第44話 足元の亀裂
昨日はフィアナと市場を歩き回ったが、右脚に残っていた張りは今朝にはほぼ消えていた。
かなりの距離を歩いたはずなのに痛みは出ず、起きてから屈伸してみても違和感はない。クラウディアとの稽古で傷めたわけではなく、普段とは違う身体の使い方を繰り返したせいで疲れていただけらしい。
朝食を済ませて神殿の訓練場へ向かうと、先に来ていたユリウスが壁際の長椅子に座り、水差しを傾けていた。
杖はすぐ横へ立てかけてある。息はもう落ち着いているものの、額にはまだ汗が残っていた。
「もう終わったのか?」
「終わってたら、もう少し楽な顔してるよ。今は休憩」
ユリウスは水をもう一口飲み、訓練場の中央へ視線を向けた。そこではガルドが木剣を片手に待っている。
「何してた?」
「動きながら魔法を当てろって。魔力はまだ余ってるけど、脚が先にきた」
「止まって撃つ癖が強すぎるからだ」
ガルドに言われ、ユリウスは肩を竦めた。
「前に誰かいる時は、止まった方が狙いやすいからな。ただ、抜かれた後まで同じじゃまずいのは分かった」
「なら次は身体に覚えさせろ」
「狙いを残したまま足まで動かすと、思ってたより忙しいんだよ。次の術も組まないといけないし」
やっていたのは、単純に走る訓練ではないらしい。
ガルドが正面から間合いを詰め、ユリウスは小さな魔法を使いながら距離を保つ。大きな術で無理に押し返すのは禁止され、位置を変えながら狙いと魔力操作を途切れさせないよう求められていたという。
普段のユリウスは俺たち前衛の後ろから魔法を通す。その位置なら足を止めて精度を上げる方がいいが、前衛を抜かれた時まで同じ戦い方しかできないのは危ない。
「まだ休む?」
「もう少し。今戻っても足運びが雑になる」
「なら座ってろ」
ガルドも急かすつもりはないようだった。
俺が木剣へ手を伸ばしかけると、そのガルドに止められた。
「待て。クラウディアには何て言われた?」
「クラウディアさんには、まず一歩出て、同じ姿勢で止まるところまでって。それが安定したら二歩で、剣を戻すのはその後」
「なら今日はそこからだ。剣は置いとけ」
言われて、木剣から手を離す。
ガルドならすぐ打ち合いまで戻すかとも思っていたが、クラウディアから教わった順序を変える気はないらしい。
「一歩だけでいい?」
「一歩を何回やっても同じようにできるようにしろ。一回うまくいったくらいで先へ進むなよ」
訓練場の中央へ出て構える。
クラウディアに何度もやり直された動きを思い出す。
足だけを前へ出さない。腰と肩が遅れない位置に身体を置き、足元へ土、背中側へ小さく風を添える。一歩踏み込み、その姿勢のまま止まる。
最初の一回は、思ったより身体が前へ流れた。
慌てて土を強め、右足で勢いを受ける。
「今のは駄目だな」
ガルドがすぐに言った。
「止まったけど」
「最後に足で無理やり受けただけだ。膝に来ただろ」
確かに、右膝へ一瞬だけ重さが集中していた。
元の位置へ戻り、もう一度試す。今度は止まることを意識しすぎたせいで、踏み込みそのものが小さくなった。
「それじゃ今までと変わらん。速さを殺すな」
「止まること考えると、どうしても」
「一歩目を弱くするんじゃなくて、出た後を何とかしろ」
簡単に言ってくれる。
それでも繰り返すうち、どこへ負担が逃げているのかは少しずつ分かってきた。
土を強くしすぎれば足首や膝で勢いを受け、風を切るのが遅ければ上体だけが前へ残る。姿勢を崩さないことばかり考えると、踏み込み自体が鈍くなる。
五度目で、ようやく大きく崩さずに止まれた。
「今のは?」
「悪くない。もう一回」
「次に進まないの?」
「一回だろ」
当然のように返された。
さらに繰り返すと、同じ位置へぴたりと止まれるほどではないものの、最後に足を踏ん張らなくても姿勢を残せる回数が増えてきた。
長椅子から見ていたユリウスが口を開く。
「ずっと同じことしてるように見えたけど、結構違うな」
「分かる?」
「最初の方は、止まった時に肩が前へ出てた。今はそこまで崩れてない」
「よく見てるな」
「自分が動いてない時ならね」
ガルドがそちらへ目を向ける。
「脚戻ったか?」
「まだ少し重い。もうちょっと見てるよ」
「そうか」
それ以上は急かさず、ガルドは俺へ視線を戻した。
