第50話 残された写し
三日後の夕方、神殿へ戻ったところでセレナに呼び止められた。
「アレン、今から少し時間ある?」
廊下の窓から差し込む西日を背に、セレナは何枚かの紙を挟んだ薄い革鞄を抱えている。史料院から戻ってきたところらしく、普段なら腰にある調査道具のいくつかも見当たらなかった。
「あるけど。何か見つかった?」
「たぶん、あなたにも見てもらった方がいいものがある」
「俺に?」
「エミリアから」
それなら、ただの古文書ではなさそうだ。
旧水路の調査で百七十六年前の図面を見て以来、セレナとエミリアは王立史料院で周辺の記録を洗っていた。俺も手伝うかと聞いたことはあるが、二人が文書の山を相手にしているところへ行ったところで、できることはほとんどない。
「前は邪魔になりそうだから来なくていいって言われた気がするんだけど」
「言ったわね」
「今回は違う?」
「今回は、あなたにしか分からないかもしれない」
セレナはそれだけ言って歩き出した。その言い方を聞けば、何を見せられるのか、ぼんやりと見当くらいはつく。
王立史料院へ着いた頃には、外はかなり暗くなり始めていた。
閲覧用の広い部屋にはまだ何人か研究員が残っていたが、俺たちが通されたのは、その奥にある小さな作業室だった。壁際には紐で束ねられた文書や箱が積まれ、中央の大きな机には年代も大きさも違う紙が何枚も広げられている。
エミリアはその一角で、細かな数字が並んだ帳簿を読んでいた。
「来ましたね」
「俺に見てほしいものがあると聞きました」
「その可能性があります。まずはこちらを」
挨拶もそこそこに、エミリアは帳簿へ細い指を置いた。
文字そのものは今の王国で使われているもので、並んだ数字を見る限り、何かの支出記録らしい。
「道路補修費ですか?」
「それだけではありません。同じ時期のものを集めました」
隣の紙を引き寄せながら、エミリアが項目を順に示していく。
「木材、石材、人夫の雇い入れ、排水路の補修。それから、この区域への荷車の通行制限です」
セレナが机の上へ簡単な王都の地図を広げた。印が付けられているのは中央市場から少し南東へ寄った一帯で、灰色の構造物が露出した場所もその中に入っている。
「全部、同じ時期ですか?」
「完全に同時ではありません。数か月ほどの幅があります。ただ、平常時の補修として見るには支出が偏っています。特に人夫と木材が多い」
「何か大きな工事をしたんですか?」
「その可能性はあります。ただ、何をしたのかを書いた文書はまだ見つかっていません」
「支出だけ残ってるんですね」
「工事そのものの記録が失われたのか、別の分類で保管されているのか、それとも最初から詳細な文書が作られなかったのか。そこは分かりません」
資料がないこと自体を、何かの証拠として扱うつもりはないらしい。
「年代はいつ頃ですか?」
「今から百七十九年前から百七十七年前にかけてです」
思わずセレナと顔を見合わせた。
ヴァレクが口にした百八十年前と近く、セレスで追ってきた時期とも重なる。その数年後、百七十六年前の図面には、旧水路がすでに今とほぼ同じ位置で曲がっている姿が残されていた。
「数年の差なら、関係がなくても重なることはあるわ」
セレナも同じところで止まったらしい。
「ええ。ですから、これだけならお二人を呼びません」
エミリアは机の端に置かれていた箱へ手を伸ばした。
中から出てきたのは帳簿よりずっと傷んだ紙で、そのまま持ち上げることはせず、下に薄い板を差し込んだ状態で俺たちの前へ移す。
「これは何ですか?」
「原本ではありません。別の資料へ転記されて残った写しです」
「何の写しですか?」
「百八十一年前の市政記録に含まれていた報告書。その一部です」
指し示された文章は短かった。
王都南東部で地面を掘り下げる作業中、石積みとは異なる硬質な面が露出したこと。表面は極めて平らで、当時使っていた工具ではほとんど傷がつかず、露出した範囲よりさらに地下へ続いているように見えたこと。
「場所は分かるんですか?」
「おおまかな区域だけです」
エミリアが地図を示した。
今の陥没地点からは少し離れている。歩けばそう遠くはないが、同じ場所と呼べるほど近くもなかった。
「それで……ここです」
