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第130話 帰路

 昨夜の雨が上がっても、山道には薄い霧が残っていた。


 北方内陸から盟都ノルヴェインへ戻る途中、私たちは山腹に沿った街道を南へ下っていた。東には針葉樹の生えた岩棚が迫り、西は沢へ落ち込む深い谷になっている。道を横切る雨水が細かな石を運んでおり、先頭のニールは時折立ち止まって足場を確かめていた。


 盟都から帰還を命じる書状が届いたのは三日前だ。諸族評議会はすでに終わっている頃だろうが、採決の結果までは知らされていない。調査を切り上げるには惜しい土地もあったものの、持ち帰るべきものは揃っていた。


 カシュラと関わりの深い氏族では、戦士団の交代が早まり、穀物や飼料が普段とは違う集積所へ運ばれている。武具の注文を受けた工房では鉄の値が上がり、荷運びを請け負う商人の中には、行き先を告げられないまま仕事を引き受けた者もいた。


 私の鞄には、そうした話と現地で見せてもらった帳面の写しが入っている。帰還前に要点をまとめた報告書も用意したので、盟都に着けばイシュラ様へすぐに提出できる。


「ハインツ様。この先、道が少し狭くなります」


 先行していたニールが戻ってきた。護衛の中では最も若く、山道では誰よりも足が速い。調査の間も道の確認を任せてきたが、急いでいる時ほど丁寧に足元を見る男だった。


「崩れたところはないか」


「大きな崩落はありません。ただ、昨日の雨で石が流れています。荷車では通れませんね」


「人の往来は?」


「古い轍が残っているくらいです。今朝の足跡は見当たりません」


 私は隣を歩くハルンへ目を向けた。護衛長の彼は小盾と片手剣を携え、後ろを守るエルドには弓を、私のそばにいるトルドには短槍を持たせている。


「このところ商人が道を変えていますからな。次の宿場へ下りれば、もう少し人通りもあるでしょう」


「日が暮れる前に着きたいところだ」


「だからといって、先へ行くニールを急かさないでくださいよ」


 先回りされた私は苦笑した。ハルンとは何度も遠方の調査に出ており、足場の悪い土地で無理をしようとすれば、こちらが使徒であっても遠慮なく止めてくる。


「分かっている。お前に背負ってもらうような真似はしたくないからな」


「それなら結構です」


 ハルンは満足そうに頷き、トルドにも間隔を詰めすぎないよう声をかけた。


 街道はやがて大きな岩棚を回り込むように曲がった。東の斜面には人が登れる段差が続き、西の石積みの向こうからは増水した沢の音が響いてくる。曲がり角の手前には谷へ下りる細い踏み跡もあったが、昨日会った木こりは、あそこを使うなら荷を軽くしろと笑っていた。沢沿いを進めば西の猟道へ出られるそうだ。


 岩棚の手前で、ニールが膝を折った。


「ハインツ様、こちらを」


 濡れた土に靴跡が重なっていた。昨夜の雨で表面を洗われた場所なのに、岩へ向かう足跡の輪郭がはっきりしている。ニールが指した上方は、木々の陰から街道の曲がり角を見下ろせる位置だった。


「狩人か?」


「この辺りでは珍しくありません。でも、全員があの岩棚へ登ったようです」


 霧の残る枝の間を見上げたが、動くものはない。私は街道の先を確かめ、それからハルンへ振り返った。


「北の鞍部まで戻ろう。迂回路を使う」


「承知しました」


 ハルンはすぐに後続へ合図を送り、ニールを先頭にして来た道を引き返し始めた。ところが曲がり角を離れる前に、後方を見ていたエルドが足を止めた。


「鞍部に人がいます。武装していますね」


 北へ続く道の先で、雑木の間を数人が横切っていた。こちらへ走ってくる様子はなく、道の両側へ広がって木々の陰へ消えていく。ハルンは盾を持ち直し、トルドを私の前へ移した。


