第15話 黒い獣
9/22 全体的に推敲し文章をアップデートしました。(内容は変更なし)
広間の奥で動いた影は、松明の光へ近づくまでは大型の獣に見えた。
四本の脚で身体を低く支え、肩の高さは大きな馬とそう変わらない。だが一歩ずつ近づくにつれ、最初に抱いた印象が崩れていく。
身体を覆っているのは毛でも鱗でもなく、黒く鈍い光を返す硬質な外殻だった。何層にも重なった板のようなものが脚の動きに合わせて滑り、細長く前へ伸びた頭部には、少なくとも松明の届く範囲に目も口も見当たらない。
生き物に見えないわけではない。それでも、今まで見てきた魔物のどれとも似ていなかった。
「下がるぞ」
ガルドが大剣を抜いた。
ほぼ同時にローデンが後方へ声を飛ばす。
「撤退します。フィアナ様と治癒術師は中央へ。トーマ、二人を守ってください」
「承知しました」
トーマが盾を構え、フィアナたちの前へ入る。ミラはすでに矢をつがえ、ユリウスも杖を上げていた。
俺も剣を抜き、後退するフィアナたちとの間へ位置を移す。
危険を確認した時点で戻る。それは地下へ降りる前から決めていたことだ。
黒い獣は広間の中央付近で足を止め、細長い頭部を僅かに傾けた。こちらを見ているようにも思えるが、どこで外を認識しているのかは分からない。
「魔物……なんですかね」
後方からトーマの声がした。
「知らん」
ガルドは相手から目を離さない。
「少なくとも、俺は見たことねえ」
白金級として長く戦ってきたガルドが知らない。
それだけで十分だった。
俺も外殻と脚の動きを追う。
関節部分だけ装甲が細かく分かれ、脚が曲がる瞬間に必要な隙間が開いている。胴には呼吸のような僅かな上下がある一方で、重なった外殻は動きに合わせてほとんど無駄なく位置を変えていた。
正体を考えるのは後でいい。今見るべきなのは、どれほど速く、どこまで攻撃が届き、どう体重を移し、何を狙って動くのかだった。
前脚が沈み、巨体が僅かに前へ傾く。
「来ます!」
俺が声を上げるのと、ガルドが大剣を構えるのはほぼ同時だった。
次の瞬間、黒い獣が床を蹴った。
装甲猪に近い体格からは想像しにくい加速だった。ただ一直線に突っ込んでくるのではなく、途中で頭部を振り、こちらの動きに合わせるように進路を修正しながらガルドへ迫る。
ガルドも真正面では受けない。
衝突の直前に半歩外へずれ、すれ違いざまに大剣を肩口へ叩き込んだ。
甲高い音が広間へ響く。
黒い巨体は横へ大きくぶれたが、外殻に残ったのは白い筋のような傷だけだった。
「……硬えな」
ガルドが間合いを取り直す。
ベルカ村の装甲猪なら、今ので深手になっていたはずだ。
「外殻は避けた方がいいです。ミラさん、脚の隙間を狙えます?」
「やってみる」
「ユリウスさんは止めるより、足運びを崩してください」
「了解」
俺も少し横へ動き、黒い獣が向きを変える様子を見る。
大きく流れた身体を前脚で支え、そのまま後脚を滑らせるように旋回している。それだけの巨体を持て余す様子がない。
「ユリウスさん、右前!」
杖が床へ向く。
黒い獣の進路上で石床が低く盛り上がった。装甲猪なら十分に踏み込みを乱せる高さだ。
だが黒い獣はそのまま突っ込まなかった。
段差の直前で脚の運びを変え、盛り上がった石へ前脚を置くように越える。速度もほとんど落ちていない。
「今の見た?」
ユリウスの声に驚きが混じる。
「見てます。偶然じゃなさそうです」
魔法が発動してから脚の置き方を変えた。
その直後、ミラの矢が二本続けて飛ぶ。
一射目は頭部の外殻に弾かれたが、二射目は前脚が伸びた瞬間を捉えた。矢先が装甲の切れ目へ浅く入り、黒い獣の歩幅が僅かに乱れる。
「そこだ!」
ガルドが踏み込んだ。
