第33話 もう一つの人生
翌朝になっても、追手は現れなかった。
夜の間にミラが二度、俺も見張りの途中で周囲を確かめたが、人が近づいた痕跡は見つからない。あの男が本当に退いたのか、それとも離れたところからこちらを見ているのかまでは分からなかったものの、少なくともすぐに襲ってくる様子はなさそうだった。
日の出を待って野営地を片づけ、俺たちは来た時と同じ古道を東へ戻った。
肩の傷は、フィアナの治癒のおかげでほとんど気にならない。ただ、裂けた鎧までは元に戻らないため、肩口には布と革紐で応急処置をしてある。出発前にもフィアナから腕を上げ下げさせられたが、その後の歩みに支障はなく、道中も大きな問題は起きなかった。
変わったことがあるとすれば、誰もが以前より頻繁に後ろを見るようになったことくらいだ。
「何もいない」
昼前、立ち止まってしばらく後方を見ていたミラが言った。
「それ、さっきから三回目だぞ」
「三回とも何もいないって確認できたんだから、いいでしょ」
「それはそうだけどさ」
ユリウスが肩をすくめる。
俺も今回ばかりは、ミラの慎重さを笑う気にはならなかった。
昨日の男は一人で俺たち五人を相手にし、フィアナを傷つけないよう攻撃を選びながら、それでもこちらに傷を負わせている。北の盟主に仕える者たちの中で、あいつがどの程度の立場なのかすら分からない。
何より厄介なのは、向こうが俺たちの知らないことを知っているということだった。
昼を過ぎても魔物らしい気配はなく、古道を抜ける頃には張り詰めていた空気も少しずつ薄れていった。以前立ち寄った小さな集落まではもう遠くないが、夕方から無理に進む必要もない。水の取れる場所を見つけたところで、その日は手前に野営地を置くことにした。
ミラとユリウスが周囲を確認している間に、俺とセレナで火を起こし、フィアナは飲み水と炊事に使う分を分けながら夕食の準備を進める。
昨日までと何も変わらない光景だった。
つい一日前には古代の施設へ入り、そのあとには魔王に仕える男と剣を交えた。それでも日が沈めば火を起こし、飯を食い、見張りの順番を決めて眠る。大きな出来事があったからといって、そのあとの夜まで特別になるわけではないらしい。
◇
夕食を終え、その日の最初の見張りを俺が受け持つことになった。
皆が休み始めてしばらくすると、焚き火の薪が爆ぜる音と森の虫の声だけが残る。剣を手の届くところへ置き、暗がりへ時折目を向けながら火を見ているうちに、意識は自然と昨日の男の言葉へ戻っていった。
二度目の応答は、俺に残っている。
あいつはそう言った。
セレス修道院の地下で現れた二つ目の枠と、そこに表示された文字も覚えている。
――適合。
何に適合したのかは分からない。ただ、施設がフィアナとは別に俺へ反応したことだけは確かだった。
フィアナについてなら、まだ考えようはある。彼女は神託を受ける聖女で、エルムの地下でも古代の何かから反応を受けていた。
だが、俺は違う。
そう考えると、どうしても一つのことへ戻ってくる。
俺には、この人生とは別に生きた記憶がある。
それを前世だと考えるようになったのがいつだったかは、もうはっきりしない。物心がついた頃にはすでに、この世界では見たこともない場所や道具のことを知っていた。
幼い頃は、妙に長く続く夢のようなものだと思っていた気がする。
馬も引いていないのに人を乗せて遠くまで走る乗り物があり、夜になっても通りには明かりが満ちていた。離れた場所にいる相手とも、その場にいるように声を交わせて、手の中に収まる薄い板には文字や映像を映すことができた。
この世界には存在しないものばかりなのに、記憶の中ではどれも珍しくない。
ただ使い方を知っているというだけでもなかった。それらがある暮らしの中で朝を迎え、人と会い、働き、疲れて帰り、また次の日を迎えていた。
若い頃には規律の厳しい組織に長く身を置いていた。似た服を着た大勢の人間と訓練し、決められた時間に動き、命令を受けることもあれば、誰かへ指示を出すこともあった。自分一人の失敗では済まない場面や、危険があることを前提に判断しなければならない状況も、ぼんやりではなく実感を伴って残っている。
そこを離れたあとの暮らしは、ずいぶん違った。
