第2話 白衣の少女
10/16 全体的に推敲し文章をアップデートしました。(内容は変更なし)
路地を抜けると、夕日に照らされた土埃が視界を覆った。
通りの先では三階建てほどの宿が正面から大きく崩れ、折れた梁や石材が道路にまで散らばっている。建物の奥にはまだ壁が残っていたが、二階から上の床が一部落ちているらしく、砕けた家具や寝具まで瓦礫に混じっていた。
辛うじて残った看板には、巡礼者向けの宿を示す聖印が見える。
想像していた以上の被害だった。
「誰か、こっちを手伝ってくれ!」
瓦礫のそばから声が飛び、俺はそちらへ駆け寄った。
二人の男が太い梁に手を掛けており、その向こうでは中年の男が片脚を挟まれたまま、苦しそうに息をしていた。呼びかけには反応しているが、自分で身体を動かせる状態ではなさそうだ。
「手を貸します。梁が上がっても、動かないでください」
挟まれている男へ声をかけ、剣を邪魔にならない位置へずらした。
「俺たちで持ち上げる! そっちは引き出してくれ!」
「分かった!」
近くにいた別の男が負傷者の脇へ回るのを待ち、俺は身体強化を使って梁に手を掛けた。
三人で息を合わせると、重い梁がわずかに浮いた。脚を引き抜けるだけの隙間を保つ間に、待機していた男が負傷者を引き寄せる。
「抜けたぞ!」
声を聞いてから、俺たちは梁をゆっくり下ろした。
男の脚はひどく腫れていたが、意識ははっきりしている。無理に立たせず、近くにあった板を使って通りの端へ移した。
「治療できる人は?」
「向こうだ! もう神殿から来てる!」
指された先では、白衣姿の者たちが負傷者の手当てをしていた。
道の一角には負傷者を寝かせる場所が確保され、自力で歩ける者は別の場所へ案内されている。神殿の治癒術師に加え、近所の住人や冒険者たちも担架の運搬を手伝っていた。
俺たちが助け出した男も、そこにいた者たちへ引き継ぐことができた。
宿の方へ戻ると、瓦礫の間ではまだ救助が続いていた。
「奥に人がいるぞ!」
「そこは触るな! 上が動いてる!」
「担架をもう一つ頼む!」
残っている壁には大きな亀裂が走り、折れた梁が傾いた天井を支えている。先ほどから細かな破片が落ちており、瓦礫を動かすたびに軋む音が聞こえた。
宿の奥へ入ろうとしていた男の近くへ、小石が一つ落ちた。
「待ってください。上がまだ動いてます」
「何だ?」
男も頭上を見上げ、足を止めた。
傾いた壁がひびの入った梁へ寄りかかっている。あれが外れれば、入口ごと崩れるかもしれない。
「……確かにまずいな」
「中に人がいるなら、声をかけて場所を確かめましょう。入るなら、残っている壁の側からの方がよさそうです」
「ああ。おい! 勝手に奥へ入るな!」
男が周囲へ声を飛ばし、俺も崩れ方を確かめるために一度離れた。
その時、治療場所でひときわ強い光が生まれた。
目を向けると、白衣の一団の中に若い女性がいた。
淡い銀色の短い髪。まだ十代にも見える女性が、横たわった男の脇腹へ両手を当てている。
男の衣服は血に染まり、傷口を押さえている布も赤く濡れていた。
女性の手元から淡い光が広がる。
治癒魔法だ。
見慣れた魔法ではあったが、俺は思わず足を止めた。
布の隙間から見えていた深い傷が、ゆっくりと塞がっていく。押さえていた布を伝う血も次第に減り、やがて新しい出血が止まった。
「……もう止まったのか?」
近くで手当てをしていた治癒術師が、思わず声を漏らした。
女性は傷を確かめてから手を離した。
「出血は止まりました。まだ痛みもあると思いますから、治癒院で続けて診てもらってください」
「分かりました。次はこちらをお願いします」
「はい。歩ける方は先に運んでください。頭を打っている人は、無理に起こさないように」
見た目よりよく通る声だった。
俺もこれまでに治癒魔法を使う者と仕事をしてきたが、あれほど深い傷が短い時間で塞がるのは初めて見た。普通なら何度かに分けて治療するか、出血を抑えて治癒院へ運ぶような傷だったはずだ。
女性はすぐに次の負傷者へ向かい、周囲の治癒術師も彼女の指示に合わせて動いていた。
ただ、立ち上がった時に一度だけ身体が揺れた。
隣の治癒術師が手を伸ばしかけたものの、本人は小さく首を振り、そのまま歩き出す。
相当な魔力を使っているのだろう。
そう思ったところで、背後から声をかけられた。
「冒険者! 中に子供がいる! 声がしたんだ!」
「どの辺りです?」
「一階の奥だ。こっち!」
