第38話 届かない一歩
二日目の朝、宿場を出た馬車は予定していた橋を問題なく渡り、昼前には街道沿いの休憩所へ入った。
昨夜ガルドに言われたことは覚えていたが、向こうから切り出すまでは普段通りでいいだろうと思っていた。ところが馬へ水を飲ませ始めて間もなく、ガルドは街道から少し離れた草地を見つけると、こちらへ顎をしゃくった。
「アレン、少し付き合え」
「今やるのか?」
「そのために昨日言ったんだろ」
ガルドへの口調には、まだわずかな引っかかりが残っている。それでも昨日ほど意識することはなくなっていた。
ガルドは大剣を馬車の脇へ置いたまま草地へ入り、周囲を見回した。人の往来からは十分に離れており、地面もほぼ平らで、少し動く程度なら問題なさそうだった。
「剣は抜かなくていい。見たいのは動きだ。俺に一度触ってみろ。手でも鞘でも構わん」
「簡単に言うな」
「魔法も使っていいぞ。ただし怪我させるようなのはなしだ」
「それ、俺よりガルドに言うべきじゃないか?」
「俺は大丈夫だ」
たぶん本当に大丈夫なのだろう。
休憩していたフィアナたちも気づいたらしく、少し離れたところからこちらを見ている。ユリウスなどは明らかに面白がっていたが、今は放っておくことにした。
俺は腰の剣には触れず、ガルドとの距離を測る。
三歩と少し。
真正面から踏み込めば、こちらが触れるより先に間合いを外される。なら、追う前に逃げる場所を減らした方がいい。
「行くぞ」
「おう」
左足を出すのと同時に、地面へごく小さく魔力を流した。
右へ逃げるなら、次にガルドが踏む位置をわずかに沈める。大きく崩す必要はない。踏み込みが半歩鈍れば、その分だけこちらが近づける。
だが、ガルドは俺が狙った場所へ足を置かなかった。
一歩で間合いの外へ抜ける。
そのまま追っても届かない。そう判断したところで前へ出る足を止め、横から風を流して進路を限定する。その先の足場まで変えれば、速さで追えなくても動ける場所そのものは削れる。
「そこまで」
ガルドの声が飛んだ。
「まだ触ってないけど」
「いい。今ので見えた」
何が見えたのか分からない。
ガルドはこちらへ戻ってくると、俺が最初に踏み込んだ辺りへ目を落とした。
「もう一回だ。今度は俺の足場をいじるな。風も俺には当てなくていい」
「それだと、ただ追うだけになるぞ」
「そうしてみろ」
意図は分からなかったが、言われた通り距離を取り直した。
二度目は余計なことを考えず、ガルド自身だけを見る。
合図と同時に踏み込むと、ガルドが後ろへ下がった。
本気で俺を引き離そうとしているわけではない。そうされたら何歩追おうが届かないことくらい、俺にも分かる。それでも最初から追うことを捨てず、一歩目、二歩目と距離を詰めた。
二歩目で離され始める。
普段なら、ここで別の手に切り替える。
今回は止まらず、さらに踏み込んだ。身体を前へ運び、伸ばした手で肩を狙う。
指先は届かなかった。
だが、自分が最初に考えていたほど遠くもない。
「そこまで」
ガルドが足を止める。
息が切れるほど動いたわけではない。それでも、予想していた距離との差が妙に気になった。
「……何が見たかったんだ?」
「やっぱりそうだな」
ガルドは俺と、自分が下がってきた距離を見比べる。
「お前、相手が自分より速いと分かったら、すぐ速さで追うのをやめるだろ」
「追いつけないなら、他の方法を使う方がいいだろ」
「ああ。そこは間違ってない。俺だって、わざわざ相手の得意なところに付き合ったりはしない」
否定されると思っていたので、少し意外だった。
「じゃあ何が気になるんだ?」
「見切るのが早すぎるんだよ。正面から勝てと言ってるんじゃない。崩した方がいい相手なら崩せ。ただ、お前は格上だと思った時点で、自分の速さや力まで計算から外してる」
ガルドは、先ほど俺が伸ばした手の辺りを指した。