大勢の人間が出入りする高い建物の中で、紙や文字、数字を相手に過ごす時間が増えた。窓の外には建物がどこまでも続き、日が沈んでも街そのものが暗くなることはない。着ているものも、一日の過ごし方も、周りにいる人間も変わっていたが、俺の中では前の暮らしから途切れることなく続いている。
だから、いつまでも夢だとは思っていられなかった。
もちろん、何もかも鮮明に覚えているわけではない。
顔まではっきり浮かぶ人もいれば、そこにいたという感覚しか残っていない人もいる。何歳の何月に何をしていたかと聞かれても、順番に並べられるほど記憶は整っていない。
それでも、選んだ時の迷いや、失敗した時の苛立ち、あとになって別の道を考えたこと、人との距離が変わっていった感覚まで時間の流れと一緒に残っている。
知識だけが、理由もなく頭に入っているのとは違う。
俺自身がそこを生きていた。
そう考える方が自然になって、いつからか前世と呼ぶようになった。
本当に生まれ変わったのかは知らない。なぜ記憶が残っているのかも、あの場所とこの世界がどういう関係にあるのかも分からない。それでも、今の俺が経験していない一人分の人生を、自分のものとして覚えていることだけは確かだった。
そして、長く使っていたものほど鮮明に残っている。
言葉もその一つだ。
エルムの地下で初めてあの文字を見た時、意味を考えるより先に読めた。前世で、ごく当たり前に使っていた文字だったからだ。
それ以来、ずっと分からないことがある。
なぜ、この世界に前世の文字があるのか。
少し形が似ているだけなら、偶然と考えることもできたかもしれない。だが、俺が見つけたものはそんな曖昧なものではなく、意味がそのまま通じ、前世と同じように読むことができた。
俺に前世の記憶があること。
古代の施設に、その記憶と同じ文字が残っていること。
これまでは理由の分からない二つのことを、答えがないまま別々に置いてきた。
けれど、セレス修道院で施設そのものが俺へ反応した。
血を使ったわけでも、意識して魔力を流したわけでもない。ただそこにある文字を読み、表示を見ていただけなのに、フィアナとは別の枠が光り、『適合』と表示された。
さらに昨日の男は、地下へ入ってもいないのに、その二度目の応答が俺に残っていると言った。
そこまで重なれば、前世の記憶と古代施設の文字、それに施設から受けた反応を、今までのように無関係なものとして置いておくのは難しい。
百八十年前のことまで気になってくる。
エレノアの隣には、名前すら残されていない同行者がいた。そして男はフィアナと俺を見て、「また二人を揃える」と言った。
もしエレノアとフィアナだけではなく、俺とあの同行者にも何か共通するものがあったのだとしたら、それが何なのかは見当もつかない。
俺と同じように別の人生の記憶を持っていたのか。
あの文字を読めたのか。
あるいは、そんなこととはまったく違う理由なのか。
今の材料だけでは、どれも想像の域を出なかった。
そもそも『適合』という一語だけ見ても、何に対して適合したのかすら分からない。フィアナに出た『確認済み』も同じで、文字を読めることと、その表示が何を意味しているのか理解することは別だった。
前世の記憶があるからといって、古代施設の仕組みまで分かるわけではない。
見覚えのある形から用途を想像できるものがあり、文字なら読むことができる。その先は結局、セレナたちと同じように、目の前のものから推測するしかなかった。
それなのに、施設は俺を選び分けるように反応し、北から来た男まで何かを見つけたように俺を見た。
そこまで考えたところで、いったん思考を止めた。
これ以上同じ材料を並べ直しても、新しい答えが出るわけではない。
焚き火へ薪を一本足し、森の暗がりへ目を向けた時、背後で小さく布が擦れる音がした。
剣へ伸びかけた手を止める。
「アレン?」
フィアナだった。
白い上着を肩に掛け、寝床からこちらを覗いている。
「どうした?」
「ちょっと眠れなくて」
声を落としながら近づいてくると、フィアナは火を挟んだ向かいではなく、俺の少し横へ腰を下ろした。近すぎるほどではないが、小声でも十分に聞こえる距離だった。
「肩?」
「違うよ。そっちは大丈夫」
「じゃあ、昨日のこと?」
フィアナはすぐには答えず、火へ手を向けた。
「たぶん、それも」
