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第126話 カシュラの男(3/3)

「ははっ! ようやく来やがったか、断岳!」


 ゼインが声を上げて笑った。


 オスカーは答えず、戦斧の柄を押し込んだ。ゼインの剣が外側へ弾かれ、二人の間にわずかな隙間ができる。


「アレン、下がれ。立てるか?」


「……何とか」


「なら下がってろ。こいつは俺が止める」


 オスカーはゼインから目を離さず、俺が壁際を抜けられるよう半歩位置を変えた。


 剣を下ろして踏み出した途端、右膝に痛みが走った。先ほどの加速から脚の感覚がおかしく、力を入れると膝の奥まで鋭い痛みが響く。それでも倉庫の壁に手をつき、二人から距離を取った。


「おい、黒燕。逃げるのか?」


 ゼインがこちらへ顔を向けた。


「さっきの妙な動き、まだ見せてもらってねえぞ」


「お前の相手は俺だろ」


 オスカーが戦斧を持ち直した。


「昨日はあれだけ誘っておいて、もう飽きたのか?」


「……はっ。言うじゃねえか」


 ゼインは剣を肩の高さへ上げ、笑みを浮かべた。


「いいぜ。まずはあんたからだ!」


 その時、坂の下から複数の足音が聞こえた。


「武器を収めろ! 何をしている!」


 警備兵たちが市場側から駆け上がってきた。先頭の兵士は二人の姿を認めると足を止め、後続へ手を上げて合図を送る。


 俺の外套は裂け、左腕から流れた血が石畳に落ちていた。オスカーとゼインが互いに武器を向け合っている以上、単なる口論では済まないことは明らかだった。


「カシュラ氏族長! 剣を収めてください!」


「うるせえな。今いいところなんだ。邪魔するんじゃねえ!」


 ゼインは振り返りもしなかった。


 警備兵たちが武器へ手をかけたところで、オスカーが声を張り上げた。


「下がれ! こいつは引く気がねえみたいだぞ。近づけば巻き込まれる!」


「ですが、このままでは――」


「俺が押さえる。周りの奴らを下がらせてくれ」


 オスカーの声には、いつもの軽さがなかった。


 先頭の兵士は二人の間合いを確かめ、後続へ指示を出した。


「市場側を封鎖しろ! 住民を離れた通りへ誘導するんだ。居館にも急ぎ知らせろ!」


 兵士たちが動き始めたところへ、フィアナとリーネが駆け寄ってきた。


「アレン!」


 フィアナは俺の左腕を見ると顔色を変えた。


「怪我してる……! こっちに来て。すぐ治療するから」


「傷は浅い。それより、二人とも無事か?」


「うん。私たちは大丈夫」


 リーネが答え、反対側から俺の腕を支えた。


 市場へ続く角には荷車を寄せるための空き地があり、倉庫の壁が通りとの間を遮っている。俺たちはそこまで移動し、警備兵が人払いを進める様子を見ながら、壁際へ腰を下ろした。


