第27話 古道へ
9/23 全体的に推敲し文章をアップデートしました。(ユリウスの見せ場追加。他は内容変更なし)
翌朝、宿を出た頃には、街の東側に残っていた夜の薄暗さもほとんど消えていた。
朝食は宿で済ませ、水と食料も補充してある。前日のうちに聞いた街道の情報は地図へ書き込み、靴や荷物にも問題がないことを確認してから、西門を抜けた。
街道は緩やかに西へ延び、この辺りまではまだ人通りも多い。荷車を追い越し、反対方向から来る商隊と何度かすれ違う間は、ミラも大きく先行せず、俺たちより少し前で道と周囲を見ている程度だった。
昼前には街道沿いの小さな集落へ着いた。
井戸で水を補給し、祠を管理している老人にルミエル宛ての伝言を預ける。予定通り中継の街を出たことと、この先で古道へ入ることだけを書いた簡単なものだ。
「ここから先、道はどう?」
ミラが尋ねると、老人は西へ続く街道を顎で示した。
「しばらくは問題ないよ。二里ほど行けば古い道との分かれがある。そっちは最近あまり人が入らんが、薪取りや猟師はまだ使っとる」
「雨のあとに崩れたって話は?」
「大きく落ちたとは聞いとらんな。ただ、北側の林はぬかるむ。馬車なら勧めん」
「徒歩なら?」
「足を取られるくらいだろうさ」
昨日ギルドで聞いた話とも大きく違わない。ミラは礼を言って地図へ短く書き足し、俺たちは集落をあとにした。
しばらく進むと街道沿いの家は急に減り、畑も途切れて、代わりに低い林と草地が続くようになった。遠くに見えていた荷車も一台ずつ減っていき、昼を過ぎる頃には、道の前後を見渡しても俺たち以外の人影がない時間の方が長くなっている。
「静かになったな」
ユリウスが杖を肩に預けながら言った。
「ここはまだ普通の街道よ。古道に入れば、もっと減るでしょうね」
ミラは前を向いたまま返す。
「分かってるけど、急に誰もいなくなると気になるだろ」
「寂しいの?」
「そうは言ってない」
フィアナが笑い、俺も少し口元が緩んだところで、前を歩いていたミラが片手を上げた。
全員がすぐに声を落とす。
ミラは街道脇へ寄ると、ぬかるみの残った土の前にしゃがみ込んだ。俺たちも近づいたが、跡を踏み荒らさないよう少し距離を空ける。
「何かいた?」
「猪型。三頭か四頭だと思う」
泥には割れた蹄の跡が何本も残っていた。
俺にも猪らしいことまでは分かるが、それ以上は難しい。ミラは跡の深さや重なりを見てから、林の奥へ視線を向けた。
「ここを横切って、そのまま北へ入ってる。新しいけど、戻ってきた跡はないわね」
「普通の猪?」
フィアナが聞く。
「大きさだけなら普通。魔物化してるかどうかまでは、この跡だけじゃ分からない」
ユリウスが林へ目を向けた。
「追う?」
「追わない」
ミラの返事は早かった。
「こっちへ来てないものを探しに行く理由がないもの」
「だよな」
ユリウスも本気で提案したわけではなかったらしく、それだけで杖を戻した。
俺たちの目的はセレス修道院へ向かうことで、街道周辺の魔物を片端から処理することではない。進路上の危険なら対処するが、わざわざ林へ入って戦う理由はなかった。
「しばらくは間隔を少し詰めよう」
俺が言うと、ミラも頷く。
「半刻くらいは周囲をよく見ながら行きましょう。何もなければ戻せばいいわ」
結局、猪の姿を見ることはなかった。
林の奥から枝が折れる音が一度聞こえたものの、こちらへ近づく様子はなく、ミラが少し待ってから進行を再開する。
「戦わなくて済むなら、その方がいいね」
フィアナが言った。
「怪我人も出ないし、魔力も使わないからな」
「俺が魔法を使う機会は減るけど」
後ろからユリウスが口を挟み、ミラが振り返らずに返す。
「修道院まで無理に使わなくていいわよ」
「冗談だって」
高位の冒険者が揃っているからといって、戦える相手をわざわざ探す必要はない。戦わずに通れるなら、それが一番早い。
◇
午後になって街道が少しずつ北西へ向きを変え始めた頃、ミラがもう一度足を止めた。
今度は地面ではなく、緩く曲がった道の先を見ている。