「西の踏み跡を使える位置まで下がりましょう」


「ニール、入口を確かめてくれ。エルドは鞍部から目を離すな」


 指示が行き渡るより早く、鋭い風切り音が聞こえた。


「伏せろ!」


 ハルンが盾を上げ、私は岩の陰へ身を沈めた。矢が頭上を抜けて背後の木に突き刺さり、続く一本は石畳に当たって足元へ破片を散らした。東の岩棚から射られている。


「エルド、上を抑えろ! トルドはハインツ様を守れ!」


 エルドが岩陰から弓を引くと、枝の間で人影が身を引いた。すぐ別の場所から矢が返ってきたが、その間に私たちは道の端の大きな岩まで退くことができた。


 鞍部には、すでに盾や槍を構えた戦士が並んでいた。長弓を持つ者は一段高い場所へ回り、ほかの戦士たちが北へ戻る道を塞いでいる。山仕事にも使われる短い外套と丈夫な靴を揃えており、歩き方にはこの土地の斜面に慣れた様子が見えた。


「北へ押し通ってみます。あの一団が広がりきる前なら」


 ハルンの提案に頷き、ニールとともに少し後ろへついた。エルドが東の射手を牽制する間、ハルンは盾を掲げて北へ駆け、トルドが槍を構えて横へ並ぶ。


 先頭の戦士が振り下ろした剣をハルンが受け止め、盾で肩を押し返す。トルドは横から回り込もうとした相手へ槍を突き出し、一時は道の中央に隙間ができた。


 だが、鞍部の上から矢が放たれると、二人の進み足が止まった。ハルンが盾を上げたところへ別の戦士が踏み込み、トルドの足元には東からの矢が突き刺さる。左右の射手がこちらの動きを見て位置を変えていた。


「ハルン、戻れ!」


 ハルンはすぐに方向を変えた。トルドが槍を横に振って追撃を止め、エルドも二本続けて矢を放つ。敵がひるんだ隙に私たちは元の岩陰へ退いたが、最後に下がったトルドの左腿には矢が刺さっていた。


「歩けるか」


「……ええ。槍を支えにすれば」


 トルドが腰を下ろすのを手伝い、私は携行していた布で矢の周囲を固定した。傷口から滲む血が布を赤く染めていく。ハルンも膝をつき、盾の縁に食い込んだ矢を確かめていた。革の留め具の一つが切れ、矢柄は斜めに突き出したままになっている。


「北はもう通れませんな」


「南も岩棚の下を抜けることになる。何か手はあるか」


 ハルンは西側の石積みへ目を向けた。沢へ下りる踏み跡は狭く、負傷したトルドを連れて進めば、斜面の上から狙われるだろう。私はその道とニールの顔を交互に見た。


「ニール一人ならどうだ」


「岩陰を離れる二十歩ほどが危険です。その間、射手をこちらへ向けさせられれば」


 ハルンが言い終える前に、私は鞄から封をした書類の包みを取り出した。兵の移動と物資集積について帰還前にまとめた報告書で、現地の協力者の名前は書いていない。


「これを盟都へ届けてくれ、ニール」


 包みを差し出すと、彼は受け取る手を止めた。


「私だけですか?」


「お前の足なら西へ抜けられる。ここで襲撃されたことも、イシュラ様に伝えてほしい」


「しかし、皆さんはどうするんです」


「お前が斜面へ入るまで敵を引きつける。その後は私たちも逃げ道を探す」


 ニールは傷ついたトルドを見た。彼は槍を握り直し、立とうとして傷口をかばったが、ハルンが肩へ手を置いて止めた。


「ニール、お前が走る時は俺たちが北へ出る。合図したら振り向かず行け。沢へ下りたら、街道に戻るのはよせ」


「護衛長……」


「お前が迷っていれば、こっちも動けん。頼んだぞ」


 ニールはようやく報告書を受け取り、外套の内側へ入れた。革紐で胸元へ固定すると、私たちを見回した。


「必ず届けます」


「ああ。生きて戻ってくれ」


 手を伸ばして彼の肩を叩くと、ニールは一度深く頷いた。


 ハルンはエルドを岩棚の射手が見える位置へ移し、トルドとともに北側へ向かった。二人が進むと、鞍部の戦士たちが迎え撃つために街道へ下りてくる。エルドも矢を続けて放ち、東の射手に姿を見せる隙を与えなかった。


