↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
46/140

第43話 王都の市場

 翌朝、目を覚まして最初に確かめたのは右脚だった。


 寝台の上で足首を回し、膝を曲げてから床へ下ろす。痛みはないものの、ふくらはぎの奥には普段と違う張りが残っていて、昨日クラウディアに止められたところで切り上げたのは正解だったらしい。


 立ち上がって部屋を歩く分には問題ない。とはいえ、だから朝から昨日教わった一歩を試してみようという気にもならなかった。


 今日は休む。


 そう決めて顔を洗い、いつもの旅装より軽い服へ着替えた。王都の中を歩くだけなら鎧までは要らないが、フィアナの護衛を兼ねる以上、剣だけは外せない。腰へ下げて食堂へ降りると、すでにミラとセレナが朝食を始めていた。


 ミラの傍らには王都周辺の地図が畳んで置かれ、セレナは湯気の立つ茶を飲みながら、文書院でもらったらしい案内を読んでいる。


「二人とも今日は出るの?」


「私はユリウスとギルド。昨日は場所を確認しただけだったから、滞在中の手続きを済ませて、周辺の道と魔物の情報も見てくる」


 ミラはそう答えて地図を指先で軽く叩いた。


 護衛契約はまだ続いているので、王都にいるからといって勝手に別の依頼を受けるつもりはないらしい。必要があれば神殿側と調整してからというのも、ミラなら言われるまでもないだろう。


「セレナは文書院か」


「ええ。今日は資料の分類と、どこまで閲覧できるかを確認してくるつもりよ。探したい年代は決まっていても、向こうがどう整理しているか分からないままじゃ効率が悪いもの」


 言葉は落ち着いているのに、紙へ落としていた目には隠しきれない期待がある。


「楽しそうだな」


「楽しみよ。これだけ大きな文書院に入れる機会なんて、そう多くないもの」


 そこは迷わなかった。


 ほどなくしてユリウスが現れると、ミラは朝食を促しただけで予定を繰り返さなかった。ユリウスも行き先は承知しているらしく、まだ少し眠そうな顔でパンを取りながら「混む前に行くんだろ」と自分から確認している。


