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第131話 届けるまで

 沢の音が近づくにつれ、背後の剣戟は聞こえなくなった。


 俺は木の根を掴んで斜面を下り、張り出した岩の陰で足を止めた。外套の内側へ手を入れると、胸に括りつけた包みが指に触れる。革紐は緩んでおらず、それを確かめてから見上げても、街道は枝葉に隠れていた。


 誰かの声を聞こうと耳を澄ませたが、岩に砕ける水音に紛れて何も聞こえない。振り向かずに行けと言ったハルン護衛長の声を思い出し、俺は外套を閉じて谷底へ下りた。


 昨夜の雨で増水した沢には、岸の草まで呑まれていた。木こりに教えられた猟道は向こう岸にある。少し上流に丸太を渡した場所を見つけ、手で押して動かないことを確かめると、俺は腰を低くして渡った。


 濡れた丸太に何度か足を滑らせ、ようやく対岸へ這い上がった時、背後で枝が揺れた。振り返ると、暗い頭巾と顔を覆う布を着けた者が、斜面の途中からこちらを見ている。もう一人がその横へ並ぶと、先にいた方が片手を南へ向けた。


 俺は岸から離れ、猟道へ上がった。走り始めてからも木々の間に目を向けたが、追手の姿は見えない。それでも、後ろで枝の鳴る音がするたびに歩調が速くなり、登りに差しかかる頃には息が苦しくなっていた。


 道は低い尾根を回り込んでいた。右は根の張った斜面、左は沢へ落ち込む谷で、道の縁には雨水に削られた窪みが続いている。その先の木陰から黒い影が動き、俺は短剣を抜いて足を止めた。


 覆面の一人がこちらへ刃を向け、谷側へ回る余地を塞いでいた。衣服にも武器にも氏族を示す印はなく、こちらが下がれば同じだけ間合いを詰めてくる。背後にも足音が近づき、振り返ると、もう一人が道へ上がってきた。


 俺が尾根を回っている間に、片方は斜面を横切ってきたらしい。後ろの一人に追いつかれる前に抜けようと、俺は正面へ踏み込む姿勢から右の斜面を蹴った。


 幹を掴んで身体を引き上げかけたところへ、刃が迫った。短剣で払ったものの、左の上腕に熱い痛みが走り、掴んでいた幹から指が滑った。道へ落ちた俺の外套を追手が掴み、首元が強く締まった。


 俺は留め紐へ短剣を当て、肩から布が抜けた瞬間、谷へ続く窪みに身を投げた。踵で土を削っても止まれず、枝を巻き込みながら斜面を滑り落ちる。枯れ枝の溜まりに突っ込むと、胸が詰まって息を吸えなかった。


 頭上から小石が転がってきて、俺は顔を上げた。追手が根を掴みながら下りてきている。立とうとした右足首に痛みが走ったが、折れた枝を押しのけ、足を引きずって沢へ向かった。


 大岩の陰へ回り込んでから、替え布を左腕へ巻きつけた。血を落としたままでは、どこへ逃げても追いつかれる。端を歯で引いて締め、胸元の包みを上着の内側へ収め直してから、水へ足を入れた。


 浅い縁でも水は膝近くまであり、冷たさに息が詰まった。包みに飛沫がかからないよう胸を庇い、深いところを避けながら上流へ進む。曲がり角の先には細い支流があり、周囲に広がる岩盤を伝えば、土を踏まずに流れから離れられそうだった。


 左腕の布から血が滴っていないことを確かめ、岩場を横へ伝った。低い木の陰へ潜り込んだ時には右足が震え、腹を地面につけるだけでも痛みを堪えなければならなかった。


 枝の隙間から見える沢に、黒い頭巾が現れた。一人が水際を調べ、もう一人は対岸を見渡してから下流へ戻っていく。残った方が支流を上り始めたので、俺は顔を伏せた。


 岩を踏む音が近づき、やがて枝の擦れる音に変わった。水から上がったところまで来たのかもしれない。左腕の布を押さえ、口元に触れる枯れ葉さえ動かさないよう、息を細く吐いた。