 トルドの槍が戦士の足元を払うように突き出され、ハルンの盾が正面の男を押し戻した。別の戦士が横から入ろうとすると、エルドの矢が地面に突き刺さり、その歩みを止める。


 私はニールの前へ立ち、東の斜面を見た。岩棚の射手はエルドのいる方へ身を寄せている。街道の西端には、今なら弓を構えている者の姿がなかった。


「ニール、今だ!」


 ハルンの声が飛んだ。


 ニールは岩陰を飛び出し、石積みまでの距離を一気に駆け抜けた。途中で姿勢を低くして最後の数歩を滑り込むように進み、崩れた石壁を越える。遅れて二本の矢が飛んだが、一本は石に砕け、もう一本が外套を裂いただけだった。


 木の根に足をかけ、斜面へ身を落とす姿が見えた。ニールは一度も振り返らず、岩陰から岩陰へ移りながら沢へ下っていった。


「西へ逃げたぞ!」


 敵の声に、北側の戦士が二人、進路を変えた。トルドが槍を突き出して一人を止め、ハルンは盾を振るってもう一人を押し返す。エルドも斜面上へ矢を放ったが、追手はそれだけではなかった。


 東の岩棚の奥から、暗い布で頭と顔を覆った人影が現れた。軽い装備に短い刃物を携え、濡れた岩を踏む足に迷いがない。すぐ後ろにも同じ姿の者がいて、二人は西へ向かって斜面を横切り始めた。


 ハルンが追おうとした時には、鞍部から新しい戦士が下りてきていた。盾を戻してその剣を受けた間に、覆面の二人は石積みの向こうへ消える。


 私は谷へ目を向けた。ニールも追手も木々の陰に入り、沢の音に紛れて足音すら聞こえなくなっている。


「戻れ、ハルン! トルドの足が持たん!」


 ハルンはトルドを庇いながら退き、エルドも残った矢で二人を援護した。私たちは西側の石積みまで下がって陣を固めたが、追ってきた戦士たちは道を塞いだまま距離を保っていた。


 しばらくしてエルドが矢筒を確かめ、顔をしかめた。


「残りが少ないです」


「近づいてきた時まで取っておけ」


 ハルンは盾の留め具を締め直した。刺さった矢は折れたまま縁に残り、腕にも剣が掠めたらしい傷があった。トルドは石積みに背を預け、水を飲んでいる。傷の周囲を覆った布は赤く染まっていた。


「帰ったら、しばらく歩きたくありませんね」


 水筒を返しながらトルドが言った。


「私も同感だ。イシュラ様に休暇を願い出よう」


「ハインツ様は、どうせ休みの間も帳面を開いているんでしょう」


 そう言われて、私は否定できなかった。ハルンが小さく笑ったが、その直後に北側から矢が飛び、会話は途切れた。


 敵の射手は高い場所へ移っていた。これまで岩陰に隠れれば避けられた矢が石積みの内側にまで届くようになり、私たちは身を寄せる場所を変えなければならなくなった。


 ハルンとトルドが前へ出ると、北の戦士たちも歩調を合わせて近づいてくる。二人は狭い街道の幅を利用し、盾と槍で相手の進路を塞いだ。ハルンが剣を突き出す時にはトルドが側面を守り、トルドが足を引けない時にはハルンが盾を寄せる。長い間組んできた二人ならではの動きだった。


 それでも、上から射られ続ければ持ちこたえられない。


 トルドが飛んできた矢を避けようとして足を崩したところへ、正面の戦士が踏み込んできた。ハルンは盾を差し入れて剣を受け、相手の身体を押し返したが、その間に別の戦士がさらに前へ出てくる。


 エルドの矢が敵の肩を射抜き、ようやく相手が下がった。私たちはトルドを石積みの陰まで引き戻したものの、彼はもう一人で立つことも難しそうだった。


「少し休め。前はハルンに任せよう」


「……すみません。あと少しなら」


「槍は持っていてくれ。必要になれば呼ぶ」


 トルドが歯を食いしばって頷いた時、東側の斜面から小石が転がる音がした。


 見上げると、岩棚の細い溝を使って三人が下りてきていた。全員が暗色の軽装に頭巾と覆面を着け、髪も耳も隠している。露出しているのは目元だけで、衣服にも武器にも所属を示す意匠は見えなかった。


 先頭の者が足場を変えると、後ろの二人もすぐに左右へ分かれた。声を交わす様子はなく、濡れた岩の上でも互いの間隔を乱さない。


「ハルン、東だ!」


 私の声に応じ、ハルンが盾を向け直した。しかし、北側の戦士たちもその隙に前進してくる。エルドが東へ矢を放った時には、一人が岩陰へ身を隠し、残る二人が別の段差から街道へ下りていた。


