザビーネの術にも目立った反応は出なかった。
それでも、地図に存在しない人工物が王都の地下に埋まっているという事実だけは、何一つ変わっていなかった。
◇
地上へ戻る頃には、昼を少し過ぎていた。
市場の方から焼いた肉と香辛料の匂いが流れてきて、地下にいる間は忘れていた空腹を思い出す。
「私はギルドへ戻るわ」
ザビーネが足を止めた。
「何か試すことが決まったら連絡して。内容を見て、必要ならまた来る」
「ええ。ありがとう」
「フィアナも、今日みたいな反応がまたあったら覚えている範囲で残しておいて。強くなったか、弱くなったかだけでもいいわ」
「分かりました」
ザビーネはそれだけ言うと、人の流れへ入っていった。
俺は遠ざかる背中を見送りながら、思わず口にする。
「本当に仕事だけして帰ったな」
「そのために呼んだんでしょう」
「白金級って、もう少し出てくるだけで周りが騒ぐものかと思ってた」
「ガルドで慣れたんじゃない?」
「ガルドは別枠だろ」
セレナが笑い、フィアナもつられるように笑った。朝に見せていた硬さは、もうほとんど残っていない。
「このあと史料院に行くんだよね?」
フィアナがセレナへ聞いた。
「そのつもりよ」
「私も行っていい? 今朝の神託と似た言葉が残ってないか、私も見てみたい」
「もちろん。ちょうど探すものも増えたところだしね」
俺たちは昼食を済ませてから史料院へ向かうことにして、市場の方へ歩き出した。
昼を過ぎた通りには人の流れが戻り、店先からは客を呼ぶ声が飛んでいる。地下に地図にもない灰色の構造物が埋まっていることなど、ここを歩く人間のほとんどは知らない。
朝に聞いた言葉の意味も、まだ分からない。ただ、暗闇の中で互いに離れていたといういくつもの光だけが、妙に頭に残っていた。




