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第51話 生まれる前の人生

 俺の名前が、怒声になって背中へ飛んできた。


「何をやっている!」


 地図へ落としていた視線を上げる。


 汗が顎を伝い、戦闘服の襟元へ落ちた。背嚢を背負ったまま何時間も歩いてきたせいで肩は痛み、靴の中には土が入り込んでいる。


「状況を整理しています!」


「見れば分かる! 何分整理するつもりだ!」


 教官が俺の手元の地図を指した。


「先頭が負傷、予定経路は使えない。敵の位置も分からない。それで、お前は何をする!」


「迂回経路を選定して――」


「その前に周りを見ろ!」


 言われて顔を上げる。


 少し離れた木の陰では、負傷者役の候補生に一人が付き添っている。その周囲では、俺と同じ戦闘服を着た同期たちが小銃を抱えたまま、次の指示を待っていた。


 誰も動いていない。


「お前が考えている間にも、部下は命令を待っているんだぞ!」


「はい!」


「返事じゃない! 今すぐ何をさせる!」


 地図の上だけに向いていた意識を、目の前の状況へ戻す。


「二名は周辺警戒! 一名は負傷者の状態を確認、残りは装備を点検して移動準備!」


「なら最初から言え!」


 声を張って指示を出すと、それまで止まっていた同期たちが一斉に動き始めた。


 警戒方向を割り振り、負傷者の状態を確認させながら、改めて地図を見る。予定していた経路が使えないなら、東へ回るか、一度後退して別の道へ出るしかない。


「東へ迂回する。先頭二名は百メートル先まで経路確認。その間に負傷者を移動できる状態にする」


 教官は何も言わず、俺たちの動きをしばらく見ていた。


 怒鳴られるより、その沈黙の方が落ち着かなかった。


「候補生」


「はい!」


「お前は、間違えるのが嫌なんだろ」


 一瞬、返事に詰まる。


「……はい」


「全部分かってから、正しい命令を出そうとしている。だが、状況がお前の整理を待ってくれると思うな」


 教官は地図ではなく、動き始めた同期たちを顎で示した。


「今分かっていることだけでも、先に動かせる人間はいる。判断を変えるのは構わん。間違えたら直せ」


 そこで一度、俺を見る。


「黙って全員を止めている時間にも責任がある。覚えておけ」


「はい!」


「よし。続けろ」


 その時の俺は、素直に納得できなかった。


 適当な命令を出して誰かを危険に晒すくらいなら、少しでも正しい判断をした方がいい。自分なりに考えていたからこそ、余計に悔しかった。


 けれど、その後何度も判断を迫られるうちに、教官の言葉を思い出すようになった。


 情報が揃うまで待てる場面ばかりではない。分かっている範囲で決め、動かしながら修正しなければならない時もある。


 それを最初に身体へ叩き込まれたのは、たぶんあの頃だった。


     *


「……そんなことをしてた」


 そこまで話して、目の前の飲み物から湯気がほとんど消えていることに気づいた。


 夕食を済ませたあと、俺とフィアナは客室棟の端にある小さな談話室を借りていた。向かいに座るフィアナは途中で一度も口を挟まず、両手で杯を包んだまま俺の話を聞いている。


「それが、前の人生の話?」


「ああ」


「その時のアレンは、今より年上なんだよね?」


「その訓練をしてたのは、二十三くらいだったと思う」


「今より三つも上なんだ」


 フィアナは俺の顔を改めて確かめるように見る。


「なんか変な感じ」


「俺も話してて変な感じするよ」


「だって、今は二十歳なのに、二十三歳だった時の記憶があるんでしょ?」


「そうなるな」


「じゃあ本当は、私よりずっと年上?」


「その数え方はやめてくれ」


 思わず返すと、フィアナの口元が緩んだ。


「そこは気にするんだ」


「今の俺は二十だからな」


「分かった。二十歳のアレンね」


 少しだけ空気が軽くなった。


 ただ、今の話は俺が覚えている人生の、ほんの一場面に過ぎない。


「こういう記憶だけじゃないんだ」


「うん」


「もっと小さい頃のことも覚えてる。家で暮らして、学校へ通って、友達と遊んだことも。そのあと働くようになって、失敗したり、怒られたり、うまくいったりしたことも」


 幼い頃は、長い夢なのだと思っていた。


 けれど、昨日の続きに今日があり、その前には別の日がある。誰と知り合い、なぜ嫌いになり、どうして仲良くなったのかまで記憶の中では繋がっていて、歳を重ねるにつれて夢と考える方が不自然になった。