「今だって届かなかった。でも、お前が最初から考えてたほど差はなかっただろ」
「ガルドが合わせてただけじゃないのか?」
「当然だ。本気で逃げたら訓練にならん」
そこはあっさり認めた。
「それでも、お前がどこで自分から諦めるかは見える。一回目は、俺が一歩速いと分かったところで追うのをやめた。二回目はそこからもう一歩来た」
使徒と戦った時を思い返す。
相手がこちらより速いと分かった時点で、同じ速さで追う考えは捨てた。足場を変え、射線をずらし、仲間の攻撃を重ねて動ける場所を削った。
あの判断が間違っていたとは思わない。まともに付き合っていたら、もっと早く崩されていたはずだ。
「相手の得意なところで勝負する必要はないだろ」
「だから、それは正しいって言ってる」
ガルドは少し考えるように俺の足元へ目を向けた。
「ただ、お前は自分を安全な方へ見積もりすぎる。一歩目の踏み込みも悪くないし、別に身体が遅いわけじゃない。それなのに格上だと分かった途端、自分の身体で食らいつく選択肢を最初に捨てる。そこが勿体ない」
「自分を弱く見積もってるってことか?」
「少しな。それに、お前にはまだ使ってないものがある」
ガルドが足元を軽く踏む。
「相手の足場はいじる。風で進路も変える。相手が次に何をするか見るのも早い。なのに、自分で前へ出る時だけは、ほとんど身体任せだろ」
「魔法で自分を動かせってことか?」
「そこまでは知らん」
「知らないのかよ」
「俺はお前みたいな魔法の使い方をしないからな。ただ、地面にも風にもあれだけ細かく手を入れるのに、自分へ使おうとしないのは勿体ないと思っただけだ」
あまりに普通に言われて、少し笑ってしまった。
「風で身体を押せば速くなるかもしれないけど、姿勢が崩れるぞ」
「じゃあ、崩れない使い方を考えろ」
「簡単に言うな」
「そういうの考えるの、得意だろ」
返す言葉が止まった。
地面から踏み込みを助ければ、最初の一歩を速くできるかもしれない。風も、ただ背中を押すだけでは雑すぎるが、力を掛ける場所と時間を絞れば使い道はある。
ただし、少しでもずれれば自分の姿勢を崩す。足首や膝に掛かる力も増えるだろう。
だからこそ、今までは敵や地形へ使う方が確実だった。
少なくとも、それで戦えていた。
「無理して力勝負をしろとは言わん」
考えていた俺に、ガルドが続ける。
「崩せるなら崩せ。それがお前の強みだ。ただ、崩せなかった時まで最初から届かないと決めるな。お前なら、今思ってるよりもう少し食らいつける」
その言葉は妙に残った。
「……分かった。少し考えてみる」
「それでいい。今日から戦い方を全部変えろって話じゃない」
話が一段落したところで、見ていたユリウスが近づいてきた。
「それ、俺もやってみていい?」
ガルドがそちらを見る。
「俺に触るやつか?」
「そう。せっかくだし、どこまで行けるかやってみたい」
「お前は別に見たくない」
「扱い酷くない?」
ユリウスが即座に返すと、ガルドは少しだけ口元を緩めた。
「見たかったのはアレンの癖だ。今日はそれで十分だ」
「じゃあ俺はなし?」
「やりたいなら王都で暇な時に付き合ってやる」
「じゃあやる」
「本当にやるの?」
ミラが呆れたように聞くと、ユリウスは当然のように頷いた。
「白金級と好きにやれる機会なんて滅多にないだろ」
「怪我しても知らないからね」
「だから何で負ける前提なんだよ」
「そこを疑えるのがすごいと思う」
ミラの返しにフィアナが笑い、ガルドも今度は隠さず笑った。
休憩が終わる頃には、俺もさっきまでの話をいったん頭の隅へ置いた。すぐに答えが出ることでもないし、旅の途中で自分の足を痛めるような試し方をするつもりもない。
それでも馬車へ戻る前、自分の踏み込みに風を重ねるならどの瞬間がいいのか、一度だけ足元を見ながら考えた。
◇