 フィアナは俺の外套をずらし、左上腕の傷を確かめた。


「切れてるけど、深くはないみたい。少し動かさないでね」


 傷口に手が添えられ、治癒魔法が流れ込んでくる。熱を持っていた痛みが和らぎ、開いていた皮膚がゆっくりと塞がっていった。


「……ありがとう」


「まだほかにも怪我してるでしょう?」


「腹を蹴られた。あとは右膝だな」


「膝?」


「さっきリーネのところへ走った時に、どうも無理をしたらしい」


 フィアナが眉を寄せた。


 リーネも俺の足へ目を向けたが、何かを尋ねるより先に、坂の上からオスカーの声が響いた。


「アレン! そこならいい。動くんじゃねえぞ!」


 顔を上げると、オスカーが戦斧を両手で握り直していた。


 ゼインは数歩離れたところで剣を構えている。警備兵たちは二人から距離を取り、倉庫の角と市場への入口に分かれて周囲を警戒していた。


「準備はいいか、ゼイン」


「随分と余裕じゃねえか。俺を待たせるとはな」


「後ろに人がいるんでな。巻き込むわけにはいかねえ」


「はっ! なら、さっさと来い!」


 ゼインが踏み込もうとした。


 その直前、通りの空気が変わった。


 石畳の上を流れていた風が収まり、頭上から低く唸るような音が聞こえてくる。


 覚えがあった。


 ノルヴェインへ向かう交易路で、オスカーが五体のワイバーンを地上へ押さえつけた時と同じ風だ。


 ゼインも異変に気づいたらしく、足を止めて頭上を見た。


「……何だ?」


 次の瞬間、猛烈な下降気流が二人のいる範囲へ叩きつけられた。


 石畳にぶつかった風が周囲へ吹き出し、砂や細かな石片が勢いよく転がる。風圧は二人の周囲に集中しているが、外へ流れた空気だけでも、道端に置かれた木箱の一つが大きく揺れた。


 ゼインの膝が沈んだ。


「ぐっ……!」


 上体を起こそうとしても、肩や背中を押す風がそれを許さない。外套が身体へ張りつき、握っていた剣先がわずかに下がる。


 それでも、膝を地面につくことはなかった。


 オスカー自身も風圧を受けていたが、巨体を低く構え、戦斧を支えながら前へ進んでいく。


「どうした、ゼイン。俺とやりたかったんだろ?」


 巨大な戦斧が、左上から振り下ろされた。


 ゼインは剣を立てて受けようとしたが、風圧で足を動かせない。咄嗟に身体を傾け、刃を斜めに合わせることで戦斧の軌道を逸らした。


 金属がぶつかり合い、耳を打つような音が響いた。


 衝撃を逃がしきれず、ゼインの右足が石畳を擦る。


 オスカーは戦斧を引き戻し、間髪を入れずに横へ振り抜いた。今度もゼインは剣で受けたものの、斧頭の重さに押され、さらに半歩後退する。


 ゼインの表情から笑みが消えていた。


 あれほど重い風を受けながら、オスカーは普段と変わらない速さで戦斧を振っているように見える。自分の魔法の影響まで受けているはずなのに、足の運びにも無駄がなかった。


「……なるほどな」


 ゼインは剣を握り直した。


「こいつが断岳の風か!」


 オスカーは答えず、三度目の斬撃を放った。


 今度はゼインも、その場で受けなかった。


 踏み出す足を低く滑らせ、風圧に押されながら身体を斜めに動かす。戦斧の刃が肩先をかすめる距離を通り過ぎると、空いた内側へ踏み込んだ。


 ゼインの剣が、オスカーの脇腹へ向かう。


 オスカーは斧の柄を下げて刃を受け止め、そのまま身体を捻ってゼインの剣を外側へ流した。さらに石突きを突き出すと、ゼインは左腕で柄を払い、身体を開いて直撃を避ける。


 それでも肩をかすめた衝撃で体勢が崩れ、二歩ほど押し戻された。


「……やるじゃねえか」


 オスカーが戦斧を構え直した。


「はっ! そいつはこっちの台詞だ!」


 ゼインは歯を見せて笑ったが、その呼吸はすでに荒くなっていた。


 下降気流は弱まっていない。それなのに、ゼインは先ほどよりも足を動かせるようになっている。


 膝を深く曲げ、歩幅を狭め、踏み出す方向を斜めに変えていた。風圧に逆らって大きく動こうとせず、重さを受け止められる姿勢のまま、わずかな足運びで剣の間合いを調整している。


 俺が同じ場所に立てば、まともに構えることさえ難しいだろう。


 オスカーも変化に気づいたらしく、次の一撃では踏み込む距離を短くした。


 戦斧が横へ走ると、ゼインは剣を斜めに合わせ、その勢いを利用して刃の外側へ身体を移した。そこから懐へ入り込もうとするが、オスカーは柄を短く持ち替え、斧頭を横へ押し出して進路を塞ぐ。