 その少し後にフィアナが入り、最後にガルドが戻ってきた。


「朝からどこ行ってたんだ?」


「昼前に寄る場所を見てきた。軍の連中に顔を出すことになってるからな」


 ガルドは俺たちより一回り大きな皿を埋めながら、何でもないことのように答える。


「王都来たことあるんじゃなかった?」


「あるのと、道を全部覚えてるのは別だ。一回違う通りに入ったから、もう大丈夫だろ」


 迷ったこと自体はまったく気にしていないらしい。


 それぞれの予定が決まっていく中、ミラがこちらを見た。


「アレンは?」


「今日は休み。昨日の訓練で右脚に少し張りが残ってる」


「やっぱりね。帰ってきた時、ほんの少し庇ってたもの」


「そんなに分かりやすかった?」


「それを見る仕事を長くやってるから」


 ミラはそれだけ言って食事へ戻った。隠していたつもりもないが、自分では意識していなかった程度の変化まで見られていたらしい。


「そういえば、昨日クラウディアさんとは何してたの?」


 今度はフィアナが聞いてきた。


「最初に少し打ち合って、その後はほとんど一歩踏み出す練習。足の置き方と重心を変えながら、同じ動きを何度もやってた」


「一歩だけ?」


「一歩だけ。クラウディアさんに言わせると、そこが崩れてたら、その先をいくら速くしても駄目らしい」


 何度やり直しても足の位置や体重の乗せ方を細かく直されたことを思い出すと、右脚に張りが残っているのも不思議ではない。


「へえ……もっと、ずっと剣で打ち合ってるのかと思ってた」


「俺も最初はそう思ってたよ。途中からは、ほとんど足ばっかり見られてた」


「そっか」


 フィアナは小さく頷くと、それ以上クラウディアのことは聞かなかった。


 少しして、今度はどこか期待するような目でこちらを見る。


「じゃあ、アレン。市場、今日行ける?」


 王都へ向かう途中で約束していたことを思い出す。


「ああ。ちょうどいいな」


「本当?」


「日中に中央市場へ行くくらいなら、行き先と帰る時間を伝えて護衛が一緒なら問題ないって聞いてる。俺が付いていくよ」


 フィアナの表情がすぐ明るくなった。


「じゃあ行きたい」


「決まりだな」


 横で聞いていたユリウスがパンを置き、こちらへ顔を向ける。


「市場に行くなら、昨日の店も見てきてくれない?」


「あの菓子屋?」


「そう。南側の赤い庇」


 三度行って三度とも閉まっていたという、例の店だった。


「今日も閉まってたら?」


「それなら、もう俺とは縁がなかったことにする」


「四回目は行かないんだ」


 フィアナが笑うと、ユリウスは真面目な顔で頷いた。


「三回で十分だろ」


 何が十分なのかはよく分からなかったが、開いていれば何か買ってくることだけ約束し、朝食を済ませた。


     ◇


 神殿の受付へ行き先と戻る予定を伝えて外へ出ると、王都はすでに朝の賑わいの中にあった。


 フィアナも今日は旅装ではなく、動きやすい普段着に小さな鞄だけという軽い格好だ。俺も剣を下げている以外は似たようなもので、王都へ来てから初めて、何かの用事ではなく街へ出たような気がする。


 中央市場へ近づくにつれて通りを行き交う人は増え、荷を積んだ手押し車や、籠を背負った職人、買い物に来た家族連れが途切れなく目の前を通っていった。脇道から大通りへ出るたびに人の流れが交差していて、少し立ち止まるだけでも後ろを歩く誰かの邪魔になりそうだった。


 フィアナはその中を歩きながら、忙しそうに左右を見ている。


「そんなに見るものある?」


「あるよ。ルミエルじゃ見ない店ばっかりだし」


 香辛料を山のように積んだ店の隣には鮮やかな布が何枚も吊られ、その向こうでは焼いた肉の匂いが流れてくる。どれか一つを見終える前に別のものが目に入るらしく、フィアナの視線はなかなか落ち着かない。


「あっち見てみたい」


「いいよ」


 フィアナが通りを横切ろうとしたところで、脇道から樽を積んだ荷車が入ってきた。


 御者が声を上げ、周囲の人々が慣れた様子で道を開ける。俺も一歩引きながらフィアナの腕を取ると、荷車は俺たちの目の前を軋みながら通り過ぎていった。


「ごめん、見てなかった」


「ここじゃ店より先に道見た方がいいな」


「うん」


 もう大丈夫だと手を離したところで、フィアナが一度人の流れを見渡し、それから俺の袖口を軽くつまんだ。


「この辺だけ、こうしててもいい?」


「いいけど」


「離れたら探すの大変そうだから」


 銀色の髪は目立つ方だが、これだけ人が多ければ簡単に見つけられるとは限らない。


「じゃあ、人が減るところまではこのまま行こう」


 俺が少し歩幅を落とすと、フィアナも隣へ並んだ。


 袖をつまんでいるだけで手を繋いでいるわけでもないのに、普段よりずっと近くにいる。それでもフィアナはすぐ市場へ意識を戻してしまい、本人が気にしていないのなら俺だけ意識するのも妙な気がして、そのまま歩いた。


 最初に捕まったのは菓子の露店だった。


 薄く焼いたものに砕いた木の実が散らされ、表面が蜜で艶々と光っている。


「アレン、これ何?」


「俺に聞いて分かると思う?」


「なんとなく知ってそう」


「どんな印象なんだよ」


 話を聞いていた店主が笑いながら教えてくれたところでは、木の実を蜜でまとめて焼き固めたものらしい。


 フィアナは迷わず二つ頼み、受け取ったうちの一つをこちらへ差し出した。


「俺の分も買ったの?」


「一緒に食べようよ」


 断る理由もないので受け取り、一口かじってみると、見た目より硬い食感のあとから蜜の強い甘さが広がった。


「甘いな」


「感想それだけ?」


「木の実も結構入ってる」


「それは見たら分かるよ」


 言いながらフィアナも食べてみて、しばらく噛んでから小さく頷く。


「でも、おいしいね」


「そこは同意する」


 結局、神殿へ持ち帰る分も少し買った。


 そこから先もフィアナは気になるものを見つけるたびに足を緩めたが、何でも欲しがるわけではなかった。刃物を扱う露店では薄い包丁をかなり長く眺めていたのに、使い勝手を店主へ聞いただけで元へ戻してしまう。


