第28話 残された名前
古道へ入って二日目の朝は、前夜より少し冷え込んだ。
沢に近い林へ張った雨除けには薄く露が付き、火を起こしている間にも枝先から水滴が落ちてくる。朝食を済ませる頃には木々の隙間から日が差し始めていたものの、地面の湿り気まで抜けるにはまだ時間がかかりそうだった。
ミラは荷物をまとめながら地図を広げ、昨日歩いた距離と周囲の地形を照らし合わせている。
「午前中には、採取人が使ってる道から外れると思う。その先も古道自体は残ってるはずだけど、昨日みたいには歩けないかもしれない」
「修道院まで今日中に着きそう?」
フィアナが尋ねると、ミラは地図の先を指で追ってから顔を上げた。
「道が残ってればね。崩れてたり、迂回が必要なら明日に回す。建物が見えたからって、暗くなるまで無理に歩くのはなし」
「分かった」
誰からも異論は出なかった。
セレス修道院は七十年以上使われていない。近くまで入った採取人の話は残っていても、建物の状態まで詳しく分かっているわけではない以上、日暮れ間際に到着して、そのまま中へ入る理由はなかった。
出発してしばらくは、昨日とさほど変わらない道が続いた。
路面には古い轍が残り、ところどころ草に覆われてはいるものの、道筋を見失うほどではない。両側には低い石積みや浅い排水溝も残っていて、かつてはそれなりの人と荷物が行き来していたことが分かる。
ただ、昼前になると、人の痕跡は目に見えて減った。
先を歩いていたミラが立ち止まり、地面を確認してから脇へ分かれる細い道を示す。
「最近の靴跡は全部あっちへ行ってる。採取人が普段使ってるのは、たぶんここまでね」
分岐の先には、獣道より少し広い程度の踏み跡が森へ延びていた。
俺たちが進む古道にも昔の通行跡は残っているが、雨で崩れた土の上に新しい足跡は見当たらない。
「少なくとも、この雨のあとに通った人はいないってことか」
「たぶんね。道が悪いから避けてるのか、単に用がないのかまでは分からないけど」
ミラはそう答えると、古道の先へ視線を移した。
道そのものはまだ続いている。ただ、中央にまで草が伸び、倒れた枝や落ち葉が積もった場所も増えていた。人が使わなくなった時間だけ、森が少しずつ道を取り返しているように見える。
「ここからは速度を落とそう。ミラも離れすぎないで」
「分かった」
ミラが先へ入り、俺たちも続いた。
そこから先は、歩くこと自体に少し手間がかかった。
草に隠れた窪みを避け、濡れた石を踏まないよう足元を選ぶ。倒れた枝はその都度脇へ寄せ、ぬかるみが深い場所ではミラが固い地面を探して進路を少しずらした。
危険というほどではないが、同じ距離を進むにも昨日までより時間がかかる。
ユリウスが杖で足元の枝をどけながら、道の先を見た。
「昔はこれ、普通に人が歩いてたんだよな」
「巡礼路の一部だったなら、もっと整ってたでしょうね」
セレナが道端の石積みへ目を向ける。
「排水も作ってあるし、ところどころ路面に石を入れてる。今は土と草に埋もれてるけど、人だけじゃなく荷車も入ってた時期があったと思う」
「修道院へ物を運ぶなら必要か」
「食料も薪も、何十人分となれば全部を現地で賄うのは難しいでしょうしね」
セレナは歩く速度を変えないまま周囲を見ていた。
今のところ、ここに何か異常なものがある様子はない。
残っているのは古い石と朽ちた木、それに使われなくなった道だけだった。
午後になって古道が緩やかな上りへ変わると、木々の間から見える空が少しずつ広がった。斜面の下には細い谷が伸び、その向こうにもう一つ尾根が見える。
「地図だと、修道院はこの尾根の向こう側」
ミラが言った。
「まだ結構ある?」
「距離だけなら、そんなにないと思う。ただ、この先の道次第ね」
幸い、大きな崩落はなかった。
一か所だけ路肩が落ち、古い石垣ごと谷側へ崩れていたものの、徒歩なら山側を回れる。ミラが足場を確認し、必要な部分だけ俺が土魔法で固めてから、一人ずつ通り抜けた。
さらに半刻ほど進んだところで、先行していたミラが不意に足を止めた。
片手が上がる。
俺たちもその場で止まったが、危険を知らせる合図ではないらしい。ミラはそのまま数歩先へ出ると、木々の隙間へ目を凝らした。