紙の下の方を指され、その先を目で追ったところで、視線が止まった。
文章の途中に、見慣れない記号のようなものが描かれている。
「アレン?」
セレナに呼ばれたが、返事をする前に紙へ顔を近づけた。
線は歪み、ところどころ比率もおかしい。意味を知らない人間が形だけを真似したのだろう。一文字なのか二文字なのかさえ曖昧な部分もあるのに、それでも俺には何を写そうとしたのか分かった。
前の人生で、特別に意識することさえなく何度も目にしていた文字だった。
「……読める?」
セレナが訊く。
古代の施設に同じ文字が残っていること自体は、もう知っている。エルムの地下でもセレスでも読んできたが、目の前にあるのは施設そのものではなく、百八十一年前、この王都にいた誰かが目にして、意味も分からないまま紙へ残した写しだった。
「読める」
俺の返事に、エミリアの表情が変わった。
「確かですか?」
「写し方が崩れてるので、全部は無理です。でも……ここは分かります」
一つの形を指で追う。
「『保守』です」
「保守?」
「維持したり、壊れたところを直したりする意味です。こっちは少し欠けてますけど……たぶん『通路』です」
「たぶん?」
「形が潰れてます。似た字もあるので、そこは断定できません」
セレナが横から紙を覗き込み、小さく「保守、通路……」と繰り返す。
俺はエミリアへ視線を向けた。
「並び方も分からないです。『保守通路』と続いていたのか、それぞれ別の場所にあった文字を一緒に写したのかもしれません。報告書には位置関係までは残ってないんですか?」
「残っていません。この写しには、『表面に意味不明の記号あり。形を左記に写す』とあるだけです」
エミリアは紙を確かめてから続けた。
「ですから、あなたの読みが正しいとしても、何を示す表示だったのかまでは判断できません」
「そうですね」
壁に書かれていたのか、扉のようなものに付いていたのか、それすら分からない。百八十一年前に見つかったものが、俺たちの知る施設と同じものだったと決める材料もまだなかった。
「ただ、百八十一年前の王都で、少なくともアレンが読める文字を誰かが見ていた。それは間違いないのよね」
セレナの確認に、エミリアが頷く。
「そこまでは言えます。その前後数年に同じ区域で通常より大きな支出があったことも事実です。ただし、この報告と支出が同じ出来事によるものかは、まだ分かりません」
「場所も少し違うしね」
「はい。地下で繋がっている可能性もあれば、別の構造物だった可能性もあります」
二人とも、分かっているところから先へ無理に踏み込まない。その姿勢は、旧水路で灰色の構造物を確認した時と変わらなかった。
「この報告の原本は、まだ見つかってないんですか?」
「現時点では見つかっていません」
「他にも写しがある可能性はありますか?」
「あります。だから今探しています」
エミリアは机の向こうに積まれた文書の束へ視線を向けた。
「この時代の記録は、今のように一か所へ整理されていたわけではありません。道路、水路、徴税と後から分類されたものもありますし、組織が変わって別の保管先へ移されたものもあります」
「それで支出記録から追ったわけですね」
「ええ。大きな工事なら人も物も動きます。目的を書いた文書が残っていなくても、その痕跡まで全部消えるとは限りません」
セレナが少し楽しそうに笑った。
「こういう探し方は、私よりエミリアの方がずっと上手いのよ」
「あなたは地面から出てきたものを見た方が早いでしょう」
「否定できないわね」
二人のやり取りを聞きながら、もう一度、紙に残された二つの言葉へ目を落とす。
保守と通路。それだけでは施設の用途どころか、何を示した表示なのかさえ分からないはずなのに、どうにも目が離れなかった。
「アレン、大丈夫?」
セレナに声を掛けられ、ようやく顔を上げる。
「……何が?」
「さっきから、その紙ばかり見てる」
「ちょっと気持ち悪いだけだよ」
「読めることが?」
「それもある」
エルムやセレスで見たものなら、遥か昔に造られた施設へ、なぜか前世の文字が残っているというだけだった。それだけでも十分おかしいが、今目の前にあるのは、俺がこの世界に生まれるよりずっと前、この王都で暮らしていた誰かが同じ文字を実際に見た証拠だ。