 ゼインが剣で受け止めたところへ、オスカーはさらに体重を乗せた。


 足が石畳を擦り、ゼインの身体が押し込まれていく。


 そのまま押し切られるかと思ったが、ゼインは剣の角度を変えながら身体を横へ回した。斧頭が外側へ流れた瞬間、その下を抜けるように踏み込む。


 剣先がオスカーの脇腹へ迫った。


 オスカーは咄嗟に柄を立てて刃を止め、そのまま肩をぶつけるように前へ出た。ゼインも身を捻って距離を取り、二人の間が再び数歩開く。


「……なるほどな。ワイバーンをまとめて仕留めたってのも、嘘じゃねえらしい」


 ゼインが肩で息をしながら笑った。


「誰に聞いた?」


「北方じゃ噂になってるぜ。飛んでる竜を地べたに叩き落とす、とんでもねえ冒険者が来たってな」


「そうか」


 オスカーは短く答え、戦斧を構え直した。


 ゼインも剣を持ち直したが、最初に見せていた気楽な構えは消えていた。肩や腕には力が入り、足元を確かめるように重心を移している。


 だが、オスカーの方も簡単には踏み込まなくなっていた。


 下降気流によってゼインの動きは制限されている。それでも、一度の反撃を許せば、あの鋭い剣が懐へ飛び込んでくる。


 しばらく間合いを測った後、オスカーが動いた。


 戦斧を右上から振り下ろす。


 ゼインが剣を合わせようとした瞬間、足元の砂が勢いよく外へ飛んだ。


 風圧が強まったのだ。


「……っ!」


 ゼインの膝が沈み、剣を受ける位置がわずかにずれた。


 そこへ戦斧が叩き込まれる。


 金属音とともに身体が押し込まれ、ゼインは片足を大きく引いた。だが、剣を離すことなく、斧頭を外側へ滑らせてどうにか直撃を避ける。


 オスカーは追撃しようとしたが、ゼインはその動きを待っていた。


 戦斧が引かれる瞬間、沈んだ姿勢のまま前へ出る。


 剣がオスカーの胸元へ伸びた。


 オスカーは柄を立てて軌道を逸らしたものの、刃が鎧の表面をかすめ、硬い音を立てる。


「……ちっ!」


 オスカーが一歩下がった。


 ゼインもそれ以上は追えず、剣を引いて呼吸を整えている。


 あれほどの下降気流を受けながら、風圧が変化する瞬間まで見極めて反撃した。


 俺には、どうすればあの動きができるのか分からなかった。


「アレン、傷は塞がったよ」


 隣からフィアナの声がした。


 顔を向けると、左腕に添えられていた手が離れ、血の止まった傷口が見えた。外套は裂けたままだが、皮膚は元どおりにつながっている。


「ありがとう。助かった」


「次は膝を診るから、立ち上がらないでね」


「ああ、分かった」


 フィアナが俺の右膝へ手を移したところで、近くにいた警備兵がリーネへ声をかけた。


 彼女は坂の上を指しながら、ゼインが俺とフィアナを連れていこうとしたことや、最初に剣を抜いた経緯を説明しているようだった。


 市場側にはさらに兵士が集まり、通行人を別の道へ誘導している。現場へ踏み込もうとする者はいなかった。


 再び金属音が響いた。


 顔を上げると、オスカーとゼインが互いの武器を押し合い、ほとんど触れ合うほどの距離で競り合っていた。


 ゼインが剣を引いて内側へ入ろうとすると、オスカーは斧の柄を横へ倒し、その動きを押さえ込む。さらに足を踏み替えて相手を押し返したが、ゼインもすぐに構えを戻し、距離が開ききる前に踏み込んでいった。


