第29話 名のない同行者
9/23 全体的に推敲し文章をアップデートしました。(内容は変更なし)
翌朝、俺たちは夜明けとともに野営地を片づけ、簡単な朝食を済ませると、日が十分に上がるのを待って修道院へ戻った。
昨日見つけた帳簿から、エレノアがここで長く暮らしながら、修道院が建つ以前の地誌や古い巡礼記録を繰り返し調べていたことまでは分かっている。
今日はその先を追う。
ただし、七十年以上放置された建物を端から順に調べるつもりはなかった。崩れかけた居室や物置まで一つずつ見て回れば、それだけで何日もかかる。俺たちが知りたいのは修道院そのものの歴史ではなく、エレノアがここで何をしていたのかだった。
「昨日の帳簿に、部屋番号みたいなのがあったよね」
事務室へ入ると、フィアナが机の上に残していた冊子へ視線を向けた。
「ええ。エレノアの名前の横に『東二十二』ってある」
セレナは革手袋をはめながら答え、夜の間に棚や天井が崩れていないことを俺とミラが確認するのを待ってから、昨日の帳簿を開いた。
「こっちは長期滞在者の記録。別の冊子には寝具の交換記録が残っていて、そっちも東二十二になってる。居室番号と見ていいでしょうね」
「そこまで細かく残すんだな」
「人が暮らしてる場所なら必要でしょう。誰がどこを使ってるか分からなかったら、寝具の交換も物資の配分もできないもの」
神殿に残された整った記録より、こういう日常の帳簿の方が、当時の暮らしを具体的に残している。
歴史上の聖女ではなく、一人の滞在者として部屋を割り当てられ、寝具を交換されていた。その程度の事実でも、昨日までよりエレノアという人間が近く感じられた。
東棟へ移ると、廊下の石壁には、注意して見なければ見落としそうな小さな数字が残っていた。
扉が失われた部屋も多いが、入口脇の石枠に番号が彫られ、奥へ進むにつれて順に増えていく。
「十九、二十……二十一」
先を歩いていたミラが次の入口で足を止め、石枠の下部を確かめた。
「ここ。二十二」
扉はまだ残っていた。
木は黒ずみ、下端も腐っているが、屋根が崩れていないせいか、周囲の部屋より形を保っている。ミラが敷居から床、入口の上部まで確認してからこちらを見る。
「奥の壁際だけ床が沈んでる。そこへ寄らなければ大丈夫そう」
「分かった」
俺が扉を押すと、錆びた蝶番が低く軋んだ。
中は、聖女が長く暮らした部屋だと言われなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうなほど質素だった。
壁際に寝台の木枠が一つ、その反対側には小さな机と棚。窓も一つしかない。
もちろん、全部が百八十年前のまま残っているわけではない。エレノアがここを離れたあとも修道院は長く使われていたのだから、家具の多くは後世に替えられているはずだ。
それでも、フィアナは入口でしばらく室内を見ていた。
「ここにいたんだね」
「少なくとも、この部屋で暮らしてた時期はあったみたいだ」
昨日、帳簿の中に名前を見つけた時より、今の方が実感は強かった。
百八十年前の聖女というだけなら、遠い時代の人物でしかない。けれど、寝台から机まで数歩しかない部屋を見ると、ここで眠り、食事をし、何かを書きながら暮らしていた一人の人間として想像できる。
フィアナも似たことを考えているのか、狭い室内を静かに見回していた。
一方、セレナは机や棚、窓枠を順に確かめていく。
「机はかなり後の物ね。棚も一度交換されてる。でも壁の固定穴はもっと古いから、置き方そのものは昔からあまり変わってないのかもしれない」
「本人の物は残ってなさそう?」
「今のところは。でも、探すのは紙だけじゃないわ」
セレナが机の脇へしゃがみ込み、壁との隙間を覗いた。
俺も横から見ると、奥に薄い木片のようなものが挟まっている。
セレナは小さな鉗子を取り出し、周囲を傷つけないよう慎重に引き抜いた。
「何それ?」
入口の外からユリウスが覗き込む。
「貸出札だと思う」
掌に収まるほどの木札だった。