「前にいる」
俺も視線を向けるが、街道の先は浅い切通しになっていて、その向こうまでは見えない。
「何が?」
「狼型。複数」
ミラは弓へ手を掛けながら道の端へ寄った。
「こっちへ来る?」
「もう気づかれてると思う。風が向こうへ流れてる」
言われてみれば、こちらから街道の先へ向かって弱い風が抜けていた。やがて低い唸り声が届き、曲がり角の向こうから灰褐色の獣が一頭、続いて二頭と姿を現す。
普通の狼より一回り大きい。
肩の辺りまで泥に汚れた個体が先頭へ出ると、その後ろからさらに三頭が続き、全部で六頭になった。
左右は低い斜面で、その表面には土より岩が多く露出している。数日前の雨が残っているのか、道も草もまだ湿っていた。
「避けられる?」
セレナが尋ねる。
ミラは斜面と狼の位置を見比べた。
「ここから斜面へ入るより、街道を抜けた方が安全ね。向こうも完全にこっちを見てる」
引き返すこともできるが、狼たちはすでに道幅いっぱいへ広がり始めている。背を向けて距離を取れば、むしろ追わせる形になりかねない。
「フィアナとセレナは少し下がって。ミラは左右へ抜けるやつを見て」
「分かった」
俺が剣を抜いて前へ出ると、ユリウスも杖を構えた。
「アレン」
「何?」
「中央へ寄せられるか?」
ユリウスは狼ではなく、その背後まで続く街道を見ていた。
「何頭くらい?」
「三頭まとまれば十分。できればもう少し」
何をするつもりか察して、俺も周囲を見る。
濡れた地面。露出した岩。頭上に張り出した枝はなく、風は俺たちから狼の方へ抜けている。
「火か」
「ああ」
ミラも聞いていたらしく、周囲を一度確かめてから頷いた。
「この場所なら大丈夫そう。道脇も濡れてるし、火が流れる先に人もいない」
「じゃあ頼む」
俺が正面へ意識を戻すと、先頭の狼が身体を低くした。
一頭が左へ回ろうとした瞬間、矢が鼻先の地面へ突き立つ。驚いた個体が進路を変え、そのまま中央へ戻った。
正面から二頭が走り出す。
最初の噛みつきを剣の腹で外へ受け流し、二頭目の踏み込みに合わせて足元の土をわずかに盛り上げる。前脚を取られた狼が姿勢を崩し、その後ろから来た一頭が避けるため内側へ寄った。
倒す必要はない。
中央から散らさず、ユリウスの前へまとめればいい。
「まだ」
背後から声が飛ぶ。
立て直した二頭がこちらへ向き直り、その後ろへさらに二頭が加わった。四頭が互いを避けながら街道の中央へ固まり、残る二頭も左右から大きく離れてはいない。
「アレン、右へ!」
声と同時に、俺は地面を蹴って射線から外れた。
杖の先に赤い光が集まる。
そこでユリウスが、妙に張りのある声を上げた。
「――灼炎奔流!」
何だそれ、と思う暇はなかった。
圧縮されていた炎が杖先から噴き出し、街道を低く走る。一本の火線ではなく、前へ進むほど扇状に膨らんだ炎が、湿った路面を赤く照らしながら狼の群れを呑み込んだ。
熱風が横を抜け、俺は反射的に顔を腕で庇う。
轟音は一瞬だった。
炎の中心にいた二頭はそのまま倒れ、前にいた一頭も身体を焼かれて地面へ転がる。後方にいた狼たちは火の勢いに怯み、そこで完全に足を止めた。
ただ一頭、炎の端を抜けた個体だけがこちらへ飛び出してくる。
ミラの矢が肩口へ突き立ち、身体が横へ流れた。
俺はそのまま一歩詰め、振り下ろした剣で仕留める。
残る二頭はそれを見た途端に身を翻し、斜面を駆け上がって林の奥へ逃げていった。
追う必要はなかった。
火が消えたあとの街道には焦げた臭いが漂い、雨を吸った土から白い蒸気が上がっている。道端の草も一部が黒くなったものの、炎がそれ以上広がった様子はない。
「……派手だな」
思わず口にすると、ユリウスが杖を下ろした。
「そこ?」
「昨日まで倒木の下の土を少しずつ崩してた人とは思えなかった」
「そっちだけが本業じゃないからな」
呼吸は少し深くなっているが、まだ余裕はあるらしい。
「それより」
ミラが弓を下ろしながらユリウスを見る。
「何よ、今の」
「何って?」
「技名」