「いつ頃、夢じゃないって思ったの?」


「はっきりした時期は覚えてない。何十年分も繋がってるから、途中から前世って呼ぶようになっただけだよ。本当にそうなのかは分からないけど」


「何十年……」


 フィアナはその長さを考えるように、少し黙った。


「前の世界って、ここみたいなところだった?」


「かなり違う」


「魔法は?」


「少なくとも、俺が知ってる範囲にはなかった」


 それには素直に目を丸くした。


「魔法がないの?」


「その代わり、別の技術が発達してた。馬がいなくても走る乗り物があって、夜でも街は明るかったし、ものすごく遠くにいる人間とその場で話せた」


「どうやって?」


「説明するのが難しいな……文字や絵を映す、薄い板みたいな道具もあった」


「板?」


「見た目だけなら近い。そこに文字を書いたり、遠くの人から送られてきたものを読んだりできた」


 フィアナは少し考え込んでから首を傾げる。


「それ、魔法じゃないの?」


「こっちに来てから、そう言われると反論しづらいとは思った」


 あの世界では誰も魔法とは呼ばなかった。


 仕組みがあり、それを作る人間がいて、壊れれば直す。ただ俺自身、その仕組みを一から説明できるほど何でも知っていたわけではない。


「空も飛べた」


「それは魔法でしょ」


「違うんだよ」


「魔法なしで?」


「ああ」


 フィアナはしばらく俺を見つめたあと、呆れたように息を吐いた。


「想像できない」


「まあ、そうなるよな」


「嘘だと思ってるんじゃないよ。本当に、どういう世界なのか全然想像できない」


 その言い方がフィアナらしくて、少し笑ってしまった。


「俺も二十年こっちで暮らしてるから、だいぶ遠い感じになってきてるよ」


「前の方が長く生きてたのに?」


「記憶は残ってる。でも、毎朝起きて生活してるのはこっちだからな」


 フィアナは杯へ視線を落とし、少し考えてから訊いた。


「さっき一緒に訓練してた人たちとか、あの……教官? って人とか、家族や友達もいたんだよね」


「ああ」


「今も覚えてる?」


「覚えてるよ。顔も声も思い出せる」


 ずっと考えているわけではない。


 こちらで暮らしているうちに、何日も思い出さないことも普通になった。それでも、記憶の中から消えたわけではなかった。


「会いたい?」


 静かな問いに、少し考える。


「会えるなら、会いたい人はいる」


「そっか」


「ただ、今の人生をなかったことにして戻りたいかと言われると、それは違うかな。そもそも、そんな選び方ができるのかも分からないけど」


 今の家族もいるし、冒険者になってから知り合った人間もいる。


 フィアナたちと旅をしてきた時間も、前の人生のおまけではなく、俺自身の記憶になっていた。


「前の俺の経験が、今の俺を作ってるのは間違いない。でも、それだけが俺でもないと思う」


「二回生きてるみたいな感じ?」


「近いのかな。でも、二人いる感じでもないんだよな」


「難しいね」


「俺にも分からない」


 フィアナが小さく笑った。


「そこは分からないんだ」


「どうしてこっちに来たのかも、なんで記憶が残ったのかも分からない。肝心なところは何もな」


 自分が何者なのかと聞かれても、今はアレン・クロイツだとしか答えようがない。


「さっきの訓練は、何になるためのものだったの?」


 少し考えてから答える。


「人を動かす立場になるための訓練だよ。規律が厳しくて、命令を受けたり出したり、危ない状況でどう判断するかをずっと練習してた」


「兵士みたいな?」


「かなり近い」


「だからアレン、ああいう時に慣れてるんだ」


「慣れてるってほどじゃないよ。さっき話した通り、最初は怒られてばかりだった」


「でも、白岩街道では決めたでしょ?」


「迷ってはいたよ。ただ、迷ったまま決めただけだ」


 口にしたところで、昔の教官の言葉が頭をよぎった。


 全部分かるまで待つな。


 何年も経って、違う世界で似たことをしているのだから、不思議なものだ。


「そのあとも、ずっと同じ仕事だったの?」


「いや。後には別の仕事もした。大きな街で、紙とか文字とか数字を見る時間の方が長い仕事」


「ずいぶん変わったね」


「自分でもそう思う」


「じゃあ、人の仕事まで気づいたら拾ってるのはどっちの頃?」


「それは知らない」


 フィアナが笑った。


「昔からだった気がする」


「見てもないのに決めるなよ」


 軽いやり取りが途切れたところで、今日ここへ来た理由を思い出す。


「フィアナ。古代施設の文字のことなんだけど」


 彼女の表情から笑みが少し引いた。


「今日、史料院で見たものもそうだった?」


「ああ。前の世界で使ってた文字だ」


「使ってたって……研究してたとかじゃなくて?」


「違う。俺にとっては見慣れた文字だ。子どもの頃から読んでたし、毎日使ってた」


 今度はフィアナも、すぐには返さなかった。


「じゃあ、エルムの地下も?」


「同じ」


「セレスも?」


「ああ」


「アレンに出た『適合』も読めたの?」


