第125話 カシュラの男(2/3)
翌朝、朝食を終えて食堂を出ようとしたところで、リーネに呼び止められた。
「アレン、フィアナ。少し付き合ってもらってもいい?」
手にはヴァルドから預かった書状と、何枚かの控えを持っている。評議会は明日に迫っており、朝から資料を見直していたらしい。
「構わないけど、何かあったのか?」
「ちょっと相談したいことがあるんだ。外を歩きながらでもいい?」
フィアナと顔を見合わせ、俺たちはリーネと一緒に宿を出た。
市場では朝の荷下ろしが一段落し、店先には品物が並び始めていた。ガルドは買い足すものがあると言って先に出かけ、オスカーも戦斧の手入れについて職人に相談するため、市場に隣接した職人街へ向かっている。
俺たちは人通りの多い通りを歩き、交易用の倉庫が並ぶ道へ入った。表通りの喧騒は少し遠ざかったが、倉庫の前ではまだ荷車を動かしている者がいて、時折、荷を運ぶ職人たちとすれ違う。
「昨日、ゼインに言われたことなんだけど……」
リーネは歩きながら口を開いた。
「あの人、父さんが施設を封鎖した理由を説明しても、納得しないと思うんだ。何年も調べてきたのに、どうして今になって手を引くのかって」
「そうだろうな。昨日も、調査を続けるべきだと言ってた」
「うん。ほかの氏族にも、同じように考える人がいるかもしれないでしょう? 父さんが施設の利用を認めていたことも、隠すつもりはないんだけど……」
リーネはそこで言葉を切り、手元の控えへ目を落とした。
「最初から封鎖しておくべきだったって言われたら、何て答えればいいのかな」
ハルヴァでは長い年月をかけて施設の記録を集め、立ち入り区画を制限しながら調査を続けてきた。危険を伴うことは承知していたはずだが、実際に統制体や哨戒体が現れ、あれほどの被害が出ると予想できていたなら、ヴァルドも再利用を認めなかっただろう。
「当時どこまで分かっていて、何を確かめながら調査していたのかを説明すればいいと思う。途中から異常が増えて、ヴァルドが封鎖を決めた経緯も大事だろうしな」
「……うん」
「地下で何が起きたかについては、俺たちも見た範囲なら話せる。危険だったというだけじゃ、どんな状況だったのか伝わらないだろ」
「そうだね。父さんからも、都合の悪いことを隠すなって言われた」
リーネは頷いたものの、まだ何か気になることがあるようだった。
「ただ、村で亡くなった人たちのことまで、仕方なかったって片づけられるのは嫌なんだ。ゼインなら、本当にそう言いかねないから」
隣を歩いていたフィアナが、リーネへ顔を向けた。
「治療所に運ばれてきた人たちのことは、私からも話せるよ。どんな怪我をしていたのか、治療にどれだけ人手が必要だったのかも覚えてるから」
「ありがとう。でも、フィアナが説明したら、ゼインはまたひどいことを言うかもしれない」
「それでも、私が見たことは伝えたいな」
フィアナは穏やかに答えた。
「助けられなかった人もいたし、今も治療が必要な人がいる。ラウネの人たちが何に困っていたのかは、ちゃんと話したいと思う」
リーネは少し黙り、それから頷いた。
「……うん。お願いするね」
倉庫の間を抜ける道は緩やかな坂になっていた。右側には石造りの建物が続き、左側には荷車を寄せるための空き地がある。坂を下った先の角を曲がれば、市場の通りへ戻れる。
俺たちがそこで足を緩めた時、前方から声がした。
「おいおい。朝から熱心じゃねえか」
聞き覚えのある声だった。
坂の上、倉庫の壁際にゼインが立っていた。
昨日と同じ黒い防具に身を包み、腰には剣を帯びている。長い銀白色の髪が肩から背中へ流れ、こちらを見る褐色の顔には、薄い笑みが浮かんでいた。
「……ゼイン」
リーネが足を止めた。
「何だ、その顔は。昨日会ったばかりだろうが」
ゼインは壁から背を離し、こちらへ歩いてきた。
随員の姿は見当たらない。こちらを待っていたのか、たまたま姿を見つけたのかは分からなかったが、俺たちを見ても驚いた様子はなかった。
「探す手間が省けたぜ。ちょうど、お前らに用があってな」
「俺たちに?」
「ああ。お前と、その聖女にな」
ゼインは俺へ目を向け、それからフィアナを見た。
「王国の聖女は神託を受けるそうじゃねえか。それも、古代施設に関わる妙なものを見ているらしいな」
フィアナの表情が変わった。