 音は遠ざかっても、しばらくすると別の場所で聞こえた。一度だけ沢を覗くと、追手の一人が南へ続く猟道へ上がるところだった。もう一人がどこにいるのか分からず、俺は木々の影が長くなるまで動けなかった。


 日が傾いてから、俺は這ったまま木の陰を離れた。宿場へ下りる猟道はもう使いたくない。西の尾根を越えれば、調査へ向かう時に通った別の道へ出られる。


 明日には盟都へ戻る予定だった。ハインツ様たちも抜け出せていれば、どこかで会えるかもしれない。そう考えながら幹につかまって立ち上がり、俺は沢に背を向けた。


     *


 暗くなるまで斜面を上ったが、尾根には届かなかった。足元を見分けにくくなり、俺は枝の低く垂れた木の下へ身を寄せた。水筒の水で腕の傷を洗い、布を当て直すと、止まりかけていた血がまた少し滲んだ。


 右足首も腫れていた。靴の紐を緩めて腰を下ろした途端、もう立ち上がりたくなくなったが、濡れた靴下だけは脱いで絞った。指先が冷えて、履き直すのにも時間がかかった。


 昼に食べるはずだったパンと干し肉が、小袋に残っていた。少しずつ噛んでいるうちに、岩陰に座っていたトルドの姿が浮かんだ。


 あの足で、歩けているだろうか。


 槍を支えに立とうとした時、ハルン護衛長が肩を押さえて止めていた。俺を逃がすために前へ出てくれたが、あの後も戦い続けられたのか。ハルン護衛長がトルドを支え、ハインツ様とエルドが後に続く姿を思い浮かべたが、あの急な斜面をどう下りればいいのか、考えがそこで止まってしまった。


 口に残っていたパンを水で呑み込み、胸元へ手を入れた。包みの端に硬い封が触れる。渡される時にはためらったのに、今はこれを失うのが怖く、結び目を確かめてからも手を離せなかった。


 外套のない背中が冷え、俺は乾いた落ち葉を腰の下へ寄せ集めた。火を焚けば見つかるかもしれず、上着を掻き合わせて膝を抱える。寒さと痛みで何度も目が覚め、そのたびに、まだ夜が明けていないことを確かめた。


     *


 翌朝、木につかまって立ち上がると、右足首が昨日よりも痛んだ。枝を杖にしてゆっくり上り、尾根を越えたところで、谷沿いに続く道が見えた。曲がり角にある二つに割れた大岩を覚えていたので、そちらへ向かって下り始めた。


 途中の湧き水で水筒を満たし、残りの食料を食べた。それでも足は重く、道へ出てからも、先を確かめるたびに歩みが遅くなった。追手の姿はないが、木陰からまた刃を向けられる気がして、曲がり角へ近づくのが怖かった。


 荷馬の鈴が聞こえてくると、俺は道端の木へ身を寄せた。北へ向かう男が二頭の手綱を引き、荷には鍋や桶まで括りつけられている。顔を隠している様子もなく、声をかければ何か助けてもらえるかもしれなかった。


 男が近づくにつれ、俺は口を開きかけた。けれど、こちらを振り向かれることを考えると喉が詰まり、そのまま通り過ぎるのを見送ってしまった。


 鈴の音が遠ざかってから、道へ戻った。もう少し先なら別の人がいるだろうと思ったが、歩いても、次の曲がり角までがなかなか近づかなかった。


 昼近くになって、後ろから荷車が追いついてきた。俺は脇へ寄ったが、林へ入る前に車輪が止まり、手綱を持った年配の男がこちらを覗き込んだ。


「お前さん、その足でどこまで行く」


「……盟都です」


「その歩き方じゃ、今日中に着けんぞ。怪我をしてるのか」


「山で、襲われました」


 男は俺の左腕を見て眉を寄せ、今来た道を振り返った。俺も後ろを見ると、少し離れて別の荷車が近づいていた。そちらの御者が何かあったのかと声をかけ、男は手を上げて応じた。