「見えた」
声を抑えて言われ、俺たちも少しずつ前へ出る。
最初に見えたのは、森の中に残る灰色の壁だった。
岩肌にも見えたが、視線を上げると、その奥に崩れた屋根と細長い塔の残骸が続いている。さらに近づけば中央に大きな棟があり、その左右へ低い建物が伸びているのも分かった。
長い年月を経て壁には蔦が這い、屋根の一部は崩れていたが、想像していたよりずっと多くの形を残している。
セレス修道院だった。
「思ったより大きいな」
ユリウスが低く呟いた。
「長く使われた施設だからね。もっと小さな礼拝所みたいなのを想像してた?」
「そこまでじゃないけど、これは結構広いだろ」
俺も似たようなものを想像していた。
神殿の記録から修道院だと分かってはいたが、森の奥に残る廃墟という言葉から、もう少し小さな建物を思い浮かべていたらしい。
実際には複数の棟があり、その中央に中庭らしい空間まである。
ただ、建物が見えたからといって、そのまま近づくわけにはいかない。
ミラが外周を見て回る間、俺たちは少し離れた場所で待った。
森には鳥の声があり、小動物の足跡も残っている。大型の魔物が頻繁に出入りしたような跡は見当たらず、建物から異音や魔力の揺らぎが伝わってくることもなかった。
しばらくして戻ってきたミラが、修道院の方角を振り返る。
「北側の壁がかなり崩れてる。西側には墓地、南側が昔の正門だと思う。大きな獣が住み着いてる感じはないし、人が最近入った跡も見つからなかった」
「なら正面から入ろうか」
「その方が安全ね。外壁沿いは蔦で足元が見えないところが多いから」
日没まではまだ余裕がある。
俺たちは修道院から少し離れた開けた場所に背負い袋をまとめ、武器と調査に必要な道具だけを持って正門へ向かった。
扉は片側が外れ、残った一枚も大きく傾いている。
その脇を通り抜けると、中央には石敷きの中庭が広がっていた。石の隙間から草が伸び、中央の井戸は木製の蓋が朽ちて半分ほど落ち込んでいる。周囲を囲む回廊も一部が崩れていたが、南側から中央棟へ向かう部分にはまだ屋根が残っていた。
少なくとも、外から見える範囲にエルムの地下で感じたような異質さはない。
石も木も、組み方も、人が作った建物として理解できるものだった。
「フィアナ、何か感じる?」
隣にいたフィアナへ声を落として尋ねる。
彼女は一度周囲を見回し、それから少しだけ目を閉じた。
「今は何もない。頭も痛くないし、あの時みたいな感じもしないよ」
「なら、まず普通の修道院として見ていこう」
「うん」
セレナも同じ判断らしく、すぐ細部へ食いつくのではなく、建物全体の配置を確認していた。
「中央が礼拝堂。東が生活棟だと思う。西側は書庫か事務区画かしら。北にも建物があったみたいだけど、あっちはかなり崩れてるわね」
「全部今日見る?」
「安全に歩けるところだけ。細かく調べるのは明日に回す」
まずは中央の礼拝堂へ入った。
扉は失われ、中庭から内部がそのまま見える。屋根の一部が崩れて光が差し込み、長椅子はほとんど朽ちていたが、奥の祭壇と壁面の紋章はまだ形を残している。
セレナは壁へ近づき、表面へ触れずに石の積み方を見比べた。
「何度か直されてるわね。ここだけ積み方が違うし、祭壇も後から作り直されてる」
「エレノアがいた頃の形は残ってない?」
「全部が同じではないでしょうね。でも基礎はもっと古い。どこまで当時のものかは、調べればある程度分かると思う」
フィアナは祭壇の前まで進むと、薄く残った紋章を見上げた。
「ここで祈ってたのかな」
「可能性はあるな」
答えると、フィアナは小さく頷いた。
百八十年前の人間がここに立っていたかもしれないと言われても、まだ実感は薄い。
今見えているのは、長く使われ、やがて人がいなくなった古い建物でしかなかった。
それが少し変わったのは、東側の生活棟へ移ってからだった。
長い廊下に小さな部屋が並び、残された寝台や棚から、修道士たちの居室だったことが分かる。木製品の大半は朽ちていたが、石壁そのものは比較的しっかりしていて、場所によっては扉の金具まで残っていた。
厨房らしい部屋には、大きな炉と作業台が形を保っている。
フィアナが炉の前で足を止めた。
「思ったより大きいね」
