第47話 図面の外
三日後、俺は再び中央市場の南東に来ていた。
陥没した通りはまだ封鎖されたままだったが、最初に見た時とはずいぶん様子が違う。穴の周囲には木柵が組まれ、崩れかけていた路面の端も撤去されている。荷車を通せる状態にはほど遠いものの、作業員が出入りする足場と仮設の階段まで設けられていた。
事故の日は人を助けることだけで手一杯だったが、今日は目的が違う。
「お待たせしました」
声をかけてきたエーベルは、あの日と同じような作業着に革の上着を重ねていた。腰には工具袋と巻き尺らしい紐が下がっている。
「入口までは補強しました。ただ、崩れた側壁の先は最低限しか触ってません。何があるか分かりませんから」
「その方が助かるわ」
隣でセレナが答えた。
今日は冒険用の装備をかなり減らし、細剣こそ腰にあるものの、手には小さな鞄と筆記具を持っている。遺構へ潜る冒険者というより、現地調査に来た研究者の格好だった。
もう一人、少し離れたところで封鎖区域を見ていた女性がこちらを振り返る。
「王立史料院のエミリア・フェルツです」
四十代半ばほど。落ち着いた色の服に薄手の外套を重ね、腕には何枚かの図面と書類を抱えていた。地下へ入る格好には見えなかったが、足元だけは泥に強そうな革靴を履いている。
「アレン・クロイツです」
「存じています。提出された報告書で何度かお名前を」
そう言ってから、エミリアはセレナへ目を向けた。
「セレナさんも。史料院では何度かお見かけしましたが、一緒に現場へ入るのは初めてですね」
「ええ。今日は私より、そちらの資料の方が役に立つかもしれないけれど」
「それは現物を見てから決めましょう。紙の方が間違っていることもありますから」
淡々とした返しに、セレナがわずかに笑った。
どうやら、少なくとも話は早そうだ。
ガルドは来ていない。
調査の話をすると、「壁を見るだけなら俺はいらんだろ」とあっさり断られた。フィアナたちもそれぞれ予定があり、今日は事故当日に地下へ入った俺とエーベルに、セレナとエミリアを加えた四人が中心になる。
他に市の技師と作業員が数人、前後を支える予定だった。
「では、降ります。奥はまだ全部の安全確認が終わったわけではありません。私より先へ行かないでください」
エーベルの言葉に全員が頷き、仮設の階段を降りた。
◇
旧水路へ入ると、三日前と同じ湿った空気が肌にまとわりついた。
浅い水の流れる音と、濡れた石を踏む靴音が狭い空間へ響く。崩落地点までの壁には新しい木材が何本も入り、事故の日にはなかった支柱が天井と側壁を押さえていた。
「ずいぶん入れたんですね」
「これでも必要なところだけですよ」
先を歩くエーベルが灯りを上げる。
「上の道を戻すなら、いずれもっと手を入れます。ただ、先にあれが何なのか分からないと、下手なところへ荷重を掛けられません」
やがて、右側の壁が途切れた。
三日前には縄や作業員で埋まっていた場所も、今日は静かだった。崩れた土砂の一部は取り除かれ、斜面には簡単な足場が設けられている。
その向こうに、灰色の面が見えた。
変わっていない。
灯りを受けても、石のような凹凸はほとんどない。土の中から巨大な板の一部だけが覗いているように、平らな面が続いている。露出しているのは人の背丈を少し超える程度だが、上も下も土の中へ消えていた。
エーベルが斜面の手前で止まる。
「ここから先です。足場を作ったところだけ踏んでください。壁側の土は動かしていません」
セレナは頷き、灰色の面へ近づいた。
すぐには触れず、灯りを横から当て、少し身体をずらしながら表面を確かめている。その後ろで、エミリアは現物と手元の紙を交互に見ていた。
「継ぎ目が見えないわね」
しばらくして、セレナが言った。
「少なくとも、露出している範囲には」
「石じゃないんですか?」
エーベルが訊く。
「普通の石材を積んだものには見えない。大きな一枚岩を削った可能性はあるけれど……それにしては表面が均一すぎるわ」
セレナが俺を見る。
「アレンは?」
「似たものは見てる」
灰色の面を見ながら答える。
「エルムの地下や、セレスで見たものには近い気がする。でも、それ以上は分からない」
「文字は?」
「ないな」
少なくとも見えている範囲には、記号も文字も刻まれていない。
あの文字なら読める。それでも、何も書かれていなければ前世の記憶も役には立たない。
「今日は俺よりセレナの方が働けそうだ」
「読めないものまで読まれたら、さすがに私も困るわ」
「なら安心した」
二人のやり取りを聞いていたエーベルは一瞬こちらを見たが、何も聞かず、水路側へ視線を戻した。
やがて床へ灯りを近づける。
「アレンさん。ちょっとこっちへ」
「何かありました?」
「水路の向きです」
言われて、初めてそちらを見る。
ここへ来るまでほぼ真っ直ぐだった排水路が、崩落箇所の少し手前から緩く左へ寄っている。その先では、再び元の方向へ戻っていた。
「曲がってる」
「そうです」
エーベルが図面を開く。
現在使われている水路図にも、一本の線がこの区間だけわずかに膨らみ、その先で本来の延長線へ戻る形で描かれていた。
「こういう曲がり方は珍しいんですか?」
「街の下ですから、曲がること自体は珍しくありません。建物の基礎を避けることもありますし、別の水路と高さを合わせることもある。ただ――」
エーベルは図面から灰色の面へ視線を移した。
「ここでは、その理由が見当たらないんです」
エミリアも近づいてくる。
「地上側に何かあった可能性は?」
「今の街路や基礎を見る限りでは。ただ、水路を造った頃の地上まで同じだったとは言えません」
