第109話 七人の行き先
ガルドたちに一通りの事情を話し終える頃には、倉庫の前に伸びる影がずいぶん長くなっていた。
王都の地下からハルヴァの古代施設へ移されたことに始まり、ラウネで過ごした日々、施設の異常、カシュラとの衝突。順を追って話したつもりだったが、途中で何度も質問が入り、思っていた以上に時間がかかった。
セレナは特に、施設の下層で見たものに興味を示していた。俺が読めた表示や、言葉を返してきた管理設備についても詳しく聞きたがったが、仕組みまでは説明できない。覚えている表示と実際に起きたことを伝え、細かい話は改めてすることになった。
「しかし、お前ら二人ともよく戻ってこられたな」
ガルドが俺の膝を見ながら言った。
「話を聞いてるだけでも、途中で何度か死にかけてんじゃねえか」
「危なかったのは確かだな。リーネがいなかったら、もっと苦労したと思う」
「そのリーネって戦士には、俺も会ってみてえな」
「会えるさ。この時間なら、倉庫の方にいるかもしれない」
腰を上げようとしたところで、オスカーが片手を出した。
「急ぐな。歩けるのか」
「ゆっくりなら大丈夫です。ずっと座っていると膝も固まりますから」
「なら、ゆっくり行け」
その言葉に従って立ち上がると、右膝に鈍い痛みが走った。数日前よりはかなり動かせるようになったものの、まだ足を踏み出すたびに少し気を遣う。
ガルドもそれを見ていたらしく、俺が歩き始めるまで待ってから隣へ並んだ。
「フィアナもあの倉庫にいるんだったか」
「ああ。負傷者の治療を手伝ってる。そろそろ一度休む時間だと思うけど」
「無理してなきゃいいんだがな」
「それなら直接言ってくれ。俺が言っても、まだ動けるって返されるから」
「お前ら、そういうところは似てるんだよ」
セレナが小さく笑った。
言い返そうとしたが、怪我をしたまま倉庫の外で仕事を手伝っていた身では、あまり説得力がない。
石造倉庫の入口へ近づくと、ちょうど中から水桶を持った女性が出てきた。その後ろでは、使い終えた布を別の桶へ移す作業が続いている。
負傷者の数は少しずつ減っているものの、傷の確認や包帯の交換に訪れる者はまだ多く、治療所には常に人の出入りがあった。
「アレン?」
聞き慣れた声がした。
入口から出てきたフィアナが俺を見て、それから背後にいる三人に気づいた。
最初にセレナへ目を向け、次にガルドとオスカーを見たところで、驚いたように足を止める。
「……セレナ?」
「フィアナ!」
セレナが先に歩み寄った。
フィアナもすぐに笑顔になり、互いの手を取る。何か言おうとしていたようだが、しばらくは顔を見合わせたままだった。
「来てくれてありがとう」
「ええ。あなたたちが無事だと聞いて、ようやく安心したわ」
「私たちも、王都のみんながどうしてるか気になってたの。さっき村の人からガルドたちが来たって聞いてたけど……」
フィアナはもう一度セレナの顔を見て、嬉しそうに笑った。
「こうして会うと、やっぱり違うね」
「そうね。私も嬉しいわ」
ガルドは二人が落ち着くのを待ってから、フィアナへ声をかけた。
「おう。こっちも元気そうじゃねえか」
「ガルドも元気そうだね。オスカーさんも、わざわざ来てくださってありがとうございます」
「気にするな。二人とも見つかってよかった」
オスカーが答えると、フィアナは頷いた。
「ミラとユリウスたちは、まだ怪我が治ってないの?」
「ああ。俺たちが出た時はな。クラウディアも王都に残ってる」
「そっか……。早く良くなるといいんだけど」
「そうだな。あいつらにも、お前たちが無事だったと知らせてやらねえと」
俺も王都に残った仲間たちの顔を思い浮かべた。
ガルドたちが出発してからも相当な時間が経っている。今の詳しい状況は分からないが、また揃って顔を合わせられる日が来てほしかった。
「ところで、フィアナ」
セレナが倉庫の中を覗いた。