矢の刺さった関節へ大剣が斜めから入り、今度は硬いものが砕ける音とともに黒い破片が床へ散った。
前脚が沈み、巨体が大きく傾く。
「通った!」
ユリウスの声が飛ぶ。
だが、本当に異様だったのはそこからだった。
普通の獣なら、深く傷ついた脚を反射的に庇う。痛みに暴れたり、動きが荒くなったりすることもある。
目の前の黒い獣は、傷ついた前脚へ体重を掛けるのをやめると、残る三本で身体を支え、その状態に合わせるように歩幅まで変えた。
「痛がってない……」
思わず口にすると、ガルドが返す。
「そういう魔物もいる」
「痛みに鈍いだけじゃない気がします。壊れた脚を使わない動きに、もう切り替えてる」
言い終わるより早く、黒い獣の胴が大きく捻れた。
背後から、それまで身体に沿うように畳まれていた細長いものが伸びる。
「ガルドさん、横!」
ガルドが大剣を立てた直後、尾のようなものが横薙ぎに叩きつけられた。
重い衝撃音とともにガルドの巨体が数歩押し流される。大剣で大半を受けたものの、尾の先が左前腕まで巻き込み、籠手から鈍い音がした。
「ガルドさん!」
「平気だ! 前見ろ!」
黒い獣はすでに次の動きへ移っていた。
傷ついた脚を使わないまま身体を低くし、俺とガルドの間を抜けるように向きを変えている。
その先にはフィアナたちがいた。
俺は床を蹴って前へ出た。
外殻そのものは斬れない。狙えるのは傷ついた脚の付け根か、動いた瞬間だけ開く装甲の隙間だ。
黒い獣が踏み込む。
真正面に残らず、軌道から半歩外へ逃がしながら剣を構えた。巨体が目の前を通過する瞬間、前脚の内側で外殻が開く。
そこへ刃を滑り込ませた。
何か柔らかいものを裂いたあと、さらに奥で硬い抵抗へ当たる。
骨とは違う。
それ以上押し込めば剣を持っていかれる。すぐに引き抜いて身を低くすると、黒い肩がこちらへ向き、尾がさっきまで頭のあった高さを薙いだ。
「危ねえぞ!」
ガルドが怒鳴る。
「分かってます!」
「分かってる奴の間合いじゃねえ!」
返している間にも、黒い獣は俺へ向き直らなかった。
傷を入れた俺へ反撃するより先に、また後方へ進路を取ろうとしている。
単に抜けやすい場所を選んでいるのか、それとも別の狙いがあるのかは分からない。
ただ、広い場所で自由に向きを変えさせるのはまずい。
「ローデンさん、通路まで下がりましょう!」
「理由は?」
「ここだと自由に回り込まれます。通路なら横へ抜けられないし、撤退しながら戦えます!」
返事は早かった。
「全員、入口方向へ後退! フィアナ様と治癒術師を中央に。隊形を崩さないでください!」
トーマが二人を守りながら先に通路へ入り、ユリウスとミラがその手前へ続く。
俺とガルドは最後に残り、黒い獣の動きを見ながら少しずつ距離を取った。
奇妙なことに、黒い獣はすぐには追ってこなかった。
こちらが陣形を変えて下がる間、歩みを緩め、頭部を僅かに振っている。
「ガルドさん」
「ああ?」
「次、同じ止め方は通じないかもしれません」
「さっきの段差か」
「はい。見て避けました。次は別の崩し方にします」
通路へ入る前に後方へ声を飛ばす。
「ユリウスさん、次は進路の前に段差を作らないでください。右側の床だけ、少し沈められます?」
「片側だけ?」
「三本脚で均衡を取ってるなら、その方が効くはずです」
「できる」
「ミラさんは傾いた瞬間に、傷ついた脚の付け根をお願いします」
「分かった」
ガルドが大剣を構え直した。
「俺は?」
「正面をお願いします」
「一番雑じゃねえか」
「できる人に頼んでます」
「ったく」
短く笑った声が消え、ガルドの視線が前へ戻る。
通路は二人が並べる程度しかない。
