第30話 眠りから覚めるもの
9/23 全体的に推敲し文章をアップデートしました。(内容は変更なし)
朝食を終える前に、俺たちは野営地のそばを流れる沢で身支度を済ませた。
飲み水を汲む場所より下流へ移り、男と女で時間をずらす。昨夜のうちに沸かしておいた湯を水で割り、布と石鹸で汗や泥を落として下着を替えるだけでも、何日も歩き続けた身体はかなり楽になった。
街道を外れてから、まともに身体を洗える場所は限られている。それでも水が使える時には手足や汗の溜まりやすいところを洗い、傷があれば汚れを落としておく。魔法で傷を塞げたとしても、衛生まで気にしなくてよくなるわけではない。
濡れた髪を布で拭きながら戻ってきたユリウスが、沢を振り返った。
「この時期で助かったな。冬だったら朝から沢の水なんて触りたくない」
「冬なら湯を増やすだけでしょ」
荷物を締め直していたミラが答えると、ユリウスは少し嫌そうな顔をする。
「薪を増やすの誰だと思ってるんだよ」
「火を扱える人」
「そういう便利道具として魔法を覚えたわけじゃないんだけどな」
そう言いながら、昨夜は自分から湯を沸かす火を手伝っていたので、誰もまともには取り合わなかった。
フィアナは洗った布を絞って背負い袋の外へ結びつけると、俺の左腕へ視線を向ける。
「アレン、昨日擦ったところは?」
「もう大丈夫。洗った時にも見たけど、赤くもなってない」
「ならいい。あとで痛んだら言って」
「ああ」
地下へ入るかどうかはまだ決めていないが、怪我をする可能性のある場所へ向かう以上、身体や装備を整えておいて損はない。
支度を済ませると、俺たちは修道院へ戻った。
◇
昨日見つけた石壁には、夜の間に明らかな変化が起きていた。
「……広がってる」
先頭にいたミラが足を止め、斜面へ半ば埋もれた壁を示す。
中央を縦に走っていた継ぎ目は、昨日までは一本の線にしか見えなかった。それが今は指一本分ほど開き、向こう側の暗闇が細く覗いている。
周囲の土が崩れた様子はない。石にも新しい亀裂がない以上、地盤がずれて偶然開いたとは考えにくかった。
「夜番で聞いた音、これだったのかもな」
ユリウスが、隙間を覗き込みすぎない位置から言う。
昨夜、ミラとユリウスは別々の時間に、修道院の方角から低い振動を感じていたという。地面そのものが揺れるほどではなく、離れた場所で重いものが動いたような短い感覚だったらしい。
セレナが調査器具を壁へ近づけると、昨日よりはっきりした反応が返った。
「魔力反応も少し強くなってる。急に増えたわけじゃないけど、昨日のままでもない」
「それが安全って意味じゃないよね」
フィアナが言う。
「もちろん。何をきっかけに変化してるのか分からない方が厄介ね」
俺たちは一度、壁から距離を取った。
昨日の時点なら、正体の分からない構造には触れず、そのままルミエルへ戻るという判断も十分にできた。
だが、こちらが何もしなくても封鎖部らしきものは変化している。このまま放置して戻った場合、数日後にどうなっているかは分からない。
「まず外から取れる情報を増やそう。今の段階では誰も中へ入らない」
そう告げると、全員が頷いた。
ミラには修道院周辺の足跡や魔物の痕跡を確認してもらい、ユリウスには入口付近の地盤と斜面を見るよう頼む。セレナと俺は石壁そのものを調べ、フィアナには少し離れた場所で自分の体調に変化がないか見てもらうことにした。
隙間が広がったおかげで、昨日は土に埋もれていた部分まで見える。
「アレン、これは?」
セレナが細い刻印を示した。
姿勢を落として文字を追う。
エルム地下で見たものと同じように、読める部分と読めない部分が混ざっていた。文字そのものに見覚えがあっても、専門的な単語や、この場所でどういう意味に使われているのかまで分かるわけではない。
「この一語は『区画』。その下は……たぶん『休止』に近い」
「次は?」
「状態を示してるみたいだけど、意味が取り切れない。正常じゃない、くらいには見える」
「故障してる?」
「そこまでは分からない」
首を振ると、セレナもそれ以上は意味を広げなかった。
少なくとも、ただの地下倉庫や墓所に付ける表示には見えない。
そこまで確認したところで、壁の奥から低い音が響いた。
全員の動きが止まる。
縦の隙間が、ほんの少しだけ広がった。
誰も触れていない。