 風圧の不利は消えていない。それでもゼインは、オスカーの力を正面から受け続けることを避け、近い間合いで反撃の機会を探していた。


 何度目かの攻防を終えて距離が開くと、ゼインが声を上げて笑った。


「……ははっ! 面白え! あんた、本当に人間かよ!」


 オスカーも戦斧を持ち直し、大きく息を吐いた。


「お前こそ、よく動くな」


「この程度で止まってたまるか!」


 ゼインが再び踏み込もうとした。


 その時、坂の上から大きな声が響いた。


「ゼイン様!」


 カシュラの随員たちが駆けつけていた。


 数人の戦士が武器へ手をかけたが、警備兵が前へ出て進路を塞ぐ。


「ここから先へは入るな! 武器を抜くなら、こちらも対応する!」


「待て! 我々は氏族長を止めに来た!」


 先頭にいた随員が両手を見せながら叫んだ。


「ゼイン様! もうおやめください!」


 だが、二人はすぐには動きを止めなかった。


 オスカーの戦斧が振り下ろされ、ゼインの剣がそれを外側へ流す。互いに反撃の機会を探りながら距離を取り、再び構え直した。


「ゼイン様!」


 随員がもう一度声を張り上げた。


「盟主の居館にも報告が届いています! これ以上続ければ、明日の評議会そのものが危うくなります!」


 その言葉に、ゼインがわずかに顔をしかめた。


「……ちっ」


 オスカーは戦斧を構えたまま、相手の出方を見ていた。


 ゼインも剣を下げようとはしなかったが、随員がさらに声をかけると、苛立たしげに舌打ちした。


「分かってる。何度も言うな!」


「ここで戦い続けても、我々の主張を聞かせる機会を失うだけです。どうか、今はお収めください」


 ゼインはしばらく黙っていた。


 目の前のオスカーを見つめ、何かを考えるように剣を持ち直した後、ようやく肩の力を抜いた。


「……いいところだったんだがな」


 剣先が下がる。


 オスカーはすぐには動かず、その様子を確かめてから戦斧を少し下げた。


「収める気になったか」


「勘違いすんなよ。まだやり足りねえんだ」


「なら、また止めるだけだ」


「はっ。言ってくれるじゃねえか」


 ゼインは笑い、剣を鞘へ収めた。


 それを確かめてから、オスカーも戦斧を下ろした。


 頭上から二人を押さえつけていた風が弱まり、やがて完全に消えた。


 風が地面へぶつかる低い音がなくなると、離れた場所で待機していた警備兵たちの声が聞こえるようになった。


 ゼインは一度肩を回し、オスカーへ目を向けた。


「……断岳。あんたの腕はよく分かった」


「そいつはどうも」


「次は邪魔の入らねえ場所でやろうじゃねえか」


「その前に、片づけることがあるだろ」


 オスカーは戦斧を肩へ担ぎ直した。


「俺の連れを斬りつけた件だ。まさか忘れちゃいねえよな」


 ゼインは俺の方を一瞥した。


「そいつも剣を抜いただろうが。互いにやり合っただけだ」


「事情は警備兵に話せ。俺が決めることじゃねえ」


「はっ。好きにしろ」


 ゼインが背を向けたところで、警備兵を率いていた男が前へ出た。


「カシュラ氏族長。剣を抜いた経緯と負傷者について、居館へ報告します。正式な指示が出るまでは宿泊先へ戻っていただき、外出の際にも警備を同行させます」


 ゼインが足を止めた。


「……はっ、俺を閉じ込める気か?」


「身柄を拘束するという指示は受けていません。ただし、市街地でこれ以上の衝突を起こさせるわけにはいきません。盟主から判断が下されるまで、ご協力をお願いします」


 ゼインは鼻を鳴らした。


「好きに見張ってろ。逃げも隠れもしねえ」


 そう言って歩き始めたところへ、随員たちが集まった。


 警備兵は武器を抜かないよう確認しながら、彼らの周囲に一定の距離を取って付き添っていく。ゼインもそれ以上は抵抗せず、最後に一度だけオスカーを振り返った。


「断岳! 続きは覚えとけよ!」


 オスカーは返事をしなかった。


 ただ、戦斧を肩に担いだまま、その背中を見送っていた。


 ◇


 騒ぎが収まっても、通りの封鎖はすぐには解かれなかった。


 警備兵たちは剣を交えた場所を確かめ、石畳に残った血や、周囲に散った荷物について記録を取っている。リーネも、ゼインが最初に剣を抜いた時のことを改めて聞かれていた。


 俺は倉庫の壁に背を預けたまま、フィアナの治療を受けていた。


 左腕の傷はすでに塞がっているが、右膝にはまだ痛みが残っている。フィアナが治癒魔法を使ってくれたことで、最初の鋭い痛みは和らいだものの、深く曲げようとすると奥に重さがあった。


