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第121話 覚えていること

 盟主の居館を出ると、高台を吹き抜ける風が思った以上に冷たかった。


 長い時間を会議室で過ごしていたせいか、外へ出た途端に肩が強張る。俺は外套の襟を合わせ、石段を下りながら隣を歩くフィアナへ目を向けた。


 彼女はセレナから渡された小さな控えを手にしていた。王都で神託を受けた日付を書き出したもので、会議室を出る直前まで、思い出したことを書き加えていたらしい。


「まだ調べてるのか?」


「ううん。今は見てただけ。王都に戻ったら、確かめたいことがたくさんできたね」


「ああ。セレナもしばらく忙しくなりそうだな」


 フィアナは紙を折り、外套の内側へしまった。


「アレンも、今日はずっと手記を読んでたでしょう? 疲れてない?」


「少しな。思ったより集中してたらしい」


「ふふ。セレナも、今日はもう難しい記録を読みたくないって言ってたよ」


「珍しいな」


 振り返ると、少し離れたところでセレナがヴァレクに何かを説明していた。手振りを交えて話している様子を見る限り、本人はまだ仕事を終えるつもりがないらしい。


 俺がそう言うと、フィアナも振り返って笑った。


 高台を下りる頃には、市街に仕事を終えた人々の姿が増えていた。市場から戻る荷車が石畳を軋ませ、通り沿いの店では品物を片づけ始めている。


 仲間たちと宿へ向かいながら、俺はエドガーの手記にあった言葉を思い出していた。


 今の妻と子供を大切にしながら、前の人生で残してきた家族にも会いたいと思っていたこと。エレノアの声を、もう一度聞きたいと書いていたこと。


 調査のために開いた手記から、あんな文章が出てくるとは思わなかった。


 隣のフィアナが何か言いかけて、また前を向いた。


「どうした?」


「え?」


「何か聞きたそうだったから」


 フィアナは迷った様子だったが、やがて俺を見た。


「……あとで聞いてもいい? 今は、ちゃんと話したいから」


「ああ。もちろん」


 そう答えると、彼女は安心したように笑った。


 ◇


 夕食を済ませ、ほかの仲間たちが席を立ち始めた頃、フィアナが俺へ声をかけてきた。


「アレン、もう少しだけ話せる?」


「ああ。俺もフィアナと話したいことがあったんだ」


「……そうなの?」


 少し意外だったらしく、彼女は俺の顔を見た。


「うん。じゃあ、あっちで話そうか」


 俺たちは飲み物を頼み直し、食堂の奥にある空いた卓へ移った。


 夜の食堂には、まだ何組かの客が残っていた。厨房からは食器を洗う音が聞こえ、ときおり宿の主人が使い終わった器を集めに来る。昼間の賑わいはなく、声を落とせばほかの客に話を聞かれることもなさそうだった。


