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間話 名前の距離

9/23 全体的に推敲し文章をアップデートしました。(内容は変更なし)

 部屋の灯りが落ちてから、どれくらい経ったのだろう。


 隣の寝台ではミラがもう眠っていて、少し離れたところにいるセレナも、さすがに今夜は資料を広げていない。宿の外から聞こえていた人の話し声もいつの間にか遠のき、時折、通りを歩く足音が窓の向こうを通り過ぎるだけになっていた。


 明日も早いのだから、私も眠らなければならない。


 そう思って目を閉じても、浮かんでくるのは昼間のことばかりだった。


「……アレン」


 誰にも聞こえないくらい、小さな声で呼んでみる。


 たった二文字減っただけなのに、今までの「アレンさん」とはずいぶん違って聞こえた。ユリウスやミラ、セレナを呼び捨てにする時にも多少の慣れなさはあったけれど、アレンの名前を最初に口にした時だけは、声にする前にほんの少し息を整えた。


 理由を考えているうちに、いつの間にか最初に会った頃のことまで思い出していた。


 あの頃の私にとって、アレンは巡礼の護衛に加わった冒険者の一人だった。


 二十歳で金級だと聞いていたから、もっと我の強い人なのだろうと勝手に想像していた気がする。けれど実際に話してみると、知らないことを知っているようには振る舞わないし、私が聖女だからというだけで何でも信じるわけでもなかった。


 神託についてもそうだ。


 疑っているわけではないのに、神託だから必ず正しいと決めつけることもしない。実際に現地を見て、人の話を聞いて、分からないことは分からないまま置いたうえで、自分にできる判断をする。


 最初は少し変わった人だと思った。


 それなのに、一緒にいる時間が増えるほど、その距離の取り方が心地よくなっていった。聖女だから何を考えているはずだと決められるのではなく、私自身がどうしたいのかを聞いてもらえている気がしたからなのだと思う。


 いつからそれが、ただ安心できるというだけではなくなったのかは分からない。


 けれど、今でもはっきり覚えている声がある。


『フィアナ!』


 エルムの地下で、アレンが初めて私をそう呼んだ。


 あの時は危険の中にいて、呼び方なんて気にしている余裕はなかったはずなのに、なぜかあの一声だけはずっと残っている。


 ルミエルへ戻ったあと、普段の呼び方について聞かれた時には、今まで通りでいいと自分から答えた。その方が自然だと思っていたし、本当に変えてほしいとも思っていなかった。


 でも、今になって考えると、それだけではなかったのかもしれない。


 呼び方を変えたら、そこにある何かまで変わってしまいそうで、今まで通りにしておく方が安心だった。


 何が変わると思っていたのかは、今でもうまく説明できない。


 ただ、その頃にはもう、私の中でアレンは他の仲間とは少し違う場所にいたのだと思う。


 休日に一人で冒険者ギルドへ行った時もそうだった。


 あの日、私は神託や地下で起きたことを、自分でも知りたいと伝えたかった。それは今でも変わらないし、そのために会いに行ったのは間違いない。


 でも、話を伝えるだけなら、神殿から呼び出してもらうこともできた。ベルナールに頼んで、アレンへ話を通してもらうことだってできたはずだ。


 それでも私は、自分でギルドへ行った。


 誰かに聞いてほしかったのではなく、アレンに聞いてほしかったのだと考えると、その違いは思っていたより大きかった。


 セレナと二人で遺構を調べに行ったと知った時のことも思い出す。


 仕事だということは分かっていたし、セレナを嫌っているわけでもない。むしろ話しやすいし、私が自分でも説明できないことを無理に言葉へ当てはめないでくれたことには感謝している。