 私は剣を抜いてエルドの横に立った。街道へ下りた一人が間合いを詰めてきたので刃を向けると、相手は届かない位置で足を止め、視線だけをエルドへ移した。


 次の瞬間、小さな刃が飛んできた。


 エルドが身を引いて避けたところへ、岩棚から矢が放たれる。彼は弓を上げようとしたが、左腕を掠められて動きが止まった。覆面の一人はその瞬間に距離を詰め、短剣を突き出してくる。


 エルドは弓を捨てて腰の短剣を抜き、どうにか相手の刃を受け止めた。私も援護しようと踏み込んだが、別の覆面が斜め前へ入り、剣を持つ腕の動きを妨げてきた。


「エルド、こちらへ退け!」


 相手の刃を押し返しながら叫ぶと、エルドがこちらへ顔を向けた。その足元を狙って矢が飛び、退路を変えた彼の側面へ覆面の一人が回り込む。


 私が剣を振るより早く、短剣がエルドの胸元へ入り込んだ。


「……ぐっ!」


 エルドはよろめき、胸を押さえて膝をついた。私は相手へ剣を向けて距離を取り、彼の肩を抱えて石積みまで引き戻したが、指の間から血が溢れている。


「エルド、しっかりしろ」


 呼びかけても、口がわずかに動くだけだった。倒れた身体を支えるうちに腕から力が抜け、私は彼をそっと地面へ横たえた。


 ハルンが盾を構えて私たちの前に立つと、覆面の二人は追撃をやめた。東の岩棚にはもう一人が残り、北側の戦士たちも射手の下で足を止めている。


 トルドはエルドの姿を見て、槍を支えに立ち上がろうとした。


「護衛長、俺も前へ」


「足を使うなと言っただろう」


「ここで座っていたら、もう誰も守れません」


 ハルンは彼の顔を見て、それ以上止めなかった。私も剣を構えたが、その手が汗で滑るのを感じた。


 背後の谷からは、変わらず沢の音が聞こえている。ニールの姿はとうに見えなくなり、こちらへ戻ってくる足音もなかった。


 私は鞄を開き、集めた記録を取り出した。商人から写させてもらった帳面や、協力してくれた氏族の者の名前が記されている。これが奪われれば、残してきた人々まで危険にさらしてしまう。


「ハルン、少し頼む」


 彼は私の手にある記録を見て頷き、石積みから東側へ半歩出た。トルドも槍を構えて隣につき、私が紙を破る間、近づいてきた戦士たちを食い止めてくれた。


 頁を裂き、小さく畳んでからさらに引きちぎる。細かくなった紙を石積みの向こうへ放ると、風にあおられて斜面へ散り、いくつかは増水した沢へ落ちていった。残った頁も破って谷へ落とし、最後に革表紙を投げ捨てる。


 鞄を閉じた時、金属のぶつかる音がすぐ近くで響いた。


 トルドが槍を突き出して相手の剣を止めていたが、傷ついた脚では踏ん張れず、押されるたびに石積みへ寄せられていく。ハルンが盾で援護したところへ、東の斜面から矢が飛んだ。


 矢がトルドの肩に突き刺さり、槍の穂先が下がった。そこへ正面の戦士が踏み込み、胸元へ剣を振り抜く。


「トルド!」


 ハルンが相手を押し返し、倒れかけたトルドを抱えて戻った。私も肩を貸して岩陰へ運んだが、胸の傷から流れる血は止まらず、トルドは何度か息をしようとした末に動かなくなった。


