第52話 地面の下の仕事
フィアナに前の人生のことを話してから二日後、俺はまた中央市場の南東に来ていた。
陥没した通りの封鎖は続いているものの、木柵の内側では復旧作業がかなり進んでいる。穴の周囲には新しい梁が渡され、資材を下ろすための滑車まで組まれていた。通りの両側では店も営業を再開していて、柵越しに作業を覗く人の姿も、事故の直後ほど多くはない。
「アレンさん、こっちです」
穴の縁から手を上げたエーベルのところへ行くと、彼は開口部を覗き込みながら一枚の図面を広げていた。
「何か出たんですか?」
「出たというほどでもないんですが、少し見てもらいたいところがありまして」
「セレナは?」
「史料院だそうです。今回は遺構の調査というより、こっちの都合ですね」
エーベルは図面の一点を指した。
「道路を戻すには、崩れた側壁を造り直さないといけません。ただ、あの灰色のものへ直接荷重を掛けていいのか分からないので、少し離して基礎を作る予定です」
「そのために周りを片づけた?」
「崩れた土を取り除いて、足場を広げただけです。あれ自体には触ってませんよ」
念を押すような言い方に、思わず笑った。
「俺よりセレナに言った方がよさそうですね」
「三回くらい言いました」
「なら大丈夫そうだ」
「本当にそう思います?」
「……たぶん」
エーベルが苦笑して図面を畳む。
今日呼ばれたのは未知の構造物を調べるためではなく、その周囲で工事を続けるためだった。
俺の土魔法は地形を大きく変えるほど強くないが、狭い範囲の土を締めたり、崩れかけた場所を一時的に支えたりするには使える。市にも土系の魔術師はいるものの、事故当日に地下の状態を見ている俺なら話が早い、ということらしい。
「下で判断するのは俺じゃなくて、エーベルさんたちですよ」
「もちろんです。無理なところは無理と言ってください」
「それ、こっちの台詞じゃないですか?」
「確かに」
そんなことを話しながら、仮設階段を降りた。
旧水路へ入るのも、もう三度目になる。
湿った石の匂いも、浅い水の流れる音も変わらない。ただ、事故の日には崩れかけていた場所の大半に木の支柱が入り、作業員が行き来するための板まで敷かれていた。
「ここから先は右側を歩いてください。左は昨日入れたばかりで、まだ沈み方を見てます」
「分かりました」
前を歩くエーベルが足場の状態を確かめながら進んでいく。その後ろで、資材を抱えた作業員の一人が板を避けようと左へ足を出しかけた。
「そっちは駄目です。戻る時に同じ場所を使えなくなるかもしれません。遠回りでも板の上を」
「あ、すみません」
作業員がすぐに足を戻す。
エーベルはそれ以上何も言わず、先へ進んだ。
崩落地点へ着くと、灰色の構造物の周囲は以前より少しだけ見通しがよくなっていた。
露出している正面の大きさ自体はほとんど変わらない。ただ、その右端にあった土が取り除かれたことで、平らな面が途中で奥へ折れているのが見える。
「これですか」
「ええ」
エーベルが灯りを近づけた。
正面からほぼ垂直に、もう一枚の灰色の面が土の中へ続いている。見えているのは腕一本分ほどの幅しかないが、少なくとも一枚の巨大な板が埋まっているだけではなさそうだった。
「角がありますね」
「そうなんです。ただ、ここから先は触ってません。道路側の支えを作るために崩れた土を片づけたら、たまたま出てきました」
「奥行きは?」
「分かりません。箱みたいな形なのか、このままずっと続いているのかも」
俺は灰色の角へ近づいたが、触れずに眺めるだけにした。
表面には相変わらず文字も継ぎ目もない。史料院で見た「保守」と「通路」の文字が頭をよぎったものの、それで目の前のものの用途まで分かるわけではなかった。
「セレナが見たら掘りたがりそうだ」
「だから先に工事範囲を決めておきたいんですよ」
冗談なのか本気なのか分からない顔で返される。
「固めたいのは?」
「こっちです」
構造物から数歩離れた場所まで移動すると、エーベルが棒で範囲を示した。
「旧水路の側壁が崩れた時に、上の道路側の土も緩んでます。新しい壁を組むまで、作業員が入れる程度に締めてもらえれば十分です。深く触る必要はありません」
「構造物側は?」
「触らないでください。土が動いた時に何が起きるか分からないので」
「分かりました」
片膝をつき、示された範囲へ魔力を流す。