「読めた。あの言葉自体は、前の世界なら特別なものじゃない」


「私に出たものも?」


「『確認済み』って表示も読めた。ただ、どうしてあの場所でそんな表示が出たのかは分からない」


 文字が読めることと、設備の意味まで分かることは別だ。


 俺の知っている言葉で書かれているからといって、遥か昔の施設の仕組みを理解できるわけではない。


「じゃあ、アレンが施設に反応したことも、前の人生と関係あるのかな」


「そう見えるけど、まだそれ以上は言えない。今日見つかった百八十一年前の文字も同じだったしな」


 フィアナはしばらく考えてから俺を見る。


「それで今日、話そうと思ったの?」


「たぶん」


「たぶん?」


「セレスから戻る時にも言いかけただろ。あの時は、自分でも何をどこまで話せばいいのか整理できてなかった。前世のことを話しても、施設との関係までは説明できないから」


「今もそこは説明できてないよ?」


「それはそうなんだけど」


 フィアナの口元がわずかに緩む。


「じゃあ、何が変わったの?」


 少し考えてから答えた。


「分からないところまで全部分かってからじゃなくても、話していいかなと思った」


 言ってから、自分でも妙な既視感を覚える。


 フィアナも同じことに気づいたらしい。


「さっきの教官に怒られたことと似てるね」


「……そうかもしれない」


「ずいぶん長くかかったね」


「世界を一つ跨いだからな」


 二人で笑ったあと、フィアナは杯の縁を指でなぞりながら少し視線を落とした。


「ねえ、アレン」


「何?」


「どうして、私に話そうと思ったの?」


 その質問には、すぐ答えが出なかった。


 セレナなら、文字についてもっと専門的な話ができる。王国へ報告するなら、いずれ説明しなければならないことも出てくるかもしれない。


 それでも、最初に話そうと思った相手はフィアナだった。


「フィアナなら、分からないことを分からないまま聞いてくれると思ったからかな」


「……そっか」


 フィアナは一度頷き、それから何かに気づいたように顔を上げた。


「これ、誰かに話すの初めて?」


「ああ。ここまで話したのは初めてだよ」


「じゃあ、私が最初なんだ」


 声はいつもと変わらないのに、その表情だけが少し嬉しそうに緩んだ。


「そうなるな」


「……そっか」


 二度目のそれは、さっきより小さかった。


 フィアナは誤魔化すように杯へ口をつけたものの、とっくに冷めていることを思い出したらしく、すぐに下ろす。


「何だよ」


「何でもない」


「顔に出てるけど」


「出てない」


「出てる」


「じゃあ見ないで」


 そう言って横を向いた耳が、少しだけ赤く見えた。


 理由までは聞かないことにした。


 しばらくして、フィアナはようやくこちらを向き直る。


「でも、嬉しいよ」


「嬉しい?」


「信用してくれたってことでしょ。それに……アレンが自分から話そうって思った時に、最初に私を選んでくれたんだから」


 そこまで言うと、少し照れたように視線を逸らした。


 否定する理由はなかった。


「まあ……そうだな」


「じゃあ、ちゃんと大事にする」


 フィアナは今度こそ真っ直ぐ俺を見る。


「他の人には言わない。アレンが話したいと思った時に、自分で話せばいいよ」


「頼む」


「うん」


 その返事を聞いて、思っていた以上に力が抜けた。


「信じるのか?」


「アレンがこんな嘘ついて、何か得するの?」


「ないな」


「じゃあ信じる」


 あっさりした答えだったが、軽く扱われた感じはしなかった。


「それに、私だって神託の理由を知らないまま聖女って呼ばれてるしね。周りが知ってることと、自分が分かってることが同じじゃないのは、少し分かるつもり」


 セレスから戻る夜にも、似たことを言っていた。


 だからあの時も、途中まで話そうと思えたのだろう。


「前の人生の話って、今日ので全部?」


 フィアナがふと思い出したように訊く。


「まさか。一生分あるんだぞ」


「そっか」


 少し考えたあと、彼女は楽しそうに笑った。


「じゃあ、また聞かせて」


「面白い話ばっかりじゃないぞ」


「今日のも面白かったよ」


「怒鳴られてただけだろ」


「今のアレンにも、そんなふうに怒られてた時があったんだって分かったから」


「どういう意味だよ」


「そのままの意味」


 フィアナはまだ笑っている。


 前の人生について、誰かにここまで話したのは初めてだった。


 口にしてしまえば何かが大きく変わるような気がしていたのに、目の前のフィアナはさっきまでとほとんど変わらない。ただ、俺しか知らなかったはずの人生を、今はもう一人だけ知っている。


 その事実は思っていたより重くなく、むしろ肩に乗っていたものを一つ下ろしたような感覚に近かった。


 そして、最初に知ったのがフィアナだったことを、俺は悪くないと思っていた。

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