「……どうして、それを知っているんですか?」
「さてな。俺にも耳はある」
今度は俺へ視線が向いた。
「それにお前だ。ハルヴァの地下で、誰にも読めねえ文字を読んだそうじゃねえか。装置が何を言ってるかまで分かったとか」
思わずリーネを見たが、彼女も驚いた様子だった。
盟主への報告では、施設で起きたことの共有範囲を慎重に扱ってきた。ゼインが知っているのは、単に俺が古代文字を読めるという話だけではないらしい。
誰から聞いたのかも、どこまで知っているのかも分からなかった。
「……それを知って、どうするつもりですか」
「決まってるだろう」
ゼインは俺たちの前で足を止めた。
「俺のところへ来い。二人ともだ」
あまりに唐突な要求に、一瞬返事が遅れた。
「俺のところにも、古い記録を調べてる連中がいる。だが、肝心な文字が読めねえせいで、手を付けられんものが残ってる。お前がいれば調査も進むだろう」
「……俺が協力するとでも思ってるんですか?」
「思ってねえよ」
即座に返された。
「昨日の話を聞いて、素直についてくるような連中じゃねえだろうが」
ゼインは俺の反応を気にした様子もなく続けた。
「だが、古代施設のことを知りたいのはお前も同じだろ。俺のところへ来れば、調べる機会くらいいくらでも作ってやる」
「ラウネを襲った相手に、協力するつもりはありません」
「だろうな」
ゼインは短く答え、フィアナへ顔を向けた。
「聖女の神託も調べさせてもらう。何を見ているのか、古い施設とどう関わっているのか。役に立つかどうかは、それから確かめりゃいい」
「神託は、そんなふうに使えるものじゃありません」
「それを決めるのはお前じゃねえ」
フィアナの返答を遮り、ゼインが一歩近づいた。
「お前ら二人が揃えば、調べられることも増える。悪い話じゃねえと思うがな」
「断ります」
俺が答えると、ゼインは小さく笑った。
「最初からそう言うと思ってたぜ」
その右手が、腰の剣へ伸びる。
「なら、連れていくまでだ」
「……評議会は明日ですよ。ここで剣を抜いて、何をするつもりですか」
「それが分かってるから、今来たんだろうが」
ゼインは鞘から剣を抜いた。
「評議会が始まれば、あの堅物どもが四六時中お前らの周りをうろつく。話をするにも面倒になるからな」
「盟都でそんなことをすれば、イシュラ様が黙っていません」
「だったら、あいつにも好きに言わせておけ」
ゼインは抜いた剣を下げたまま、俺たちを見渡した。
「俺をどう扱うか決めるのに評議会が要るんだろ。ちょうどいい議題が増えるじゃねえか」
俺はフィアナとリーネの前へ出た。
ゼインとの距離は六、七歩ほど。坂道の右側には倉庫の壁が続き、左側の空き地には木箱が積まれている。正面から迫られれば、二人を背後へ逃がす余裕はほとんどなかった。
「二人とも、市場へ戻ってくれ。警備兵を呼ぶんだ」
「アレン、でも……」
「俺がここを押さえる。急いでくれ」
フィアナはためらったが、リーネがその腕を取った。
「行こう、フィアナ。ここにいたら邪魔になる!」
二人が坂を下り始めたのを確かめ、俺は腰のミスリル鋼剣を抜いた。
市場へ続く角まで、まだ少し距離がある。二人がそこへ辿り着くまでは、ゼインをこの場所に留めておかなければならない。
「ほう。やる気か」
ゼインは剣を片手で下げたまま、俺の構えを眺めていた。
「二人には手を出させません」
「言うじゃねえか、黒燕」
俺の二つ名まで知っているらしい。
「なら、止めてみろ」
ゼインが踏み込んだ。
距離の詰まり方が予想より速く、こちらが間合いを測り直すより先に、斜め下から剣が振り上げられた。
左足を引き、風魔法を刃の側面へ当てる。軌道がわずかに逸れたところへ自分の剣を滑り込ませ、身体を開いて受け流した。
だが、ゼインは刃を振り抜かない。
手首を返し、そのまま横から斬り込んできた。
新しい剣の軽さを生かして切り返したものの、受けた瞬間に腕全体へ重い衝撃が走った。まともに押し返せる力ではなく、刃を滑らせながら身体を回し、どうにか距離を取る。
「今のを捌くか」
ゼインは足を止め、俺の剣へ目を向けた。
「白金級ってのも伊達じゃねえらしいな」
返事をする余裕はなかった。
最初の二撃だけで右手が痺れている。剣の振りが重いことは分かったが、何より次の攻撃へ移る動作が小さい。こちらが受け流そうとした瞬間には、もう別の角度から刃が伸びていた。