 温かい飲み物が運ばれてくると、フィアナは器を両手で包んだ。


「……エレノアのこと、ずっと考えてたの」


 俺が尋ねるより先に、彼女が口を開いた。


「セレスで記録を見つけた時は、どんな人だったのか少し分かった気がしてた。でも、エドガーの日記を読んだら、まだ知らないことがたくさんあったんだなって」


「そうだな。旅の途中の食事のことまで書いてあったし」


「うん。豆の煮込みの話なんて、聖女の記録を調べていて出てくるとは思わなかったよ」


 フィアナは小さく笑った。


「二人とも、それぞれ日記を書いてたんだよね。同じ日のことでも、違うふうに覚えてたのかもしれないね」


「ありそうだな。エドガーは随分細かく記録する人だったけど、エレノアには別の見え方があっただろうし」


「そうだね。二人で旅をしてたんだもの」


 彼女は飲み物を一口含み、しばらくしてから続けた。


「エドガーが北方で家族を持ったって分かった時、少し安心したの」


「ああ。エレノアが亡くなった後のことか」


「うん。宿で二人分の食事を頼みかけたっていう記録、覚えてる?」


「もちろん」


「あれを読んだ時は、辛かっただろうなって思った。でも、その後に一緒に暮らす人ができて、子供も生まれて……そういう時間があったんだね」


 エドガーの日記には、息子が初めて一人で立った時、その場にいられなかったという話も残っていた。仕事で帰りが遅くなり、翌日は早く帰りたいと書いていたのを覚えている。


「ちゃんと早く帰れたのかな」


「どうだろうな。評議も封鎖の仕事も抱えてたから、難しい日もあっただろうけど」


「ふふ。そうだね」


 フィアナは笑った後、器へ目を落とした。


「……でも、エレノアのことも忘れてなかったんでしょう?」


「ああ。ずっと覚えていたみたいだ」


「そっか。二人で過ごした時間も、北方で家族と過ごした時間も、どっちも大切だったんだね」


 俺は頷き、昼間に読んだ英語の文章を思い返した。


 そこには、エドガーがまだ見ぬ誰かへ残した問いもあった。こちらで大切な人が増えても、前の世界の家族に会いたいと思うことがあるだろうか。


 皆には読み上げなかった言葉だ。


 俺自身、昔の家族や友人に会えたらと思うことは今でもある。だからといって、ここでの暮らしを手放したいわけではない。


「……アレンは、どうだった?」


 フィアナの声に顔を上げた。


「何が?」


「エドガーの手記を読んだ時。アレンと似てるところもあったんじゃないかなって」


「ああ。あったよ。前世の文字を読めても、施設の仕組みが分からないところなんか、特にな」


「うん。セレナも、あの記録の残し方はすごいって言ってたね」


「エドガーも自分の考えを何度も直してたからな。それに、あの文章を読めたのは嬉しかった。装置の表示とは違って、誰かが自分の言葉で書いたものだったから」


 会ったこともない男が、百八十年前の北方で、俺にも読める言葉を使って考えを書き残していた。そのことは、研究内容とは別のところで心に残っている。


「アレン以外にも、その言葉を使ってた人がいたんだね」


「ああ。しかも、俺と同じように前の人生を覚えていた」


 フィアナは頷いてから、少し間を置いた。


「……前の人生のこと、アレンも時々思い出す?」


「もちろん。家族や友人のことも覚えてるしな」


「会いたいって思うことも?」


「ああ。あるよ」


 その返事を聞いて、フィアナはしばらく考え込んでいた。


「今の暮らしが嫌なわけじゃないんだ。会えないって分かってても、懐かしくなる時がある」


「……そっか。エドガーも、そんな気持ちだったのかな」


「そうかもしれないな」


 彼女は器を持ち上げたものの、すぐには口をつけなかった。


「ねえ、アレン。一つ聞いてもいい?」


「何だ?」


「前の人生では、結婚してた?」


 予想していなかった質問だったが、エドガーの家庭について話していたのだから、不思議な流れではなかった。


「いや。結婚はしてなかったな」


「そうなんだ。じゃあ、子供も?」


「ああ。いなかったよ」


 フィアナは飲み物を一口含んだ。それでも話が終わった様子ではなく、器を置いてから言いにくそうにこちらを見る。


「まだ何かあるのか?」


「えっと……好きな人はいた?」


「ああ。いたよ。付き合ってた人もいる」


 フィアナは一瞬目を見開いた。


「……そうなんだ」


「何か驚くようなことだったか?」


「ううん。そうじゃないんだけど」


 彼女は困ったように笑い、器を包み直した。


「アレンにも、そういう人がいたんだなって。考えてみれば当たり前なのに、今まであまり想像してなかったから」


「まあ、前世の恋愛の話なんて、これまでしたことなかったからな」


「うん。……その人とは、どうなったの?」


「別れたよ。しばらく付き合ってたけど、ずっと続いたわけじゃなかった」


「そっか」


 フィアナは頷いたものの、まだ何か考えているようだったので、俺はそのまま次の言葉を待った。


