第32話 残らなかった記録
9/23 全体的に推敲し文章をアップデートしました。(内容は変更なし)
セレス修道院が木々の向こうへ完全に隠れてからも、俺たちは足を緩めなかった。
来た時と同じ古道を戻っているだけなのに、背後へ向く意識はまるで違う。あの男が本当に退いたのか、それとも距離を取ってこちらの動きを見ているのか、それすら分からない。
先頭を行くミラは何度か道を外れ、湿った土や藪の根元を確かめていた。俺たち以外の足跡が重なっていないか、森の音に不自然なものが混じっていないかを見ているらしい。
三度目の確認から戻ってきたところで、ようやく弓を少し下げる。
「今のところ、追ってきてる感じはない」
「回り込んで先に出る可能性は?」
「ある。ただ、あの傷で森を突っ切って私たちより先に回れるなら、もう嫌になるくらい上手いと思っていい」
「ありそうなのが嫌だな」
ユリウスが顔をしかめたが、ミラは否定しなかった。
俺も歩きながら肩を回してみる。フィアナの治癒で傷はほとんど閉じているものの、動かせばまだ鈍い痛みが残った。鎧の肩口には細い裂け目が入り、こっちは治癒魔法というわけにはいかない。
「痛む?」
隣を歩いていたフィアナが、俺の肩へ目をやる。
「少し。歩く分には問題ないよ」
「戦える?」
「たぶん」
「聞き方が悪かった。今日はもう戦わないで」
「向こうにも言ってくれ」
「来たら言う。そのあとアレンを治す」
「結局戦う前提じゃないか」
フィアナは少しだけ口元を緩めたが、すぐに後ろを振り返った。
誰も完全には気を抜いていない。
陽が傾き始める頃、古道の脇に少し高く開けた場所を見つけた。ミラが周囲を一周し、足跡と見通しを確認したところで、その日はそこで止まることにする。暗くなってから森を歩くより、追手がいる可能性まで考えれば、周囲を見渡せる場所で夜を越す方がいい。
火は小さく抑え、食事も手早く済ませた。
最初の見張りはミラとユリウスが受け持つ。俺は焚き火のそばで、セレナが広げた地図の端を石で押さえるのを手伝った。
しばらくは誰も修道院でのことを口にしなかった。
話したくないわけではない。ただ、どこから聞けばいいのか分からないという方が近かった。
最初に沈黙を破ったのはユリウスだった。
「……そろそろ聞いていいか」
膝の上に杖を置いたまま、セレナを見る。
「北の盟主って、結局なんなんだ? 魔王だってのは分かったけど、俺はあんな呼び方聞いたことないぞ」
「私もないわ」
「ないのかよ」
「だから驚いたのよ。少なくとも、私が読んできた人間側の記録では、ほとんど魔王としか書かれていないもの」
魔王という言葉そのものなら俺も知っている。
北方には人間が魔族と呼ぶ者たちがいて、それを束ねる強大な存在が魔王だ――少なくとも、俺はそういうものだと聞いてきた。その程度なら、冒険者でなくても知っているような話だ。
「神殿でも同じだよ」
フィアナが言った。
「北方の魔族を束ねる、人間にとって危険な存在だって。そのくらいだけど」
「普通はそれで困らないからね」
セレナは地図を畳みながら答えた。
「でも、古い記録を追っていくと、その説明だけじゃ合わないものが結構出てくるの。そもそも人間が魔族と呼んでいる人たちが、一つの種族なのかどうかも怪しい」
弓の弦を確かめていたミラが顔を上げた。
「今日の男みたいに角があるのもいれば、そうじゃないのもいるってこと?」
「そう。外見だけなら人間とほとんど変わらないという記録もあるし、生活の仕方や使う言葉が違う集団まで、まとめて魔族と書かれているものもある。少なくとも人間側の記録だけを読むなら、一つの種族名というより、北方に属する諸勢力をまとめてそう呼んでいるように見えるのよ」
「じゃあ、あいつも角だけじゃ何者か分からないわけね」
「似た特徴の記述はあるけど、それだけでは無理ね」
ユリウスが感心したように眉を上げた。
「よくそんなところまで調べてるな」
「古代の遺構は、今の国境に合わせて埋まってくれてないもの」
セレナが少し肩をすくめる。
「昔の施設がどの地域と関係していたか調べようとすると、戦争の記録にも交易の記録にも当たる。北から来た旅人の記録や、古い翻訳文書を読むこともあるわ。だから普通より目にする機会が多いだけ」
