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第112話 出発

 翌朝、俺とフィアナは書き終えた手紙を持って集会所へ向かった。


 入口近くの机ではヴァレクが書類を整理しており、俺たちに気づくと手を止めた。


「手紙を持ってきた。これで頼めるか?」


「ああ。伝令は昼前に発つ予定だ。まだ間に合う」


 ヴァレクは二通の手紙を受け取り、机に置いてあった革袋へ収めた。


「盟都へ戻ったら、王国側へ送る便が使えないか確認してもらう。すぐに届けられるとは限らんがな」


「分かってる。それでも助かる」


「ありがとう、ヴァレク」


 フィアナも礼を言うと、ヴァレクは頷いた。


 まずは盟都まで運んでもらえる。そこから王国へ届けられるかどうかは、向こうの連絡担当者次第だった。


 集会所を出ると、リーネが入口の脇で待っていた。


「二人とも、もう終わった?」


「ああ。ヴァレクに預けてきた」


「じゃあ、行こうか。治療所からでいいんだよね?」


「うん。ちゃんと挨拶しておきたいから」


 フィアナが答えると、リーネは頷いて歩き出した。


 俺たちは三人で、集落の北側にある石造倉庫へ向かった。


 ◇


 治療所として使われている倉庫では、朝から数人の手当て役が働いていた。


 カシュラの襲撃直後には床いっぱいに寝台が並んでいたが、今はその半分ほどが片づけられている。歩けるようになった負傷者は自宅へ戻り、残っている者も少しずつ回復しているようだった。