「今も、その人のこと覚えてる?」


「ああ。楽しかったことも、うまくいかなかったことも覚えてる。前の人生で一緒に過ごした時間だからな」


「……そうだよね」


 彼女は口を閉じ、飲み物へ目を落とした。


 昔の恋人がいたと聞いて、思うところがあるのかもしれない。質問する時のためらいや、答えを聞いた後の様子を見ていれば、そのくらいは伝わってくる。


「フィアナ?」


「……ごめんね。急にいろいろ聞いちゃって」


「別に構わないよ。俺からも、ほとんど話してなかったことだし」


 フィアナは俺の顔を見てから、少し照れたように笑った。


「私、アレンのこと、まだ知らないことがたくさんあるんだなって思ったの」


「前世まで入れたら随分長いからな。俺も全部話したわけじゃないし」


「そうだね。でも、今日は聞けてよかった。前のアレンにも、大切な人がいたんだって分かったから」


 そう言ってから、彼女は言葉を探した。


「……ただ、ちょっと不思議な気持ちもしたかな」


「不思議?」


「アレンが誰かを好きだったって聞いて、おかしいことじゃないのに、思ってたより気になったの。自分でも、どうしてなのかよく分からないんだけど」


 フィアナは笑おうとして、結局そのまま俺を見た。


 もし逆に、彼女が昔の恋人について話してくれたらどうだろう。たぶん俺も、気にならずにはいられない。


「……変かな?」


「いや。俺だって、フィアナの知らないことがまだたくさんあるからな。それに、もしフィアナから同じ話を聞いたら、俺も少し気になると思う」


 彼女は意外そうに俺を見た。


「……そうなの?」


「ああ」


 フィアナは器の縁へ指を添え、やがて小さく頷いた。


「そっか」


 今度は先ほどよりも柔らかい声だった。


 俺も飲み物へ手を伸ばした。少し気恥ずかしさはあったが、別の言い方を探す必要は感じなかった。


 厨房の方から焼いた菓子の香りが漂ってきた。宿の主人が隣の卓へ皿を運んでいくのを、フィアナがちらりと見る。


「……あれ、おいしそうだね」


「頼むか?」


「でも、夕食の後だし……」


「半分ずつならいいんじゃないか?」


 フィアナは笑った。


「それなら食べたいな」


 俺たちは菓子を一皿頼み、運ばれてくるまで取り留めのない話をした。フィアナが王都で食べた菓子のことを話し、俺もルミエルで買っていた焼き菓子を思い出す。


 先ほどまでの話が気まずくなったわけではなかった。いつもどおりに話せることが、今は心地よかった。


 菓子を食べ終え、飲み物を頼み直したところで、俺は考えていたことを切り出した。


「……フィアナ、実は少し話しておきたいことがあるんだ」


「何?」


「俺の前世のこと、セレナやガルドたちにも話そうと思ってる」


 フィアナは驚いたように瞬きをした。


「みんなに?」


「ああ。セレナとガルド、それにリーネ、ヴァレク、オスカーにも」


 彼女はしばらく俺を見てから頷いた。


「……そっか。アレンが話したいと思ったんだね」


「ああ。前から迷ってたんだけど、今日の手記を読んで、もう一度考えたんだ」


「エドガーの?」


「そうだ。あの人は、同じような記憶を持つ人間が現れるかどうかも分からないまま、英語で手記を残してたんだろ。誰かに聞いてほしかったことも、あったのかもしれない」


 フィアナは黙って聞いていた。


「俺には、フィアナがいたからな。最初に話した時も、全部を理解できたわけじゃないのに、最後まで聞いてくれた」


「……うん」


「ほかのみんなも、これまで一緒に旅してきた仲間だ。俺が古代文字を読めることも、施設で何が起きたかも知ってる。それなのに、その理由だけはずっと曖昧にしてきたから」


 調査に関わる以上、説明しておいた方がいいという事情もある。けれど、それだけが理由ではなかった。


「今なら、俺のことをちゃんと話せると思うんだ。どう受け止めるかは、みんなに任せるしかないけどな」


「うん。いいと思うよ。アレンが自分で話したいって思えたなら、それが一番いいと思う」


 フィアナは懐かしそうに目を細めた。


「私に話してくれた時も、すごく迷ってたでしょう?」


「ああ。何から話せばいいか分からなかったからな」


「でも、少しずつ話してくれたよね。最初は、魔法がなくても空を飛べるなんて想像もできなかったよ」


「今も難しいだろ?」


「うん。でも、アレンがそういう世界で暮らしてたことは、もう不思議じゃないかな」


「そうか」


「だって、アレンはずっとアレンだったもの」


 その言い方がおかしくて、俺は笑った。


「前にも似たようなこと言ってたな」


「そうだった?」


「ああ。俺がそんな嘘をついても、得することなんてないだろって」


「あ、それは覚えてる。今でもそう思ってるよ」


 フィアナも笑った。


 前世のことを話した後も、彼女は俺との接し方を変えなかった。分からないことは尋ねてくるし、意見が違えばそう言ってくれる。変わらず一緒に旅をしてきたことが、俺にはありがたかった。