そこで一度言葉を切り、俺たちを見回した。
「ただし、私が読んできたのもほとんどは人間側が書いたものか、人間の言葉へ訳されたものよ。向こうの事情に詳しいわけじゃない。人間側から見える範囲を、普通より少し多く読んでるだけ」
その言い方はセレナらしかった。
分かっていることを並べるより、どこから先は分からないのかを先に切り分ける。
「魔王についても似たようなものよ。古い年代記を順番に読む限り、何百年も同じ一人がいるとは考えにくい。魔王が死んだという記録の後に、別の人物らしい魔王が現れることもあるから、私は北方をまとめる立場が代替わりしているんだと思ってた」
「それが北の盟主?」
フィアナが聞く。
「可能性はある。でも、今日のあの人がそう呼んだだけでしょう? 北方全体で同じ呼び方をしているかまでは分からない」
「でも、セレナが魔王って言った時は」
「『人間はそう呼ぶらしいな』って返した」
俺が続けると、セレナが頷いた。
「だから少なくとも、魔王が彼ら自身の普通の呼び方じゃない可能性は高くなったと思う」
人間側が当たり前に使っている名前を、相手も同じように使っているとは限らない。言われてみれば当然なのに、俺も今まで深く考えたことはなかった。
ユリウスはしばらく考え込んでいたが、やがて首を傾げた。
「北にいろんな連中がいるとして、そいつらがどうやって一人の盟主に従ってるんだ?」
「そこから先は知らない」
返答は早かった。
「一つの国みたいにまとまっているのか、いくつもの国や集団が必要な時だけ同じ人物に従うのか、盟主をどうやって決めるのか。それも人間側の記録からはほとんど見えない。戦争になると、北から来た軍勢をまとめて魔王軍って書いてしまうことが多いから」
「書く方は楽そうだな」
「読む方は困るけどね」
ユリウスの言葉にミラが小さく笑った。
少しだけ空気が緩んだところで、俺は本当に聞きたかった方へ話を戻した。
「百八十年前の方は?」
セレナがこちらを見る。
「修道院を出る時、心当たりはあるって言ってたよな」
「正確には、引っかかっている記録がある、ね」
「何が違うの?」
フィアナが尋ねる。
「百八十年前に何が起きたか知ってるわけじゃないの」
セレナはそこをはっきりさせてから、少し考えるように焚き火へ目を落とした。
「遺構を調べていると、その場所を過去に調べた人の記録まで遡ることがあるのよ。誰が最初に見つけたのか、当時どこまで露出していたのか、文字をどう写したのか。それだけでも、今見えているものの解釈が変わることがあるから」
その説明なら俺にも分かる。目の前に残っているものが、昔からまったく同じ状態だったとは限らない。
「そうやって調査記録を追っていると、エレノアと近い時期で、妙に続きが悪くなるものを何度か見たことがあるの。途中までは本人が残した記録を追えるのに、そこから先は何十年も後にまとめられた文書しかないとか、まだ調査を続けるつもりだった人の記録が、理由も書かれないままそこで終わっているとか」
「でも、それだけなら古い記録では珍しくない?」
ミラの問いに、セレナは頷いた。
「そうなの。火事で失われることもあるし、戦争で保管場所ごとなくなることもある。持ち主が変わって散逸することだってある。百年以上前の文書が、最初から最後まできれいに残っている方が珍しいくらい」
「だから今までは、それぞれ別の理由だと思ってた」
「そう。しかも全部が同じ年に途切れているわけじゃない。何年か幅もあるし、場所も保管先も違うから、結びつける理由がなかった」
「今日までは」
俺が言うと、セレナが小さく頷いた。
「今日、あの男が百八十年前と今を結びつけた。エレノアの名前にも明らかに反応した。だから、今まで別々だと思っていた記録の欠け方が、もしかしたら同じ何かに関係しているのかもしれないって思い始めただけ」
「百八十年前に、何か大きなことがあった?」
ユリウスの問いに、セレナはすぐには答えなかった。
「まだそこまでは言えないわ」
「でも、もし色んな場所の記録が同じ頃に途切れてるなら、普通は何か残らない?」
今度はミラだった。
セレナが少し眉を寄せる。
