第46話 鉄陣
翌朝、目を覚まして最初に気になったのは、右脚ではなく腰だった。
昨日の旧水路では剣を振るったわけでも、長く魔法を使い続けたわけでもない。それでも狭い足場で身体を支え、瓦礫や人を持ち上げるのを手伝い、最後には土にまみれながら斜面を何度も上り下りしたせいか、起き上がると背中から腰にかけて鈍い張りが残っている。
訓練で痛めた脚の方が、まだ原因がはっきりしていて分かりやすかった。
着替えて神殿の食堂へ降りると、フィアナはもう席についていた。淡い青の髪紐でまとめた髪が、窓から差し込む朝の光に揺れている。
「おはよう。身体、大丈夫?」
「ああ。少し張ってるだけだよ」
向かいへ腰を下ろすと、フィアナの視線が俺の手に落ちた。昨日どこかで擦ったらしい手の甲に、細い傷が二本残っている。
「怪我してないって言ってなかった?」
「これを怪我に数えるなら、してたな」
「そういう言い方すると思った」
呆れたように言ったものの、フィアナは治癒を使おうとはしなかった。この程度なら放っておけば治ると見ているのだろう。最近は俺自身より、向こうの方が俺の傷を見慣れている気がする。
昨日、崩落に巻き込まれた十三人は、全員生きて地上へ戻った。
脚を負傷した者を含めて何人かは神殿や市内の治療所へ運ばれたが、少なくとも命に関わる状態ではないと聞いている。崩れた通りは市が封鎖し、旧水路も消防と水路管理の職員が入口を押さえたままだ。
あの灰色の壁については、結局何も分からなかった。
石積みでも岩盤でもなく、市の図面にも存在しない。エルムやセレスで見たものを思い出させるところはあったが、似ているというだけで同じものだと決めるには材料が足りない。
「今日はギルド?」
「ああ。昨日の応援について確認があるらしい。ガルドも行くっていうから、一緒に」
「訓練は?」
「今日はやらない」
フィアナが少し意外そうに目を瞬いた。
「ちゃんと休むようになったんだ」
「昨日の夜、ガルドに『明日まで動いたら足じゃなく頭を疑う』って言われた」
「それなら安心した」
「俺の判断より信用されてないか?」
「だって、アレンは動けると思ったら動くでしょ」
否定できず、俺は朝食へ手を伸ばした。
◇
王都の冒険者ギルドは、朝から人で溢れていた。
依頼板の前では出発前の冒険者たちが条件を見比べ、受付では報告書と依頼票が次々に行き交っている。ルミエルのギルドも小さくはないが、ここでは金級の徽章を着けて歩いていても、それだけで周囲の目を引くことはほとんどない。
昨日の救助について簡単な確認を済ませ、受付を離れたところで、隣にいたガルドがふいに足を止めた。
「いた」
「何が?」
「ちょうどいい」
答えになっていない。
ガルドが人の間を抜けていった先では、四十代半ばほどの男が、若い冒険者三人と話していた。
「弓は二人とも後ろだ。街道へ出たら前衛と離れるな。お前は盾を持ってるからって一人で前へ出るなよ。依頼は討伐じゃなく護衛だ」
「でも、魔物が出たら――」
「荷車が抜けられる時間を作ればいい。追いかけて倒しに行く必要はない」
男はそう言って、三人が持っていた依頼票を返した。
「帰りが遅れるなら二つ目の宿場で止まれ。夜道を急ぐな」
三人が揃って頷き、人混みへ消えていく。
その背中を少し見送ってから、ガルドが男の肩を遠慮なく叩いた。
「アルノルト」
「……何だ、ガルド」
濃い栗色の短髪には白いものが混じり始めている。ガルドほど大柄ではないが、実用的な中量鎧の上からでも身体の厚みは分かった。装備には余計な飾りがなく、襟元にだけ小さな白金級の徽章が留められている。壁際には長槍と中型の盾が立て掛けられていた。
「お前、白岩街道のアレンに興味あるって言ってただろ」
