第45話 旧水路
陥没した通りから少し離れた場所に、消防隊の指揮所が置かれていた。
折り畳みの台に水路図が広げられ、消防隊員や市の職員が入れ替わりながら状況を報告している。俺とガルドが近づくと、その中心にいた四十代ほどの男が顔を上げた。
「神殿から応援に来ました。アレン・クロイツです。こちらはガルド」
「救助隊長のハインツだ。来てもらえて――」
俺の金級徽章を確認したあと、ハインツの視線がガルドの胸元で止まった。
「金のみならず……白金級?」
今度は徽章ではなく顔を見る。
「もしかして、『灰熊』のガルドか」
「そう呼ばれてるな」
近くで報告を待っていた隊員も振り返ったが、ハインツは驚きを引きずらず、すぐ水路図へ視線を戻した。
「それは助かる。今ちょうど、人手だけじゃどうにもならない場所が出ている」
「状況を教えてください」
「落ちたのを確認できているのは十三人。四人はもう引き上げた。東側の水路に五人、西側に二人いるのは分かってるが、残る二人の所在がまだ掴めていない。地上でも十人近く負傷してる」
ハインツが図面の一角を指した。
「東側の五人は、崩れた通りのほぼ真下だ。古い排水路の天井が抜けて、そこへ落ちたらしい。ただ、途中を瓦礫で塞がれている」
「声は?」
「返ってきてる。ただ、この辺りの水路は古い。力があるからって何でも動かすと、また上が落ちるかもしれん」
そう言って、隣にいた男を示す。
「市の水路技師、エーベルだ。地下ではこいつの判断に従ってくれ」
「お願いします」
俺が頭を下げると、エーベルも軽く一礼した。
「こちらこそ。図面だけでは分からない箇所もありますので、現場を確認しながら進めます」
「俺は、動かしていい物だけ動かせばいいんだな」
ガルドが訊く。
「はい。こちらで指示します。それだけでも十分助かります」
白金級を前に多少緊張している様子はあったが、言葉に迷いはなかった。
少し離れた治療場所へ目を向けると、フィアナは薄青の髪紐で横髪をまとめ、神殿の治癒術師たちと一緒に運ばれてきた負傷者を診ていた。ユリウスは水や布を運び、ミラも警備隊員と話しながら周囲を見ている。
フィアナがこちらに気づいた。
「アレン、下に行くの?」
「ああ。東側にまだ五人いる」
「分かった。気をつけて」
「そっちも」
それ以上は話さず、俺はハインツたちのところへ戻った。
◇
地下へ入ったのは、俺とガルド、消防隊員二人、それにエーベルの五人だった。
崩落した穴から直接降りるのではなく、少し離れた点検口を使う。救助索を身につけ、灯りを持って石段を下りていくと、地上の声はすぐに遠ざかり、代わりに浅い水路を流れる音が耳につくようになった。
排水路は人一人なら余裕を持って歩ける幅があり、壁には何度も補修された跡が残っている。古い石の間へ新しい石が混じり、場所によって造りも少しずつ違っていた。
「この先です」
エーベルが足を止める。
灯りの先を、大量の土と石が塞いでいた。天井の一部が抜け、そのまま水路へ流れ込んだらしい。
「聞こえますか!」
消防隊員が声を張る。
「いる! こっちだ!」
すぐに返事があった。
「何人いる!」
「五人! 一人、脚を挟まれてる!」
思ったより近い。
隊員が前へ出ようとしたところで、エーベルが腕を伸ばした。
「待ってください。先に崩れ方を見ます」
灯りを寄せ、石と土の重なりを確かめてから、いくつかを順に指した。
「上側には触れないでください。荷重が残っています。動かすなら、この辺りからです」
「これは?」
ガルドが人の胴ほどある石を示す。
「それは動かせます。ただ、右側の土が緩んでいます」
俺も斜面を見る。
「表面を固めますか?」
「浅くお願いします。奥まで動かすと、どこへ力が逃げるか分かりません」
崩れかけた部分だけへ魔力を流し、土の表面を締める。
エーベルが確認して頷くと、ガルドが石を持ち上げた。大きさの割にあっさり浮いたものの、周囲を揺らさないよう慎重に後ろへ運んでいく。