「何人分も作るなら、このくらい要るんじゃないか?」
「そうなんだけど、村の共同炉より大きいかも。鍋をいくつも掛けられそう」
昔の暮らしを想像しているらしい。
セレナが炉の形を見ながら言った。
「修道院が大きかった時期には、常時かなりの人数がいた記録があるわ。巡礼者を泊めていたなら、食事を用意する人数はもっと増えたでしょうね」
「それならこれくらい必要か」
フィアナは納得したように頷き、炉の横にある浅い棚へ目をやった。
「香草とか置いてたのかな」
「また食事の話?」
「違うよ。厨房なんだから普通に気になるでしょ」
「昨日買ってたから」
「それとこれは別」
すぐ返ってきたので、それ以上は言わなかった。
厨房からさらに奥へ進むと、廊下の一角に他より少し広い部屋があった。
壁際には棚が残り、床には腐った木箱や紙の残骸が積もっている。
セレナが入口で足を止めた。
「ここ、たぶん事務室ね。書庫ほど大きくないけど、日常の記録を置いてた可能性がある」
「入れそう?」
俺が尋ねると、セレナは天井から壁、床の順に確認した。
「入口側なら。奥の棚は傾いてるから触らない方がいい」
ミラも床と壁際を見て頷く。
全員で狭い部屋へ入る必要はないので、まずセレナと俺が中へ入った。
紙の多くは湿気と時間で崩れ、触れば形を失いそうだったが、石壁側の棚には革表紙の冊子が何冊か残っていた。
セレナは一冊ずつ状態を確かめ、崩れそうなものを無理に開こうとはしない。比較的しっかりした一冊を選び、表紙を支えながら最初の頁を開いた。
「これ、閉鎖直前の記録じゃない」
「もっと古い?」
「かなり。……待って」
頁の隅に残る年号を追い、何冊かを順に確認する。
「こっちはもっと古い。これならエレノアの時期まで遡れるかもしれない」
さっきまで建物を見ていた時よりも動きは慎重になったが、手を止める気配はなかった。
内容は派手なものではない。
食料や油の受け入れ、寝具の購入、巡礼者の人数、修道士の出入り。修道院を維持するために必要だった記録が、何年分も淡々と続いている。
「この辺りが百八十年前?」
俺が尋ねると、セレナは一冊を示した。
「近い。あと少し」
さらに頁を追い、別の冊子へ移ったところで、指が止まった。
「……あった」
その声を聞いて、入口近くで待っていたフィアナが一歩だけ近づく。
「何が?」
セレナは冊子を机の上へ置き、行の一つを指した。
滞在者の名簿だった。
日付の横に、外部から長く滞在する者の名前が記されている。
その中に、エレノア・セルディアの名があった。
「本当にここにいたんだ」
フィアナの声が少し小さくなる。
「ルミエルの記録と一致したわね。でも、これだけじゃない」
セレナは数頁前へ戻した。
そこにも同じ名前がある。
さらに前にも。
記録の間隔は一定ではないが、数日だけ滞在した者の扱いではなく、かなり長い期間にわたって名前が残されていた。
「客として何日か泊まった、って感じじゃないな」
「ええ。明確に長期滞在者として扱われてる」
セレナは名簿の欄を確かめた。
「しかも、この帳簿を見る限りでは特別な扱いを受けていたようにも見えないわね」
「聖女だったのに?」
ユリウスが入口から聞く。
「当時の立場までは、これだけじゃ分からない。でも少なくとも、この記録では他の長期滞在者と同じように書かれてる」
フィアナはその名前を見たまま、小さく息を吐いた。
聖女として語り継がれた人物が、ここでは一人の滞在者として記されている。そのことに何を感じたのかまでは聞かなかった。
セレナはさらに帳簿を確認し、やがて別の冊子でまた手を止めた。
「こっちは貸出記録みたい」
「本の?」
「書庫の資料ね。誰が何を持ち出したか記録してる」
頁には資料名と利用者の名前が並んでいる。
聞いたことのない神学書や地方史の中に、エレノアの名前が何度も出てきた。
「何を読んでた?」
「古い巡礼記録、周辺の土地記録……これは修道院ができる前の地誌ね」
「ずいぶん昔のことを調べてるな」
「そうみたい」
セレナは別の頁へ進む。
そこにもエレノアの名があり、さらにその先にも残っていた。資料名の一部は水濡れで滲んでいるが、読めるものだけでも似た分野が続いている。
