第26話 街の夜
9/23 全体的に推敲し文章をアップデートしました。(内容は変更なし)
遠くから見えていた屋根は、思ったよりなかなか近づかなかった。
昼を過ぎた頃には街の輪郭まで見えていたのに、そこからさらに歩き続け、低い石壁と門がはっきりしてきた頃には日もだいぶ傾いている。
「見えてから長かったな」
ユリウスがそう言ったので、思わず横を見る。
「近いって言ってませんでした?」
「近かっただろ。もう着いたんだから」
「昼から見えてましたよ」
「見えてるなら近い」
よく分からない基準だった。
少し前を歩くミラは相手にする気もないらしく、門へ続く人の流れを見ている。フィアナは隣で笑っていて、セレナも口元だけ少し緩めていた。
中継の街はルミエルほど大きくないが、二本の街道が交わる場所だけあって人通りは多かった。門の周囲には順番を待つ荷車が並び、中へ入れば宿や食堂、馬具屋、雑貨屋の看板が通りの両側に続いている。
旅装の人間も珍しくなく、背負い袋と武器を持った俺たちが歩いていても、わざわざ振り返る者はいない。
ここから西へ進むほど、人の往来は減っていく。まとまった買い物をして、身体をきちんと休められる場所としては、しばらく最後になるはずだった。
「先に宿を取りましょう。荷物を置いてからの方が動きやすいわ」
ミラの提案に、ユリウスがすぐ頷く。
「賛成」
「返事だけ妙に早いですね」
「一日背負って歩いたんだから、早く下ろしたいだろ」
それについては俺も同感だった。
通りを少し進み、商人や冒険者がよく使うという宿へ入る。
豪華ではないが、床も卓もきれいに掃除され、奥の食堂からは煮込み料理の匂いが漂っていた。裏手には荷車を置ける空間もあり、壁際には濡れた外套や靴を乾かすための棚まで設けられている。
旅人を相手にすることに慣れた宿らしい。
部屋は男二人と女三人に分かれた。
背負い袋を床へ下ろした瞬間、肩が急に軽くなる。
「……やっぱり宿はいいな」
ユリウスが寝台へ腰を下ろした。
「まだ寝ないでくださいよ」
「寝ないって」
「そのまま倒れそうですけど」
「座っただけだ」
そう言いながらも、ユリウスは一度寝台へ手をついてから身体を起こした。
「買う物なんだっけ」
「水袋の予備と革紐。それから食料の追加。ミラさんはギルドで道の情報を確認するって言ってました」
「覚えてるじゃないか」
「忘れてると思ったんですか?」
「いや、アレンなら覚えてるだろ」
「じゃあ聞かないでください」
ユリウスが笑ったところで、廊下から足音が聞こえた。
俺たちも階下へ降りると、少し遅れて女性陣が姿を見せる。荷物を部屋へ置いてきただけで、全員ずいぶん身軽に見えた。
「じゃあ、買い物とギルドね」
ミラが確認したところで、セレナが俺たちを見渡した。
「その前に、一つ決めておかない?」
「何をです?」
「呼び方」
何のことか分からず待っていると、セレナは特に構えることもなく続けた。
「これから何日も五人で動くでしょう。街道を外れれば、急いで名前を呼ぶ場面も増えると思うの。ガルドさんはあれかもしれないけど、私たちの間では敬称も敬語もやめない?」
最初に反応したのはユリウスだった。
「俺は賛成」
「早いですね」
「というか、アレンがずっと『ユリウスさん』なの、前からちょっと気になってた」
「今言うんですか」
「今そういう話になったからな」
ミラも特に迷う様子はなかった。
「私も構わないわ。現場で毎回言い方を選ぶより、その方が分かりやすいし」
「私もいいと思います」
フィアナもそう言った。
そこで一瞬だけ、視線が合った。
エルムの地下で俺が一度だけ「フィアナ」と呼んだあと、普段の呼び方について話したことがある。あの時は今まで通りでいいと決め、それ以来、互いにまた「さん」を付けていた。
その時とは状況が違う。
今度は俺たち二人だけの話ではなく、五人で動くために全員が呼び方を変えるという話だった。
「じゃあ……アレン」
先に口にしたのはフィアナだった。
たったそれだけなのに、いつもより少し近く聞こえる。
「……うん。フィアナ」
返すと、フィアナは一度だけ目を丸くしてから、少し笑った。
「やっぱり、ちょっと慣れないね」
「俺も」
「まあ、そのうち慣れるでしょう」
ミラがあっさり言い、ユリウスも頷く。
「俺としては、やっと普通になった感じだけどな」
「ユリウスは元から砕けすぎなんですよ」
言ってから気づく。
「あ」
「もう敬語やめるんだろ?」
ユリウスが笑った。
「……そうだったな」
「ほら、できるじゃん」
「うるさい」
今度は考えずに出た。
セレナが小さく笑う。
「それくらいでいいのよ。じゃあ行きましょう。店が閉まる前に必要な物を揃えたい」