ばらけていた土の感触が少しずつ締まっていく。強く固めすぎれば水の逃げ道まで変えてしまうため、表面から浅いところだけを整えていると、しばらくしてエーベルが声を掛けた。
「そこで止めてください」
魔力を切ると、横にいた作業員が棒の先で土を押し、エーベルが沈み方を確かめる。
「もう少し下もやりますか?」
「いえ、十分です。ここへ板を渡して、その上から支えを入れます」
俺が立ち上がる頃には、エーベルはもう次の作業へ意識を移していた。
「梁は右から入れてください。左はまだ載せないで。一本ずつ位置を見ます」
数人の作業員が資材を運び始める。
邪魔にならない場所へ下がりながら、その様子を眺めていて、さっきから引っかかっていたものの正体に気づいた。
地下の仕事を長くしていれば慎重になるのは当然だろう。それでも、エーベルは足場が今崩れるかどうかだけでなく、その先に戻る道が残るかまで見ていた。
「エーベルさん」
「はい?」
「昔、冒険者やってました?」
持っていた図面から顔が上がる。
「……急ですね」
「違ったらすみません」
「いや、合ってますよ。どうして分かったんです?」
「退路の見方が、それっぽかったので。入る時より、戻る時のことを気にしてるから」
エーベルはさっきの足場へ一度目をやり、納得したように頷いた。
「ああ。その辺は残ってるのかもしれませんね」
「どれくらいやってたんです?」
「数年です。銅級までは上がりました」
「それなら、結構ちゃんとやってたんですね」
「金級の人に言われると、どう受け取ればいいか困りますね」
「そういう意味じゃないですよ」
笑いながら返すと、エーベルも肩をすくめた。
「若い頃は、もう少し上まで行けると思ってたんです。でも銀級になる連中を見てるうちに、たぶん無理だなって分かりまして」
「戦う方が?」
「そうですね。身体も人並み、魔法も大したことはない。剣も悪くはなかったと思いますけど、その程度です」
卑下している様子はなかった。
昔の自分がどこまでできたのかを、今なら分かるというだけなのだろう。
「それでもしばらく続けてたんですが、一度、依頼でかなり危ない目に遭いました。森で魔物に囲まれて、どうにか全員で帰ってきたんですけどね」
「それで辞めたんですか?」
「帰ってから考えたんですよ。このまま続けてたら、そのうち普通に死ぬなって」
エーベルはあっさり言った。
「ちょうど知り合いから市の仕事を手伝わないかって話があったので、それをきっかけに辞めました」
「未練はなかった?」
「多少はありましたよ。でも、始めてみたらこっちの方が性に合ってた」
一本目の梁が置かれ、エーベルは会話を止めて位置を確認する。
「あと指二本分、右へ。そうです。そこで一度置いてください」
作業員が梁を下ろすのを見届けると、またこちらへ向き直った。
「最初は食うために始めただけなんです。冒険者を辞めた後のことなんて、まともに考えてませんでしたから」
「でも、続いた」
「地下へ入って、水がどこから来て、どこへ抜けるかを見る。壊れていたら直すし、全部直せないなら順番を決める。そういうのを考える方が、魔物と斬り合うより向いてたんでしょうね」
迷いのない言い方だった。
夢を諦めたというより、別の場所で自分に合う仕事を見つけた。それだけのこととして、本人の中ではもう整理されているらしい。
「息子さんは、その話も知ってるんですか?」
そう聞くと、エーベルが少し困った顔をした。
「知ってます。だから余計ですよ。この前話したでしょう、冒険者に憧れてるって」
「ガルドの大剣がどれくらい重いか聞かれた話ですね」
「まだ聞かれてますよ。今度は、金級になるまでに何匹魔物を倒せばいいのかって」
思わず笑う。
「俺に聞かれても困りますね」
「そう言っておきました」
「俺の答えを先に使わないでくださいよ」
「だって、アレンさんは討伐数だけで金級になったわけじゃないでしょう?」
「まあ、そうですけど」
エーベルも笑った。
「本人は強い魔物をたくさん倒せば上へ行けると思ってるんです。十歳ならそんなものかもしれませんが」
「反対してるんですか?」
「今すぐなりたいと言われれば、反対します。でも、ずっと駄目だと言うつもりもありません」
答えは早かった。
「もう少し大きくなって、それでも本気なら考えればいい。その前に読み書きと計算くらいちゃんと覚えろとは言ってます」
「冒険者でも要りますからね」