「セレスでも同じ文字だったのよね」
「ああ」
「エルムでも?」
「同じだった」
そこでエミリアが俺を見る。
「以前の報告には、あなたが古代文字の一部を読めるとありました。ただ、同じ文字体系という意味ですか?」
一瞬、答えに迷った。
王城での聴取では、読めること自体は話している。ただ、なぜ読めるのかまでは話していない。
「……俺が知っている文字と同じです」
嘘ではない。
エミリアは少し考えたものの、それ以上踏み込もうとはしなかった。
「分かりました。では、この写しについては現状それだけ記録します」
「理由は聞かないんですか?」
「私が今必要としているのは、あなたが何を読めるかです。なぜ読めるのかまで、ここで説明する義務があるとは思っていません」
その答えを聞いて、セレナが横で小さく笑う。
「私も何度か聞こうとしてやめたところだから」
「聞いてただろ」
「軽くね」
「十分聞かれた気がするけど」
「答えてないでしょう?」
それはそうだ。
少しだけ肩の力が抜けた。
その後も何枚か資料を確認したものの、今回の写しほど気になるものは見つからなかった。同じ時期に補修や工事の支出が増えた場所はいくつかあるが、これだけ大きな街なら、複数の工事が並行していても不思議ではないという。
地面から硬い人工物のようなものが出たという記録も、今のところ他にはない。
エミリアは市政記録と土地関係の帳簿を引き続き追い、セレナは古代遺物や災害に関する記録を調べることになった。
「アレンは?」
セレナが訊く。
「必要になったら呼んで」
「自分からは来ないの?」
「さっき見ただろ。俺がいる間にもエミリアは何冊読んだ?」
「三冊ですね」
エミリアが真顔で答えた。
「俺なら一冊目の途中で日が暮れる」
「もう暮れてるわよ」
「そういう意味じゃない」
セレナの笑い声を背に、俺は史料院をあとにした。
外はすっかり夜になっていた。大通りには店の灯りが並び、日が落ちても人通りはまだ多い。
途中でセレナと別れて一人になると、自然とさっきの写しへ意識が戻った。
読み取れたのは「保守」と「通路」だけで、それ自体に大した情報はない。施設の正体も、百八十一年前に何があったのかも分からず、北方の男が口にした時期との関係さえ確かめようがなかった。
それでも、エルムの地下やセレスの施設で見た文字、その場所で俺へ向けて表示された言葉、そして前の人生で当たり前に使っていたものが、別々のままでは済まなくなってきている気がする。
どうして同じ文字がこの世界にあるのかは分からない。
ただ、俺自身がなぜそれを読めるのかについては、話せることがある。今まで誰にも話してこなかっただけだ。
神殿へ戻ると、夕食の時間は少し過ぎていた。
食堂へ向かおうとして廊下の角を曲がったところで、ちょうどフィアナがこちらへ歩いてくる。
「あ、アレン。遅かったね」
「史料院に行ってた」
「セレナと?」
「ああ。少し見つかったものがあって」
フィアナの髪には、中央市場で買った淡い青の髪紐が結ばれていた。
もう何度も見ているはずなのに、それが目に入った瞬間、セレスから戻る途中の夜を思い出した。
あの時フィアナは、俺に何かあることには気づきながら、無理に聞き出そうとはしなかった。ただ、いつか話してもいいと思った時に聞かせてくれればいいと、それだけ言ってくれた。
「アレン?」
フィアナが少し顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「いや……」
何でもない、と言いかけたところでやめた。
王都へ来てから分からないことはむしろ増えているし、今日見た文字についても説明できることはほとんどない。それでも、この世界に生まれる前にもう一つの人生があったことまで、誰かの答えを待つ必要はないんじゃないかと思った。
「フィアナ」
「うん?」
「あとで少し、時間ある?」
フィアナは一瞬だけ目を見開いたが、何を話すのかとは聞かなかった。
「うん。待ってる」
あの夜と同じように、俺が話すまで待ってくれるらしい。
前はその気遣いに甘えて途中で言葉を止めたけれど、今度は少なくとも、自分が知っているところまではきちんと話そうと思った。