「分かった、セレナ」
「ええ」
セレナ相手だと、思ったほど違和感はなかった。
◇
最初に入った雑貨屋は、街道沿いの旅人を相手にしているだけあって、扱っている物も実用的だった。
水袋や油紙、革紐、針や糸、靴底へ塗る油まで、旅で消耗しそうな物が棚に並んでいる。
俺が防具用の革紐を見ていると、店主がこちらの靴へ目を落とした。
「西へ行くなら、そっちも見といた方がいいぞ」
「靴ですか?」
「ここ数日の雨で道が悪い。古道まで行く連中なら、なおさらな」
俺の靴は出発前に確認したばかりだったが、店主に言われて底を曲げてみる。縫い目に問題はない。
「こっちはまだ大丈夫そうだな。ただ、油は塗っとけ。泥を吸うと重くなる」
勧められた小さな容器を一つ手に取ったところで、背後から声がした。
「それ買う?」
振り向くと、フィアナが香草の小袋をいくつか持って立っている。
「うん。靴用の油らしい」
「じゃあ私も見ようかな」
「フィアナの靴、問題あった?」
「今はないけど、泥が多いなら使えるでしょ」
すぐ近くにいたミラも話を聞いていたらしく、自分の靴底を一度確かめた。
「五人分買うほどはいらないわ。一つあれば夜に回せるでしょう」
「なら共通装備にする?」
「そうしましょう」
結局、靴用の油は一つだけ買うことになった。
個人で持つ物と、全員で一つあれば足りる物。その区別も、実際に旅へ出てみると少しずつ変わってくる。
隣の棚では、ユリウスが細い麻紐を手に取っていた。
「それ何に使うんだ?」
「杖の握りを巻き直す。ちょっと滑るんだよ」
「昨日は何も言ってなかっただろ」
「一日使って分かった」
「そういうのもあるか」
「だから街で止まれる時に直すんだろ」
ユリウスは必要な長さを測り、余分には買わなかった。
普段の軽さとは別に、道具の扱いそのものは雑ではないらしい。
その隣で、セレナは紙と炭筆を補充していた。調査道具まで増やし始めないか少し気になったが、本人は必要な量だけ選ぶとすぐ会計へ向かう。
「見てるわね」
「何をです……じゃなくて、何を?」
「また余計な物を買わないか」
「そこまで思ってない」
「今、言い直したでしょう」
「まだ慣れてないんだよ」
「それは私も分かるわ。アレンだけ急に全部自然になったら、その方が変でしょう」
そう言われればそうだった。
買い物を終える頃には、外の光が少し赤くなり始めていた。
◇
次に向かった冒険者ギルドは、ルミエルの支部よりかなり小さかった。
それでも街道沿いということもあって、人の出入りは多い。壁には周辺の簡単な地図と依頼票が並び、旅人向けらしい街道情報まで掲示されている。
ミラが受付で目的地をぼかしつつ西側の道について尋ねると、職員は何冊かの記録を確認してくれた。
「本街道は問題ありません。ただ、古道へ入る手前から雨の影響が出ています」
「崩れてる?」
「通れないという報告まではありません。ぬかるみがひどい区間があるのと、この辺りで猪型の魔物を見たという報告が二件ほど」
職員が地図上の一帯を指す。
「数は?」
「どちらも一頭です。群れではありません」
「人を襲った記録は?」
「今のところありません。街道側へ出たという報告もないですね」
ミラは場所を確かめ、地図へ印を付けた。
「ありがとう。それなら道を見ながら進めそう」
俺たちは少し離れたところで話を聞いていた。
「猪型か」
ユリウスが小さく言う。
「進路に出なければ放っておけばいいでしょう」
俺が答えると、ミラも振り返った。
「そうね。こっちは討伐に来てるわけじゃないから」
「分かってるよ」
ユリウスは肩をすくめた。
「見つけたら全部焼こうなんて言ってないだろ」
「誰もそこまで言ってない」
「でも今、ちょっとそういう顔したぞ」
「してないわよ」
ミラは相手にせず、地図を畳んだ。
受付を離れる前に、俺はギルド職員へもう一つ確認する。
「この先で、次にまとまった補給ができる場所は?」
「西なら、小集落が二つ。その先はかなり小さくなります。保存食くらいなら買えますが、道具を揃えるならここで済ませた方がいいですよ」
「分かりました」
これで、この街で休む意味もはっきりした。
宿へ戻る前に、日持ちする食料を少し追加する。昨日までの消費分を埋める程度で、荷物を増やしすぎない量に抑えた。
◇
宿へ戻ると、夕食まで少し時間があった。
俺とユリウスは部屋で買った物を荷物へしまい、ユリウスは早速、杖の握りを巻き直し始める。
「自分でやるんだな」
「これくらい普通だろ」
「魔術師って、道具屋に任せるのかと思ってた」
「何でだよ。杖なんて毎回預けてたら仕事にならないだろ」
古い紐を外し、新しい麻紐を一定の間隔で巻いていく手つきは慣れていた。