「……骨に大きな傷はなさそう。でも、筋肉や関節にはかなり負担がかかってると思う」


 フィアナは俺の膝から手を離し、具合を確かめるように顔を上げた。


「今日はもう無理に歩かないで。急に動いたり、踏み込んだりするのも控えてほしいな」


「ああ。分かった」


「腹の方も、あとでちゃんと診たいから」


「助かる。正直、まだ少し痛むんだ」


 そこへオスカーが歩いてきた。


 戦斧を担いだ姿は普段と変わらないように見えたが、額には汗が浮かび、呼吸もまだ少し荒い。


「立てるか、アレン」


「ゆっくりなら何とか」


「なら、無理すんな。もう少し休んでろ」


 オスカーは近くの木箱へ腰を下ろし、戦斧の刃を確かめた。金属の表面には細かな擦り傷がいくつも残っているが、刃が欠けた様子はない。


「……助かりました。来てくれなかったら、どうなっていたか」


「市場の方で騒ぎが起きてるって聞いてな。お前がやり合ってると分かったんで、急いで来た」


「職人街にいたんですよね」


「ああ。すぐ近くだったのが幸いしたな」


 オスカーは戦斧を脇へ置いた。


「それより、お前もよく持ちこたえたもんだ」


「……ほとんど歯が立ちませんでした」


「あいつが相手じゃな。あの腕なら無理もねえ」


 慰めているような口ぶりではなかった。


 実際、ゼインの剣は速く、重かった。こちらがどう対処するかを見ながら攻め方を変え、逃げようとすれば先回りしてくる。今の俺では、正面から打ち合うことすら難しい相手だった。


「あの下降気流の中で、あれだけ動けるとは思いませんでした」


「俺もだ。最初は足を止められたんだが、途中から動き方を変えてきやがった」


 オスカーは戦斧の柄を軽く握り直した。


「強えな、あいつは。決着をつけるなら、こっちも相当骨が折れるぞ」


 そこへリーネが戻ってきた。


「アレン、怪我はどう?」


「切り傷は治してもらった。膝はまだ痛むけど、少し休めば歩けそうだ」


「……ごめんね。私を庇ったせいで」


「謝る必要はないだろ。リーネを狙ったのはゼインだ」


 リーネは何か言いかけたが、結局、小さく頷いた。


「警備の人にも、何があったか話しておいたよ。ゼインが最初に剣を抜いたことも、フィアナとアレンを連れていくって言ったことも」


「ありがとう。俺も聞かれたら説明する」


「うん。居館にもすぐ報告が上がるって」


 リーネは少し離れた場所で動いている警備兵たちを見た。


「……明日の評議会、どうなるんだろう」


 俺には答えられなかった。


 ゼインを招いたのはイシュラで、各氏族の代表たちもすでに盟都へ集まっている。ここで評議会を中止すれば、その理由を説明しなければならないだろうし、何事もなかったように進めるわけにもいかない。