俺は男の後を追い、再び宿へ向かった。
◇
建物の中には細かな瓦礫が散らばり、足を置くたび乾いた音が返ってきた。
先に入った冒険者が、崩れた奥へ向かって声を張る。
「誰かいるか!」
一度目には返事がなかったが、もう一度呼びかけると、右手の崩れた壁の向こうからかすかな声が聞こえた。
「……ここ!」
倒れた棚と石壁の間に、わずかな空間が残っている。
「何人いる?」
「二人! 弟が動かないの!」
「分かった。そこから動かなくていい!」
隙間へ近づき、中を覗いた。
十歳くらいの女の子が、それより小さな男の子へ覆いかぶさるようにしている。姉の方には大きな怪我は見えなかったが、弟は横たわったまま反応せず、脚の周囲に血が広がっていた。
「聞こえる?」
呼びかけても返事はない。
ただ、胸はかすかに上下している。
出口を塞いでいる棚には石材がいくつも乗っており、そのまま動かせば中の子供たちへ崩れそうだった。
「上の石から外しましょう」
「ああ。俺はこっちを持つ」
同行した冒険者と手分けして、動かせる石を一つずつ下ろしていく。
大きなものを二人でずらしている途中、頭上から長い軋みが響いた。
天井の一部が、残った梁へ重みを預けている。
俺たちは顔を見合わせ、最後の石を慎重に取り除いた。棚が動くことを確かめてから横へずらすと、子供が通れるだけの隙間ができた。
「先に出て!」
女の子が這うように抜け出してきた。
途中で弟を振り返って止まりかけたが、外側にいた冒険者が受け止める。
「弟は俺が連れていく。外で待っててくれ」
女の子は迷ったあと、小さく頷いた。
俺は隙間から身体を入れ、男の子を抱き上げた。
驚くほど軽かった。
脚には大きな傷があり、衣服も血を吸って重くなっている。意識が戻らないことも気になったが、ここで詳しく調べている余裕はなかった。
立ち上がったところで、頭上から砂と小石が降ってきた。
「出るぞ!」
入口側から声が飛ぶ。
男の子を抱え直し、俺は出口へ急いだ。
背後では木材が軋み、途中で大きなものが落ちる音もしたが、振り返らずに走り抜ける。
外へ出た直後、建物の内側から重い音が響いた。
さっき通った入口の一部が崩れ、舞い上がった土埃が俺たちの背中まで流れてきた。
「……危なかったな」
隣へ出てきた冒険者が息を吐いた。
「ええ。もうあそこからは入れそうにないですね」
俺も崩れた入口へ目をやったが、腕の中の子供が先だった。
「治療をお願いします!」
声を上げると、先ほどの銀髪の女性がすぐに振り返った。
「こちらへ!」
示された場所へ男の子を寝かせる。
女性は脚の傷と呼吸を確かめ、隣の治癒術師へ声をかけた。
「清潔な布をお願いします。出血を押さえてください」
手際よく傷口を確かめたあと、彼女は男の子の脚へ両手を当てた。
「見つけた時から意識はありませんでしたか?」
「はい。呼吸はずっとありました」
「分かりました」
淡い光が生まれ、脚全体へ広がっていく。
深く裂けていた傷が少しずつ閉じ、布を赤く染めていた出血が止まっていく。
その間、女性は一度も手を離さなかった。
やがて大きな傷が塞がると、彼女は男の子の胸元へ手を移し、もう一度短く治癒魔法を使った。
浅く速かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「……すごいな」
思わず呟いた。
あれだけ傷んだ脚を、こんな短時間で治療できるものなのか。
女性は男の子の顔色を確かめ、近くの治癒術師へ声をかけた。
「出血は止まりました。意識はまだ戻っていません。脚を固定して、治癒院へ運んでください」
「はい。すぐに」
担架が運ばれてくる。
男の子を乗せるのを手伝いながら、俺は尋ねた。
「助かりそうですか?」
「まだ安心はできません。かなり血を失っていますし、ほかに傷がないかも調べる必要があります」
彼女は男の子の胸元をもう一度確かめた。
「でも、ここへ運ばれてきた時よりは落ち着いています。あとは治癒院で治療を続けてもらいます」
「分かりました。ありがとうございます」
「こちらこそ、助け出してくださってありがとうございます」
女性は軽く頭を下げた。
その顔はひどく疲れていた。
先ほどから何人もの重傷者を診ているのだから、当然かもしれない。立ち上がった時にも身体がわずかに揺れ、隣の治癒術師が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「少し休んだ方がいいんじゃないですか」