そこでガルドが俺を指した。
「これだ」
「物みたいに紹介するな」
思わず口にすると、男――アルノルトは一度ガルドを見てから、俺へ視線を戻した。
「それは俺も思った」
「分かりやすいだろ」
「お前に人を紹介させるのが間違いだったな」
声は低いが、ガルドのような荒っぽさはない。
襟元の徽章と名前が、ようやく頭の中で繋がった。
『鉄陣』アルノルト・グレーフェ。
王都を拠点にする白金級の一人で、大人数が参加する討伐や防衛依頼をまとめることで知られている。本人に会うのは初めてだが、名前くらいはルミエルにいた頃から聞いていた。
「アレン・クロイツです」
「アルノルト・グレーフェだ。年齢は聞いていたが、実際に見ると若いな」
差し出された手を握る。掌は硬かったが、力を試すような握り方ではなかった。
「少し時間あるか?」
「大丈夫です」
「俺はいいのか?」
ガルドが聞くと、アルノルトは近くの卓へ目をやった。
「勝手に連れてきたんだから、好きにしてろ」
「そうするか」
俺とアルノルトが向かい合って席につくと、ガルドは同じ卓には座らず、少し離れた壁際から空いていた椅子を引いてきた。背もたれへ身体を預け、もう自分の仕事は終わったと言わんばかりに腕を組んでいる。
アルノルトはそんなガルドを気にすることもなく、俺へ向き直った。
「白岩街道の報告は読んだ。四十人近くいたらしいな」
「商人や御者も合わせれば、そのくらいです」
「俺が気になったのは、倒した数じゃない」
その言葉に、少しだけ姿勢を直した。
白岩街道のことを聞かれる時は、金級へ上がった理由か、遭遇した魔物について尋ねられることが多い。
「途中で粘るのをやめただろ。あれは最初から逃がすつもりだったのか?」
「いえ。状況を見てからです」
「何を見た?」
少し考える。
「護衛だけなら、その場で戦い続ける選択もあったと思います。でも商人と御者もいました。全員を守りながら敵を全部倒す必要はなかったので、抜けられるなら抜ける方を選びました」
「それで人を組み直した?」
「はい」
「最初から言うことを聞いたか?」
「全然」
少し離れたところから、ガルドの笑う声が聞こえた。
アルノルトはそちらを見もしない。
「じゃあ、どうした」
「動いてくれる人から動かしました。全員を説得してる時間はなかったので」
アルノルトの眉がわずかに上がった。
「何をさせた?」
「戦える人には守る場所を絞ってもらって、荷車を動かせる人にはそっちを優先してもらいました。何をすればいいか分からず止まってる人には、できることを一つずつ頼んで」
あの時、俺が何か立派な指揮をした感覚はない。
ただ、混乱した四十人近くを一度に動かそうとすると、誰も動かない。だから動ける人間から順に役割を渡した。
一人が動けば、それを見た次の人間も動く。
「なるほどな」
アルノルトが初めて少し笑った。
「報告には『役割を再編した』としか書いてなかった」
「間違ってはいないですけど」
「綺麗すぎる。現場じゃ今の説明の方が役に立つ」
そこからも、いくつか聞かれた。
撤退を決めた時、何を基準にしたのか。最後まで動けなかった者をどう扱ったのか。戦える冒険者だけを先に出す案は考えなかったのか。
質問は細かかったが、正解を試されている感じはしない。
アルノルト自身ならどうするかを頭の中で組み立てながら聞いているらしく、こちらの答えにすぐ反応せず、しばらく考え込むこともあった。
「俺なら、人数を一つにまとめすぎないな」
「分けるんですか?」
「地形と敵次第だが、動ける集団を二つ作れるなら考える。一つが止まっても全部は止まらない」
当時の街道を頭の中に思い浮かべる。
あの場所で実際に二つへ分けられたかは別として、考えたことのない選択肢ではあった。