その日の夕方に入った宿場町は、ルミエルと王都を結ぶ街道の中継地としてかなり大きかった。
外壁こそ低いが、街道沿いには宿と食堂が並び、町の一角には何十頭もの馬を収容できそうな共同厩がある。荷車を停める場所も広く取られていて、日が傾いているのに人の出入りは途切れていない。
ただ、人が多いだけなら主要街道の町として不思議ではなかった。
気になったのは、北側へ通じる道から入ってくる荷車だ。
「多いね」
馬車を降りたミラが、共同厩へ向かう一団を目で追う。
荷台にはまだ布や樽、箱がかなり残っていた。商売を終えて戻ってきたにしては荷が多い。
「ガルドが見たって言ってたのも、ああいう商隊?」
「似たようなもんだ。ただ、北東じゃもっとばらついてた」
ガルドはそれ以上の意味を持たせず、行き交う荷車を眺めている。
町の人間も慌てている様子はなく、食堂からはいつも通り客の声が聞こえてくる。子供たちは通りを走り、露店もまだ商売を続けていた。
その一方で、王都方面から来た軍用らしい荷車が何台か町を通り抜け、北へ延びる別の街道へ曲がっていく。
日常はいつも通り続いているのに、一部の人や荷物だけが違う動きを始めていた。
「少し聞いてくる」
ミラが共同厩へ目を向けると、ユリウスも食堂が並ぶ通りを見た。
「じゃあ俺はあっち行く。商人なら飯食ってる時の方が話しやすいだろ」
「飲みすぎないでよ」
「情報集めに行くんだぞ?」
「知ってる。だから一杯まで」
「何でお前が決めるんだよ」
「四年見てるから」
ミラはそれだけ言って共同厩へ歩いていった。
ユリウスは何か言い返しかけたものの、結局諦めたらしく反対側へ向かう。
「相談しなくても分かるんだな」
二人の背中を見ながら言うと、ガルドもそちらへ目を向けた。
「長く組んでる奴らはあんなもんだ。わざわざ同じところへ聞きに行く必要もないからな」
誰がどこを聞くかも、何時までに戻るかも細かく決めていない。それでも二人とも、それで困るとは思っていないらしい。
俺たちは先に宿へ入り、荷物を運んだ。
しばらくして食堂へ集まる頃には、ミラとユリウスも戻っていた。
「北から来た商隊、私が聞けただけで三組。二組は予定より早く戻ってきたって」
席についたミラが、料理を待ちながら話し始める。
「理由は?」
「一つは仕入れ先から遅れが出てるから。もう一つは、北へ抜ける道の一部を避けるよう言われたから。ただ、誰からそう言われたのかははっきりしない」
ユリウスも続けた。
「こっちも似たような話だった。兵が増えたって言う奴は何人かいたけど、場所が全部違う。北の方で何かあるらしい、くらいしか誰も知らないみたいだな」
「戦が始まるって話は?」
フィアナが聞くと、ユリウスは首を横に振った。
「そこまで言ってる奴はいなかった」
ガルドも頷く。
「俺が見た時と同じだな。戦になるなら、商人も兵もこんな動きじゃ済まん」
「でも、いつも通りでもない」
ミラが言うと、ガルドは短く頷いた。
「そういうことだ」
結局、それ以上のことは分からなかった。
ルミエルでは報告として聞いただけだった北方の変化が、街道を行き交う人や荷物の動きとして目に見え始めている。だからといって、それが何を意味するのかまで今の俺たちに判断できるわけではなかった。
そこへ料理が運ばれてきた。
肉と豆を煮込んだものに、焼いた野菜とパン。旅の途中の食事としては十分だったが、ミラは煮込みを一口食べたところで、ほんの少し眉を寄せた。
その変化を見逃さなかったユリウスが、自分の皿を食べながら言う。
「やっぱりその香草、苦手なんだろ」
「別に食べられないとは言ってない」
「四年経っても、その顔だけは変わらないな」
「だったら黙って食べさせて」
そう言いながら、ミラは自分の皿に添えられていた焼き芋を一つ、ユリウスの方へ押した。
「それあげるから、そっちのパン半分ちょうだい」