「……今、動いたよね」
フィアナの声に、答える必要はなかった。
しばらくするとミラが戻ってきた。
「周りに新しい大型魔物の痕跡はない。鳥も普通にいるし、何かから逃げたような様子もないわ」
続いてユリウスも斜面から下りてくる。
「地盤も今のところ問題なさそうだ。壁が動いたせいで崩れ始めてる感じもない。ただ、地下がどこまで広がってるかは分からないから、見えてる範囲だけの話だけどな」
少なくとも、外から確認できる異常は今のところ封鎖部周辺に限られている。
セレナは開きかけた壁を見ながら考え込んだ。
「私は、一度だけ中の状態を確認した方がいいと思う」
「理由は?」
ミラが尋ねる。
「完全に止まっていたなら、触らず帰る方が安全だった。でも今は、私たちが何もしなくても変化が続いてる。正常に動いてるのか、壊れたものが中途半端に動き始めたのか、外からは判断できない」
「中へ入れば分かる保証は?」
「ないわ。ただ、入口に近い場所に状態を示すものがある可能性はある。少なくとも、奥へ進まず確認できることがあるなら見ておきたい」
そこで一度言葉を切り、セレナは俺たちを見回した。
「もちろん、何も分からなければそれで戻る。探索するつもりはない」
俺はエルム地下で現れた黒い獣を思い出した。
ここにも同じものがいる証拠はない。
それでも、施設の変化に伴って何かが外へ出るなら、俺たちが去ったあとで古道へ入る採取人まで巻き込まれる可能性はある。
かといって、分からないものを理解するまで進む理由もなかった。
「中を見るとしても、入口から最初の区画までだ」
全員の顔を見ながら続ける。
「目的は探索じゃない。今動き始めてるものが、このまま放っていい状態なのか確認するだけ。分からなければ、その時点で戻る」
「時間も決めましょう」
ミラが地図を畳む。
「四半刻。それと、入口が見えなくなる場所へは行かない」
「それでいい」
セレナもすぐに頷いた。
「読めない表示があっても、その場で解こうとして時間を延ばさない」
「黒い獣か、それに近いものが出たら?」
ユリウスの問いには迷わなかった。
「即撤退。フィアナに強い頭痛や意識の異常が出ても同じ。入口が閉まり始めた場合も中止する」
「私は真ん中?」
「前には出ない。何か感じたら、意味を考える前に言って」
「分かった」
条件を決めても、入口はまだ人が通れるほどには開いていなかった。
しばらく離れたまま観察したが、動きは遅い。このまま待つだけなら何時間かかるか分からない。
そこで初めて、フィアナをどこまで近づけるかを話し合った。
エルムで施設側が彼女に反応した以上、ここでも接近が何かのきっかけになる可能性はある。それを確かめるためだけに危険へ晒すつもりはないが、すでに目の前の構造は自力で動き始めている。
「近づくとしても俺の後ろ。少しでも何か感じたら、その位置で止まる」
「うん。それなら大丈夫」
フィアナ自身の意思も確認し、俺たちはゆっくり石壁へ近づいた。
最初の数歩では何も起きない。
さらに距離を詰めたところで、背後からフィアナが声を上げた。
「待って」
俺はすぐ足を止める。
「どうした?」
「少しだけ……分かる」
「痛い?」
「違う。頭は痛くない。ただ、奥に何かある感じがする」
「エルムと同じ?」
フィアナは少し考えた。
「似てるけど、ずっと弱い。向こうから触られてる感じじゃなくて、ここに何かあるって分かるくらい」
そこで前へ進むのをやめた。
「この位置から動かないで」
「うん」
しばらく待つ。
やがて石壁の継ぎ目に沿って、淡い白色の光が走った。
炎でも魔法陣でもない。太さの揃った一本の線が上から下へ移動し、ちょうどフィアナの前に来たところで一度止まる。
壁の奥から、短い音がした。
「下がる?」
尋ねると、フィアナは自分の状態を確かめてから首を振った。
「まだ変わってない。大丈夫」
さらに数秒待つ。
石壁が動き始めた。
中央から左右へ割れるのではなく、一枚の壁がいったん奥へ沈み、そのまま横へ滑っていく。石だと思っていた表面の下には黒に近い滑らかな素材が隠れており、人一人が通れるだけの幅が開いたところで動きは止まった。
奥には短い通路が続いている。
最初は暗かったが、壁の一部に淡い光が灯ると、その次、そのまた次へと一定の間隔で明かりが広がっていった。
「エルムで見たものに近いわね」