消防隊員も小さな瓦礫を退け、ほどなく人が屈んで通れる程度の隙間ができた。
途中で土がぱらぱらと落ちたため全員が一度手を止めたが、それ以上の動きはなかった。
「大きな変化はありません。一人ずつなら通せます」
エーベルの言葉を受け、消防隊員が先に隙間へ入り、俺もその後へ続いた。
五人は崩落地点のほぼ真下にいた。
四人は壁際に寄っており、一人だけが床へ横たわっている。右脚が石材の下へ挟まれ、身動きが取れなくなっていた。
「救助に来ました。怪我をしている人から出します」
消防隊員たちがすぐに動き、エーベルは負傷者の脚を押さえている石から上へ視線を移した。
「この二つを先に外してください。下の石は、そのあとなら持ち上げられます」
「分かった」
ガルドが指示された石だけを取り除く。
「最後は?」
「真上へ少しだけ。傾けないでください」
消防隊員が負傷者の身体を支え、ガルドが石材をゆっくり持ち上げる。
「今だ!」
二人が脚を抜き、そのまま担架へ移した。男は苦痛に顔を歪めていたが意識はあり、問いかけにも答えられている。
残る四人は打撲や擦り傷こそあるものの、自力で歩けた。一人ずつ瓦礫の隙間を通して送り出していく。
最後に残った年配の男が、隙間へ入る直前で振り返った。
「まだ二人いる」
消防隊員が足を止める。
「二人?」
「ああ。俺たちと一緒に落ちた。すぐそばにいたはずなんだ」
「どちらへ?」
男が指したのは、排水路の右側だった。
「落ちた時、あっちの壁まで崩れたんだ。二人とも土と一緒に横へ滑っていった。最初は声がしてたんだが、そのうち聞こえなくなった」
「歩いて移動したわけじゃないんですね?」
「そんな余裕はなかったよ。一瞬だった」
所在の分からなかった二人だろう。
「まず外へ出てください。こちらで確認します」
五人を入口側へ送り、負傷者が地上へ運ばれるのを確認する。
消防隊員の一人が状況を伝えるため戻り、ほどなく奥の確認を続けていいという返事を持って帰ってきた。
◇
年配の男が指した場所では、排水路の側壁が数歩分まとめて失われていた。
本来なら石積みの壁があるはずなのに、その向こうへ土砂が斜めに落ち込んでいる。灯りを近づけても底までは見えない。
「ここ、本当に水路の外なんですか?」
俺が尋ねると、エーベルは図面を広げ、現在地と見比べた。
「図面上は、そうなっています。この位置なら、壁の向こうは地盤のはずです」
「空間はない?」
「ありません。少なくとも、この図面が正しければ」
ガルドが斜面を覗き込む。
「二人はここを滑ったのか」
「先ほどの方の話と崩れ方を見る限り、その可能性が高いでしょう」
消防隊員が暗がりへ向かって声を張った。
「聞こえるか! 救助に来てる!」
返事はない。
もう一度呼びかけ、全員で息を潜めると、水音の向こうから硬いものを叩くような音が返ってきた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
「いるな」
ガルドが低く言った。
「聞こえてる! そのまま待て!」
消防隊員がさらに呼びかける。
「……いる……!」
今度は弱い声が返った。
声がした方角を確かめようと灯りを動かした時、隣にいたエーベルの動きが止まった。
「……待ってください」
「どうしました?」
「あそこです。土の奥」
灯りを向ける。
そこに壁があった。
最初は露出した岩盤かと思ったが、近くの排水路とは明らかに違う。石を積んだ跡がなく、灰色の平らな面が土の奥へ続いていた。
「水路の壁ですか?」
エーベルはしばらく見たあと、首を横に振った。
「いいえ。少なくとも、市の排水路で使う構造ではありません」
ガルドも無言で壁を見る。
俺は灯りの届く範囲を目で追ったが、継ぎ目らしいものは見えない。その灰色の面に沿うように、二人が滑り落ちたらしい空間が奥へ続いている。
「図面には?」
「ありません」