「治療はまだ続いているの?」
「うん。もう少しで今日の分は一区切りつくと思う。今は傷の確認と包帯の交換が中心だから、ほかの人にもお願いできるところは任せてるよ」
「あなたも休めている?」
「ちゃんと休んでるよ。アレンにも言われるし」
そう答えたフィアナが俺を見て、少し呆れたように笑った。
「アレンも、あまり歩き回らないでね」
「分かってる。今日はもう戻るところだ」
フィアナは俺の足取りを確かめてから頷き、セレナへ向き直った。
その時、倉庫の脇から声がした。
「アレン、そこにいたんだ」
振り返ると、リーネがこちらへ歩いてきていた。
赤い外套を肩に掛け、いつもの軽装のままだったが、足にはまだ包帯が残っている。歩けないほどではないものの、傷めた足を庇っているのが分かった。
「リーネ。足はどうだ?」
「朝よりはいい。さっき診てもらったところ」
リーネはそう答えてから、俺の後ろにいる三人へ目を向けた。
「その人たちが、王都から来た仲間?」
「ああ。ちょうど紹介しようと思ってた」
俺はリーネが近づくのを待ってから、三人へ顔を向けた。
「こっちがリーネ。ハルヴァの戦士で、施設ではずっと一緒に行動してた。統制体と戦った時も助けられたんだ」
「リーネ・ハルヴァです」
リーネが軽く頭を下げる。
「アレンとフィアナから、王都の仲間の話は聞いてた。来てくれてありがとう」
「俺はガルドだ。こいつらの世話になってる。よろしくな」
「セレナよ。アレンたちと一緒に古代施設を調べていたの。あなたからも話を聞かせてもらいたいわ」
「うん。私に分かることなら」
リーネは二人へ順に頷き、それから最後の一人を見上げた。
オスカーはガルドにも劣らない巨体で、背には大きな戦斧を負っている。リーネも北方の戦士たちを見慣れているはずだが、その装備には少し興味を引かれたようだった。
「こちらがオスカーさん。黒鋼級の冒険者で、『断岳』って二つ名がある」
「……黒鋼級?」
リーネが俺を見た。
「王国で一番上の等級だよね?」
「ああ。大型の魔物との戦闘では、俺よりずっと経験がある人だ」
リーネはもう一度オスカーを見上げた。
大きな戦斧から肩幅、腕の太さへと視線が移り、やがて感心したように頷く。
「確かに、すごく強そう」
「見た目だけで判断するなよ」
オスカーが言うと、リーネは少し驚いたように目を瞬かせた。
「いや、武器の大きさだけじゃなくて。立ち方とかも、慣れてる感じがするから」
「ほう」
オスカーは短く答え、口元を緩めた。
「お前も戦士らしいな」
「一応、そういう仕事だから」
リーネは素直に答えたが、褒められるとは思っていなかったのか、少しだけ照れた様子だった。
「そういや、アレンにも二つ名があるんだぞ」
横からガルドが言った。
「え?」
リーネが振り返る。
「アレンにも?」
「おう。こいつもギルドに正式登録されてる」
俺はガルドを見た。
「わざわざ言わなくてもいいだろ」
「別に隠すようなことじゃねえだろうが」
「何ていうの?」
リーネが興味を示した以上、黙っているわけにもいかない。
「……『黒燕』だ。王都での戦いを見た人たちがそう呼ぶようになって、ギルドに登録された」
「黒燕……」
リーネは小さく繰り返し、何か思い出すように俺を見た。
「ああ、それは分かる気がする」
「そうか?」
「うん。施設で一緒に戦ってた時も、急に向きを変えて相手の横へ抜けたり、足場が悪いところでも動きを止めなかったりしてたでしょ」
リーネは少し考えながら続けた。
「風を使って間合いを変えるのも上手かった。相手の動きに合わせて、さっきまでいた場所から急にいなくなるんだよね」
「そういう使い方が多いからな」
「黒い装備で、あの動きなら……うん。合ってると思う」
その言い方がおかしくて、俺は少し笑った。
「俺としては、まだ慣れないんだけどな」
「いい名前じゃない」
セレナも笑みを浮かべた。