 入口にいた女性がフィアナに気づき、手にしていた布を置いた。


「フィアナ、今日はどうしたの?」


「明日にはラウネを出ることになりそうだから、挨拶に来たんだ。残っている人たちのことも、もう一度聞いておきたくて」


「そうだったね。昨日、話してくれたものね」


 女性は奥の寝台へ目を向けた。


「重かった人たちも、だいぶ落ち着いてきたよ。あとは傷の具合を見ながら、少しずつ動いてもらうつもり」


「うん。熱が出たり、傷が腫れたりした時は、すぐに診てあげてね」


「分かってる。今までだって、そうしてきたんだから」


 女性が笑うと、フィアナも笑い返した。


 俺とリーネは邪魔にならない場所で待っていたが、奥から別の手当て役が出てきて、二人にも声をかけてくれた。


「施設から戻ってきた時は、二人ともひどい怪我だったからね。こうして歩けるようになってよかったよ」


「俺たちも世話になった。ありがとう」


「私はもう少し休んでいたかったけどね。仕事が溜まってるって言われちゃったから」


 リーネが笑うと、相手も笑った。


「そりゃそうさ。帰ってきたら、また手伝ってもらうんだから」


 フィアナはその後も手当て役たちと話し、薬の残量や今後の処置について聞いていた。特に困っていることはないらしく、最後には安心したように礼を言って倉庫を出た。


 続いて向かった防柵では、新しい支柱を立てる作業が進んでいた。


 顔見知りの職人たちが俺たちに気づき、手を上げる。


「おう、アレン。今日は三人揃ってどうした?」


「明日出発することになりそうだから、挨拶に来た」


「そうか。いよいよ盟都へ向かうんだな」


 男は木槌を置き、周囲の職人たちへも声をかけた。


 防柵の修復を一緒に進めた者や、襲撃の際に負傷した戦士もいる。改めて世話になった礼を伝えると、向こうからも道中の無事を願う言葉が返ってきた。


「リーネも、ちゃんと帰ってこいよ。お前の仕事は残しておくからな」


「それは少しくらい片づけておいてよ」


「全部終わってたら暇になるだろ」


「そんな心配しなくていいって」


 リーネが笑うと、職人たちからも笑い声が上がった。


 少し離れた場所では、グレンが戦士たちへ指示を出していた。左腕にはまだ固定具が残っているものの、見張りの配置や修復作業の監督には戻っているらしい。


「午後には巡回隊も戻るんだろ?」


 俺が尋ねると、グレンは頷いた。


「ああ。戻ったら集会所へ報告する。結果がよければ、明日の出発で問題ないはずだ」


「分かった。俺たちも行くよ」


 グレンにも礼を言い、俺たちは集落の中心へ引き返した。


 ◇


 昼食を済ませたあと、フィアナに俺とリーネの足をもう一度診てもらった。


 俺の右膝もリーネの左足首も、腫れはほとんど引いている。坂道を歩いても違和感はなく、普段どおりに動く分には問題なさそうだった。


「二人とも、もう大丈夫そうだね。ただ、戦闘で急に踏み込んだりした時は、まだ分からないから気をつけて」


「ああ。その時は様子を見ながら動くよ」


「私も。もう普通に歩けるしね」


 リーネが軽く足首を回してみせると、フィアナは笑って頷いた。


 ちょうどその頃、北の巡回隊が戻ったという知らせが届いた。


 集会所へ向かうと、ヴァルドとヴァレクがすでに報告を聞いており、机には北の主要道を記した地図が広げられていた。


「主要道は通れるそうだ」


 ヴァレクが説明した。


「途中で土砂が落ちた場所もあるが、徒歩なら問題なく抜けられる。カシュラの部隊が通った新しい痕跡も見つかっていない」


「なら、予定どおり明朝の出発でよかろう」


 ヴァルドの言葉に、ヴァレクが頷いた。


「北の連絡所より先は、向こうで道の状況を聞く。フィアナ、二人の足はどうだ?」


「さっき診たよ。歩く分にはもう問題ないと思う」


「そうか。なら、明日出よう」


 出発の日が正式に決まり、ガルドとオスカーは最後の荷を確かめるために席を立った。


 俺も戻ろうとしたところで、ヴァルドがリーネを呼び止めた。


「リーネ。お前にもう一つ任せたいことがある」


「何?」


 ヴァルドは机の端に置いてあった書状を取り上げた。


「盟都では、王国との和平についても議論になるだろう。諸族評議会でハルヴァの意見を求められたら、お前に代表として出てもらいたい」


 リーネは差し出された書状を見つめた。


「……私が?」


「ああ。俺はラウネを離れられん。グレンも防衛の指揮を執らねばならんからな」


「でも、和平の話でしょう? そんな大事なことを、私が話していいの?」


 ヴァルドは書状を持ったまま、リーネへ向き直った。


「お前はアレンやフィアナと過ごし、施設で何が起きたのかも見てきた。ラウネが襲われた時も、あの二人と一緒に戦ったな」


「うん」


「俺は今も王国を警戒している。国境の守りをどうするかも、簡単には決められん。だが、お前は王国の人間と実際に関わり、カシュラのしたことも身をもって知っている」


 リーネは黙って話を聞いていた。


「今のハルヴァに何が必要なのか、お前にも考えがあるだろう。それを盟都で話してきてほしい」


「……でも、私の考えだけでいいの? みんなの意見もあると思うけど」


「和平の条件や軍の通行に関わる話は持ち帰れ。氏族としての判断は、こちらでも話し合わねばならん」


 ヴァルドはそこで書状を差し出した。


「お前には、ハルヴァで起きたことを伝え、ほかの氏族の考えを聞いてもらいたい。向こうで何を言うべきかは、お前自身で考えろ」


 リーネはしばらく書状を見つめていた。


 施設の調査や集落の防衛では、彼女も責任のある仕事を任されてきた。だが、諸族評議会で氏族を代表して発言するとなれば、簡単に引き受けられることではないのだろう。


「……分かった。やってみる」


 リーネは両手で書状を受け取った。


「ああ。頼んだぞ」


 ヴァルドは頷き、ヴァレクへ顔を向けた。


「評議会で必要な手続きがあれば、教えてやってくれ」


「承知した。盟都に着いたら、会議の日程と合わせて確認しよう」


 リーネは書状を開き、氏族長の名と印を確かめてから丁寧に畳んだ。


 俺も隣で見ていたが、ヴァルドがそこまでの役割を任せるとは思っていなかった。施設で起きたことを報告するだけでも大仕事なのに、今度はハルヴァの意見を求められる場にも出ることになる。