表には昨日見た貸出記録と同じ分類記号が刻まれ、その下には薄く名前が残っている。セレナが表面の汚れを払うと、俺にも文字の一部が読めた。
「エレノア……だよな」
「ええ。後ろは欠けてるけど、名前は間違いない」
フィアナが少し身を乗り出した。
「じゃあ、この部屋にあったのも偶然じゃないんだ」
「その可能性はかなり低いでしょうね」
セレナが札を裏返す。
そこには正式な刻印とは別に、細い刃物か硬い筆記具で後から付けたらしい文字が残っていた。
かなり薄れていて、最初の部分は読めない。
ただ、途中から見覚えのある形が続いている。
「……『読めず』」
俺が口にすると、セレナが顔を上げた。
「そこ読める?」
「全部じゃない。次は……」
角度を変え、光を当てる。
短い文字列だった。
「『彼に確認』……だと思う」
少しの間、誰も口を開かなかった。
最初に聞いたのはフィアナだった。
「彼って誰?」
「それは分からない」
セレナは木札をもう一度確認した。
「ただ、これはエレノアの貸出札で、この部屋から出てきた。書き込み自体もエレノアが使っていた時期のものだと考えるのが自然でしょうね」
「じゃあ、エレノアにも読めなかったものがあった?」
「そう読める。ただし、『彼』が何者なのかまでは分からないし、何を読めなかったのかも札だけじゃ決められない」
名前も姿も分からない誰かが、突然一つだけ記録の中へ現れた。
彼に確認。
その短い言葉だけが妙に引っかかった。
「他の帳簿に出てないかな」
フィアナが言う。
「名前が分かれば早いけど、今は『彼』しかないからね。エレノアと同じ時期にいた人から探すしかない」
セレナは木札を布で包み、見つけた場所を記録した。
「この部屋は一旦ここまで。事務室へ戻りましょう」
◇
事務室へ戻ると、調べる対象が少し変わった。
今度はエレノアだけでなく、同じ時期にここで暮らしていた人物を追っていく。
セレナが長期滞在者の帳簿を年代順に並べ、俺とフィアナは名前や注記を拾った。ユリウスは部屋番号と滞在期間を追い、ミラは複数の冊子で同じ人物が重複していないかを見ている。
最初のうちは、それらしい名前は出なかった。
修道士、巡礼者、療養中らしい者、別の神殿から来た聖職者。エレノアと同じ時期に滞在していても、それだけでは「彼」と結びつかない。
「そもそも外から来た人じゃなかった可能性は?」
ミラが帳簿から顔を上げる。
「修道院側の人間?」
「うん。修道士なら長期滞在者には載らないでしょう」
「それもあるわね」
セレナが別の冊子へ手を伸ばしたところで、ユリウスが指を止めた。
「これ、何だ?」
俺たちも覗き込む。
エレノア・セルディアの名前のすぐ下に、他とは違う書き方があった。
人名ではない。
ただ、『同行一名』と記され、その横に東二十三とある。
「隣の部屋だ」
俺が言うと、フィアナもすぐ二十二の記載へ目を戻した。
「本当に隣なんだ」
セレナは前後の頁を確認する。
一度だけではなかった。
エレノアの名が長期滞在者として記される期間、そのすぐ下にはかなりの頻度で『同行一名』と東二十三の表記が続いている。
「名前を書かないことってあるの?」
フィアナが尋ねる。
「少なくとも、この帳簿では珍しいわね。今見えてる範囲だと、他の長期滞在者は全員名前がある」
「身分が高かったとか?」
ユリウスが聞く。
「逆に名前を出せない立場だった可能性もあるし、単に別の台帳で管理していた可能性もある。今の段階では理由までは分からない」
セレナは断定を避けたが、二十三という番号は残った。
さらに頁を追うと、同行者の記載はエレノアより先に途切れている。
そのあともしばらくエレノアの名は残るが、やがてそちらも記録の間隔が空き、以前ほど頻繁には現れなくなっていった。
「同行者が先にいなくなったようには見えるな」
俺が言うと、セレナは日付を照らし合わせた。
「帳簿だけならね。別の部屋へ移った可能性も、記録方法が変わった可能性もあるから、そこまでは決めない方がいい」
「でも、二十三に誰かいたこと自体はかなり確か?」
「ええ。それも、エレノアと無関係な滞在者とは考えにくいと思う」