セレナが低く言う。
「ああ。ただ、こっちの方が壊れてないようには見える」
「分かるの?」
「見た目だけ。壁も光も途切れてないから、そう見えるってだけだ」
壁や床の造りは、前世の記憶にある人工物を嫌でも連想させる。
だからこそ俺には、ここが単なる魔法で作られた地下室ではなく、何かの設備として見えてしまう。
けれど、見覚えがあることと仕組みを理解できることは別だった。
入口脇の表示も変わっている。
「何て書いてある?」
ユリウスに聞かれ、意味を取れるものだけ拾った。
「『確認』と……『権限』。その下は『承認』に見える」
セレナがフィアナを見る。
「フィアナを確認した、ってこと?」
「そう読めなくはない。でも、まだ決めない方がいい」
その直後、通路の奥からいくつもの低い音が続けて響いた。
入口だけではなく、さらに内部の何かまで順番に動き始めているらしい。
全員で顔を見合わせる。
「条件通り、最初の区画だけ見る」
そう決めて、俺が先頭に立った。
その後ろにセレナ、中央にフィアナを置き、ユリウス、最後尾にミラ。ミラから入口が常に見えるよう、隊列を詰めすぎずに進む。
石壁を越えた瞬間、足裏の感触が変わった。
床は石でも木でもなく、金属とも違う硬く滑らかな素材で、長く閉ざされていた場所とは思えないほど埃が少ない。壁にも目立った継ぎ目はなく、淡い光は何かの灯具からではなく、壁の一部そのものから出ているように見えた。
「空気が淀んでない」
最後尾のミラが言う。
「完全に閉じてたなら、何かが空気を動かしてるのかもしれないわね」
セレナも断定せずに周囲を見る。
通路は十数歩で終わり、小さな部屋へつながっていた。
振り返れば入口が見える。決めた範囲を越えてはいない。
部屋の左右には、腰ほどの高さの細長い台が四つ並び、その周囲に透明な細管や箱状の設備が壁と一体になっている。
形そのものに見覚えがあるわけではない。
それでも前世で見た病院の設備配置を、ぼんやりと思い出した。人を横たえ、その身体の状態を確かめたり、何らかの処置をしたりする場所に似ている。
もちろん、そう見えるというだけで用途までは分からない。
「何か分かる?」
セレナに尋ねられ、俺は台と周囲の設備を見比べた。
「用途までは分からない。ただ、物を置く台というより、人を寝かせるための形に見える。周りも、そのために使う物みたいには見える」
「治療する場所?」
フィアナが台を見る。
「そこまでは言えない。身体の状態を見るだけかもしれないし、まったく違う用途かもしれない」
セレナもそれ以上は決めつけず、何にも触れないまま周囲を確認する。
フィアナは中央から動かず、自分の感覚を確かめていた。
「どう?」
「外より近い。でも、エルムの時みたいに頭へ何かが流れ込んでくる感じはないよ」
「今は何を感じる?」
「……私がここにいることを、向こうも分かってる気がする」
「気分は悪くない?」
「大丈夫」
その時、奥の壁の一部が淡く明るくなった。
四角い面に細かな文字と図形が浮かび、誰も触れていないのに表示が次々と切り替わる。
俺は読める距離まで近づいた。
「『状態』……その次が『維持』。数字の意味は分からない。下は『待機』だと思う」
「危険を示すものは?」
「今読める範囲にはない」
表示の一部が消え、代わりに縦長の枠が二つ現れた。
一つ目の枠が白く光ったのとほぼ同時に、フィアナが小さく息を呑む。
「何か来た?」
「痛くない。ただ、今はっきり見られた感じがした」
白くなった枠の横に文字が現れた。
「……『確認済み』」
読み上げると、全員の視線がフィアナへ向いた。
「私?」
「可能性は高い。でも、それ以上はまだ分からない」
もう一つの枠は暗いままだった。
その横では短い文字列が点滅している。
「こっちは『追加確認』……いや、『追加照合』かもしれない」
「もう一人必要って意味?」
セレナが聞く。
「そこまでは読めない」
ここまででも、十分すぎるほどの情報だった。
この場所は今も機能しており、フィアナの存在へ何らかの反応を返している。
「ここまでにして戻ろう」
そう言いかけた時、暗かった二つ目の枠に細い光が走った。
誰も動いていない。
俺自身も表示から距離を保ったままだった。
フィアナがこちらを見る。
「アレン?」
二つ目の枠へ新しい文字が現れる。
意味を取れたのは一語だけだった。