「私は、あなたらしいと思ってるわ」
「周りが面白がってる気がする」
「そりゃそうだろ。二つ名なんて、自分で名乗るより他人に呼ばれる方が多いんだからな」
ガルドが笑った。
フィアナも俺たちのやり取りを聞きながら微笑んでいたが、リーネが施設での戦い方を話している間、少しだけ静かになっていた。
「白金級なのは知ってたけど、二つ名まであるとは思わなかった」
リーネは改めて俺を見る。
「王都では、結構有名なんだね」
「そこまでじゃないさ」
リーネが笑い、俺もつられて笑った。
遠く離れた北方で、それも実際に一緒に戦った相手から二つ名に納得されるとは思わなかった。
その時、倉庫の方からハルヴァの戦士が歩いてきた。
「アレン、ちょうどよかった。ヴァルドが呼んでる」
「ヴァルドが?」
「ああ。ヴァレクとの話が終わったらしい。同行してきた者たちにも集会所へ来てほしいそうだ」
戦士はリーネにも目を向けた。
「リーネもだ。足は大丈夫か?」
「歩くくらいなら平気。行くよ」
ヴァレクとヴァルドが何を話したのか、まだ詳しくは聞いていない。施設とカシュラの件が中心だろうが、全員を呼ぶ以上、今後の対応についても話があるのだろう。
フィアナが治療の引き継ぎを済ませるのを待ち、俺たちは中央の集会所へ向かった。
◇
集会所では、ヴァルドとヴァレクが机を挟んで話していた。
机の上には北方の地図と、施設周辺を描いた見取り図が広げられている。紙の端には書き込みが増えており、二人が時間をかけて状況を確認していたことが分かった。
俺たちが入ると、ヴァルドが顔を上げた。
「来たか。座れ」
壁際には椅子が並べられていた。
俺とリーネが座ると、フィアナも隣に腰を下ろす。ガルドたちは適当な場所を選び、オスカーは大きな戦斧を邪魔にならない位置へ置いた。
ヴァレクが全員を見回した。
「ヴァルドとは一通り話した。カシュラの襲撃と古代施設の状況についても確認できた」
「施設の異常が、ここだけの問題ではないことは理解している」
ヴァルドが続けた。
「だが、今のラウネから人を大勢動かすことはできん。北の防柵は修復の途中で、傷を負った戦士も多い。施設の見張りも減らせない」
「それについては俺も同意見だ」
ヴァレクが答えた。
「カシュラの部隊が退いたとはいえ、周辺にはまだ警戒が必要だ。施設から出た黒い獣の所在も確認できていないからな」
「グレンには北側の配置を任せてある。施設の封鎖も修復を続けるが、無理に奥へ人を入れるつもりはない」
ヴァルドの判断に、俺も異論はなかった。
下層から戻った時、最初の隔壁は最後まで閉じ切らなかった。統制体の一体も下層へ落ちたままで、破壊できたかどうかは分からない。封鎖を進めるにしても、安全を確かめながら作業する必要がある。
「俺は、今回の件を盟主へ直接報告する」
ヴァレクが言った。
「カシュラの武力介入も、施設の異常も、北方全体に関わる問題だ。アレンとフィアナにも同行してもらい、二人が見たことを話してほしいと考えている」
「盟主のところへ行くってことか?」
俺が尋ねた。
「ああ。もちろん、二人の意思を確認したうえでだ。王国へ戻ることを望むなら、無理に引き留めるつもりはない」
俺はフィアナと顔を見合わせた。
王都へ戻りたい気持ちはある。ミラたちの怪我も気になるし、地下の調査がどうなったのかも知りたかった。
ただ、王都の地下とハルヴァの施設には、似たものがいくつもあった。古代文字で書かれた表示、黒い獣、統制体。それに、下層で接触した管理設備が俺を操作員として認識した理由も、まだ分からない。
王都からハルヴァへ移されたことについても、答えは得られていなかった。
「俺は行きたい。ここで分かったことを王都へ持ち帰るにしても、もう少し北方の事情を知っておきたい」
「私も行くよ」
フィアナが続けた。
