第39話 王都の灯り
王都の神殿で一通りの手続きを終え、案内された客室へ荷物を置いた頃には、もう昼をだいぶ過ぎていた。
朝、街道の先に王都レーヴェンハルトが姿を現した時の光景は、まだ頭に残っている。
最初に見えたのは、薄く霞んだ空へ突き出す王城の塔だった。馬車が進むにつれて長大な城壁が左右へ伸び、その向こうに無数の屋根や尖塔が重なっていく。
以前、一度だけ来たことのある俺でさえ、こんなに大きかったかと思ったほどだ。初めて王都を見るフィアナが窓から離れなくなったのも無理はない。
近づくほど街道を行き交う人や荷車は増え、城壁の外にまで倉庫や厩、旅人向けの宿や店が連なっていた。
門塔には濃紺の旗が垂れ、銀の獅子と、その背後に伸びる三本の金の線が風に揺れている。ヴェルセリア王国の紋章そのものは見慣れていても、巨大な城門に何本も並んでいるのを見ると、さすがに王都まで来たのだという実感があった。
入城の手続きそのものは、神殿から事前に連絡が入っていたおかげで、ほとんど待たされなかった。
ただ、門衛の一人が馬車へ近づき、
「聖女フィアナ殿ですね。レーヴェンハルトへようこそ」
と丁寧に頭を下げた瞬間、隣にいたフィアナの背筋がすっと伸びた。
つい少し前まで、窓から見える建物について俺やガルドへ次々と聞いていたのに、その時にはもう穏やかな声で礼を返している。
ルミエルでもフィアナが聖女であることに変わりはない。それでも、普段から顔を合わせる相手が増えた今では、どこへ行っても毎回ああいう応対をされるわけではなかった。
ここでは、まず聖女として見られるらしい。
神殿へ着いてからもそれは変わらず、出迎えた神官たちは必要以上に仰々しくこそしなかったものの、フィアナへ声を掛けるたび丁寧に敬称を付けていた。
一通りの案内が終わり、担当の神官が客室から出ていく。扉が閉まるのを待っていたように、フィアナが肩の力を抜いた。
「……疲れた」
俺は壁際へ荷物を置きながら振り返った。
「馬車に乗ってた時より疲れてないか?」
「だって、会う人みんな『聖女様』って呼ぶんだもん」
「まあ、こっちじゃまだ仕方ないだろ」
「分かってるよ。ちゃんとする時はするけど、ずっとだと疲れるの」
そう言って椅子へ腰を下ろすと、フィアナは背もたれへ身体を預けた。さっきまで神官たちを相手にしていた姿とは随分違うが、俺にはこちらの方が見慣れている。
「馬車で王城がどれか聞き回ってた人とは思えないな」
「それとこれとは別でしょ」
少しむっとした顔を向けられたものの、その表情もすぐに緩んだ。
応接にも使える広めの客室らしく、六人で集まってもまだ余裕がある。ほどなく、それぞれの部屋へ荷物を置いていたミラたちも戻ってきた。
全員が揃ったところで、先ほどの神官がもう一度訪れる。
「明日の午前、王城から迎えが参ります。皆様には正門前でお待ちいただくことになります」
「全員ですか?」
俺が確認すると、神官は頷いた。
「はい。セレス修道院へ向かわれた皆様と、ガルド殿にも出席をお願いしたいとのことです」
ガルドは特に驚いた様子もなく、壁際で腕を組んでいる。
「時間は?」
「朝食後、余裕を持ってお待ちください。先方の迎えが到着次第、ご案内いたします」
王都に滞在する間は用意された客室を使えることや、食事は神殿で取れることなど、その後もいくつか説明が続いた。
話が終わりかけたところで、フィアナが少し迷ってから口を開く。
「あの、王城での用事がない時間なら、外へ出ても大丈夫でしょうか」
「もちろんです。事前に行き先をお知らせください。皆様が同行される場合は、追加の護衛は不要と伺っております」
その答えを聞いた途端、フィアナの表情が少し明るくなった。
神官が退出すると、すぐに俺を見る。
「行けるって」
「明日の予定が分かってからな」
「分かってる。でも、時間はありそうでしょ」
どうやら市場のことを忘れてはいないらしい。
「じゃあ今日はどうする?」
ユリウスが窓の外を覗きながら聞いた。
「まだ日もあるし、明日の朝までずっとここにいる必要はないだろ」
「遠くまで行くのはやめた方がいいけど、周りを見るくらいなら問題なさそうね」
ミラも賛成し、結局、夕食までの間だけ神殿の周辺を歩いてみることになった。
◇
外へ出て改めて分かったのは、神殿前の大通りだけでも人の流れがほとんど途切れないということだった。
馬車が二台並んでも余裕のある道の両側には石造りの建物が続き、二階建てなら珍しくもない。場所によっては三階まで窓が並び、その一階には商店や食堂が隙間なく軒を連ねている。
以前来た時も、同じような景色を目にしていたはずだ。
それなのに記憶に残っているのは、ギルド本部へ向かった道と宿の周りくらいしかない。
少し先には、周囲の建物より明らかに古そうな石壁が通りを横切るように残っていた。中央には大きな門が開いているが、その向こうにも店と家が続き、人波が絶える様子はない。
今では街の中に埋もれているが、昔はあそこが外壁だったのかもしれない。
何度も広がってきた街だと言われれば、たしかにそんなふうにも見えた。
「人、多いね」
隣を歩くフィアナは、右の露店へ目をやったかと思えば、今度は反対側の看板を見上げている。