隣室を使い、長期間ほぼ同じ時期に滞在し、名簿には本人の名ではなく『同行一名』とだけ残されている。
貸出札の「彼」と同じ人物なのかは分からない。
それでも、確認する価値は十分にあった。
「二十三を見よう」
俺が言うと、セレナも頷いた。
「そうしましょう」
◇
東棟へ戻り、二十二番室の隣へ進む。
二十三番は扉が外れ、入口上部の石も一部崩れていた。
ミラが先に床と壁を確認し、ユリウスも天井の梁へ目を向ける。
「入口から中央までは大丈夫そう。奥の左は床が浮いてるから踏まないで」
「全員で入る必要はないな」
「セレナとアレンで先に見て。何かあったらすぐ出て」
ミラの言葉に頷き、俺とセレナだけが室内へ入った。
二十二番より状態は悪かった。
寝台は潰れ、棚も横倒しになっている。机らしい家具は残っておらず、ぱっと見た限りでは手掛かりになる物も見当たらない。
セレナは落ちている物をすぐ触らず、まず室内全体を見回した。
「……少し変ね」
「何が?」
「隣の部屋より浅くない?」
言われて、二十二番室の形を思い出す。
廊下側から見た間口はほぼ同じだった。入口の位置も、外から見た窓の間隔も揃っている。
それなのに、この部屋だけ奥の壁が近い。
「半歩……いや、それより少しあるか」
「そうね」
セレナは壁へ近づかず、まず左右の壁と天井を見比べた。
「単に後から壁を足した可能性もある。でも、そうなら石材か継ぎ方に差が出るはず」
俺も奥へ視線を向けた。
最初は同じ灰色の壁にしか見えなかったが、近づくと床際の数段だけ質感が違っている。
上の石は表面に細かな凹凸があり、長年の汚れも染み込んでいた。
一方、下側の石は色こそ似ているものの、妙に滑らかだった。
「ここだけ石が違うな」
「ええ。少なくとも同じ加工じゃない」
床の状態を確かめながら、少しずつ奥へ寄る。
滑らかな石材は壁の下部に帯のように続き、その一部は朽ちた棚の陰へ隠れていた。
俺とセレナで棚を動かさず覗ける範囲を確認すると、汚れの下に細い線が走っているのが見えた。
「これ、ひびじゃないな」
「直線すぎる」
セレナが小さな刷毛を取り出し、表面の土だけをそっと払う。
細い線は一本ではなかった。
一定の間隔を空けて何本か並び、途中で直角に折れている。装飾にしては目立たず、石工が位置を取るための印にしては妙に整いすぎていた。
俺はしゃがんで目を凝らした。
エルム地下で見たものと同じではない。
けれど、人の手で適当に刻んだ線にも見えなかった。
「見覚えある?」
セレナが聞く。
「同じものはない。ただ……普通の壁に付ける線には見えない」
「私もそう思う」
セレナは腰の道具袋から、小さな板状の器具を取り出した。
近郊の遺構でも使っていた、微弱な魔力反応を見るための道具だ。
「反応するか見るだけ。触らないで」
「分かった」
壁から少し離した状態では何も起こらなかったが、ゆっくり距離を詰めていくと、器具の縁に刻まれた細い印がわずかに揺れた。
セレナが位置を変える。
上の石では消える。
滑らかな石材へ戻すと、また弱く反応した。
「魔力が残ってる?」
「そう見える。でも、本当に微弱よ。動いてる設備があるとか、そこまでは分からない」
「少なくとも、修道院の普通の壁とは違う?」
「それは言っていいと思う」
俺も石へ手を近づけ、直接触れる前に一度セレナを見る。
「触っても?」
「表面だけなら。変化があったらすぐ離して」
指先を当てる。
冷たい。
ただ、隣の石にも触れて比べると、わずかに違った。
「こっちの方が少し温かい」
「どのくらい?」
「比べないと分からない程度。でも差はある」
セレナも素手では触らず、器具で位置を確認しながら頷いた。
「温度差も同じ範囲に出てるわね」
それだけで何かを決めることはできない。
それでも、二十三番室の奥壁だけ、他とは違う石材が使われ、その表面には規則的な線があり、微弱な魔力反応と温度差まである。
「外側を見た方がいいな」
「そうね。建物の外形と合うか確認しましょう」
俺たちはそれ以上壁を触らず、部屋を出た。