「王都でもここでも、古代施設が原因でたくさんの人が傷ついた。ほかの場所でも同じことが起きるかもしれないなら、何が分かっているのか聞いておきたい」
「分かった」
ヴァレクは二人の意思を確認し、ヴァルドへ向き直った。
「ハルヴァからも、直接話せる者を出してもらいたい」
「ああ。そのつもりだ」
ヴァルドは少し間を置いた。
「俺はここを離れられん。グレンも同じだ。だが、アレンたちだけに説明を任せるわけにもいかない」
施設の再利用を認め、異常が起きてから再封鎖へ方針を変えたのはヴァルドだ。カシュラとの対立についても、ハルヴァの立場から話すべきことがあるのだろう。
「リーネ」
「うん」
「お前に行ってもらう」
リーネは一瞬目を見開いた。
「……私が?」
「ああ。アレンとフィアナがここへ来た時から知っている。施設の調査にも加わり、異常が起きた時も現場にいた。カシュラの襲撃では、アレンと一緒に施設の奥まで入っている」
ヴァルドは淡々と理由を挙げた。
「お前なら、自分が見たことを話せる。俺の判断についてはヴァレクにも説明した。お前は現場で何が起きたかを伝えてくれればいい」
リーネは少し考え、集会所の入口へ目を向けた。
「ラウネの方は大丈夫なの?」
「人手が足りないのは確かだ。だが、盟主へ話を通すのも氏族を守る仕事だ。お前が見てきたことを伝えてほしい」
ヴァルドはそう言ってから、少し声を落とした。
「北方のほかの氏族が何を考えているのか、お前自身の目でも見てこい」
リーネは黙って聞いていた。
彼女が同行してくれるのは俺としても心強い。施設では一緒に戦い、下層での出来事も見ている。北方の事情についても、俺やフィアナよりずっと詳しい。
ただ、ラウネを離れることになる以上、リーネ自身にも考えることはあるだろう。
「……分かった。行くよ」
少し考えたあと、リーネははっきりと答えた。
「施設で起きたことは、私も直接見てる。それに、カシュラがどうしてあそこまでして施設を欲しがったのかも気になる。盟主のところへ行けば、ほかの氏族がどう考えてるのかも聞けるかもしれない」
ヴァルドが頷いた。
「分かった。ハルヴァの者として行ってこい。見ていないことまで答える必要はない。分からなければ、分からんと言え」
「うん」
「それから、今の足では出発させんぞ」
リーネは少し苦笑した。
「分かってる」
そのやり取りを聞いていたガルドが、腕を組んだまま口を開いた。
「なら、俺たちも一緒に行くことになるな」
「王都へ戻らなくていいのか?」
俺が尋ねると、ガルドは呆れたように俺を見た。
「お前らを見つけたからって、ここへ置いて帰るわけにもいかねえだろ。盟主のところまで行くなら、護衛は多い方がいい」
「私は古代施設のことも気になるわ」
セレナが続けた。
「王都とラウネで似た異常が起きているなら、北方に残された記録を調べる価値は大きいと思う」
「俺も構わん」
オスカーが短く言った。
「ここまで来たんだ。途中で引き返す理由もない」
俺は三人を見回した。
何が起きるか分からない北方へ向かうことになるが、経験豊富な三人が同行してくれるのは心強かった。
「助かる。ありがとう」
「礼は無事に帰ってからでいい」
オスカーの言葉に、俺は頷いた。
「そうですね」
ヴァレクは机の地図を引き寄せた。
「では、俺を含めて七人だな。途中の氏族との連絡は俺が引き受ける。経路については、カシュラの動きを確認してから決めよう」
「道中の警戒は俺たちで分担できる。ただ、負傷者がいる以上、移動の速さは考えなきゃならねえな」
ガルドが言うと、ヴァルドはフィアナへ目を向けた。
「アレンとリーネは、いつ頃から山道を歩けそうだ?」
「二人とも歩けるようにはなってきたけど、何日も続けて移動できるかはまだ分からない。もう少し治療を続けて、傷の状態を見たい」
「分かった。急がせるつもりはない」
「それに、まだ治療の必要な人も残ってるから。私が手伝えるうちは、できるだけやっておきたい」