 ただ、今日起きたことについては、もう警備兵たちが正式に調べ始めている。


 その時、近くにいた兵士がこちらへ歩いてきた。


「皆さん、申し訳ありませんが、後ほど詳しくお話を伺わせてください。盟主の居館へも報告を送っています」


「分かりました」


 俺が答えると、兵士は一礼して戻っていった。


 フィアナが立ち上がり、俺へ手を差し伸べた。


「そろそろ宿に戻ろう。歩く時は私が支えるから」


「……ありがとう」


 その手を借りて立ち上がったところで、市場の方から声が聞こえた。


「アレン!」


 振り向くと、警備兵に案内されてガルドがこちらへ向かってきていた。


 市場で騒ぎを聞いて駆けつけたものの、通りが封鎖されていたため中へ入れなかったらしい。警備兵に俺たちのことを尋ねていたようで、近くの兵士が道を空けていた。


 ガルドは俺の前まで来ると、血の染みた外套と裂けた左袖を見て顔をしかめた。


「……おい。その血はどうした」


「ゼインに斬られた。フィアナが治してくれたから、傷はもう塞がってる」


「斬られたって、お前……」


 ガルドは俺の腕を確かめ、それからフィアナとリーネへ目を向けた。


「二人は無事か?」


「うん。私たちは怪我してないよ」


 リーネが答えると、ガルドはようやく息を吐いた。


「カシュラの氏族長が剣を抜いたって聞いてな。オスカーまで戦ってるってんで、何事かと思ったぜ」


「ゼインが俺とフィアナを連れていこうとしたんだ。断ったら剣を抜いてきた」


「……あいつが先に抜いたのか」


「ああ。リーネにも刃を向けてきたから、止めようとして怪我をした」


 ガルドの表情が険しくなった。


 だが、俺がフィアナに支えられているのを見ると、それ以上は聞かなかった。


「分かった。詳しいことは宿で聞く。まずは戻るぞ」


 ガルドは近くの警備兵へ声をかけ、宿へ戻れる道を尋ねた。


 市場の南側を回れば通れるらしい。現場の確認が終わるまで護衛を同行させるとのことで、別の兵士が案内を引き受けてくれた。


 俺たちはその後について、倉庫街を抜けることにした。


 フィアナが隣から身体を支え、リーネも歩調を合わせてくれる。ガルドは警備兵とともに少し前を進み、オスカーは戦斧を担いだまま後ろについてきた。


 市場へ続く通りの外側には、まだ多くの人が集まっていた。


 何があったのか尋ねる声が聞こえ、王国の冒険者がカシュラの氏族長と戦ったという話まで、すでに広まっているようだった。


 中には俺たちの方へ目を向ける者もいたが、警備兵が道を確保してくれたおかげで、足を止めずに済んだ。


「こりゃ、今日中に盟都中へ知れ渡るな」


 ガルドが呟いた。


「隠せるような騒ぎじゃなかったからな」


 オスカーが答えた。


「俺も派手にやっちまったし、ゼインも引く気がなかった。周りに被害が出なかっただけ、まだよかったぜ」


「お前があんな魔法を使うほどの相手だったのか」


「ああ。まともに押さえ込むには、あれくらい必要だった」


 ガルドはオスカーを振り返ったが、それ以上は尋ねなかった。


 代わりに俺たちの歩く速さを確かめ、道が混み合っている場所では警備兵と一緒に通行人を先へ通してくれた。


 宿に戻ると、帳場の近くにいたセレナが立ち上がった。


「アレン!」


 どうやら先に戻っていたらしい。


 史料庫にいる間にも市場の騒ぎは耳に入っていたそうで、宿へ戻る途中でオスカーが戦っていたと聞き、俺たちの帰りを待っていたようだった。


「その服……怪我をしたの?」


 セレナは外套に残る血を見て、表情を強張らせた。


「ああ。左腕を斬られたんだ。傷はもう治してもらった」


「ほかには?」


「腹と膝だな。フィアナに診てもらったし、少し休めば大丈夫だと思う」


 セレナは俺を見てから、フィアナとリーネの様子も確かめた。


「二人とも、怪我はないのね?」


「うん。私たちは大丈夫」


 フィアナが答えると、セレナはようやく少し表情を緩めた。


「よかった……。でも、いったい何があったの?」


「ゼインがこいつらを連れていこうとして、剣を抜きやがった」


 ガルドが答えた。


「話すと長くなる。詳しいことは部屋で聞いてくれ」


 受付にはほかの客もおり、こちらの様子を気にしている者がいる。セレナもそれに気づいたようで、それ以上は尋ねず、宿の主人に空いている小部屋がないか確かめてくれた。


 俺たちは二階へ移り、全員が落ち着いたところで倉庫街での出来事を順に説明した。


 ゼインが俺とフィアナを連れ去ろうとしたこと、拒絶されると剣を抜いたこと、逃げる途中のリーネにも刃を向けたこと。オスカーが駆けつけてからの戦闘については、本人にも補足してもらった。