エーベルは現在地を指でなぞった。
「ここは地盤として扱われています。構造物も、空間も記載されていません」
暗がりから、また小さく何かを叩く音がした。
「今から行く! 動けるなら、その場から動くな!」
少しして、さっきよりはっきりした声が返ってきた。
「一人、動けません。もう一人は……たぶん、大丈夫です」
「分かった。そのまま待て。こっちから行く」
消防隊員が答えると、エーベルは崩れた側壁の前へしゃがみ込み、斜面の状態を確かめ始めた。
「二人がいるところまで三、四メートルほどでしょう。左側なら下りられそうです。ただ、一度に一人でお願いします」
「足場を固めても?」
「上側だけお願いします。それより下は、内部の状態が分かりません」
俺は示された範囲だけへ魔力を流し、人が足を置く幅を固めた。
「大丈夫です」
エーベルが頷く。
消防隊員が縄を頼りに斜面へ下り、灰色の面との隙間へ身体を滑り込ませていく。
隊員の灯りが近づくにつれ、灰色の壁もさっきよりはっきり見えた。崩れた石がぶつかったらしい場所にも大きな欠けはなく、平らな面がそのまま土の中へ続いている。
エルムの地下や、セレス修道院の下で見た構造物が頭をよぎった。
似ている部分はある。
ただ、それだけで同じものだと決めるには早いし、今は正体を確かめるためにここへ入ったわけでもない。
「二人確認!」
下から声が上がった。
「一人は打撲だけで動ける。もう一人は右脚を痛めてる。挟まれてはいないが、立たせない方がいい!」
まず動ける方から上げることになった。
消防隊員が下から支え、上ではガルドたちが縄を引く。俺は斜面の動きを見ながら、足元が緩んだ場所だけを押さえた。
やがて土まみれの男が裂け目から這い上がってくる。額に血が滲んでいたが受け答えははっきりしており、隊員に肩を借りて奥へ運ばれていった。
二人目は右脚へ体重を掛けられず、下にいる隊員が身体を支えながら縄を掛け直した。狭いところだけ姿勢を変え、ガルドも合図に合わせて重さを受け持つ。
途中で一度身体が止まったが、隊員が位置を直すと再び動き始めた。
「そのまま、ゆっくり!」
負傷者の肩が裂け目から現れ、最後は上側の隊員が腕を取る。
排水路の床へ移された男は顔を歪めていたものの意識はあり、すぐに担架へ載せられた。
その姿が奥へ消れたところで、消防隊員が息を吐く。
「これで、こっちは全員だな」
ちょうどその時、西側から別の隊員が戻ってきた。
「西の二人も上がりました。どちらも意識ありです」
同行していた隊員が人数を確かめる。
「十三人、全員確認。地上へ伝えてくれ」
それを聞いて、その場の空気がわずかに緩んだ。
崩れた水路も道路も残ったままだが、少なくとも地下に人は残っていない。
俺も息を吐き、もう一度だけ灰色の面を見た。
露出しているのは幅数メートルほど。上も下も土の中へ続き、どこまで広がっているのかは分からない。
「……やはり、水路の構造物ではありませんね」
エーベルも同じ場所を見ていた。
「昔の補修跡ということは?」
「少なくとも、私が知る補修方法ではありません。それに、図面上はここに構造物そのものがないはずです」
彼は灰色の面へ手を伸ばしかけたものの、触れる前に止めた。
「救助は終わりました。今は触らず、位置と状態だけ報告した方がいいでしょう」
「俺もそう思います」
エルムでも、セレス修道院でも、最初から中に何があるか分かっていたわけじゃない。似たものを見た経験はあるが、見た目だけで決めつける気にはなれなかった。
「何か心当たりが?」
俺の視線に気づいたのか、エーベルが訊いてくる。
「似た感じの構造物を見たことはあります。ただ、同じものかは分かりません。調べるなら、詳しい人間にも見てもらった方がいいと思います」
「そうですね。市へ報告します。ここは埋め戻さず、周辺ごと封鎖した方がいいでしょう」
◇
俺たちが地上へ戻った頃には、救助現場の雰囲気も少し変わっていた。