食べ物、布、金物、装飾品。少し歩くだけでも店の種類が次々と変わり、地方から来たらしい商人や冒険者、神官、兵士まで同じ通りを行き交っていた。
「前も見て歩けよ」
「見てるよ」
「今、店先の籠にぶつかりそうだったけど」
「ぶつかってないでしょ」
「俺が避けさせたからな」
肩を引いて人の流れから少し外へ寄せると、フィアナはようやく前を向いた。
「……気になるものが多いんだって」
「全部今日見るのは無理だぞ」
「分かってる。今日は場所を見るだけ」
そう言った直後には、もう別の店へ目を向けている。
王都へ来る前から楽しみにしていたのだから、仕方ないのかもしれない。
「あっちへ行けば中央市場だ」
ガルドが大通りの先を指した。
フィアナの視線がすぐそちらへ動く。
「近い?」
「歩けばそれなりだ。今日はやめておいた方がいいだろうな」
「じゃあ明日以降だね」
もう行く気でいるらしい。
「一緒にね」
こちらへ念を押すように言われる。
「覚えてるよ」
「ならいいけど」
満足したのか、フィアナはまた通りへ目を戻した。
少し後ろを歩いていたセレナは、俺たちとは別の方向を見ている。
「あの辺りが王立史料院ね。ここからなら思っていたより近いわ」
「行ったことあるの?」
フィアナが聞くと、セレナは頷いた。
「何度か。遺跡そのものを見るなら地方へ出た方がいいけれど、文書を探すなら王都の方が圧倒的に多いから」
店先を追いかけるフィアナとは違い、セレナの視線は建物の位置や通りのつながりを確かめるように動いていた。
「そういえば、この辺だったと思うんだけどな」
今度はユリウスが辺りを見回し始める。
「何が?」
「焼き菓子の店。前に来た時、結局入れなかったんだよ」
ミラがすぐに反応した。
「まだ言ってるの? 三回行って三回とも閉まってた店でしょ」
「時間が悪かっただけだろ」
「三回とも?」
「そういうこともある」
「それはもう嫌われてるんじゃない?」
「店に?」
「店に」
真顔で返され、ユリウスが何とも言えない顔になる。
「そんなに美味いのか?」
俺が聞くと、ユリウスは首を振った。
「知らない。食えてないからな」
「じゃあ何でそこまで行きたいんだよ」
「三回駄目だったら、逆に気になるだろ」
言われてみれば、少し分かる気もする。
「見つけたら行く?」
フィアナが聞くと、ユリウスは迷わず頷いた。
「もちろん」
「閉まってたら?」
ミラが重ねる。
「今度こそ縁がなかったと思う」
「四回目でやっと諦めるんだ」
ミラがため息混じりに言うと、隣でガルドが低く笑った。
王都に慣れているガルドだけは、建物の高さにも人の多さにもほとんど反応しない。俺たちが立ち止まりそうになるたび、人の流れを邪魔しない場所へ自然と寄っているあたり、こういう場所に来慣れている人間との差が出ていた。
しばらく大通りを進むと、交差する道の向こうに王城の塔が見えた。
街中から見上げると、遠くから眺めた時とはまた違って見える。王城そのものまではまだ距離があるのに、塔は周囲の建物から大きく抜け、どちらへ行けば王城へ近づくのかは一目で分かった。
「明日、あそこ行くんだよね」
フィアナも足を止めて見上げた。
「らしいな」
「アレンは王城も初めて?」
「当たり前だろ。前はギルドに行っただけだから」
「じゃあ、そこは一緒だ」
なぜか少し嬉しそうだった。
「王城って、この格好でいいのか?」
ユリウスが自分の外套を摘まみながら、ガルドへ聞く。
「そのままでいい。向こうが冒険者として呼んでるんだ。礼装で来いとは言われてないだろ」
「武器も持っていく?」
「持っていけ。入口で指示される。勝手に置いていくな」
その辺りは、何度も王城へ出入りしたことのあるガルドに聞くのが一番早そうだった。
「資料も必要なものは持っていった方がよさそうね」
セレナが言うと、ガルドも頷く。
「必要なら持っていけ。使うかどうかは中で決めりゃいい」
「分かったわ」
ついさっきまで焼き菓子の店の話をしていたのに、王城を実際に目にすると、明日の予定が急に近いものに感じられた。
もっとも、今から考え込んだところで何かが変わるわけでもない。
日が傾き始めたところで、俺たちは神殿へ戻った。
◇
夕食を終え、それぞれの部屋へ戻る頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
レーヴェンハルトは、夜になっても静かにならない。
大通りには店先の灯りが並び、まだ行き交う馬車の音が時折窓まで届いてくる。その先にも明かりは途切れず続き、さらに向こうには昼間見た王城が暗い輪郭を残していた。
前に来た時は、こんな景色を眺めた記憶がない。
用事のことばかり考えて、本部へ行き、宿へ戻り、終わればそのまま帰った。それだけだった。
けれど今は、窓の向こうに連なる灯りを見ても、その下にある通りのいくつかなら思い浮かべられる。
フィアナが気にしていた中央市場へ続く道も、セレナが見ていた史料院の方向も、ユリウスがまだ見つけられていない焼き菓子屋があるらしい辺りも。
明日は王城へ行く。
窓から離れる前に、もう一度レーヴェンハルトの灯りへ目を向けた。
朝には遠くから眺めていただけだった巨大な街が、ほんの少しだけ、自分たちのいる場所になり始めている気がした。