「同じ本?」
「違う。でも分類は近いわね」
「何の分類?」
「まだ分からない。今の神殿とは違うから、この修道院独自の整理かもしれない」
そこから先を、セレナは無理に推測しなかった。
ただ、残された記録だけでも一つは分かる。
エレノアはこの場所へ長く滞在し、その間、古い巡礼記録や周辺の土地、修道院ができる以前のことを繰り返し調べていた。
「聖女が昔の土地の記録を調べるのって、珍しいの?」
フィアナが尋ねる。
「それだけなら珍しくないわ。巡礼先の歴史を調べる聖職者もいるし、昔の神殿跡を探すことだってある」
「じゃあ、まだ何を探してたかまでは分からない?」
「そういうこと」
セレナは貸出記録から顔を上げた。
「でも、ルミエルに残ってた記録だけでは、エレノアがここで何をしていたかほとんど分からなかった。少なくとも、長く滞在して何もしていなかったわけではない。それは確認できた」
神託に似た奇妙な体験を記し、その後一つの修道院へ長く滞在した聖女が、ここで古い土地の記録を調べていた。
まだ、それぞれが一つにつながっているとは言えない。
ただ、ここまで来なければ分からなかったことではあった。
フィアナも貸出記録を見つめている。
「私が見たものについても、何か探してたのかな」
「可能性はある。でも、今の記録だけじゃそこまでは言えない」
俺が答えると、フィアナは少し考えてから頷いた。
「うん。まだ分からないね」
セレナもそこで帳簿を閉じた。
「今日はこれ以上触らない方がいいわ。明日、明るいうちに机と棚を整理して、記録の順番を崩さず見ましょう」
「まだ読めそうなの、結構あるけど?」
ユリウスが尋ねる。
「だからこそ。今から始めたら日が落ちるまでに終わらないもの」
「ちゃんと止まれるんだな」
「あなたたち、私を何だと思ってるの?」
ユリウスが何か答えようとしたところで、ミラが先に部屋の外へ向いた。
「続きは明日。暗くなる前に他も見ておきましょう」
「そうしましょう」
セレナも素直に冊子を元の位置へ戻した。
そのまま敷地西側へ回ると、外壁の内側には墓地があった。
石碑の多くは傾き、苔や土で名前が読めなくなっているものも多い。刻まれた年代もばらばらで、修道院が使われていた長い年月の中で亡くなった人々が、少しずつここへ葬られてきたらしい。
ユリウスがいくつかの墓碑を見たあと、セレナへ尋ねた。
「エレノアの墓もあるかもしれない?」
「可能性はある。でも、神殿の記録にはここで亡くなったとは書かれてない。墓が見つかれば情報になるけど、見つからなかったからといって何か決められるわけでもないわ」
「なら、ここも明日か」
「ええ。明るいうちに見る方がいい」
墓地から戻る頃には、日もかなり西へ傾いていた。
建物の中で夜を迎える理由はないので、予定通り修道院から少し離れた場所へ戻り、野営の準備を始める。
夕食の鍋が火に掛かる頃には、話題も自然と今日見つけた記録へ戻った。
「エレノアがここにいた。それも長く。それで何か調べてた」
ユリウスが薪を一本足しながら言う。
「今のところ確実なのはそこまでね」
セレナが答える。
「何を探していたのか、それがフィアナの体験と関係するのかはまだ分からない。土地の古い記録を調べる理由なんて、他にもいくらでもあるもの」
「でも明日見るところは増えたんでしょ?」
フィアナが尋ねる。
「増えたわ。事務室の残りと、本来の書庫がどこにあるか。それから長期滞在者の部屋割りが残っていれば、エレノアが使っていた場所も探せるかもしれない」
「部屋まで分かる?」
「今日見た帳簿に、それらしい欄はあった。建物側の記録と対応していれば追えると思う」
ここへ来る前は、何も残っていない可能性も十分に考えていた。
紙の大半は失われ、建物もかなり傷んでいる。それでもエレノアの名前は残り、彼女がここで長く暮らし、古い資料を調べていたことまで確かめられた。
木々の隙間からは、薄暗くなった修道院の壁が見えている。
外から眺めれば、七十年以上使われていない古い石造りの建物でしかない。
今のところ、フィアナにも異常はなく、地下で見たようなものもない。
それでも明日調べるべきものは、来た時よりはっきり増えていた。