「……あの時、ほかの人には話さないって約束してくれただろ」


「うん。覚えてるよ」


「ずっと守ってくれて、ありがとう」


 フィアナは少し驚いたように俺を見た。


「アレンが自分で話したいと思った時に、話せばいいって言ったでしょう? だから、私から誰かに話すことはないよ。それは今も同じ」


「……フィアナに話してよかったよ」


 そう答えると、彼女は一瞬目を伏せ、それから柔らかく笑った。


「私も、話してくれて嬉しかった」


 しばらく飲み物を口にしてから、フィアナがぽつりと言った。


「でも、明日からは私だけじゃなくなるんだね」


「そうだな」


「みんなに話すのはいいことだと思うんだけど……ちょっとだけ、寂しい気もするかも」


 フィアナは困ったように笑った。


「でも、フィアナが最初に聞いてくれたことは変わらないだろ」


「……うん」


「そのことは、俺にとっても大事だから」


 彼女は少し驚いたようだったが、すぐに嬉しそうな顔になった。


「そっか。……ありがとう、アレン」


 その笑顔を見て、俺まで嬉しくなった。


「みんなには、いつ話すつもり?」


「明日にでも時間を取ってもらおうと思う。午後なら集まれるんじゃないかな」


「イシュラ様にも?」


「そこはまだ決めてない。まずは一緒に旅してるみんなに話して、その後のことは改めて考えるつもりだ」


「うん。それがいいと思う」


 フィアナは器を置き、少し首を傾げた。


「でも、何から話すの?」


「……それを考えてるところだ」


「ふふっ」


「笑うなよ。説明しようと思うと、結構長い話になるんだぞ」


「知ってるよ。私も聞いたから」


 フィアナは笑ってから、考えを話してくれた。


「最初は、前世の記憶があることだけ話せばいいんじゃないかな。みんな、エドガーのことを知ったばかりでしょう? その後で、聞かれたことに答えればいいと思う」


「確かにな。最初から全部説明する必要はないか」


 セレナなら古代文字との関係を尋ねてくるだろうし、ガルドたちも気になることがあれば聞いてくるはずだ。俺自身、前世のことを何もかも説明できるわけでもない。


「……フィアナ」


「何?」


「明日、俺が話す時も、一緒にいてくれるか?」


 彼女は少し目を見開いた。


「私も?」


「ああ。もちろん、嫌じゃなければだけど」


「嫌なわけないよ。一緒にいるよ。私も、アレンがみんなに話すところを聞きたい」


「ありがとう」


「でも、代わりに説明したりはしないからね」


「分かってる。自分で話すよ」


 フィアナは笑い、俺もつられて笑った。


 明日もきっと言葉に迷うことはあるだろうが、隣にいてくれるだけで心強かった。


 飲み物が少なくなった頃、フィアナが窓の外へ目を向けた。


 通りを歩く人影はまばらになり、向かいの店でも戸締まりが始まっている。宿の主人が空いた卓を片づけ始めたが、俺たちの席にはまだ声をかけてこなかった。


「……私、エレノアの記録を読むと、聖女として何をしたのかばかり気にしてたんだ」


 フィアナは窓からこちらへ視線を戻した。


「でも、エドガーの日記を読んだら、二人でご飯を食べたり、くだらないことを話したりする時間もあったんだなって思ったの」


「そうだな。旅をしてたなら、そういう時間の方が長かったかもしれない」


「うん。私も、そういう時間が好きなんだ。聖女としてやらなきゃいけないことはあるけど、みんなでご飯を食べたり、何でもない話をしてる時も楽しいから」


「ああ。俺も好きだな」


「本当?」


「もちろん。旅をしてる間も、ずっと仕事の話ばかりじゃ疲れるだろ」


「ふふ。そうだね」


 フィアナは椅子を少し寄せた。


 肩が軽く触れたが、彼女は離れようとはしなかった。俺もそのままでいた。ラウネで一緒に過ごした夜にも、こうして隣に座ったことがあったが、今はその近さを心地よく感じている。