 集会所を出てから声をかけると、リーネは少し困ったように笑った。


「盟主に会うだけでも緊張すると思ってたのに、評議会まで出るかもしれないんだよね」


「でも、リーネならちゃんと話せると思うよ」


 フィアナが言うと、彼女は少し表情を和らげた。


「ありがとう。分からないことがあったら、二人にも聞いていい?」


「もちろん」


「ああ。王国のことなら、俺たちにも分かる範囲で話せるからな」


 リーネは頷き、書状を入れた荷袋の口を閉じた。


 ◇


 翌朝、ラウネの北側には冷たい風が吹いていた。


 空はよく晴れており、山の稜線が遠くまで見える。集落の家々からは朝食の煙が上がり、通りにはすでに仕事へ向かう人々の姿があった。


 俺とフィアナが北側の広場へ着くと、ガルドとオスカーが先に待っていた。セレナは荷袋の留め具を直しており、ヴァレクはグレンと短く言葉を交わしている。


「おう、来たか。準備は済んだな?」


「ああ。忘れ物もないと思う」


「ならいい。今日は谷沿いの野営地までだ。日が落ちる前には着くだろう」


 ガルドはそう言って肩に掛けた荷袋を直した。


 少しして、リーネもやってきた。


 赤い外套を羽織り、背中には荷袋を背負っている。腰にはいつもの短剣を差し、足元には山道用の丈夫な靴を履いていた。


「おはよう、二人とも」


「おはよう。ちゃんと眠れた?」


「うん。いつもどおりだよ」


 フィアナの問いに答えながら、リーネは集落の方を振り返った。


 広場の端には何人かの住人が集まっており、こちらへ手を振っている。


「リーネ!」


 作業着姿の女性が、こちらへ歩いてきた。


「これも持っていきな。道中で食べられるだろうから」


 差し出されたのは、乾燥させた果物と木の実を包んだ小さな袋だった。


「ありがとう。でも、こんなに貰っていいの?」


「いいんだよ。七人で分けたら、すぐなくなるだろうけどね」


 リーネは笑って受け取り、大事そうに荷袋へしまった。


 やがてヴァルドが広場へ姿を見せた。


「全員揃っているな」


「ああ。いつでも出られる」


 ヴァレクが答えると、ヴァルドは七人を見渡した。


「北の道の見張りには話を通してある。道中は気をつけて行ってくれ」


「分かった。連絡所でも情報を集めながら進む」


 ヴァルドは頷き、リーネへ目を向けた。


「書状は持ったな?」


「うん。ちゃんとしまってあるよ」


「そうか。なら、行ってこい」


 リーネは少し笑った。


「うん。行ってくるね」


 グレンも彼女へ声をかけた。


「知らない道も多いだろう。ヴァレクの指示を聞いて進め」


「分かってる。グレンも腕、ちゃんと治してね」


「そのつもりだ」


 左腕の固定具を軽く押さえたグレンは、俺にも頷いた。


「アレンも気をつけろ」


「ああ。グレンたちも無理するなよ」


 フィアナは治療所の人たちへ最後の挨拶を済ませたらしく、何度か手を振ってから戻ってきた。


 ヴァルドは彼女にも礼を言い、続いて俺へ手を差し出した。


「世話になったな、アレン」


「こっちこそ。ラウネで過ごせてよかったと思ってる」


「そうか。また来ることがあれば、遠慮なく立ち寄れ」


「ああ。ありがとう」


 握り返した手を離すと、ヴァレクが荷を背負い直した。


「そろそろ行こう。日が高いうちに、最初の尾根を越えておきたい」


 俺たちは頷き、北へ続く坂道を上り始めた。


 広場に集まっていた人々が手を振り、リーネも大きく振り返した。俺とフィアナも挨拶を返しながら歩いていたが、やがて家々は木々の間に隠れ、集落から聞こえていた人の声も遠ざかっていった。