ユリウスは焼き芋と自分のパンを見比べる。
「何で俺のパンなんだよ」
「煮込みにつけたら香草の味薄くなるから」
「俺が損してない?」
「焼き芋の方が高いと思うけど」
「そういう問題か?」
文句を言いながらも、ユリウスは結局パンを半分渡した。
相手が何を嫌い、どこまでなら譲るのかを、いちいち確認する必要もない程度には長く一緒にいるらしい。
「何見てるの?」
ミラに気づかれた。
「いや。二人って長いんだなと思って」
「今さら?」
「四年だからな」
ユリウスが答えると、フィアナも興味を持ったようだった。
「最初からこんな感じだったの?」
ミラとユリウスが一度顔を見合わせる。
「全然」
「むしろ最初は面倒だった」
二人の答えがほとんど同時に重なった。
「どっちが?」
フィアナが聞くと、今度は二人とも迷わず相手を指す。
「こいつ」
「こいつ」
一瞬遅れて俺たちが笑うと、ミラは呆れたように息を吐き、ユリウスは納得していない顔のままパンをかじった。
ちょうどそこへ追加の料理が届き、話はそのまま食事の方へ移っていった。
◇
三日目も、馬車は予定通り東へ進んだ。
朝のうちは小雨が降ったものの、街道が悪くなるほどではない。昼過ぎには晴れ間も見え、予定していた宿場へ日が落ちる前に入ることができた。
途中、王都方面から来た兵の一団と何度かすれ違った。
大部隊ではなく、十数人から数十人ほどのまとまりだった。北へ延びる街道へ向かう者もいれば、軍用らしい荷車を伴った一団もいる。
ガルドはそのたびに見るだけで、余計なことは言わなかった。
俺も昨日教えられたことを何度か考えた。
休憩の時に人のいない場所を選び、踏み込みへ風を重ねてみる。後ろから押すように使うと、足より先に上体が崩れた。力を弱めれば姿勢は保てるが、今度は普通に踏み込むのと大差がない。
ならばと、足が地面を捉える瞬間だけ土へ魔力を流し、踏み込む方向へ押し返すように力を作ってみた。
一歩目だけなら、確かに速い。
ただ、その分だけ身体が予想より前へ運ばれ、二歩目が遅れた。足だけ速くしても、身体全体がその動きについてこなければ意味がないらしい。
「力入れすぎだな」
少し離れたところで見ていたガルドが言った。
「風と土、どっち?」
「両方だ。速くしようとして力を足しすぎてる。まずは自分の姿勢を崩さない範囲でやれ」
「それで今より速くなるのか?」
「そこから先は俺に聞くな。お前の魔法だろ」
「そこだけ急に突き放すなよ」
「細かい制御まで俺が分かったら、とっくに自分でやってる」
それもそうだった。
ただ、さっきの一歩がまったく使えないとも思わない。力の大きさと入れる瞬間を合わせられれば、普通に踏み込むより速く動ける可能性はある。
簡単にはいかなさそうだが、試す価値はありそうだった。
四日目になる頃には、「ガルド」と呼ぶことにも随分抵抗がなくなっていた。
フィアナはまだ時々一瞬だけ間を置き、ミラも油断すると「さん」を付けそうになるらしい。ユリウスは一度慣れると早かったようで、すでに昔からそう呼んでいたような顔をしている。
その日の夕方、最後の宿場へ入った。
王都へ向かう旅客や商人がさらに増え、宿の前には何台もの馬車が並んでいる。御者が明日の街道について宿の主人へ確認して戻ってくると、フィアナが真っ先に顔を上げた。
「どうだった?」
「道は問題ありません。明日は昼を少し過ぎた頃には、王都の外壁が見えるでしょう」
フィアナの表情が分かりやすく明るくなった。
「そんなに近いんだ」
「ここまで来れば、もうすぐですよ」
御者が笑う。
宿の中からでは、当然まだ王都は見えない。それでも、明日の今頃にはあの街の中にいると思うと、俺まで少し気持ちが浮いた。
金級へ上がった時に訪れた王都は、ギルド本部と宿を往復しただけの場所だった。
今度は、前より少しくらい王都そのものを見られそうだった。