しばらく炎を見てから、小さく息を吐く。
「あの人が言ってたこと、考えてた。私とアレンを見て、また二人を揃えるって」
「俺も同じこと考えてた」
「やっぱり?」
「あれだけ言われればな」
フィアナが少し困ったように笑った。
「私、今までこういうことって、自分の方に理由があるんだと思ってたんだよね。聖女だからとか、神託を受けるからとか」
「うん」
「でも、セレス修道院の地下ではアレンにも反応したでしょう。あの人も、二度目の応答はアレンだって言ってた」
火の明かりを受けた青灰色の目がこちらへ向く。
「アレンは、怖くない?」
少し考えてから答えた。
「怖いっていうより、気持ち悪いかな」
「気持ち悪い?」
「自分のことなのに、自分より他人の方が何か知ってる感じがする」
フィアナは一度瞬きをしてから、納得したように頷いた。
「それは、分かるかも」
「フィアナも?」
「神託のことで、ずっとそんな感じだったから」
言われてみればそうだった。
何を見たのか、どう感じたのかを知っているのはフィアナ自身なのに、周囲はそれを聖女の神託として扱い、意味まで先に決めようとする。
「嫌だった?」
「ずっと嫌だったわけじゃないよ。小さい頃は、そういうものなんだって思ってたし。でも、自分で考えるようになると……少し変な感じはする」
フィアナは膝を抱えるようにして座り直した。
「だから、アレンも何かあるなら、一人で考えすぎない方がいいと思う」
その言葉を聞いた時、喉まで出かかったものがあった。
俺には、前の人生の記憶がある。
その世界で使っていた文字が、エルムやセレス修道院の地下に残っている。
そこまで話せば、俺が何を考えているのか、少なくとも一部はフィアナにも伝わるだろう。
言ってしまおうかと、本気で考えた。
「俺は――」
そこまで口にして、止まった。
どう言えばいいのか分からなかった。
フィアナを信用していないわけではない。むしろ今ここで一人だけ選ぶなら、話す相手はフィアナでもいいと思った。
だからこそ、中途半端な形では言いたくなかった。
前世の記憶と古代施設が本当に関係しているのか、それとも俺が勝手に結びつけ始めているだけなのか、自分でもまだ整理できていない。
「……いや」
言葉を引っ込めると、フィアナは少しだけ首を傾げた。
「何か言おうとした?」
「うん。でも、まだ自分でもちゃんと整理できてない」
「そっか」
それだけだった。
何を隠しているのかとも、どうして言えないのかとも聞かなかった。
しばらく焚き火を見ていたフィアナは、やがて俺の方を向いて少しだけ笑った。
「じゃあ、いつか聞かせて」
「……いいの?」
「何が?」
「もっと聞かないのかと思って」
「聞いたら今話す?」
「たぶん、話さない」
「じゃあ聞いても仕方ないでしょ」
あっさりした答えだった。
それから少し間を置いて、フィアナは俺の顔を見る。
「でも、何もないとは思ってないからね」
「分かってた?」
「今ので分かった」
そう言って、小さく笑う。
追及されなかったことに安心すればいいのか、見抜かれたことに困ればいいのか、自分でもよく分からなかった。
「だから、いつかでいいよ。アレンが話してもいいって思った時に聞かせて」
「分かった」
それ以上、フィアナは何も聞かなかった。
俺たちはしばらく並んで火を眺めた。会話が途切れても妙な居心地の悪さはなく、薪の燃える音と森の虫の声だけが静かに続いている。
やがてフィアナが小さく欠伸をした。
「眠れそう?」
「さっきよりは」
「なら戻った方がいい。明日も歩くから」
「アレンも、考えすぎないでね」
「努力する」
「それ、やらない時の返事っぽい」
「ちゃんと努力はするよ」
フィアナは半信半疑らしい顔をしたものの、それ以上は言わずに立ち上がった。
「おやすみ、アレン」
「おやすみ、フィアナ」
寝床へ戻っていく背中を見送る。
前世のことを誰かへ話そうと思ったのは、今の人生では初めてだった。
なぜ前世で使っていた文字がこの世界の古代施設に残り、その文字を知る俺自身に施設が反応したのか。疑問は何一つ解けていない。
それでも、いつか話す相手としてフィアナを思い浮かべたことだけは、もう曖昧ではなかった。
俺は焚き火から目を上げると、そこで考えるのをやめ、見張るべき暗い森へ意識を戻した。