「続けろ。疲れてきてから崩れるなら、まだ身体に入ってない」
そこからさらに何度か繰り返した。
右脚だけでなく腰や背中にも疲れが溜まり始めた頃、訓練場の入口から声がした。
「ちゃんと一歩で止めてるね」
振り返ると、クラウディアが柱の脇に立っていた。
今日も重い鎧ではなく、動きやすそうな服に剣を一本下げている。いつから見ていたのかは分からなかった。
「来ると思ってた」
ガルドは特に驚かない。
「また見るって言ったからね」
クラウディアは中へ入ってくると、俺より先に長椅子のユリウスへ目を向けた。
「そっちは?」
「俺もガルドに見てもらってました。今は休憩中です」
「魔力切れ?」
「まだ余ってます。先に脚が疲れました」
その答えを聞いたクラウディアが、少し笑ってガルドを見る。
「変わらないね」
「何がだ」
「昔も術師を走らせてたでしょう。止まったまま撃つなって」
「止まる奴だったからな」
「最後は脚がつってたけど」
「次からは動くようになった」
「そういうところも変わってない」
「お前にだけは言われたくねえな」
二人の間では、それだけで通じる話らしい。
王城で顔を合わせた時から付き合いが長いことは分かっていたが、実際に同じ現場へ立ったことも何度かあるようだった。
「クラウディアさんとガルドって、結構前から一緒に仕事してたんですか?」
ユリウスが尋ねる。
「何度か同じところに呼ばれたくらいかな」
「何回か仕事が重なっただけだ」
ガルドが続けると、クラウディアが横を見る。
「ガルドは昔の話、だいたいそれで終わらせるから」
「いちいち数えてねえよ」
「ほらね」
クラウディアは軽く笑ってから、俺の足元へ視線を落とした。
「アレン、何回か見せて」
「はい」
開始位置へ戻り、一歩踏み込んで姿勢を残したまま止まる。
「もう一回」
二度目。
続けて三度目まで終えると、止まる位置には多少ばらつきがあったものの、姿勢そのものは大きく崩れなかった。
クラウディアは少し考えるように俺を見る。
「昨日、稽古を空けたのは良かったみたいだね。前にやった時より余計な力が抜けてる」
「二歩に進んでもいいですか?」
「もう少し」
すぐには許可が出なかった。
そこからさらに数回、一歩だけを繰り返す。途中で一度だけ右肩が先へ流れてやり直しになったが、その後は大きく崩れずに止まれた。
クラウディアがようやく頷く。
「じゃあ二歩やってみよう。剣はまだいらない」
「分かりました」
「一歩目の速さを消してから二歩目を出すんじゃなくて、そのまま繋いでみて。ただ、無理に速くしなくていいよ」
最初の位置へ戻る。
一歩目までは、さっきまでと同じ。
踏み込んだところで姿勢を残し、そこから二歩目へ移ろうとした瞬間、身体が一度止まった。
それまで一歩目を終点として繰り返していたせいか、無意識にそこで動きを区切ってしまったらしい。
「今の、分かった?」
「はい。一度止まりました」
「そう。さっきまでは、そこで止まる練習をしてたからね」
クラウディアが自分の足元を示す。
「止まれる姿勢を覚えるためには必要だった。でも二歩目に進むなら、そこを終わりにしちゃ駄目。一歩目で作った姿勢のまま、次へ移る」
もう一度やる。
今度は止まらないことを意識した。
すると二歩目が大きくなりすぎ、上体が前へ流れる。慌てて足元へ土を使い、踏み越す直前で勢いを殺した。
「足で止めすぎだ」
ガルドが言う。
「さっき一歩でやってた時の止まり方に戻ってる」
クラウディアも頷いた。
「一歩目で止まるために覚えたことを、そのまま二歩目にも使おうとしてる。今度は途中だから、全部止めたら繋がらないよ」
「……思ったより難しいですね」
「だから順番にやってるんでしょう」
言われてみればその通りだった。
三度目は、一歩目の終わりで土を強く使わず、そのまま二歩目へ身体を送ってみる。
今度は足が出た。
ただ、腰がわずかに遅れ、二歩目を踏んだところで身体がねじれる。
「そこ」
クラウディアが言った。
「前に言ったところが出てる。一歩だけなら姿勢を整えられるけど、次へ繋ぐと身体の一部が遅れる」
ガルドが俺の横へ回り、踏み込んだ位置を見る。
「一歩目の終わりが、二歩目の始まりになってねえんだな」
「そういうこと」
クラウディアが答える。