担架の行き来は減り、代わりに市の職員が崩落口の周囲を調べ始めている。警備隊は道の両側を押さえ、通行人や荷車を別の道へ誘導していた。
助け出された者たちは離れた場所へ集められ、神殿の治癒術師たちが順番に状態を見ている。
その中にフィアナの姿もあった。
淡い青の髪紐で横髪をまとめたまま、座らされた男の前に膝をつき、隣の治癒術師と脚の状態を確かめている。こちらに気づいて顔を上げたが、まだ患者が残っているのを見て、すぐにそちらへ戻った。
代わりにミラが近づいてくる。
「残ってた二人は?」
「助かった。西側も含めて十三人全員」
「そう」
短く返したあと、ミラが小さく息を吐いた。
少し離れたところにいたユリウスも、俺たちのやり取りを聞いたらしく、こちらへ軽く手を上げる。
ハインツは救助人数を確認した後、今度は警備隊と崩落口の封鎖について話していた。俺とガルドも呼ばれ、地下で見たものを簡単に説明する。
「図面にない空間、か」
ハインツがエーベルを見る。
「間違いないのか?」
「位置は合っています。現在の図面では、あの場所は地盤です。露出した構造物も排水路の一部とは考えにくいです」
「崩落の原因は?」
「現時点では判断できません。道路の沈下と水路の破損、どちらが先だったかも周辺を調べてからです」
「分かった。上へ報告する」
ハインツはそれだけ確認すると、近くの職員を呼んで指示を出し始めた。
俺たちも名前と所属を残し、ようやくその場を離れる。
「いやあ、朝から身体を動かしたと思ったら、今度は地下か」
ガルドが肩を回した。
「訓練よりは役に立っただろ」
「お前、そういうこと言える余裕は戻ったみてえだな」
「引っ張ったのはほとんどそっちだろ」
「言われた分だけな。ああいう場所で勝手に力任せにやったら、助ける前に全部落ちてくる」
「それは俺も同じか」
土魔法が使えるからといって、地下の崩落現場を好きに動かせるわけじゃない。エーベルに範囲を示してもらったから使えただけで、構造も分からないまま広く固めたり押したりしていれば、別の場所を崩していた可能性もある。
少しして治療を終えたフィアナたちも合流した。
「全員、助かったんだよね?」
「ああ。十三人とも」
「よかった」
フィアナはほっとしたように息を吐いてから、俺の服についた泥へ目を落とした。
「アレンは? 怪我してない?」
「俺は大丈夫。ほとんど土を押さえてただけだから」
「ガルドも?」
「俺まで治されたら、今日の晩飯が食えなくなるくらいしか悪いところはねえな」
「それなら平気そう」
フィアナが少し笑う。
ユリウスが崩落口へ目を向けた。
「で、下に何かあったんだろ?」
「誰から聞いた?」
「消防の人。図面にない壁が出たって」
「壁というか、構造物だと思う。石じゃない。少なくともエーベルは、水路のものじゃないって言ってた」
フィアナが表情を引き締めた。
「アレンは見覚えある?」
「少しだけ似てるものはある。でも、それ以上は分からない」
それだけでも思い当たるものがあったのか、フィアナはそれ以上聞かなかった。
「セレナが聞いたら、すぐ来そうね」
ミラの言葉に、ユリウスが苦笑する。
「来るだけならいいけど、そのまま穴に入ろうとしないといいな」
「そこまで無茶はしないだろ」
「好奇心だけなら今すぐ飛び込んでいきそうだけどね」
「そこは否定しない」
ミラの言葉に、フィアナも小さく笑った。
現場の端では、エーベルが別の職員と図面を広げ、崩落した位置へ指を置いている。その横では警備隊員が封鎖範囲を広げ、消防の人間が地下へ残した道具を回収していた。
灰色の面は、もう地上からは見えない。
市の図面には存在しないものが、あの旧水路の外側に埋まっている。
気にはなったが、今ここで確かめられることはなかった。
助けるべき人間は全員地上へ戻り、あの場所はこれから市と専門家が調べることになる。
俺たちにできることも、ひとまずここまでだった。