 ◇


 北の見張り場を抜けた先で、道は一度開けた尾根へ出た。


 振り返ると、山の斜面にラウネの家々が小さく見える。集落の周囲には修復途中の防柵が続き、その向こうには畑や放牧地が広がっていた。


 リーネはしばらく立ち止まって眺めていたが、前を歩くヴァレクが先へ進み始めると、俺たちのところへ戻ってきた。


「行こうか。まだ先は長いしね」


「ああ」


 そこから先は緩やかな上り坂が続いた。


 道幅は二人が並んで歩ける程度で、両側には背の高い針葉樹が並んでいる。地面には木の根が張り出し、ところどころに尖った石も転がっていた。


 先頭をヴァレクが歩き、その後ろをセレナが続く。俺とフィアナ、リーネは中央付近に入り、ガルドとオスカーが後方を確かめながら進んでいた。


「それにしても、まだちょっと信じられないな」


 しばらく歩いたところで、リーネが口を開いた。


「何が?」


「昨日のこと。父さんが、あんな役目まで私に任せるなんて思わなかった」


「……父さん?」


 思わず聞き返すと、リーネがこちらを見た。


「うん。ヴァルドのことだけど」


「え?」


 俺が足を緩めると、隣のフィアナも驚いたように目を丸くした。


「ヴァルドって、リーネのお父さんなの?」


「そうだよ。……あれ、言ってなかったっけ?」


「初めて聞いたぞ」


 俺が答えると、リーネは不思議そうに首を傾げた。


「そうだったんだ。てっきり知ってると思ってた」


「いつもヴァルドって呼んでたからな」


「仕事の時はそう呼ぶことが多いかな。氏族長だし、ほかの戦士たちもいるからね」


 リーネは何でもないことのように答えた。


 そう言われてみれば、二人のやり取りには遠慮のないところがあった。リーネはヴァルドに気軽に意見を言っていたし、ヴァルドも彼女には随分率直にものを頼んでいた。


 ハルヴァは氏族の名前でもあるので、同じ名を持っていることは気にしていなかったが、親子だと知れば納得できる。


「そんなに似てないかな?」


 リーネが尋ねた。


「いや、言われてみれば少し似てる気もするな」


「私はちょっと分かる気がするよ。笑った時とか」


 フィアナが言うと、リーネは楽しそうに笑った。


「父さんに言ったら喜ぶかな」


「どうだろうな」


「まあ、私が娘だからって甘くしてくれるわけじゃないんだけどね。仕事で失敗したら普通に怒られるし」


「そこは何となく想像できる」


「でしょ?」


 リーネは肩紐を直し、前を向いた。


「それなのに、今回はあんな大事な仕事を任せてくれたからさ。ちょっと驚いたんだ」


「それだけ信用されてるんだろ」


「だったらいいんだけどね」


 少し照れたように笑うリーネを見て、俺も昨日のヴァルドの言葉を思い出した。


 和平には慎重な姿勢を崩していなかったが、自分とは違う経験をしてきたリーネの考えも聞こうとしていた。あの書状には、氏族長としての判断と、娘への信頼の両方が込められていたのかもしれない。


 前方を歩いていたヴァレクが振り返った。


「話が済んだなら進むぞ。次の分岐までに、もう少し高度を上げておきたい」


「ああ。分かった」


 俺たちは歩調を戻した。


 ◇


 午前中は山の斜面を横切るように歩き、何度か尾根を越えた。


 ラウネの近くでは見張りや巡回の痕跡が残っていたが、北へ進むにつれて人の手が入った場所は少なくなっていく。倒れた木を避けるために道が大きく曲がっている場所もあり、雨が降れば足元が悪くなりそうだった。