「……『適合』」
「誰が?」
ミラの問いに、すぐには答えられなかった。
一つ目はフィアナが近づいた時に反応した。二つ目が変わったのは、俺が表示を読み始めてからだ。
エルムでも、フィアナ一人の時とは違う反応が起きている。
「俺かもしれない。でも、確かめ方が分からない以上、これ以上試すつもりはない」
「賛成」
セレナもすぐ頷いた。
ところが、施設の方はそこで止まらなかった。
部屋の奥へ細い光が走り、壁だった場所に扉らしい輪郭が浮かび上がる。その内側で何かが動き、ゆっくりと隙間が生まれた。
「奥も開いた」
ユリウスが杖を構える。
「行かない。そこから先は決めた範囲を超える」
俺たちは入口側へ寄り、開いた先から何か出てこないかだけを警戒した。
向こうにはさらに通路が続いていたが、動く影はない。奥へ向かって照明だけが順に灯り、まだ使える区画が先にも続いていることだけは分かった。
セレナは明らかに気になっている様子だったが、一歩も前へ出なかった。
「今日は戻りましょう。ここまでで十分すぎるわ」
その判断に異論はない。
戻る前に表示だけ記録することにし、セレナが図形を写し取る間、俺は読めた文字を伝えていった。
その途中で、表示がもう一度切り替わる。
「待って」
今までの状態表示とは違う。
二つの枠が並び、その片方に古い記録らしい文字列が浮かんでいた。
目を凝らす。
「セレナ、これ……」
「何?」
「エレノア」
フィアナが振り返った。
「え?」
「たぶん名前だ。綴りが同じ」
隣にも、もう一つの識別欄らしきものがある。
そちらは文字の一部が欠けていて意味を取れず、名前なのか番号なのかさえ判断できなかった。
ただ、二つ並んでいる。
エレノアと、もう一つ。
「写せる?」
「もうやってる」
セレナの手は止まらなかった。
表示は数秒で消え、再び現在の状態へ戻る。
俺たちはそこで調査を切り上げた。
四半刻にはまだ達していないが、時間いっぱいまで残ることが目的ではない。必要な情報を得たなら、早く戻れる方がいい。
ミラが先に外を確認し、一人ずつ石壁を越える。
最後に俺が出ても入口は閉じず、黒い通路の奥では淡い光が静かに灯り続けていた。
「これ、どうする?」
ユリウスが尋ねる。
「入口が目立たない程度に隠して、ルミエルへ戻って報告する。俺たちだけではこれ以上見ない」
「勝手に閉じる可能性もあるわね」
セレナが言う。
「閉じたなら無理に開け直さない。それも含めて報告しよう」
フィアナは入口をしばらく見ていたが、やがて俺の隣まで戻ってきた。
「アレン」
「ん?」
「私だけじゃなかったのかもしれないね」
何を指しているのかはすぐ分かった。
「まだ俺に反応したって決まったわけじゃない」
「うん。でも、エルムでも似たことがあったから」
「そうだな」
フィアナはそれ以上言わなかった。
文字を読めるから、この件に関わることになった。
今まではそう考えていた。
もし施設の側から俺を何らかの対象として見ているのだとすれば、それだけでは説明できなくなる。
だからといって、その答えを求めて今から奥へ戻る理由にはならなかった。
◇
地下入口を枝や蔦で目立たない程度に隠し直し、俺たちは修道院の中庭へ戻った。
空はまだ明るかったが、森の影は少しずつ長くなり始めている。
セレナが事務室へ置いていた帳簿や写しを整理する間、俺とミラは周囲を確認し、ユリウスは野営地へ戻る前に水を補充する。フィアナも医療道具を開き、使った物と残量を確かめていた。
地下であれだけのことが起きても、帰るための準備まで消えるわけではない。
だから、先を歩いていたミラが突然足を止めた時には、その動きの違いがすぐに分かった。
彼女は西側の崩れた回廊へ顔を向け、弓へ手を伸ばしている。
「誰かいる」
声が落ちた瞬間、全員の意識が切り替わった。
俺はフィアナの前へ移り、ユリウスが杖を構える。セレナも資料袋を閉じながら腰の細剣へ手を掛け、ミラは矢を番えたまま、まだ弦を引き切らずに回廊の向こうを見ていた。
「何人?」
「一人。少なくとも、さっきまではいなかった」
その答えの方が嫌だった。
周囲を警戒していたミラに気づかれず、ここまで近づいている。
古い石柱の間に、ゆっくりと人影が現れた。
背丈は俺より少し高い程度で、体格だけなら特別大きくはない。暗色の旅装に近い服をまとい、腰には細身の剣を下げているため、遠目には人間の男にも見えた。