「今は一歩目をやって、それを終わらせてから二歩目を作ろうとしてる。最後は、加速も姿勢も次の一歩も切れずに続かないと使えない」
最初に教わった時の言葉と、目の前で起きている失敗がようやく繋がった。
一歩目だけなら形は作れる。だが二歩目へ進もうとした途端、それまで別々に考えていた動作がぶつかる。
「今日はこれを繰り返せばいいですか?」
「うん。まず二歩。剣はまだ戻さなくていい」
「二歩目で止まるところまでですか?」
「そう。二歩目を出して、その姿勢で止まるところまで。最初よりやることが一つ増えるけど、急がなくていいよ」
ガルドも頷いた。
「今日はそこまでだな。一歩目が雑になったら戻せ」
そこから二歩の反復に入った。
一歩目の終わりで身体が止まったり、逆に二歩目へ流れすぎたりするたび、風と土の加減を少しずつ変える。一歩目を速くすることより、作った姿勢を保ったまま次の足へ移る方が難しかった。
たまに二歩目まで素直に繋がる。
だが、そこから姿勢を崩さずに止まろうとすると、また肩や腰のどこかが遅れる。
「今のは近い」
クラウディアが言った。
「でも二歩目で肩が先に出た」
「はい。自分でも分かりました」
「ならもう一回」
疲れが出始めると、一歩目まで雑になることもあった。そのたびガルドに戻され、もう一度最初からやり直す。
しばらく様子を見ていたクラウディアが、ふと外へ視線を向けた。
「そろそろ行かないと」
「用事か?」
ガルドが聞く。
「ギルドマスターに呼ばれてる。昼までに顔出してって」
「何の話だ?」
「聞いてない。行けば分かるよ」
「相変わらずだな」
「何が?」
「いや、いい」
クラウディアは気にした様子もなく剣帯を直した。
俺が王都の冒険者ギルドへ用事を持っていけば、まず受付で事情を説明する。クラウディアの場合は、ギルドマスター本人から時間を指定して呼ばれるらしい。
本人の態度が普段と変わらないだけに、かえってその立場の違いが目についた。
「アレン」
「はい」
「二歩まででいいから、ちゃんと続けてね。剣はまだ戻さなくていいよ」
「分かりました」
「次に来た時に見せてもらうから」
「それまで続けておきます」
「そうして」
クラウディアは軽く手を上げた。
「じゃあガルド、あとはお願い」
「最初からそのつもりだ」
そのまま訓練場を出ていく。
姿が見えなくなる頃には、ユリウスも水差しを置いて立ち上がっていた。
「そろそろいけそう」
「脚は?」
「だいぶ戻った。さっきよりは動けると思う」
「なら続けるぞ」
今度は俺が脇へ下がり、ユリウスの訓練を見る。
ガルドが正面から間合いを詰めると、ユリウスは小さな火球を一つ放ち、着弾を待たずに斜め後ろへ動いた。続けて低い位置へ風を通して進路をずらそうとするが、ガルドは身体を少し外へ流しただけで距離を縮め続ける。
それでもユリウスは止まらず、さらに次の位置へ移った。休憩前より長く間合いを保てているらしい。
しばらく続けたところで、ガルドが木剣を下げた。
「最初よりいい」
「どこが?」
「撃った後、当たったか見るために止まらなくなった。目の前まで来てる相手を放って結果だけ見てても仕方ねえからな」
「そこは意識した」
「次は移動先も見ろ。後ろへ下がるだけじゃ、そのうち逃げ場がなくなる」
ユリウスは訓練場の端を確認し、一度頷いて開始位置へ戻った。
俺も少し息を整え、また二歩の練習へ戻る。
剣を持つのはまだ先だ。
今は二歩目まで身体を切らずに運ぶ。それだけでも、思っていた以上にやることが多かった。
◇
訓練を切り上げる頃には、右脚だけでなく腰や背中まで重くなっていた。
一昨日のように一か所だけ張っているわけではない。二歩目へ進んだことで、身体の使い方そのものが変わってきたのだろう。
最後まで安定したとは言えなかったが、何度かは一歩目から二歩目まで大きく姿勢を崩さず繋がった。それでも剣を戻すには、まだ早い。
ユリウスも長椅子へ戻っていたが、最初の休憩ほど疲れた顔はしていなかった。
「明日もやる?」
俺が聞くと、ユリウスは腿を軽く叩いて具合を確かめた。
「朝起きてから決める。重かったら一日空けるよ」
「その方がいい」
ガルドが答えた直後、訓練場の外を何人もの足音が駆け抜けた。
神殿の中で聞くには妙に慌ただしい。三人で入口を見ると、ほどなく若い神官が現れ、俺たちを見つけて足早に入ってきた。