「追われてるのか」


「顔を隠した二人に。昨日の夕方からは、見ていませんが……」


「そうか。俺も盟都へ行く。後ろへ乗れ。兵を見かけたら、そこで話そう」


 示された荷台には袋と空の籠が積まれていた。俺は縁へ手をかけたが、足を上げようとすると右足首が痛み、身体を引き上げられない。男が手綱を置いて下りてくるのを見て、ようやく声を出した。


「少し、支えてもらえますか」


「ああ。痛くない方の足から上がれ」


「……ありがとうございます」


 俺は杖を荷台へ立てかけ、縁へ手をかけたが、足を上げようとすると右足首が痛み、身体を引き上げられない。袋の間へ座ると、男は水筒を渡し、立てかけていた枝も荷台へ載せてくれた。


 動き始めてからも、俺は胸元を押さえて道を見ていた。車輪が石を越すたびに左腕へ響いたが、足を運ばずに景色が動いていくことがありがたく、荷袋から背中を起こせなかった。


 男が分けてくれたパンを食べると、眠気が押し寄せてきた。残りを落とさないよう膝へ置いたところまでは覚えている。次に目を開けた時には畑が道の両側へ広がり、荷車のそばで男が誰かと話していた。


「起きられるか。兵がいたぞ」


 俺は荷袋に手をついて身体を起こした。巡回中らしい二人の兵がこちらを見ており、一人が荷台へ近づいてきた。


「ハインツ・セーゲル様の護衛です。ニールといいます。盟都へ、お届けする書状があります」

「ハインツ様はどこにいる」

「山道で襲撃されて……皆さんが残って、俺を逃がしてくれました」


 兵は俺の傷と、胸元を押さえる手を見てから、もう一人へ向き直った。


「詰所へ知らせろ。ハインツ様の護衛と名乗る負傷者がいる。襲撃を受けたそうだ。俺は門まで付き添う」


 もう一人が脇の道へ走っていく間に、兵は荷台へ上がった。書状は門で確かめるから、そのまま持っているようにと言い、荷車の男へ先を急いでくれと頼む。


 俺はまた道を振り返った。畑から戻る人や荷を運ぶ者が行き交い、兵に会釈をして通り過ぎていく。荷袋へ背を戻すと、ようやく、腰の短剣から手を離すことができた。


 日が傾き始めた頃、ノルヴェインの防壁が見えた。門の前には荷車が並んでいたが、同乗していた兵が先へ下りて話をすると、脇へ案内された。俺は石壁を見上げかけ、首を起こしているのがつらくなって、荷台の縁へ手をついた。


「ニール、降りられるか。手を貸すぞ」


 門をくぐったところで声をかけられ、差し出された腕へつかまった。ところが右足を地面へ下ろした途端に力が抜け、反対側からも身体を支えられる。歩こうとしても靴先が地面を擦り、俺は兵の袖を掴んだまま足元を見ていた。


「ハインツ様の、書状を……」


「ここで受け取る。まず座れ。おい、治療のできる者を呼んでくれ」


 詰所の前へ椅子が運ばれ、肩に毛布がかけられた。付き添ってきた兵が事情を伝える間、俺は胸元の革紐を解こうとしたが、指がうまく動かない。そばへ膝をついた兵に結び目を緩めてもらい、両手で包みを引き出した。


 包みの外側には、汗と泥が染みていた。それでも中は濡れておらず、封もハインツ様から渡された時のままだった。兵はその封を確かめ、俺が差し出す包みへ両手を添えた。


「イシュラ様へ、お願いします」


「ああ。確かに預かった」


 手を離した後も、俺はしばらく包みを見ていた。兵は立ち上がり、そばに来た者へ居館に知らせるよう指示を出している。その向こうでは荷車の男が事情を聞かれ、俺を乗せてきた荷台を指していた。


 礼を言おうとして、口を開いた。けれど男がこちらを向くより先に、山道で別れた四人の顔が浮かび、うまく息を吸えなくなった。


「ハインツ様たちが、まだ……山に」


 胸元へ戻しかけた手を膝へ落とすと、毛布の端が触れた。握り込もうとしても指に力が入らず、俺は兵に肩を支えられたまま、声を出して泣いた。

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