「魔法使えるからって、道具が勝手に直るわけじゃないんだぞ」
「それは分かってる」
「アレン、たまに俺を魔法しかできない人間みたいに見るよな」
「そんなことないけど」
「今ちょっとあっただろ」
「ない」
「間があった」
「今それ流行ってるのか?」
笑いながら返したところで、扉が軽く叩かれた。
開けるとフィアナが立っている。
「靴、見るよ」
「本当にやるの?」
「油買ったでしょ」
「全員分だろ」
「ミラたちのはもう終わったよ」
逃げる理由もないので、靴を持って廊下へ出た。
裏手には旅人が道具を手入れするための小さな作業台があり、ミラとセレナもそこにいる。買った油はすでに開けられ、ミラの靴は手入れが終わっていた。
「ほら」
フィアナが布を渡してくる。
「自分でやるのか」
「私に塗ってもらうつもりだったの?」
「いや、そうじゃないけど」
「ならやって」
以前なら「やってください」と言われていたはずだ。
それだけの違いなのに、妙に新鮮だった。
靴底の縫い目と革の境目へ薄く油を塗っていると、セレナが自分の靴を見ながら言う。
「こういうの、遺構調査より大事な時あるのよね」
「セレナが言うと意外だな」
ユリウスが部屋から出てきた。
「どういう意味?」
「古い文字より靴を優先できるんだなって」
「歩けなくなったら古い文字まで辿り着けないでしょう」
「正論だ」
「当たり前よ」
セレナはそれだけ言って、自分の靴へ油を塗り続けた。
この人は好奇心が強いだけで、旅そのものを軽く見ているわけではない。その辺りは、一緒に動くほど分かりやすくなってきた。
◇
夕食は宿の食堂で取った。
肉と根菜の煮込みに焼いた川魚、それにまだ柔らかいパンが並ぶ。
「これだよ」
料理を見たユリウスが満足そうに言った。
「何が?」
「街に泊まる意味」
「寝台じゃなかったの?」
ミラが魚を取り分けながら聞く。
「寝台も大事。飯も大事」
「全部じゃない」
「快適なのはいいことだろ」
そこは否定できない。
一日歩いたあとに食べる温かい料理は、それだけでありがたかった。
フィアナもパンを一口食べると、目元が少し緩む。
「やっぱり焼いたばかりのパンはいいね」
「昨日の飯も美味かったけどな」
「それとは別」
「分かってる」
返してから、一瞬だけ目が合った。
「……まだ変な感じする?」
フィアナが声を少し落として聞く。
「少しだけ」
「私も」
「でも、昼よりはもう慣れた気がする」
「早くない?」
「フィアナが普通に話すから」
「アレンもでしょ」
それだけ言って、フィアナはまたパンをちぎった。
近くなったというより、会話の間に挟まっていたものが一枚なくなったような感覚だった。
「明日は何時に出る?」
セレナが地図を広げる。
「朝食を済ませてすぐでいいと思う」
ミラが街の西側を指した。
「午前中はまだ人通りのある道。その先の集落で古道の情報をもう一度確認したい。今日聞いた猪の痕跡も、場所が変わってるかもしれないし」
「見つけても進路に関係なければ追わない、でいいよな?」
ユリウスが確認する。
「もちろん」
「分かった」
そこで終わる。
魔物を倒せるかどうかと、倒す必要があるかは別の話だ。銀級が二人、金級が二人いるからといって、見つけた魔物を片端から相手にする理由はない。
食事を終え、翌朝用のパンまで買ってから宿を出る。
街の通りはすっかり夜になっていたが、店先にはまだ灯りが並び、酒場からは人の声が漏れている。
「今日はもう戻る?」
ユリウスが聞く。
「戻るわ。明日は早いもの」
ミラが答え、セレナも頷く。
宿へ向かって歩き始めると、フィアナが自然に俺の隣へ並んだ。
「アレン」
「ん?」
名前だけが少し耳に残る。
フィアナもそれに気づいたらしく、笑った。
「今、またちょっと意識したでしょ」
「した」
「私も」
「自分から呼んだのに?」
「呼ぶ方もまだ慣れないよ」
「じゃあ、お互い同じか」
「たぶん」
それだけ確認して、二人とも前を向く。
前ではミラとユリウスが明日の朝食について話し、セレナは買った紙包みを片手に歩いていた。
呼び方が変わったところで、急に何かが大きく変わるわけではない。
それでも、昨日までより少しだけ言葉を出しやすくなった気はする。
宿の灯りが近づいたところで、フィアナがもう一度こちらを見る。
「明日から、また歩くね」
「ああ」
「古道に入ったら、今日までより大変かな」
「たぶん。でも、今日のうちに聞けることは聞けたし、急ぐ必要もない」
「そうだね」
フィアナは小さく頷いた。
そのまま五人で宿へ戻る。
今夜は柔らかい寝台で眠れる。
明日の朝にはまた荷物を背負い、人の多い街道から少しずつ外れていく。
その前に休めるだけ休んでおくことも、準備のうちだった。