黒い獣が回り込めない代わりに、こちらも逃げる方向は限られる。ガルドが中央より少し左へ立ち、俺は右の壁際へ寄った。その数歩後ろにミラとユリウス、さらに後方ではローデンとトーマがフィアナたちを守っている。
黒い獣が通路へ踏み込んだ。
傷ついた前脚を使わず、残る三本で速度を上げる。
「まだです」
ユリウスは杖を構えたまま待つ。
黒い獣は頭部を僅かに下げ、床とこちらを探るように進んでくる。
さっきなら、ここで魔法を使った。
今回は待つ。
ガルドまであと数歩。
さらに一歩詰まったところで、俺は声を上げた。
「今!」
石床の右側だけが僅かに沈んだ。
段差を警戒して脚を高く運んでいた黒い獣は、その変化へ対応するのが一瞬遅れた。三本で保っていた均衡が崩れ、巨体が右へ傾く。
そこへミラの矢が飛び込み、傷ついた前脚の付け根へ深く食い込んだ。
「ガルドさん!」
「任せろ!」
大剣が正面から振り下ろされる。
黒い外殻が大きく砕け、肩口の内側が露出した。
俺も同時に動く。
ガルドが正面で押さえている間に右側へ入り、割れた隙間へ剣先を滑り込ませた。黒い膜のようなものを破ったあと、刃が硬い構造へ当たり、その周囲から粘りのある黒い液体が流れ出す。
血とは違う臭いだった。
その正体を考える暇はない。
黒い獣の尾が跳ねる。
「伏せろ!」
ガルドの声に身を沈めると、頭上を黒い尾が抜け、そのまま壁へ叩きつけられた。石片が飛び、反動で獣の上体がこちらへ流れる。
俺は剣を引き抜きながら頭部へ目を向けた。
脚を一本ずつ壊していては時間がかかる。
「ガルドさん、頭を!」
「最初からそのつもりだ!」
大剣が振り上がる。
一撃目が頭部へ叩き込まれ、外殻に大きな亀裂が走った。その下から白っぽい硬質なものが露出する。
骨に似ているが、不自然なくらい表面が滑らかで形が揃っていた。
黒い獣はなお身体を起こそうとしている。
俺は床へ左手を向け、残った前脚を置こうとした場所だけを僅かに持ち上げた。
大きく崩す必要はない。
脚先がずれ、頭が上がり切らなければ十分だった。
「今です!」
ガルドの二撃目が、同じ場所へ叩き込まれる。
白い内部構造ごと大きく砕けた瞬間、黒い獣の全身から力が抜けた。
巨体が床へ沈み、尾も脚も動かなくなる。
それでも誰もすぐには近づかなかった。
壊れた頭部の下へ黒い液体がゆっくり広がっていく。
「……止まったか」
ユリウスが慎重に言う。
「そう見えます」
俺も剣を下ろさず答えた。
ガルドも大剣を構えたまま様子を見ている。
しばらく待っても動きが戻らないのを確認し、ようやく張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。
「一匹でこれか」
ガルドが吐き出すように言った。
ベルカ村の装甲猪なら、ガルドはほとんど一人で短時間のうちに仕留めていた。
今回は俺たち三人まで加わり、脚を壊して動きを制限したうえで、ようやく一体を止めている。
外殻の内側には骨に似た白い構造があり、黒い液体まで流れていた。それでも痛みを見せず、損傷すればすぐ別の動きへ切り替える。
何なのかは、まだ分からない。
「ガルドさん、左腕」
後ろからフィアナの声が飛んだ。
「ん?」
「籠手の隙間から血が出てます」
ガルドがようやく左腕へ目を落とす。
さっき尾を受けた場所だ。籠手の一部がへこみ、その隙間から血が滲んでいる。
「このくらいなら――」
「治してもらってください」
俺が先に言うと、ガルドがこちらを見る。
「お前まで言うのか」
「左腕が使えなくなったら困るの、こっちなので」
「言い方が可愛くねえな」
それでもガルドは大剣を手元へ置いて腰を下ろし、フィアナと治癒術師が傷を確認した。
幸い骨に異常はなく、強い打撲と浅い裂傷で済んでいる。
「しばらく左腕でまともに受けないでください」