ただ、髪際から後方へ沿うように伸びた二本の小さな角が、その印象を崩している。
男は五人分の視線を受けても急ぐ様子を見せず、崩れた回廊の端で足を止めた。
俺たちを一通り見たあと、その視線がフィアナに留まる。
「下がって」
声を落とすと、フィアナは素直に半歩下がった。
男はその動きを見て、わずかに目を細める。
「やはり、間に合わなかったか」
人間の言葉だった。
わずかな訛りはあるが、意味ははっきり分かる。
「誰だ」
問いかけても、男はすぐには答えなかった。
一度だけ、修道院地下のある方向へ視線を向ける。
ここから入口は見えない。
それでも、位置を確かめるような目だった。
「そこを開いたな」
問いではなかった。
ユリウスの杖先へ魔力が集まり、ミラの弓がわずかに持ち上がる。
「質問に答えろ」
俺が言うと、男はようやくこちらを見た。
「名乗ったところで、今のお前たちには意味がない。私は北の盟主に仕える者だ」
その呼び方に、セレナがわずかに息を止める。
「……魔王」
「人間はそう呼ぶらしいな」
男は不快そうでも、誇らしげでもなかった。単に呼び方の違いを確かめるように答えると、再びフィアナへ視線を向ける。
「聖女。そこから離れろ」
フィアナが俺の後ろから問い返した。
「どうして?」
「それは、お前たちが触れていいものではない」
「理由も言わずに?」
「理由を知れば止まるのか?」
声は静かだった。
敵意を剥き出しにしているわけではないからこそ、俺は剣から手を離さなかった。
少なくとも、その場でフィアナを殺そうとしているようには見えない。だが、こちらの事情も本人の意思も無視して命じている以上、味方だと考える理由もなかった。
「何が目的だ」
俺が聞く。
「彼女を、その施設から切り離す」
「どうやって?」
「必要なら連れていく」
空気が変わった。
ミラが弦を引き、ユリウスもいつでも魔法を放てるよう足を開く。セレナはフィアナの側面へ移り、後退する道を確保した。
俺は一歩前へ出る。
「本人が行かないと言ったら?」
「それでもだ」
男の視線が、そこで初めて俺に留まった。
最初は、ただフィアナの前に立つ護衛を見ているだけだと思った。
だが、暗い赤色の目が細まり、そのまま動かない。
「……何だ」
問い返すと、男はすぐには答えず、ほんの一瞬だけ地下の方角へ視線を向けた。
それから、何かを確かめるように俺へ戻す。
「ここへ来る途中で、古い施設が目覚めるのを感じた」
低い声だった。
「最初の応答は一つだった。聖女が触れたのだと思った」
フィアナへ一度だけ視線を送り、今度は俺を見る。
「そのあと、もう一度あった」
地下で見た二つの枠が頭に浮かんだ。
フィアナらしき反応のあと、もう一つに『適合』という文字が出ている。
この男は、表示を見たわけではない。
それでも施設が二度、別の何かへ応じたこと自体は分かっているらしい。
「それが俺だと、どうして分かる」
「まだ決めてはいない」
返事は意外だった。
男は腰の剣に手を掛けたまま、俺とフィアナを見比べる。
「だから確認している」
「何を?」
「お前が、あれに何をされたのか」
「何もされてない」
男の眉がわずかに寄った。
「なら、なぜお前に反応が残っている」
何を指しているのか、俺には分からない。
魔力なのか、それとは別のものなのか。セレナも判断できないらしく、口を挟まず男の様子を見ている。
「二度目の応答のあと、ここから出てきたのはお前たち五人だ」
男の視線が再び俺に止まる。
「聖女とは別の反応が、お前に残っている。それなら候補は多くない」
そこで初めて、それまでほとんど崩れなかった男の表情に変化が浮かんだ。
驚きというより、認めたくないものを確かめてしまったような険しさだった。
「……二人、揃っているとは」
「何を知ってる」
問い詰めても、男は答えない。
代わりにフィアナへ視線を戻し、それからもう一度俺を見る。
「なら、なおさら放置できない」
腰の剣が、鞘の中でわずかに鳴った。
俺も剣の柄を握り直す。
男が何を知っているのかは分からない。
ただ、地下で起きたことを俺たち以外にも察知できる者がいて、その一人が今、フィアナを連れていくと言って目の前に立っている。
それだけ分かれば、剣から手を離す理由はなかった。