 ガルドは険しい顔で聞いていたが、セレナはゼインが俺たちを狙った理由に引っかかったらしい。


「……待って。ゼインは、アレンに古代施設の調査をさせようとしたのね?」


「ああ。俺が古代文字を読めることも知っていた」


「……どこまで?」


「ハルヴァの地下で文字を読んだことと、装置の言葉が分かったことは知っていた。誰から聞いたのかは教えなかったけどな」


 セレナの表情が変わった。


「フィアナの神託についても?」


「古代施設との関係を調べたいと言っていた。具体的に何を知っているのかまでは分からない」


 セレナは考え込むように視線を落とした。


 施設で起きたことは盟主への報告でも扱っていたが、誰にどこまで伝えるかについては慎重に決めてきた。ゼインが知っていた内容は、誰でも耳にできるようなものではない。


「……情報がどう伝わったのか、確かめた方がいいわね」


「俺もそう思う」


「ゼインが知っているなら、ほかにも伝わっている可能性があるもの。誰が漏らしたと決めつけるつもりはないけれど、少なくとも共有した範囲は確認しておきたいわ」


「ヴァレクにも相談してみる」


 セレナは頷いたが、まだ何か考えている様子だった。


 ゼインが古代施設の研究に関心を持っていることは知っていた。それでも、俺たちの事情をどこまで調べていたのかは分からない。情報を得た経緯も含め、確認すべきことが増えていた。


「そっちはヴァレクに話すとして、明日からの護衛も考え直さねえとな」


 ガルドが口を開いた。


「ゼインがまた来ねえとは限らん。俺たちも一緒に動けるようにしておいた方がいいだろ」


「ああ。外出する時は、警備側とも相談しよう」


 俺が答えると、オスカーも頷いた。


「あいつが相手じゃ、普通の警備兵だけで止めるのは難しいだろうな。居館の連中にも、その辺は伝えといた方がいいぜ」


 ガルドは腕を組み、しばらく考えていた。


「評議会にはゼインも出るんだろ。あいつの処遇が決まるまでは、俺たちも勝手に動かねえ方がよさそうだな」


「そうだな。まずはイシュラたちの判断を聞こう」


 俺が答えると、ガルドは頷いた。


 リーネはフィアナの隣で黙って話を聞いていた。先ほど俺に謝ってからは、そのことを蒸し返そうとはしなかったが、ゼインの名が出るたびに少し表情を強張らせている。


 フィアナもそれに気づいているらしく、二人で何か小声で話していた。


 オスカーは戦斧を壁際へ立てかけると、椅子へ深く腰を下ろした。


「しかし、ゼインがあそこまでやるとはな。昨日はあれだけ威勢のいいことを言ってたが、評議会の前日に騒ぎを起こすとは思わなかったぜ」


「腕が立つのは分かったが、あれじゃ周りも苦労するだろうな」


 ガルドが言った。


「随員の連中も必死だったからな。あいつが話を聞くまで、何度呼びかけてたことか」


 オスカーはそう答え、それ以上は戦闘の話を続けなかった。


 俺は椅子の背へ身体を預け、ようやく少し息を吐いた。


 左腕の傷は塞がり、膝の痛みも最初よりは和らいでいる。ただ、ゼインの剣を受けた時の感覚は、まだはっきりと残っていた。


 これまでにも格上の相手と戦ったことはあるが、あれほど余裕を持って攻め続けられた経験は多くない。オスカーが来てくれなければ、フィアナたちを逃がしきれたかどうかも分からなかった。


 それでも、今は全員が揃って宿に戻ってきている。


 ガルドはこれからの護衛についてオスカーと話し、セレナは俺が伝えた情報を整理していた。フィアナとリーネも、二人で明日の予定を確かめているらしい。


 しばらくして、宿の主人が部屋を訪ねてきた。


「皆さん、居館から使者が来ています」


 俺たちが顔を上げると、主人は続けた。


「本日夕刻に、盟主様とヴァレク様が詳しい事情を聞きたいとのことです。警備の方からも連絡を預かっておりますが、ご都合はいかがでしょうか」


「分かりました。伺います」


 俺が答えると、宿の主人は頷き、使者へ返事を伝えるために戻っていった。


「俺も一緒に行く」


 ガルドが言った。


「これからの護衛について、直接確認しておきてえからな」


「なら、俺も行こう。戦闘のことを聞かれるだろうし、警備兵が見てなかったところもあるからな」


 オスカーも立ち上がり、壁際の戦斧へ手を伸ばした。


 セレナは机の上に置いていた紙を寄せ、俺へ顔を向けた。


「古代文字の件は、できればヴァレクと限られた人数で話した方がいいと思うわ。必要なら私も説明するから」


「ああ。頼む」


 フィアナの治療が終わると、俺は血の染みた外套を脱ぎ、替えの上着に袖を通した。


 明日の評議会には、ゼインも出席する。俺は裂けた外套を脇へ置き、居館へ向かう支度を整えた。

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