ゼインの視線が、俺の肩越しに坂の下へ向いた。
フィアナとリーネはまだ走っている。
このまま待っていれば、俺を避けて追いかけられる。
ゼインが身体を向け直すより早く、俺は一歩前へ出た。
正面から斬り込むと見せて右へ足を運び、剣を向け直してきたところへ風を当てる。左側の空き地へ回り込もうとする相手の進路を塞ぎ、そのまま脇へ斬りつけるつもりだった。
だが、ゼインの剣は俺の刃を外へ押し流し、すぐに懐へ入ってきた。
近すぎる。
剣を引こうとしたところへ左手が伸び、胸元を押された。
身体を捻って押し返そうとしたが、ゼインはもう反対側へ動いている。左肩を狙った斬撃を避けきれず、刃が外套を裂いて上腕を浅く切った。
熱い痛みが走り、思わず息を呑んだ。
傷を確かめる間もなく次の一撃が迫り、俺は後退しながら剣を合わせた。風で刃を逸らしても、その先へ踏み込まれる。こちらが剣を引く方向まで読まれているようで、間合いを取り直すだけでも難しかった。
「どうした、黒燕。守るだけか?」
ゼインが右から剣を振った。
受け流すと、今度は左から刃が回り込んでくる。肩を引いて備えた瞬間、その剣が途中で止まった。
代わりに膝が腹へ叩き込まれる。
「ぐっ……!」
息が詰まり、身体が折れた。
後ろへ下がろうとしたところを肩で押され、石畳へ左膝をつく。剣だけは手放さなかったが、顔を上げた時には、ゼインの切っ先が喉元へ向けられていた。
刃は数寸手前で止まった。
「弱えとは言わん。だが、俺を止めるには足りねえな」
腹の痛みでうまく呼吸ができず、立ち上がろうにも剣先が邪魔をして動けない。
坂の下から、フィアナの声が聞こえた。
「アレン!」
視線を動かすと、市場へ続く角の近くでフィアナが振り返っていた。俺が膝をついたのを見て足を止めかけたらしく、リーネが腕を引いている。
「早く行け!」
声を張ると、フィアナは再び走り出した。
その動きを、ゼインも見ていた。
「……そういや、お前」
喉元へ向けられていた剣が、わずかに引かれた。
「ハルヴァの地下で、随分派手に暴れたそうじゃねえか。あの化け物を一体ぶっ壊したと聞いたぞ」
統制体のことまで知っているのか。
「その程度の腕で、どうやった?」
ゼインは俺を見下ろしたまま、答えを待っていた。
ラウネの地下では、確かに普段なら考えられないほどの魔力を扱えた。下層で接触した管理装置からは、操作員に対する支援について説明を受けている。
だが、その仕組みを理解できたわけではない。そもそも、あの力がどうして使えたのかさえ、まだ分からないことが多かった。
「……俺にも、何が起きたのか分かっていません」
「またそれか」
ゼインは剣を引き、俺から一歩離れた。
「なら、もう一度見せてみろ」
その隙に立ち上がり、剣を構え直す。
呼吸はまだ整わなかったが、ここで倒れているわけにはいかなかった。坂の下ではリーネがフィアナを先へ促しており、二人はもう少しで角を曲がれる。
ゼインが再び踏み込んできた。
最初の斬撃を避け、二撃目を受け流す。腹を庇ったせいで動きが鈍り、三撃目が来る前に距離を取ろうとしたが、ゼインはそれ以上追ってこなかった。
剣を下げ、坂の下へ視線を向ける。
「……なるほどな」
嫌な予感がした。
「まだ本気を出せる余地があるってことか」
ゼインの身体が、俺から離れる方向へ向いた。
「だったら、引きずり出してやる」
言い終わるより早く、ゼインが駆け出した。
俺の左側を抜け、木箱の積まれた空き地を斜めに下っていく。向かう先には、フィアナを庇うようにして走るリーネがいた。
「リーネ! 逃げろ!」
叫びながら追いかけたが、すでに距離が開いていた。
ゼインは坂の途中から一気に加速し、二人の背後へ迫る。
リーネが振り返り、フィアナを倉庫の壁際へ押しやった。腰の短剣を抜いて構えたものの、ゼインは足を止めず、その肩を狙って剣を振り上げた。
間に合わない。
俺がどれほど走っても、あの刃が先に届く。
リーネが短剣を上げ、フィアナが彼女へ手を伸ばしている。その光景を見ながら、俺は石畳を蹴った。
次の一歩を踏み込んだ瞬間、足元から身体を強く押し返されるような感覚があった。
自分がどれほどの力で地面を蹴ったのか分からない。
視界の両端を倉庫の壁と木箱が流れ、耳元で風が鳴った。身体が前へ運ばれていく速さに、思考が追いつかなかった。