思わず声をかける。
「大丈夫です」
返事は早かった。
「そうは見えませんけど」
「まだ診る人がいますから」
少し強い口調だった。
初対面の俺に口出しされたくはないのだろう。実際、彼女の治癒能力が必要な負傷者はまだ大勢いる。
これ以上は口を挟まず、俺も救助へ戻ろうとした。
その時、別の場所から大声が上がった。
「重傷者だ! 誰か来てくれ!」
運び出された女性が地面へ横たえられ、腹の辺りが赤く染まっている。
銀髪の女性はすぐにそちらへ向かった。
俺も救助を手伝えるかと思い、邪魔にならない距離まで近づいた。
「何があったんです?」
「梁が腹に刺さってた。運べなかったから抜いたら、急に血が……」
「抜いたんですか?」
女性の声が鋭くなった。
説明していた男が言葉を詰まらせる。
だが、彼女はそれ以上責めることなく、すぐ負傷者の横へ膝をついた。
「布を押さえ続けてください。まだ手を離さないで」
近くの治癒術師が傷口を圧迫し、もう一人が負傷者の呼吸を確かめる。
女性は二人の間へ手を差し入れ、傷の位置を確かめてから治癒魔法を使い始めた。
先ほどまでの光とは、明らかに強さが違っていた。
淡い光が傷の奥へ沈み込むように広がり、押さえていた布の周囲から血が溢れる勢いが弱まっていく。
「……止まってきています」
治癒術師の一人が声を上げた。
「もう少し、このまま押さえていてください」
女性は両手を動かさず、傷へ意識を集中させていた。
やがて新しい出血が止まり、確認のために布をずらすと、深く開いていた傷の縁が寄っていた。
完全に治ったようには見えない。
それでも、あれほど大量に出血していた傷を、短い間にここまで塞いだのだ。
「出血は落ち着いています。あとは私たちで続けられます」
「奥の傷も診てください。まだ傷んでいるところがあるかもしれません」
「分かりました。引き継ぎます」
女性はようやく手を離した。
額には大粒の汗が浮かび、肩で息をしている。指先が細かく震えているのを見て、隣の治癒術師が眉を寄せた。
「もう休んでください。さっきからずっと治療を続けています」
「……次は?」
「こちらで診ます。今の患者さんも治癒院へ運びますから」
女性は何か言いかけたが、その場では頷いた。
俺もこれで少し休むのだろうと思い、再び宿の方へ目を向けた。
ところが、別の場所から重傷者が運ばれてくると、彼女は反射的に立ち上がった。
足元がふらつき、すぐ近くの木箱へ手をつく。
それでも立ち止まらず、負傷者のもとへ向かっていった。
「……本当に行くのか」
俺は思わず呟き、後を追った。
◇
運ばれてきた男は、肩から胸にかけて大きく裂けていた。
衣服は血に染まり、意識もはっきりしていない。呼吸するたびに痛むのか、苦しそうな呻き声を漏らしている。
銀髪の女性はすぐ横へ膝をつき、傷口へ手を当てた。
淡い光が生まれたものの、数秒も経たないうちに弱くなる。
彼女は息を整え、もう一度集中した。
今度は傷の周囲へ光が広がったが、先ほどのように傷が塞がっていく様子はなかった。
「……もう少し」
女性は声を絞り出し、さらに魔力を注ごうとした。
その手が震えている。
すぐ近くでは別の治癒術師が駆け寄ってきており、傷の状態を確かめながら処置を引き継ごうとしていた。
女性はそれでも手を離さず、もう一度魔法を使おうとする。
俺は彼女の横へ膝をつき、伸ばされていた手首を掴んだ。
「放してください!」
「このまま続けたら、次はあなたが倒れます」
女性が鋭い目でこちらを睨んだ。
「まだ助けられる人がいるんです。放してください!」
「だから、ほかの治癒術師が来てます」
俺が目を向けた先では、二人の治癒術師が負傷者の処置を引き継いでいた。
女性もそちらを見たが、すぐに立ち上がろうとする。
その瞬間、身体が大きく揺れた。
俺は慌てて肩を支えた。
「危ない!」
「……っ」
「もう立っているのもつらいんでしょう」
「それでも、私は――」
「さっきから何人も助けてるのは見てました。あれだけ治せる人が、ここで倒れたら困るでしょう」
女性は唇を噛み、俺の手を振りほどこうとした。
「あなたに何が分かるんですか」
「治療のことは分かりません。でも、今の状態で続けるのが無理なのは分かります」
少し強引だったかもしれないが、支えていなければその場へ崩れ落ちそうだった。
近くの治癒術師もこちらへ顔を向けた。