 しばらく、二人で窓の外を眺めていた。厨房では片づけが進み、宿の主人が残った客に飲み物の追加を尋ねている。


「……ねえ、アレン」


「どうした?」


「もし、今日のことを日記に書いたら、アレンは何を書く?」


「今日のこと?」


「うん。エドガーの手記を読んだ日のこと」


 俺は器を机へ置いた。


「古代施設の調査だけでも、随分長くなりそうだな。セレナに任せた方が、きちんと整理してくれると思う」


「それは分かるけど……」


 フィアナが俺を見た。


「私が聞きたいのは、そういう記録じゃなくて。アレンが、今日のことをどう覚えてるのかなって」


 今度は少し考えてから答えた。


「……エドガーがどんな人だったのか、少し分かった日かな。それに、前世のことを仲間にも話そうって決めた日だな」


 フィアナは頷いた。


「私はね、今日のことを思い出したら、今ここで話してることも一緒に思い出すと思う」


「ここで?」


「うん。アレンが、手記を読めて嬉しかったって話してくれたこととか、みんなに前世のことを話すって決めたこととか。それに、前のアレンのことも少し知れたから」


「ああ。そうだったな」


「……私には、今日のこっちの時間も大事だったんだ」


 フィアナはそう言ってから、少し照れたように視線を落とした。


 俺は彼女の横顔を見た。


 エドガーの手記を読んで、古代施設について新しい手掛かりを得た日だった。後で記録を見返せば、今日調べたことはきっと分かるだろう。


 けれど、フィアナとここで話したことは、俺たちしか知らない。


「……俺もだよ」


 フィアナが顔を上げた。


「今日のことを思い出したら、たぶんこの時間も覚えてると思う」


「……本当?」


「ああ。フィアナとこうして話すの、好きだからな」


 口にしてから、少しだけ気恥ずかしくなった。それでも、冗談にしてごまかす気にはならなかった。


 フィアナはしばらく俺を見つめ、それからゆっくり笑った。


「……私も好きだよ」


 俺たちは少しの間、目を合わせたままでいた。


 やがてフィアナが窓の方へ視線を戻し、俺もそちらを見る。肩は触れたままだったが、どちらも椅子を引かなかった。


 厨房から食器を重ねる音が聞こえてきた頃、フィアナが何かを思い出したように顔を上げた。


「そういえば、アレン。新しい剣、明日の朝に受け取るんだよね?」


「ああ。握りの調整を頼んであるから、鍛冶場へ行くつもりだ」


「私も一緒に行っていい?」


「もちろん。朝食の後でどうだ?」


「うん。どんな剣を選んだのか、まだ見てないから」


「見た目は普通の剣だぞ。今までのより少し軽いくらいで」


「それでも見てみたいの」


「分かった。じゃあ、一緒に行こう」


 フィアナは満足そうに頷いた。


「その後、セレナにも会っておきたいな。王都の記録を調べる前に、思い出せることを書いておきたいから」


「それなら、帰りに紙を買ってこようか。手持ちだけじゃ足りなくなるかもしれないし」


「うん。ありがとう」


「みんなに話す時間も、どこかで取ってもらわないとな」


「そうだね。ガルドたちの予定も聞いてみよう」


 明日の予定を確かめるうちに、飲み物もすっかりなくなっていた。


 俺たちは器を宿の主人へ返し、食堂を後にした。


 階段へ向かう途中、フィアナが俺の袖へ軽く触れた。


「明日、みんなに話す時も一緒にいるからね」


「ああ。頼りにしてる」


 フィアナは微笑み、俺の隣へ戻ってきた。


 明日は新しい剣を受け取り、セレナと調査の準備を進める。それから、今までフィアナにしか話してこなかったことを仲間にも伝えるつもりだ。


 どんな反応が返ってくるかは気になったが、今夜のうちに考えすぎても仕方がない。


 明日の朝食には何が出るだろうか。鍛冶場へ向かう道で、フィアナとは何を話そうか。


 隣を歩く彼女へ目を向けると、ちょうどフィアナもこちらを見ていた。目が合って、どちらともなく笑う。


 そのまま二人で、階段を上った。

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