「買わないの?」


「村にいた頃なら欲しかったけど、今は神殿にもちゃんとしたのあるし」


「欲しいのと必要なのは別?」


「そういうこと」


 フィアナは少し惜しそうに包丁を振り返ったものの、それで終わりだった。


 だから布を扱う店で足を止めた時も、最初は眺めるだけだと思っていた。


 店先には衣服用の布だけでなく、細く裁った飾り紐が何色も並んでいる。その中からフィアナは淡い青と、少しくすんだ緑を手に取った。


「これなら治療してる時にも使えそう」


「髪をまとめるの?」


「横だけね。下向いてると前に落ちてくることあるから」


 髪の横へ一本ずつ当てながら見比べたあと、フィアナがこちらを向いた。


「アレンなら、どっちがいいと思う?」


「俺に聞く?」


「参考にするだけ」


 そう言われて改めて見ると、銀色に近い髪には緑より淡い青の方が自然に馴染む気がした。


「青かな」


「こっち?」


「ああ」


 フィアナは青い紐を髪に当て直し、店先に置かれていた磨いた金属板へ顔を映した。


 角度を少し変えたり、髪を指先で整えたりしながら何度か確かめている。気に入っているように見えたが、しばらくすると青も緑も元の場所へ戻した。


「買わないの?」


「どうしようかなって思ったけど、なくても困らないし」


 さっきの包丁ほど値が張るものでもない。俺が値札を見ると、本当にちょっとした菓子と大差ないくらいだった。


「じゃあ、俺が買うよ」


「え?」


「王都に来た記念。そのくらいなら」


 フィアナは一度俺を見てから、並んだ髪紐へ視線を戻した。


「……いいの?」


「もちろん。どっちにする?」


 もう一度尋ねると、今度は迷わなかった。


「青い方」


「分かった」


 店主へ代金を払い、受け取った髪紐をそのままフィアナへ渡す。


「ありがとう、アレン」


「どういたしまして」


 ほんの小さな買い物だった。


 それなのにフィアナはすぐ鞄へ放り込まず、手の上で皺にならないよう整えてから丁寧に畳み、小物を入れている袋へしまった。


     ◇


 昼が近づく頃には、朝よりさらに市場の人出が増えていた。


 大通り沿いの食堂はどこも客で埋まり、店によっては外に待っている人までいる。どこかへ入ろうかと聞いたものの、フィアナはまだ先の店が気になるらしく、結局、焼いた肉と野菜を薄いパンで巻いたものを買うことになった。


 店主が最後に振った香辛料は思っていた以上に強く、最初の一口でフィアナが目を丸くした。


「辛い」


「結構効いてるな」


「でも、これ好きかも」


 歩きながら食べるつもりだったが、人の流れから少し外れたところに空いた石段を見つけたので、そこで休むことにした。


 市場の中心から少し離れただけで、さっきまで避けながら歩いていた人の流れが眺めるものに変わる。商人が荷を積んだ手押し車を押していき、その向こうでは子供が二人、買ってもらった焼き菓子を半分に割っていた。


 フィアナは昼食を食べながら、その様子をしばらく眺めていた。


「楽しいな」


「王都が?」


「今日が」


 少し意外で横を見ると、フィアナもこちらを向いた。


「王都に着いてから、ずっと明日のことばっかり考えてたでしょう? 王城へ行くこととか、その後の話とか。だから今日は、やっと普通に街へ来た感じがする」


「言われてみればそうだな」


 俺も王都へ入ってから、聞き取りや王城、北のこと、古い記録と、考えていたのはほとんど仕事の話だった。


「アレンは楽しい?」


 聞かれて、市場へ目を戻す。


 フィアナほど店の一つ一つに興奮しているわけではない。それでも、王都の外側で見た倉庫や厩舎から大量の荷が運び込まれ、こうして市場へ並び、また別の場所へ流れていく。その規模を眺めているだけでも面白かった。