「だから気になるのよ。ただ、今の時点で大きな事件があったとか、誰かが記録を消したとか、そこまで考えるのは早すぎる。私が思い出している記録が、本当に同じ原因で途切れた証拠はないし、今日の男が全部本当のことを言った保証もないもの」
「誰かが消した可能性もあるけど、今は材料がない?」
「そう。古い記録がなくなる理由なんて、他にもいくらでもあるから」
そこで一度言葉を切ったセレナは、少しだけ声を落とした。
「ただ、あの男自身が百八十年前と今を重ねて見ていることは確かだと思う」
フィアナの手が、膝の上で少し動いた。
「『聖女というものは、どの時代でも変わらない』って言ってた」
「それに俺を見て、『また二人を揃える』とも言った」
地下で起きた二度目の反応も、あの男は何らかの方法で察知していた。
「私とエレノアが似た立場で、アレンとあの同行者も同じってことなのかな」
フィアナの声は静かだった。
「そこまでは分からない」
俺が答えると、セレナも頷いた。
「似ているところは増えた。でも、同じ役割だと決めるにはまだ足りないわ。地下の表示だって、フィアナには『確認済み』、アレンには『適合』と出ただけでしょう。その言葉が何に対するものなのか、私たちは知らない」
「うん」
「今言えるのは、二人が施設から別々の反応を受けて、あの男もそれを何らかの形で察知したこと。それから、百八十年前にも彼が似ていると考える二人がいたらしいこと。そこまで」
並べ直されると、分からないことの方がずっと多い。
それでも、セレスへ着いた時には別々だったものが、少しずつ同じところへ集まり始めている。
「もう一つ」
ミラが森からこちらへ視線を戻した。
「あいつ、『人間は何が起きたのかすら残せなかった』って言ったよね」
「ああ」
「自分たちは知ってる、みたいに聞こえなかった?」
セレナは少し考えてから答えた。
「私もそう聞こえた」
「じゃあ北には記録が残ってる?」
「それは分からない。文書なのか、口伝なのか、あの人個人が何かを知っているだけなのかもしれない。でも、もし向こう側に人間とは別の記録が残っているなら、人間側の資料だけを調べても埋まらない部分があるでしょうね」
「聞きに行くわけにもいかないけどな」
ユリウスが苦笑した。
「今日の感じだと、質問を書いて送れば返事をくれる相手じゃなさそうだ」
「そもそもどこに送るのよ」
ミラに返され、ユリウスが口を閉じる。
笑うほどでもないが、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
それでも、俺の頭には別のことが残っていた。
国境から遠く離れたセレスまで、北の盟主に仕える者が一人で入り込んできた。その目的は土地でも金でもなく、フィアナと地下の施設だった。
「ルミエルへ戻ったら、まず全部報告しないとな」
「ええ」
セレナが頷く。
「地下で実際に見たものと、あの男が言ったこと。それから私たちが考えたことは、分けて伝えた方がいいわ。混ぜると、後で何が事実だったのか分からなくなる」
「百八十年前の記録も調べ直す?」
フィアナが聞く。
「調べる。ただ、今度は書いてある内容だけじゃなくて、欠けている場所も見る」
セレナは荷物から小さな手帳を取り出し、思い出した場所や年代らしいものを書き始めた。
「いつ、どこで、誰の記録が途切れているのか。今まで別々だと思っていたものを並べてみる。本当に同じ時期へ寄っているなら、そこから考えればいい」
「何も出なかったら?」
「その方がいいわ。仮説が一つ消えるだけだから」
迷いのない返事だった。
分からないものを、無理に分かった形へ押し込まない。その姿勢は、今の俺たちにはありがたかった。
夜が深くなる前に見張りの順番をもう一度確認すると、俺は自分の番まで休むため、剣を手の届くところへ引き寄せた。肩にはまだ少し痛みが残っているが、歩くにも剣を抜くにも支障はなさそうだった。
百八十年前に何があったのかは、まだ分からない。
ただ、ルミエルへ戻ったら読むものは増えた。残っている記録だけではなく、どの年代で、どの場所の記録が途切れているのかも確かめる必要がある。
セレナが手帳へ書き留めていく場所を横目に見ながら、俺は身体を横たえた。