「ああ。灼炎奔流?」
もう一度普通に言った。
ミラの目が少し細くなる。
「それ、必要?」
「いるだろ」
「何に?」
「気分とか」
「戦闘中に?」
「勢い出るだろ」
ミラはしばらくユリウスを見たあと、諦めたように息を吐いた。
「……好きにしたら」
「何だよ。結構いい名前だろ」
「私は聞かなかったことにするわ」
フィアナが堪えきれずに笑い、セレナまで口元を押さえている。
「いつから付けてたんだ?」
俺が聞くと、ユリウスは少しだけ間を置いた。
「さっき」
「今考えたのかよ」
「使う直前に、なんか名前あった方がいい気がして」
「それであれ?」
「悪くないだろ?」
もう一度ミラを見るが、今度は完全に無視された。
軽口を続けながらも、ユリウスはすぐ焦げた路面へ目を戻した。
「火だけ見てから行こう。残ってたら面倒だ」
杖の先で黒くなった草を返し、燻っている場所がないか確かめていく。俺も土をかけながら周囲を見た。
「もっと広くも使えるの?」
フィアナが尋ねる。
「できる。でも、ここでやる必要はないな。魔力も余計に食うし、森で広げすぎれば狼より厄介なことになる」
「山火事か」
「ああ。さっきは地面が濡れてたし、左右も岩が出てた。風向きも向こうだったから使えた」
ユリウスは当たり前のことのように答えた。
強い魔法が使えるからといって、いつでも使うわけではないらしい。
さっき猪を追わなかったのと同じだった。
必要のない戦闘は避ける。それでも避けられないなら、地形と状況を見て、使える手段で短く終わらせる。
「ユリウス、普通に強いんだな」
火が残っていないことを確認して歩き出してから言うと、本人が露骨に顔をしかめた。
「今さら?」
「強いのは知ってたけど、俺の前だと土ばっかり使ってただろ」
「お前が前にいる時、地面いじる方が噛み合う場面が多かったんだよ」
横からミラが笑う。
「それはあるわね。アレンが前を止めるから、ユリウスは足場や逃げ道を触ることが多かったもの」
「ほら」
ユリウスが少し得意そうに言う。
「俺、ちゃんと攻撃魔法も得意だからな」
「分かったよ」
「本当に?」
「灼炎奔流が得意なのは分かった」
「何だ、その言い方」
ミラがまた呆れた顔をしたので、それ以上は言わないことにした。
◇
さらに一刻ほど進んだところで、ミラが足を止める。
「たぶん、ここ」
道の左側に、草へ半ば埋もれた石柱が立っていた。その脇から細い道が北西へ分かれ、現在使われている本街道に比べると幅は半分ほどしかない。
両側から伸びた草が路面へ入り込み、轍もかなり古くなっている。
セレナが石柱へ近づき、削れた文字を見る。
「古い道標ね。下の方はほとんど消えてるけど、こっちはまだ読める」
「セレスって書いてある?」
フィアナが聞いた。
「名前そのものじゃないわ。修道院領へ向かう道、という意味に近い」
俺も文字を見る。
書体は古いが、エルム地下で見たものとは明らかに違う。こちらはこの土地で人が使ってきた普通の文字で、一部なら俺にも読めた。
「ここから古道か」
ユリウスが木々の間へ続く道を眺める。
完全に失われてはいないものの、今まで歩いてきた街道とは空気が違った。踏み固められた中央にも草が生え、木々の枝が左右から張り出している。
ミラは先に道へ入り、少し先まで確認してから戻ってきた。
「最初は問題なさそう。人も最近通ってるわ」
「分かるの?」
フィアナが尋ねる。
「草が折れてるし、靴跡もある。たぶん一週間以内ね。採取人か猟師だと思う」
ミラはそこで全員の荷物と位置を確認した。
「ここから少し隊形を変えましょう。私が先に出るけど、見えなくなるほど離れない。道が狭いから、横に広がらず一列か二列で進む」
事前に決めていた形だ。
ミラが先行し、俺が本隊の前。その後ろにフィアナとセレナ、最後をユリウスが見る。
フィアナが背負い袋の紐を締め直しているのが目に入り、視線が合った。
「何?」
「いや。荷物、大丈夫そうだなと思って」
「ちゃんと見たからね。アレンのも」
「俺のまで?」