エーベルは線を指でなぞった。
「水を流すだけなら、真っ直ぐ掘る方が楽です。それを横へ逃がして、少し先で元へ戻している」
「これを避けた?」
俺が訊くと、エーベルは灰色の壁を見たまま少し考えた。
「あり得ます。ただ、工事中に硬い岩盤へ当たって、壊すより避けた方が早いと判断しただけかもしれません。昔の人間がこれを何だと思っていたかまでは分かりませんよ」
それでも、筋は通る。
正体を知らなくても、壊せないものがあれば迂回すればいい。
セレナも図面を覗き込んだ。
「この曲がり、いつからあるの?」
「そこは、私よりフェルツさんですね」
エーベルがエミリアを見る。
彼女は抱えていた書類を一度持ち直した。
「地上へ戻ってから広げましょう。ここで濡らすには少し惜しい資料です」
その判断に異論はなかった。
セレナは最後にもう一度だけ灰色の面を眺めると、何も触れずに斜面を戻ってきた。
「掘らないのか?」
「今日はやめておくわ」
「珍しいな」
「私を何だと思ってるの?」
「気になるものを見つけたら、とりあえず近づく人」
「否定しきれないのが腹立つわね」
セレナは崩れた側壁を見上げた。
「でも、今は周りの土を動かす理由がない。水路まで壊したら、その後の調査が面倒になるもの」
「そこはぜひ、その判断を続けてください」
エーベルの返事だけが少し早かった。
◇
地上へ戻る頃には、昼が近くなっていた。
封鎖区域の端には市が用意した簡単な作業台があり、エミリアはそこへ持ってきた書類を広げていく。
一枚目は現在の水路図。
その下から、色の変わった古い紙が出てきた。
「史料院に残っている、この周辺の古い水路図です」
エーベルが身を乗り出す。
「これは見たことがありません」
「市の水路管理にあるものより古いです。ただし、最初に造られた時の図面ではありません」
エミリアが紙の端を押さえた。
線の引き方も文字も今とは違うが、同じ区画だということは俺にも分かる。
問題の水路は、そこでも同じように曲がっていた。
「この時にはもう迂回してる」
「ええ」
エミリアはさらに別の紙を出す。
「もっと古い記録にも、この水路そのものは出てきます。ただ、そちらは補修費や担当区域の記録が中心で、正確な形までは分かりません」
「どこまで遡れるんです?」
「水路があった記録なら、少なくとも二百年以上前まで」
エーベルが頷いた。
「そこは市に残っている記録とも合います」
「でも、この区画の形を確認できる図面としては――」
エミリアの指が、紙の端に書かれた年代を示した。
「これが最古です。百七十六年前」
セレナの目が止まった。
俺も、もう一度その数字を見る。
百八十年前。
セレスで聞いた男の言葉と、王都へ来てから追い始めた年代が頭に浮かんだ。
四年の差がある。
それだけなら偶然でも何もおかしくない。
エミリアは俺たちの反応に気づいたらしい。
「何か?」
「私たちが調べている時期に近いの」
セレナが答える。
「百八十年ほど前」
「なるほど」
エミリアはもう一度図面へ目を落とした。
「ただ、この図面が百七十六年前に作られたからといって、その年に水路を造ったとは限りません。それ以前の詳細図が残っていないだけかもしれないし、最初から作られていなかった可能性もあります」
「そこから先は追えますか?」
「直接は難しくても、周りからなら」
エミリアは図面を重ねながら答えた。
「工事費、土地台帳、道路の付け替え、行政区分。大きな工事なら、どこかに金か人が動いた記録が残ります。この水路をいつ曲げたのか分からなくても、周辺に手が入った時期は絞れるかもしれません」
「私も戻るわ」
セレナが言った。
「なら、私は行政記録から見ます。セレナさんは災害記録と古い遺構関係をお願いできますか?」
「その方が早そうね」
話はそれだけで決まった。
地下では灰色の壁を前にしても、結局ほとんど何も分からなかった。それでも、地上へ戻った途端、次に調べる場所はいくつも出てくる。
「アレンさんは史料院へ?」
エーベルに聞かれた。
「今日は行かないかな。古い帳簿を俺が眺めても、たぶん二人の邪魔になる」
「賢明ね」
「少しくらい否定してくれてもいいだろ」
セレナが笑う。
エミリアが書類を片づけ始めたので、俺も近くの紙を重ねようとした。その時、隣にいたエーベルが俺の胸元へ視線を落とす。
「そういえば、二十歳でしたっけ」
「そうですけど」
「いや。その金級の徽章を見て、家で息子に話したのを思い出しまして」
「息子さん?」
「十歳です。事故の夜、救助に金級と白金級の冒険者が来てくれたって話したら、それから質問ばかりで」
エーベルが苦笑した。
「名前まで聞かれたので、アレンさんのことも話しましたよ」
「俺よりガルドの話の方が喜びそうですけど」
「もちろん大変でした。『灰熊って本当にあんなに大きいのか』とか、『大剣はどれくらい重いんだ』とか。私に聞かれても分かりません」
思わず笑う。
「今度、本人に聞けばいいんじゃないですか」
「会わせたら日が暮れるまで質問しそうなので、少し考えます」
困ったような言い方だったが、息子の話をする表情は柔らかかった。
そこで作業員に呼ばれ、エーベルは「では、また」と手を上げて封鎖区域へ戻っていく。
俺はその背中を見送ったあと、作業台に残った古い図面へ目を落とした。
百七十六年前には、すでに曲がっていた水路。
その横の土中に埋まっている、図面にはない灰色の壁。
まだ、二つを結びつけるものは何もない。
エミリアが古い図面を折らないよう丁寧に巻き直していくのを見ながら、俺は地下で見た灰色の面を思い出していた。