フィアナが言う。
「ああ」
「本当にお願いします」
「分かったって」
ミラは治療中も通路の奥へ弓を向けたままで、ローデンも警戒を解いていない。
倒したものを調べたい気持ちはあったが、何に触れていいかも分からない状況で優先することではなかった。
「処置が終わり次第、戻ります」
ローデンが決める。
「倒したものには触れません。地上へ戻ってから報告します」
「賛成です」
俺も答えた。
◇
撤退を始めてから、一つ目の分岐までは何も起きなかった。
ミラが往路で残した白い印もそのままで、通路にも変化はない。
だから先頭のミラが急に足を止めた時、最初は新しい痕跡でも見つけたのかと思った。
「待ってください」
声が低い。
ローデンがすぐに反応する。
「何か?」
ミラは前ではなく、後ろへ顔を向けていた。
「音がします」
俺も振り返り、耳を澄ませる。
最初は何も聞こえなかった。
少し待つと、広間の方向から硬いものが床へ触れるような音が微かに届く。
一度。
間を置いて、もう一度。
さっき倒した黒い獣が動いたのかとも思ったが、聞こえてくる位置が違う。
さらに次の瞬間、少し離れたところから別の足音が重なった。
ガルドの表情が変わる。
「……一匹じゃねえのか」
「急ぎます」
ローデンの指示で歩調が上がった。
走れば隊列が崩れる。フィアナと治癒術師を中央へ置き、トーマがその側を守ったまま、できる限り速く階段を目指す。
俺は後方へ意識を残しながら進んだ。
硬い足音はまだ遠いが、止まってはいない。
一つ目の分岐を抜け、次の曲がりへ近づいたところで、先頭のミラが再び止まった。
「……待って」
俺もその肩越しに前を見る。
一瞬、何がおかしいのか分からなかった。
壁際には、ミラが残した白い印がある。
道を間違えたわけではない。
ここを真っ直ぐ進めば、階段へ戻れるはずだった。
今は、その通路を灰色の壁が塞いでいる。
「こんなの、あった?」
ユリウスの声が僅かに掠れた。
「なかったはず」
ミラが即答する。
「ここを通ってる。印も私が付けたもので間違いない」
俺は壁へ松明を寄せた。
材質は周囲とほとんど変わらない。ただ、左右と床際には髪の毛ほどの細い線が走っている。
ただの壁には見えなかった。
前世の感覚なら、扉に近い。横か上下へ滑り、壁の中へ収まるようなものを連想する。
「閉じたんですね」
俺が言うと、誰も否定しなかった。
入ってきた時には開いていた道が、今は完全に塞がれている。
その背後から、硬い足音がまた響いた。
「ローデンさん、ミラさんとユリウスさんにここを見てもらってください。俺とガルドさんで後ろを見ます」
ローデンはすぐ頷く。
「そうしましょう。ミラ殿、ユリウス殿、閉鎖部を確認してください。トーマはフィアナ様と治癒術師を壁際へ。アレン殿とガルド殿は後方をお願いします」
全員が動く。
ミラが床際の細い線を追い、ユリウスは壁と周囲の構造を確認する。トーマは二人を閉鎖部側へ寄せ、その前へ盾を構えた。
俺とガルドは通路の奥へ向き直る。
「アレン」
ガルドが低く呼ぶ。
「二つだ」
「聞こえてます」
一つ。
少し遅れて、もう一つ。
足音は確実に近づいている。
壁が開くまで何分かかるのか分からない。そもそも、こちら側から開けられる保証もない。
なら、その間を持たせるしかなかった。
「この幅なら、あの大きさで横には並べません」
俺は剣を握り直す。
「先頭を止めれば、後ろも詰まります」
ガルドが口の端を上げた。
「考えることが減って助かるな」
「俺もそう思います」
今度は笑う余裕まではなかった。
暗闇の向こうで、二つの足音がまた重なる。
最初の一体を倒した時とは違う。
今度はこちらに、逃げ道がなかった。