「一番見た方がいいでしょ」
名前を直接呼ばれる感覚はまだ少し残っているが、昨日ほど意識することはなくなっていた。
「行こう」
ミラの声で、俺たちは順に古道へ入った。
最初のうちは地面も比較的固く、歩く速度は大きく落ちなかった。ただ、本街道より木々が近く、場所によっては枝が道の上まで伸びている。葉に残った雨水が時折落ち、ぬかるみも増えていった。
「ここ、中央を踏まないで。右の方が固い」
前からミラの声が飛ぶ。
言われた通りに進むと、確かに真ん中より足が沈まない。
少し先では細い倒木が道を横切っていたが、昨日のものとは比べものにならず、俺とユリウスで端を持ち上げて脇へ寄せるだけで済んだ。
「灼炎奔流で燃やさなくていいの?」
持ち上げながら言うと、ユリウスが睨んでくる。
「絶対しばらく言うつもりだろ」
「便利な名前だから」
「そういう用途じゃない」
後ろでミラがため息をついた。
「自分で付けたんでしょう」
「だからって弄っていいとは言ってない」
さっきまでの戦闘とはまるで違う調子で細い木を道端へ寄せ、そのまま歩き出す。
セレナは途中、道端に残る低い石積みへ何度か視線を向けたものの、足を止めることはなかった。
「気になる?」
「少し。でも古い排水溝か境界石だと思う。今調べるものじゃないわ」
必要なものと、後回しにできるものはきちんと分けている。
古道へ入ってからは、五人の声も自然と減った。前方でミラが止まれば俺たちも止まり、足場が悪ければ後ろへ伝える。危険が迫っているわけではなくても、道幅が狭く見通しも悪い分、互いの動きを見ていた方が楽だった。
日が傾き始める前に、ミラが野営場所を探し始める。
古道へ入った最初の日から距離を欲張る理由はない。ぬかるみがさらにひどくなる前に、余裕を持って止まることにした。
選んだのは、道から少し高くなった林の中だった。
落ち葉の下は固く、水が流れ込んだ跡もない。少し離れた場所には細い沢があり、周囲もある程度見渡せる。
「ここなら大丈夫そう」
ミラが周囲を見回す。
「じゃあ今日はここまでにしよう」
荷物を下ろすと、それぞれが野営の準備へ動いた。
俺とユリウスが雨除けの布を張り、ミラは周囲をもう一度確認する。セレナは火を起こす場所を整え、フィアナは昨日買った香草を使いながら夕食の鍋を用意していた。
食事を終える頃には林の奥まで暗くなり始め、ミラが地図の上で今日歩いた距離を確かめる。
「予定より少し遅いけど問題ないわ。この先も道が同じくらいなら、もう一日進めば修道院にかなり近づけると思う」
「もっとぬかるんでたら?」
「その分遅れるだけ。日程を守るために足を傷める必要はないでしょう」
誰も異論はなかった。
見張りの順番を決め、火を小さくしていく。
林の向こうから聞こえるのは、沢の水音と、風で枝が擦れる音くらいだった。昨日まで歩いていた本街道の灯りも、もう見えない。
それでも道にはまだ新しい靴跡があり、古い石積みも残っている。人の生活圏から離れ始めてはいるが、完全に途切れたわけではなかった。
火の向こうでは、ユリウスが昼間と同じ杖を膝に置いて手入れしている。
倒木の下の土を少しずつ動かす時も、狼の群れをまとめて焼いた時も、使っていたのは同じ魔法使いだった。
俺の魔法が細かく状況を整える方へ寄っているとすれば、ユリウスは必要な時には一気に押し切れる火力を持っている。その一方で、撃てるから撃つわけでもない。
五人で動くなら、似たことができるより、その違いの方が役に立つのだろう。
「アレン」
杖を拭いていたユリウスが顔を上げた。
「何?」
「明日からその名前で呼ぶの禁止な」
「灼炎奔流?」
「それ」
「自分で叫んだのに?」
「戦闘中だけだよ」
少し離れたところで地図を畳んでいたミラが、顔も上げずに言った。
「明日も叫んだら、私は他人のふりするから」
「何でだよ」
フィアナが笑い、セレナまで肩を揺らす。
俺も堪えきれずに笑った。
古道へ入った最初の夜は、それくらいの余裕を残したまま更けていった。