「依頼書が読めない、報酬の計算もできない、地図も分からない。それで剣だけ持って出て行かれても困りますよ」
「確かに」
「それと、自分で帰ってこられることですね」
エーベルは作業中の足場へ目を向けた。
「強い魔物を倒す話ばかり聞きたがりますけど、仕事なんですから、生きて帰ってくるところまでできないと意味がない」
若い頃の経験があるからこそ出る言葉なのだろう。それでも、息子の憧れ自体を馬鹿にしている感じはなかった。
「そういえば、その息子がまだアレンさんに会いたがってまして」
「俺に?」
「前に名前を話してから、何度も聞かれてるんですよ。ガルドさんにも会いたいらしいですけど、あの人はさすがに頼みづらい」
「俺なら頼みやすいんですか」
「話を聞いてくれそうなので」
否定しにくかった。
「俺でよければ、別にいいですよ。王都にいる間で、時間が合えば」
「本当ですか。喜びますよ」
「質問攻めにされるんでしたっけ」
「覚悟した方がいいですね」
「じゃあ今のうちに答えを考えときます」
「魔物を何匹倒したら金級になれるかも?」
「それはエーベルさんがもう答えたじゃないですか」
二人で笑っていると、奥から作業員の声が飛んだ。
「エーベルさん、二本目どうします?」
「今行きます!」
エーベルは図面を脇に挟み、足場へ向かう。
俺はその背中を見送ってから、改めて周囲を眺めた。
水路を流れる水の横に新しい支柱が並び、そのさらに向こうでは、誰が造ったのかも分からない灰色の構造物が土の中へ続いている。
俺たちにとっては得体の知れないものでも、エーベルたちにとっては、その隣で道路を戻し、水を流し続けなければならない。
正体が分かるまで、街の仕事を止めておくわけにはいかないのだろう。
◇
作業が一区切りついた頃には、昼をかなり回っていた。
地上へ戻ると、地下の湿気に慣れた肌へ乾いた風が心地よかった。作業台の横で水をもらっていると、少し遅れて上がってきたエーベルも隣へ腰を落ち着ける。
「助かりました。あれなら明日から壁の方へ入れます」
「俺は土を少し固めただけですけど」
「その少しのために魔術師を一人呼ぶと、手続きが増えるんですよ」
「それで俺を使ったんですか」
「せっかく知り合いにいるので」
悪びれずに言われ、笑うしかない。
「いつの間に知り合いになったんです?」
「地下に三回も一緒に入れば十分じゃないですか」
「基準がよく分からないな」
「冒険者なら、もっと早いでしょう?」
「それは相手によりますよ」
エーベルは水を一口飲み、封鎖された通りを眺めた。
「でも、最初に会った時よりは話しやすくなりましたね」
「事故の最中でしたからね。あの時に雑談してたら嫌ですよ」
「それもそうだ」
柵の向こうでは、店先へ荷物を並べ直している商人がいる。通りはまだ使えないのに、その周囲ではもう日常が動き始めていた。
「息子さんに会う話、家で聞いてみてください」
俺がそう言うと、エーベルが少し意外そうにこちらを見る。
「覚えてたんですか」
「さっき話したばかりでしょう」
「いや、そのうちでいいと言うかと思ってました」
「そのうちでいいですよ。でも、向こうにも予定はあるでしょうし」
「十歳の予定なんて大したものじゃありませんよ」
「学校とかあるじゃないですか」
「ああ、それはありますね」
自分から言っておいて忘れていたらしい。
「じゃあ、一度聞いてみます。無理に時間を空けなくていいですから、王都にいる間に都合が合えば」
「それでお願いします」
「本人には、まだ言わないでおきます」
「なんでです?」
「会える日が決まるまで毎朝聞かれるので」
「ああ……」
それは少し想像できた。
そこでまた作業員に呼ばれ、エーベルは残っていた水を飲み干して立ち上がる。
「では、また」
「はい。また呼んでください」
「気軽に言うと本当に呼びますよ」
「内容によります」
「そこはちゃんとしてるんですね」
笑いながら、エーベルは木柵の中へ戻っていった。
少し離れたところでは、すでに図面を広げて作業員と何か話し始めている。
若い頃は剣を持って森を歩き、今は王都の地下で水路を直す。
本人にとって、その二つはそれほど離れたものではないのかもしれない。
退路を確かめ、分からない場所へ無理に踏み込まず、必要な仕事を一つずつ終わらせていく。
そう考えると、さっき地下で感じた冒険者らしさが、今のエーベルにもそのまま残っている気がした。