 昼前には、小さな沢が道を横切る場所へ出た。


 ヴァレクがそこで休憩を取ろうと言い、俺たちは荷を下ろした。水袋の残りを確かめ、持ってきた保存食で簡単に昼食を済ませる。


「ねえ、これも食べない?」


 リーネが荷袋から小さな包みを取り出した。


 中には、朝に貰った干し果物と木の実が入っている。


「みんなで分けてって言われたからね」


「それなら、俺も一つ貰おうかな」


 果物を受け取って口へ運ぶと、よく乾燥した果肉から、噛むほどに甘みが出てきた。


 フィアナも隣で木の実を摘まんでいる。


「おいしいね。ラウネでも食べたことあったかな?」


「たぶんあると思うよ。冬に備えて、よく作るから」


「そっか。作り方も聞いておけばよかったな」


「今度教えるね。そんなに難しくないから」


 二人が話している間に、ヴァレクは地図を広げて午後の行程を確かめていた。


 ここからは谷へ向かって下る道が続き、夕方には沢沿いの野営地へ着ける見込みらしい。


 俺たちは休憩を終え、再び歩き始めた。


 ◇


 日が傾き始めた頃、俺たちは谷底を流れる沢の近くまで下りてきた。


 道沿いには針葉樹が密集していたが、しばらく進むと沢から少し高くなった平地が現れた。地面は比較的乾いており、背後の木々が谷を抜ける風も遮ってくれる。


 ヴァレクが足を止めた。


「今日はここまでにしよう」


 ガルドとオスカーが周囲を見て回り、頭上の枝や沢沿いの足場に問題がないことを確かめると、俺たちは荷を下ろして野営の準備を始めた。


 寝る場所と焚き火の位置を決め、水を汲み、枯れ枝を集める。全員が旅には慣れているので、それほど時間はかからなかった。


 夕食は干し肉と乾燥野菜を使った簡単な煮込みだった。


 野菜は十分に柔らかくなったものの、干し肉は時間をかけて煮ても歯応えが残っている。オスカーは一口食べたところで眉を寄せた。


「硬えな」


「保存食なんだから仕方ねえだろ」


 ガルドが答える。


 オスカーはそれ以上何も言わず、肉を噛みながら器を持ち直した。


 俺も食べてみたが、確かに硬い。それでも塩気はちょうどよく、歩き続けた後には十分な食事だった。


 リーネは干し肉を小さく切り分けて食べていたが、やがて焚き火の向こうへ目を向けた。


「ラウネも、もう夕食の時間かな」


「そうだろうな」


 俺が答えると、彼女は頷いた。


「いつもなら、今頃は家に戻ってるんだよね。今日はずいぶん静かだなって思って」


 周囲には沢の流れる音と、ときどき薪が弾ける音が響いていた。


「家の方が落ち着くか?」


「それはそうだけど、野営も嫌いじゃないよ。狩りに出た時は普通にするし」


 リーネは笑い、器の中に残っていた野菜を口へ運んだ。


「それに、ここから先はほとんど知らない土地だからね。どんなところなのか、ちょっと楽しみかな」


「盟都もかなり大きいんだろ?」


 俺がヴァレクへ尋ねると、彼は頷いた。


「北方では最大の都市だ。商人が集まる地区もあれば、各氏族の滞在施設もある。初めてなら、見るものも多いだろうな」


「へえ。じゃあ、落ち着いたら案内してくれる?」


 リーネが尋ねた。


「時間があればな」


「約束だよ」


「まだ何も決まっていないだろう」


 ヴァレクがそう返すと、リーネは笑った。


 セレナも少し興味を示したようだった。


「私も史料庫を見てみたいわ。北方の古い記録は、王国側ではなかなか調べられないもの」


「閲覧できる資料には制限があるが、盟主に相談してみるといい」