 それに今日は、何かを調べたり決めたりする必要もない。


「楽しいよ」


 そう答えると、フィアナが笑った。


「今ちゃんと考えたでしょう」


「聞かれたからな」


「そういうところ、アレンらしい」


「そうかな」


「うん」


 理由までは説明せず、フィアナは残っていた昼食を食べ始めた。


 俺も続きに口をつける。


 任務や遺跡の話をするでもなく、市場を歩いて、気になったものを買い、同じものを食べるだけの時間だったが、思っていたよりずっと気楽だった。


 食べ終えたフィアナが包み紙を畳みながら、ふと思い出したように言う。


「昨日の菓子屋、忘れてない?」


「ああ。南側の赤い庇だったな」


「行ってみようか」


「そうしよう」


     ◇


 店は思ったより簡単に見つかった。


 赤い布庇の下に焼き菓子を模した木の看板が下がり、今日は扉もきちんと開いている。


「開いてるね」


「普通に営業してるな」


「ユリウス、今日来ればよかったのに」


「本人が来たら閉まるのかもしれない」


「そんなわけないでしょ」


 笑いながら店へ入ると、中には焼いた小麦と蜜の甘い匂いが満ちていた。


 本人から品物の指定はされていなかったので、棚に並んだ焼き菓子を何種類か選び、皆で食べられるだけ包んでもらう。その後も市場を少し見て回り、神殿へ戻る頃には、朝は軽かったフィアナの鞄も俺の手荷物も、ほとんど食べ物で埋まっていた。


     ◇


 受付へ帰着を伝えて客室へ戻ると、他の皆はまだ帰っていなかった。


 買ってきたものを卓上へ置き、剣帯を外して椅子の背へ掛けると、フィアナがこちらの脚を見た。


「結構歩いたけど、大丈夫?」


「朝よりむしろ楽になった。歩くくらいなら問題なさそう」


「ならよかった」


 フィアナは自分の鞄を置いたあと、少し考えるように中を探り、市場で買った青い髪紐を取り出した。


「今、使ってみてもいい?」


「俺に許可いる?」


「買ってくれたから、一応」


「フィアナのなんだから好きに使っていいよ」


「じゃあ使う」


 鏡の前に立ち、横へ落ちていた髪を指先でまとめていく。


 短い髪なので大きく形が変わるわけではないが、銀色に近い髪の中へ淡い青が入ると、市場で当てていた時よりも自然に馴染んで見えた。


 何度か位置を直したあと、フィアナが鏡越しにこちらを見る。


「どう?」


「似合ってるよ」


 聞かれた通りに答えると、髪紐に触れていた指がほんの少し止まった。


「……そっか」


 それから鏡へ向き直り、もう一度だけ位置を整える。


 気に入ったならよかった。


 そう思って買ってきた菓子を並べていると、ほどなく廊下から足音が聞こえ、ミラとユリウスが戻ってきた。


「ただいま」


「おかえり」


 ユリウスは部屋へ入るなり卓上の包みを見て、すぐこちらを向いた。


「開いてた?」


「ああ。普通に」


「……そうか」


 なぜか少し遠い目をしたが、昨日までの三回について改めて考えるつもりはないらしい。


 ミラは外套を外しながら地図を取り出した。


「滞在手続きは済ませてきたわ。周辺の街道情報も一通り確認したから、何かあって王都の外へ動く時も最低限は困らないと思う」


「別の依頼は?」


「今は受けない。わざわざ護衛中に仕事を増やす理由もないでしょう」


 判断は早かった。


 ユリウスも異論はないらしく、先に菓子の包みを気にしている。


 そこへセレナも戻り、文書院について尋ねると、今日のところは分類方法と閲覧手続きの確認で終えたらしい。


「明日から実際に探す?」


「ええ。記録量はかなり多かったけど、その分残っているものも多そうだから、まず年代と地域で範囲を絞ってみる」


 話しながらもどこか楽しそうで、文書院で過ごした時間が無駄ではなかったことは聞くまでもなさそうだった。


 最後に戻ったガルドは、軍での用事について「今日は顔を出して話を聞いただけだ」と簡単に済ませ、卓上に菓子があることへ気づくと、その方へ興味を移した。


「これ食っていいのか?」


「皆の分だからいいよ」


 フィアナが答えると、ガルドは迷わず一つ取った。


 やがて全員が卓を囲み、ミラは王都周辺の地図を広げ、セレナは明日から調べる範囲を話し、ユリウスはようやく入れた店の菓子を確かめている。ガルドは必要なところだけ会話に加わりながら、誰より早く二つ目へ手を伸ばしていた。


 その話を聞きながら何気なく隣を見ると、フィアナは市場で買った――正確には俺が買った、淡い青の髪紐をまだ外していなかった。


 髪が邪魔にならないようまとめるための、細い布紐にすぎない。


 けれど市場で手に取っていた時より、今の方がずっと自然に似合って見えた。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。