 ハルンはその顔を見下ろし、剣を握る手に力を込めた。肩口の革鎧は裂け、盾を持つ腕からも血が流れている。彼が一人で前へ出ようとしたので、私は剣を持って隣へ立った。


「私もここにいる」


「ハインツ様は後ろへ。守る場所を増やされると、かえって困ります」


 こんな時までいつもの言い方をするので、私は言い返せなかった。ハルンは私を石積みの内側へ押し戻し、正面の敵を見据える。


 覆面の三人が、少し離れた場所で足を止めた。その中央にいた一人がこちらへ近づいてくる。ほかの二人より少し細身で、覆面の隙間から淡い琥珀色の瞳が見えた。


「記録を渡して」


 低く抑えた声だった。


「誰の命令で私を襲う」


「調べたものは、どこ?」


「もうない」


 相手は私の鞄へ視線を落とし、次に西の谷を見た。


「逃がした者に持たせた?」


 私は剣を握り直した。覆面の奥の瞳がこちらを見ていたが、答えを待つ気配はなく、片手をわずかに動かしただけで左右の二人が位置を変えた。


 ハルンは盾を構え、私の前へ一歩出た。


「ハインツ様、下がっていてください」


「お前の腕は……」


「まだ剣は振れます」


 その返事を聞いている間に、左の覆面が踏み込んだ。ハルンは短剣を盾で受け、右から近づくもう一人へ剣を向ける。二人の攻撃を交互にさばいていたが、傷ついた腕では盾を引き戻すのが遅れていた。


 中央の人物はその間も距離を詰めず、ハルンの足運びを見ていた。彼が右の相手へ剣を振ったところで、左へ踏み込むように身体を傾ける。ハルンが盾を寄せた瞬間、その人物は足を止め、今度は右側の覆面が強く斬りかかってきた。


 ハルンは剣で受け止めたものの、盾を戻す余裕がない。中央の人物がすぐに間合いへ入り、盾の縁を滑らせるように短剣を突き出した。


 刃が肩の付け根に入り込み、ハルンの身体が傾いた。彼はなおも剣を振ったが、相手はすでに距離を取っている。左右の二人が再び踏み込んだ時には、盾を上げる腕がほとんど動いていなかった。


「ハルン!」


 私が駆け寄ろうとすると、覆面の一人が進路に立った。剣を振って追い払ったものの、もう一人が斜めから刃を突き出してきたため、石積みまで下がるしかなかった。


 その向こうでハルンが膝をつくのが見えた。何とか立ち上がろうとしたが、中央の人物が身を低くして懐へ入り、短剣を突き入れる。


 ハルンの手から剣が落ちた。盾が石畳に当たり、彼はその横へ崩れ落ちる。


 私は声をかけようとしたが、喉が詰まって言葉にならなかった。ハルンとは長い道を一緒に歩いてきた。出発前に荷物の重さで言い合った時も、私が体調を崩して予定を遅らせた時も、最後まで隣に残ってくれた男だった。


 中央の覆面がこちらへ向き直った。


「記録は?」


 私は剣先を上げた。返事をしなければ、誰かが私の鞄を探るだろう。書類はもう破ったが、ニールのことまで知られるわけにはいかなかった。


 少し離れた場所から戦士の一人が声をかけてきた。


「西へ下りた者には追手がついている。まだ戻らん」


「沢の先まで確認して。道が分かれるところも」


 中央の人物は声を落として指示を返した。名前を呼ぶ者はおらず、覆面の中で誰が何を担っているのかも、外からは分からない。


 私は石積みに背を寄せ、残る力で剣を構えた。右の覆面が踏み込んできたので刃を向けると、相手は届く寸前で足を止めた。反対側から伸びた短剣を受け止めた時には、中央の人物がすでに間合いへ入っていた。


 剣を戻すより早く、短剣が腕の下を抜けて肋骨の下へ深く突き刺さった。


 息が詰まり、身体から力が抜ける。相手の腕を掴もうとしたが、すでに刃は引き抜かれていた。石積みに手をついて踏みとどまろうとしても指先が滑り、私は濡れた石畳へ崩れ落ちた。


 腹の奥が焼けるように痛み、息を吸おうとするたび胸の下が強く引きつれた。誰かが鞄を取り上げ、中身を確かめているらしい。


「記録はありません」


 覆面越しの声が頭の上で聞こえた。返答はよく聞き取れず、足音が遠ざかっていく。


 私は顔を西へ向けようとした。ニールが下りていった斜面は木々の向こうにあり、沢の音だけが聞こえる。あの道を抜けられれば、彼なら宿場まで走れるだろう。報告書を持って盟都へ向かう姿を思い浮かべたが、追手のことが気にかかり、すぐに目を開いた。


 もう一度だけ道を見たかった。首に力を入れても身体は動かず、視界の端で石畳が滲んでいく。


 最後に見えたのは、ハルンの盾だった。


 使い込まれた革の留め具が切れ、縁に刺さった矢が、風に揺れていた。

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