「ただし、俺はその場を見てない」
アルノルトは卓の上で指を組んだ。
「後から紙を読んだだけだ。お前の判断が間違ってたって話じゃない」
「分かってます。次に似た人数を動かすことがあれば、選択肢には入れてみます」
「似た状況には遭わない方がいいけどな」
「それは本当にそうですね」
そこで、奥から長い欠伸が聞こえた。
見ると、ガルドが椅子へ深く身体を沈め、片手で口元を覆っている。
「退屈なら先に帰っていいぞ」
「俺が連れてきたんだから最後までいろって言わなかったか?」
「好きにしてろと言った」
「じゃあ好きにしてる」
「便利な耳してんな」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
長い付き合いなのだろう。言葉の割に、険悪さはまるでない。
その時、少し離れた場所から職員がアルノルトを呼んだ。
「アルノルトさん。南門の護衛ですが、銀級を一組追加できます」
「昨日戻った連中は外してくれ。三日続けて外へ出てる」
「では北側の二組から?」
「一組ずつ崩すな。組んだ経験のある連中をそのまま出せるところがあるか確認してくれ。それで足りなければ俺に戻して」
「分かりました」
職員がすぐに受付へ戻っていく。
アルノルトはその背中を見送ることもなく、俺へ視線を戻した。
「強い金級なら王都にもいる」
さっきまでと変わらない調子だった。
「俺が白岩街道の話を覚えてたのは、四十人近くを生きて帰したからだ」
褒められているのだろうが、すぐには返す言葉が出てこなかった。
あの時は必要なことをやっただけだと思っている。それでも、普段から多くの人間を動かしているアルノルトには、別のものが見えているらしい。
「今度、暇なら訓練場へ来い。人数を動かす方なら、俺も少しは教えられる」
「ぜひ」
「俺の時より食いつきいいじゃねえか」
離れた椅子からガルドが口を挟む。
「ガルドが教えてるのは身体の動かし方だろ」
「そっちはそっちでちゃんとやってる」
「ならいい」
あっさり引き下がったガルドを見て、アルノルトがわずかに口元を緩めた。
その時、受付の方から俺の名前を呼ぶ声がした。
朝に対応してくれた職員が、一枚の紙を手にこちらへ歩いてくる。
「アレンさん、ちょうどよかったです。市の水路管理から連絡が来ています」
受け取った紙には、昨日崩れた旧水路について、入口周辺の安全確認と応急補強を進めていることが書かれていた。
数日後、安全が確保できた範囲に限り、崩落箇所と図面にない空間を改めて確認する予定らしい。
「昨日、中へ入ったアレンさんとガルドさんにも、可能なら立ち会ってほしいそうです。水路技師のエーベルさんから名前が挙がっています」
「分かりました」
「それと、市だけでは判断できない構造物があるということで、王立史料院にも照会を出すそうです。ギルド側でも遺構に詳しい方を出せるなら、同行をお願いしたいと」
セレナの顔が浮かんだ。
「一人、心当たりがあります。本人にも聞いてみます」
職員へ返事をしてから、紙をガルドへ渡す。
ガルドは椅子から立ちもせずに受け取り、ざっと目を通した。
「アルノルト、お前も来るか?」
「水路の調査だろ。俺が行ってどうする」
「白金級が二人いれば壁も安心するかもしれん」
「壁を安心させて何になる」
間を置かず返され、ガルドが紙を俺へ戻した。
俺は二人のやり取りを聞きながら、そこに書かれた「図面にない空間」という文字へもう一度目を落とす。
昨日は、その奥に取り残された二人のことしか考えていなかった。
灯りの先に見えた、滑らかな灰色の面。
次に地下へ入る時は、救助の途中で横目に見るのではなく、あれが何なのかを確かめるために立ち止まることになりそうだった。