ラウネの地下でリーネを助けようとした時にも、こんな感覚があった。
だが、ここにはあの装置がない。
それを考えた時には、もうゼインの剣が目の前に迫っていた。
「――っ!」
両手で剣を押し上げた。
激しい金属音が響き、振り下ろされかけていた刃がリーネの肩から逸れる。
衝撃で足が滑り、靴底を石畳へ擦りつけながら後退した。踏みとどまろうとした右膝に鋭い痛みが走り、身体が大きく傾いたが、どうにか剣を下げずに済んだ。
「……何だ、今のは」
ゼインが俺を見ていた。
その表情から、先ほどまでの余裕が消えている。
俺自身、何が起きたのか理解できていなかった。
確かに距離はあった。普通に駆け寄っても、リーネの前へ出るには間に合わなかったはずだ。
それなのに、今は二人を背後に庇う位置に立っている。
「アレン!」
フィアナの声がした。
振り返らずに叫ぶ。
「二人とも行け! 市場で警備兵を呼んでくれ!」
「でも、アレンが……!」
「頼む、早く!」
背後でリーネがフィアナを促す声が聞こえた。
足音が遠ざかっていくのを確かめながら、俺はゼインから目を離さなかった。
彼は二人を追おうとせず、俺の足元をじっと見ていた。
「今の踏み込み……どうやった?」
先ほどより低い声だった。
「風か? 土か? 何を使いやがった」
「……分かりません」
「自分でやったことも分からねえってのか」
ゼインは俺の顔を見た。
そして、ゆっくりと剣を構え直した。
「いいぜ。なら、もう一度やってみろ」
俺も剣を上げようとしたが、右脚が思うように動かなかった。
膝から太腿にかけて強い痛みがあり、ふくらはぎもひどく強張っている。腹へ受けた膝蹴りのせいで深く息を吸うのも苦しかった。
さっきの動きで、身体にどれほどの負担がかかったのか。
試しに足元へ力を込めても、同じ感覚は戻ってこなかった。
「どうした。もう終わりか?」
ゼインが間合いを詰めてきた。
剣を合わせた瞬間、右膝が崩れかけた。踏ん張りが利かず、受け流したはずの刃に押されて身体が流れる。
左足へ重心を移して立て直したが、ゼインは逃げた側へ回り込み、次の斬撃を放ってきた。
風魔法を使って軌道を逸らす。
しかし、狙った位置へ風を当てきれず、刃が俺の剣を強く叩いた。
握った右手に痺れが走った。
「さっきの速さはどうした、黒燕」
ゼインは俺の足元へ視線を落とし、踏み込みを変えた。
右脚へ体重を乗せなければ避けられない角度から剣が迫り、やむなく後退する。左側の倉庫の壁へ近づいたところで、横薙ぎの一撃が飛んできた。
身を低くして避けたが、腹の痛みで呼吸が乱れ、立ち上がるのが遅れた。
その隙を逃さず、ゼインがさらに踏み込んでくる。
剣を引き戻す余裕はほとんどなかった。
何とか刃を合わせ、受け流したところへ次の一撃が重なる。こちらの動きが鈍った分だけ、ゼインは攻撃の間隔を詰めていた。
それでも、守るしかない。
市場の方から人々の叫ぶ声が聞こえていた。誰かが異変に気づいたらしく、警備兵を呼ぶ声も混じっている。
もう少し持ちこたえれば、応援が来るかもしれない。
右膝を庇いながら足を運び、風魔法を剣の側面へ当てた。ゼインの刃が逸れたところで距離を取ろうとしたが、相手はその動きに合わせて踏み込み、俺の剣を下から弾き上げた。
握りを離さずに済んだものの、構えが大きく開く。
ゼインの剣が、肩口へ向けて振り下ろされた。
咄嗟に身体を捻ったが、踏ん張ろうとした右足が滑り、背中が倉庫の壁へぶつかった。
刃が迫る。
その瞬間、横から強い風が吹き込んだ。
振り下ろされる剣がわずかに押し流され、続いて、重い金属音が響いた。
目の前に、巨大な戦斧があった。
分厚い刃がゼインの剣を受け止め、俺と相手の間を遮っている。
「……おいおい」
聞き覚えのある低い声だった。
「昨日あれだけ誘っておいて、俺がいねえところで始めるとはな」
顔を向けると、オスカーが立っていた。
市場の方から何人もの足音が近づいてくる。警備兵を呼ぶ声もまだ聞こえていたが、職人街にいたオスカーが先に駆けつけてくれたらしい。
オスカーは両手で戦斧を支え、押し込まれていた刃を力任せに押し返した。
「そいつは俺の連れだ。離れろ、ゼイン」
ゼインは一歩下がり、俺からオスカーへ視線を移した。
そして、口元に獰猛な笑みを浮かべた。