「そうね。まずは報告を済ませてからにするわ」


 セレナが頷くと、ヴァレクは器を置き、明日の道について話し始めた。


 沢沿いを進んだ先には岩壁に沿った交易路があり、そこを抜ければ荷を運ぶ者が立ち寄る集落に着くという。


「順調なら夕方には着ける。今日は早めに休んでおこう」


 俺たちは頷き、食事の片づけを始めた。


 ◇


 空が暗くなるにつれ、谷を流れる空気も冷たくなってきた。


 食器を洗い終えた頃には、焚き火のそばを離れると指先が冷えるほどだった。


 夜の見張りは三組に分け、最初はガルドとオスカー、夜半は俺とリーネ、明け方はヴァレクとセレナ、フィアナが受け持つことになった。野営地の近くには沢沿いの道が通っているので、それぞれ周囲を見渡せる位置を確かめておく。


「交代の時には起こすぞ」


 ガルドが言った。


「ああ、頼む」


 俺は寝具を広げ、夜半まで身体を休めることにした。


 リーネも近くに寝る場所を決め、荷袋を枕代わりに置いている。フィアナは俺の隣へ荷を運び、畳んだ布を敷いてから外套を広げた。


「夜中は冷えそうだね」


「ああ。沢の近くだからな」


「うん。起きた時に寒かったら、火のそばに来てね」


「そうする。フィアナも明け方は冷えるだろうから、気をつけてな」


「うん。ありがとう」


 フィアナは微笑み、外套を肩まで掛けて横になった。


 俺も剣を手の届くところへ置き、目を閉じた。


 しばらく眠ったところで、ガルドに肩を軽く叩かれた。


「アレン、交代だ」


「ああ。今起きる」


 外套を羽織って身体を起こすと、近くではリーネもオスカーに声をかけられていた。


 焚き火の薪を少し足し、俺たちは二手に分かれて見張りについた。


 俺は沢の上流側へ目を向けられる場所に座り、リーネは少し離れた道沿いを受け持つ。互いの姿は木々の間から見えており、小さな声なら届く距離だった。


 昼間は鳥の声も聞こえていた森だが、夜になると沢の音がひときわ大きく感じられる。ときどき枝が擦れ合い、風が止むと遠くの斜面から小石の落ちる音が聞こえた。


 しばらくして、リーネがこちらへ歩いてきた。


「何か見えた?」


「いや。そっちは?」


「大丈夫。道を通るものもいないよ」


 リーネは焚き火に手をかざし、少し温まってから自分の持ち場へ戻っていった。


 俺も沢の向こうに視線を戻した。


 雲の切れ間から月が見えると、木々の間を流れる水がかすかに光った。谷の斜面は暗いままだったが、少なくとも野営地の近くに動くものは見当たらない。


 やがて交代の時間になり、俺たちはヴァレクたちを起こした。


「変わったことは?」


 ヴァレクが尋ねる。


「特にない。沢の向こうも静かだった」


「分かった。あとは任せろ」


 フィアナとセレナも外套を着込み、それぞれ持ち場へ向かう準備をしていた。


「お疲れさま、アレン」


 フィアナが声をかけてきた。


「ああ。少し冷えるから気をつけてな」


「うん。ちゃんと着込んでるよ」


 フィアナはそう言って外套の前を合わせ、ヴァレクたちの後に続いた。


 俺はリーネと一緒に寝床へ戻り、再び外套を掛けて横になった。


 冷えた地面に身体を預けると、沢の音がさっきより遠くに聞こえる。


 明日は交易路に入り、その先の集落を目指すことになる。今日は大きな問題もなく歩けたし、夜の見張りでも異常はなかった。


 俺は剣の位置を確かめてから目を閉じ、残りの夜を休むことにした。

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