「こちらで引き継ぎます。あなたは休んでください」
「でも、あの人はまだ……」
「私たちで診ます。必要なら、治癒院から応援も呼べますから」
女性は負傷者へ視線を向けたまま、しばらく黙っていた。
なおも動こうとする気配があったので、俺は手を離さずに言った。
「全部一人で助けるつもりですか」
「そんなこと、言ってません」
「なら、今は代わってもらってください」
彼女の眉がきつく寄った。
「五分でいいです。座っていてください」
「その五分で、間に合わない人が来たら?」
すぐに返事をしたのは、隣の治癒術師だった。
「その時は私たちが診ます。あなたはもう十分働いています」
女性は何か言い返そうとしたが、そこで一度、大きく息を吸った。
自分の呼吸の浅さに気づいたのかもしれない。
掴んでいた手首からも、先ほどまでの力が抜けていった。
「……五分だけです」
「分かりました」
俺は近くの木箱へ彼女を座らせ、身体を支えなくても大丈夫なことを確かめてから手を離した。
女性は掴まれていた手首を軽く押さえ、じろりとこちらを見た。
「……乱暴ですね」
「すみません。急に立とうとしたので」
「初対面の相手に、随分強引なんですね」
「俺も、初対面の相手を無理やり休ませることになるとは思いませんでしたよ」
一瞬だけ呆れたような顔をしたものの、彼女はすぐ負傷者たちの方へ目を戻した。
隣では治癒術師が男の治療を続けており、少し離れた場所でも負傷者の搬送が進んでいる。
女性はその様子をじっと見つめていた。
「……あの人、助かるでしょうか」
「まだ分かりません。今は治療を任せるしかないと思います」
「そうですね」
返事には悔しさが混じっていた。
それでも、先ほどまでと違って立ち上がろうとはしなかった。
「今度こそ休んでください」
「……努力します」
少しだけ勢いの削がれた返事を聞き、俺は救助作業へ戻った。
◇
日が落ちる頃には、宿の中に取り残されていた人々もほぼ運び出され、現場の騒ぎはようやく落ち着き始めていた。
助かった者ばかりではない。
少し離れた場所には白い布を掛けられた人影もあり、亡くなった者が何人いるのかはまだ分からなかった。
最初に梁の下から助け出した男は、脚の骨折で済んだらしい。奥から運び出した男の子も治癒院へ送られ、少なくとも搬送した時点では命をつないでいると聞いた。
瓦礫から少し離れた場所へ腰を下ろし、水を飲む。
剣を振ったわけでもないのに、腕も腰も重かった。瓦礫を動かすたびに身体強化を使っていたせいもあるのだろう。
「兄ちゃん」
顔を上げると、最初に一緒に梁を持ち上げた男が立っていた。
「さっきは助かった」
「俺だけでやったわけじゃないですよ」
「それでもだ。あんたが来てくれなかったら、もっと時間がかかってた」
男が頭を下げる。
俺も少し困りながら、軽く頭を下げ返した。
「無事だったなら、それで十分です」
そう答えると、男はもう一度礼を言い、ほかの救助者たちのところへ戻っていった。
俺もそろそろ宿へ帰ろうかと思った頃、通りの向こうが少し騒がしくなった。
揃いの装備を身につけた兵士たちが現場へ入り、その前を身なりのいい神官が急ぎ足で歩いてくる。周囲が自然と道を空ける中、神官は治癒術師たちの姿を見つけると、さらに足を速めた。
向かった先には、さっきの銀髪の女性がいた。
「フィアナ様!」
呼ばれた彼女が振り返る。
「そんな大声を出さなくても聞こえます」
「大丈夫ですか? 治癒院から事故現場へ向かわれたと聞いて、どれだけ心配したと――」
「皆と一緒に来ただけです」
「それでもです。これ以上ここにいられて、聖女様に何かあれば――」
そこで、俺は思わず顔を上げた。
聖女様。
近くにいた冒険者も同じ言葉が気になったらしく、小さく「あの子が?」と呟いている。
今日、この街へ来てから何度も耳にした、新しく認められた聖女の話。
治癒の腕が優れていると噂されていた若い女性が、目の前にいるフィアナという人物なのだろうか。
そう思えば、先ほど目にした治癒魔法にも納得がいく。深い傷を短時間で塞ぎ、重い出血を止めていたあの技術は、普通の治癒術師のものとは思えなかった。
ちょうどその時、フィアナもこちらを見た。
目が合うと、さっき手首を掴んだ男だと気づいたらしく、ほんの少しだけ眉が寄った。
俺もたぶん、似たような顔をしていたと思う。
どうやら俺は、ルミエルに着いたその日に、新しく認められた聖女の手首を掴んで説教してしまったらしい。