フィアナがすぐにこちらを見る。
「何かあった?」
「普通の壁じゃないかもしれない。まだ、それ以上は分からない」
「頭は?」
逆に聞くと、フィアナは首を振った。
「何ともないよ。さっきからずっと普通」
「なら、そのままでいて」
「うん」
エルムの地下で経験したことを考えれば、フィアナに反応がないのは重要だった。
同時に、それだけで安全だとも言えない。
◇
修道院の外へ回ると、今度は建物の形そのものを確認した。
二十二番と二十三番の位置を廊下側から数え、外壁沿いに同じ辺りまで移動する。
蔦と低木が多く、最初は壁の根元すらよく見えなかった。
ここではミラが先に動いた。
「少し待って」
枝を必要な分だけ避け、地面へしゃがみ込む。
「この辺、他と基礎の向きが違う」
言われて近づくと、土の中から古い石組みが斜めに覗いていた。
修道院の外壁はほぼ一直線に続いているのに、その下から出ている石だけは別の方向へ伸びている。
「崩れた石じゃない?」
ユリウスが尋ねる。
「これだけ同じ向きに並んでるなら違うと思う」
ミラは土を手で掘り返さず、露出している範囲だけを追った。
「向こうへ続いてる」
石組みは外壁の下から少し離れ、低木の奥へ緩やかに下がっていた。
俺たちも足元を確認しながら回り込む。
斜面には土と落ち葉が厚く積もっていたが、その間からときどき滑らかな石の面が見えた。
「二十三の奥にあったのと似てる」
俺が言うと、セレナもしゃがみ込む。
「似てるというより、同じ加工に見えるわね」
色も表面の滑らかさも近い。
修道院を作った石工が同じ材料を使っただけかもしれないが、外壁の他の場所では見ていない石材だった。
さらに数歩進むと、低木の奥で地面がわずかに窪んでいた。
ミラが枝を押さえ、セレナが蔦を傷めない範囲で横へ避ける。
その奥から、土に半分埋もれた平らな石面が現れた。
「壁……だよな」
ユリウスが言う。
「たぶん」
自然の岩肌には見えない。
表面は二十三番室の奥と同じように滑らかで、そこにも細い線が何本か走っていた。
中央付近には、縦に伸びる細い継ぎ目のようなものまである。
俺は近づきすぎない位置で立ち止まった。
「入口?」
フィアナが聞く。
「かもしれない。でも、まだ分からない」
セレナがすぐ答えた。
「扉だったものかもしれないし、単なる接合部かもしれない。少なくとも、修道院の普通の壁とは作りが違う」
「開けられる?」
ユリウスが尋ねる。
セレナは石面を見たまま首を振った。
「今日は試さない」
俺も同じ意見だった。
「周囲を見つけたところまでにしよう。触ってどうなるかも分からないし、フィアナを近づけて反応を見るのもなし」
「賛成」
ミラがすぐに頷いた。
「今なら何も起きてない。だったら、退路と周囲をちゃんと見てから次を考えた方がいい」
フィアナも異論はないらしい。
「私もそれでいいよ。今は何も感じてないし、わざわざ近づいて確かめなくてもいいと思う」
セレナは石壁から距離を取り、位置と周囲の形だけを紙へ記録した。
「明日、まず外側をもう少し見る。それから二十三の壁とこの場所の位置関係を確認して、触るなら撤退条件と時間を決めてからにしましょう」
「中に入るとしても?」
「入口だと確認できたとしても、入るかどうかはそのあと」
そこまで決めて、俺たちは石壁から離れた。
朝に修道院へ戻った時には、エレノアが何を調べていたのか、少しでも手掛かりを増やせれば十分だと思っていた。
実際に見つかったのは、本人が使っていた二十二番室と、「読めず」「彼に確認」と刻まれた貸出札。
その隣には、名前の残されていない同行者が長く使っていた二十三番室があり、記録はエレノアより先に途切れている。
さらに、その部屋の奥には修道院の他の場所と違う石材が隠れ、外側にも同じ作りの構造が埋もれていた。
まだ、それらが一つの理由でつながっているとは言えない。
だからこそ、今日はここで止める。
明日になれば、同じものが同じ場所に残っている保証さえない。
それでも、分からないまま開けるよりはよかった。