「冒険者の方、こちらにいらしたんですね」
「何かあった?」
「中央市場の南東で大きな陥没が起きました。通りの一部がまとめて落ちて、かなりの数の人が巻き込まれたそうです」
昨日フィアナと歩いた市場の近くだ。
ガルドの表情が変わった。
「どのくらいだ?」
「まだ正確な人数は分かっていません。地下へ落ちたのを確認されているだけで十人を超えています。荷車も何台か巻き込まれて、市の警備隊と消防隊が救助に入っていますが、人手が足りません」
「冒険者にも要請が出たのか?」
「はい。王都のギルドから、近くにいる冒険者へ救助協力を求めています。大神殿にも治癒と搬送の応援要請が来ました」
単なる道路の陥没という規模ではなさそうだった。
「下には何がある?」
「古い排水路だそうです。ただ、路面だけではなく水路の一部も崩れていて、どこまで安全なのかまだ確認できていないと」
「治癒班は?」
「すでに準備しています。フィアナ様にも声をかけています」
市の警備隊と消防隊が先に動き、それでも足りない手を周囲から集めているらしい。十人を超える人間が地下へ落ち、地上にも負傷者がいるなら無理もない。
フィアナが治癒班と一緒に現場へ出るなら、護衛も必要になる。
俺は剣帯を締め直しながらユリウスを見る。
「ユリウス、フィアナについてくれ。俺とガルドで先に現場を見てくる」
「ああ。俺もその方がいいと思う」
「ミラたちには?」
「二人にも連絡を回しています。ほかの冒険者も順次、現場へ向かっているそうです」
それなら、ここで全員を待つ必要はない。
俺とガルドは先に神殿を出た。
中央市場へ近づくにつれ、昨日とはまるで違うざわめきが通りを満たしていた。
市場へ向かおうとする人々を警備兵が脇道へ誘導し、その横を消防隊員が縄や梯子を抱えて走っていく。工具を積んだ荷車も何台か同じ方向へ急ぎ、装備を身につけた冒険者たちの姿も混じっていた。
昨日フィアナと歩いた道を途中まで辿り、南東へ折れる。
その先で、人の流れそのものが止まっていた。
通りは警備隊によって広く封鎖され、何本もの縄の内側を消防隊員や作業員が行き交っている。路肩には負傷者が並べられ、先に到着していた神官や治癒術師が手当てを始めていた。
さらに奥へ目を向けて、思わず足が止まる。
石畳が、長い範囲にわたって消えていた。
通りの中央を横切るように大きな穴が開き、場所によっては反対側の建物近くまで地面が落ち込んでいる。荷車が三台巻き込まれ、一台は横倒しになって縁へ引っかかり、もう一台は半分以上を穴の中へ沈ませていた。崩れた石畳や土砂の間には、砕けた木箱や荷物も散らばっている。
穴の縁では消防隊が縄を固定し、すでに何人かが下へ降りていた。別の場所では土木らしい作業員たちが地面へ杭を打ち、これ以上崩れないかを確かめている。
「救助の応援ですか?」
封鎖線の内側にいた警備兵が、俺たちの装備を見て声をかけてきた。
「神殿から来た。状況は?」
俺が答えると、警備兵は穴の奥へ目を向けた。
「落下を確認できているのが十二人。地上の負傷者は今のところ九人です。ただ、崩れた直後は人通りが多かったので、下に何人いるのかまだ確定していません」
「消防はどこまで入ってる?」
ガルドが聞く。
「手前側から三人救出しました。奥にも声が聞こえるんですが、途中でもう一度崩れて進めなくなっています。別の入口から入った隊もいますが、排水路の中で土砂に塞がれているそうです」
警備兵は少し離れた場所を指した。
消防隊の指揮官らしい男と、地図を広げた数人の作業員、その周囲に集まり始めた冒険者たちが見える。
「今、消防と市の水路担当が入り方を決めています。冒険者には、崩れた場所の探索と瓦礫の除去を手伝ってもらうことになると思います。勝手に下へ入るのだけはやめてください。また落ちるかもしれない」
「分かった」
ガルドもすぐに頷いた。
俺たちは封鎖線の中へ入り、穴の縁から十分に距離を取って下を覗き込む。
崩れた土砂の向こうには、石を積んだ古い排水路が何本か露出していた。消防隊員の持つ灯りが、その一つの奥で小さく揺れている。
昨日まで人と荷車が何気なく行き交っていた石畳の下に、これほど大きな空間が広がっていたことを、俺は知らなかった。