 それなのに、「二人で行った」と聞いた瞬間だけ、胸のどこかに小さなものが引っかかった。


 アレンに理由を聞かれた時は、本当に自分でも分からなかった。今ならもう少し何か分かるのかと思ってみても、やっぱり上手く説明はできない。


 ただ、何も感じていなかったわけではない。


 それくらいなら、もう認めてもいい気がした。


 セレス修道院へ行く話が決まった時も、私はどこかで、アレンに止められるかもしれないと思っていた。


 危険な場所かもしれないのだから、ルミエルに残った方がいいと言われても不思議ではない。私自身、エルムの地下で何が起きたのかを忘れたわけではないし、自分が狙われたことも、誰かが私を守るために傷ついたことも覚えている。


 それでも、知りたかった。


 神託のことも、地下で自分に何が起きたのかも、誰かの報告を待つのではなく、自分で確かめたかった。


 アレンは、その気持ちを止めなかった。


『行くかどうかまで、俺が決めることじゃないですから』


 あの言葉は、思っていた以上に嬉しかった。


 危険なら止めると言いながら、私の代わりに決めてしまうことはしない。守ることと、私自身の意思を尊重することを別のものとして考えてくれているのだと分かったからだ。


 たぶん、それが嬉しかったからこそ、私も守られるだけでは嫌だと思うようになった。


 アレンが無茶をしそうなら止めたいし、旅に必要な物を忘れていれば気になる。替えの靴下が足りなければ増やしてほしいし、治療用品だって自分で持っていてほしい。


 足を傷めれば困るから、靴の状態まで気になってしまう。


 仲間なのだから、それくらい気にするのはおかしくない。


 ミラやユリウスが困っていても、きっと同じように気になるだろう。


 けれど今日、五人で呼び方を変えた時、その「同じ」の中にも少し違うものがあるのだと気づいてしまった。


 ユリウスも、ミラも、セレナも、何度か名前を呼べばすぐに馴染んだ。口調が変わったことの方が最初は少し気になったくらいで、それも夕食の頃にはずいぶん自然になっていた。


 アレンだけは違った。


 呼ぶたびに、ほんの少しだけ意識する。


 向こうから「フィアナ」と呼ばれた時も同じで、自分の名前なのに、今までよりずっと近いところから聞こえるような気がした。


 その感じが少し落ち着かない。


 なのに、嫌ではない。


 むしろ何度も呼ぶうちに当たり前になってしまうことを考えると、ほんの少し惜しいような気さえした。


 そこまで考えて、寝台の中で小さく息を吐く。


 神託のことを考える時、私は分からないものを無理に分かったことにしないようにしようと決めた。


 セレナにも、曖昧なら曖昧なままでいいと言われた。


 それなら、自分の気持ちも同じでいいのかもしれない。


 アレンと一緒にいると安心する。話したいと思うし、私が分からないことを一緒に考えてほしいと思う。


 無茶をしてほしくないし、危ない役を自分だけで引き受けようとしたら止めたい。


 セレナと二人で出かけたと聞いた時には、理由の分からない引っかかりもあった。


 今は、名前を呼ばれるだけで少しだけ胸の奥が落ち着かなくなる。


 そこまでは分かる。


 その先に何があるのかは、まだ分からない。


 分からないなら、今すぐ名前を付ける必要もないのだと思う。


 私は布団を少し引き上げ、もう一度だけ声にしてみた。


「……アレン」


 昼間よりは自然に言えた。


 それでも耳に届いた自分の声に、胸の内側がほんの少しだけ騒ぐ。


 たぶん、何日か一緒に歩けば慣れる。


 普通に呼んで、普通に返事をされるようになれば、今感じている妙な近さも気にならなくなるのだろう。


 そう思うと眠れそうな気がしたのに、その一方で、慣れてしまうのが少し惜しいとも思った。


 どうしてそう感じるのかは、まだ分からない。


 今夜は、それでいい。


 目を閉じると、さっきまでより少しだけ身体の力が抜けた。


 明日の朝になれば、また五人で歩き始める。


 その時にはきっと、今より一度くらい自然に名前を呼べるだろうと思いながら、私はようやく眠りに落ちていった。


挿絵(By みてみん)

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