「世話になっている。だが、お前まで倒れられては困る。休む時間は取れ」
「うん。分かってる」
フィアナが答えると、ヴァルドは地図を畳んだ。
「出発の日は、傷の経過を見て決める。それまでに必要な物資を揃えよう。ラウネの警備と施設の封鎖は、引き続きこちらで進める」
王国への連絡についてもヴァレクが方法を確認することになり、当面の方針が決まったところで、ヴァルドはガルドたちへ顔を向けた。
「滞在先も用意してある。ヴァレクには集会所の客間を使ってもらう。ガルドとオスカーは南側の空き家だ。セレナには、その向かいの家で一室借りられるよう話をつけてある」
「助かる。世話になるな」
ガルドが答えると、ヴァルドは頷いた。
「アレンとフィアナは、今までの家を使ってくれて構わん。リーネも今日は帰って足を休めろ。出発の準備は明日からでいい」
「分かった」
リーネが返事をしたところで、集会所での話は終わった。
外へ出ると、夕方の冷たい風が通りを抜けていった。
ガルドたちは案内の戦士について滞在先へ向かい、リーネも家へ戻るという。セレナはフィアナともう少し話したそうだったが、互いに仕事が残っていることもあり、明日改めて時間を取ることになった。
「じゃあ、また明日な」
ガルドが手を上げた。
「ああ。今日はゆっくり休んでくれ」
「お前こそな」
その言葉に、俺は苦笑して手を振った。
フィアナは治療所で最後の引き継ぎを済ませるというので、俺は一足先に家へ戻ることにした。
◇
フィアナが帰ってきた頃には、外もすっかり暗くなっていた。
炉に薪を足し、簡単な夕食を二人で済ませる。ここ数日は互いに仕事の時間がずれていて、同じ家で暮らしていても、こうして落ち着いて食事を取る機会は少なかった。
フィアナは食器を片づけると、温めた湯を器に注ぎ、向かいの椅子へ腰を下ろした。
「今日は驚いたね」
「ああ。まさか四人も来るとは思わなかった」
「セレナの顔を見た時、すごく嬉しかった。王都にいた頃のことを思い出しちゃった」
フィアナは器を両手で包み、少し笑った。
「ここでの暮らしにも慣れてきたけど、みんなに会うと、王都へ帰りたくなるね」
「そうだな。ミラたちのことも気になるし」
「うん。でも、盟主のところへ行くって決めたのは、私も納得してるよ」
「ああ。俺もだ」
俺も湯をひと口飲んだ。
盟主のところへ向かうまでには、まだ準備が必要になる。傷の治療に加え、装備や食料、道中の安全確認もあるが、少なくとも今夜は急いで片づけなければならないこともなかった。
フィアナはしばらく炉の火を見つめていたが、やがて何か思い出したように顔を上げた。
「そういえば、リーネがアレンの二つ名を聞いて驚いてたね」
「ああ。あの話になるとは思わなかった」
「でも、すぐ納得してた」
「一緒に戦ってたからな。俺の動き方も、かなり見てたんだと思う」
「そうだね」
フィアナは頷いた。
けれど、すぐには次の言葉が出てこなかった。器へ視線を落とし、指先でその縁をなぞっている。
「……どうした?」
「ううん。ちょっと考えてた」
そう答えてから、フィアナは少し困ったように笑った。
「リーネって、アレンの戦い方を本当によく見てたんだなって」
「まあ、互いに動きを見てないと危なかったからな」
「うん。それは分かってるよ」
フィアナは器を机へ置いた。
「リーネが一緒にいてくれて、本当によかったと思ってる。あの時も、二人で帰ってきてくれて安心したし」
「俺も助けられたよ。あいつがいなかったら、どうなってたか分からない」
「……そうだよね」
フィアナはそこで少し口を閉じた。
俺は彼女が何を言いかけたのか分からず、続きを待った。
「なんだか、ちょっと羨ましかったな」
「羨ましい?」
「うん。リーネが、アレンと一緒にいたこと」
意外な言葉に、俺はフィアナを見た。
「施設の中は相当危なかったぞ。リーネだって怪我をしたし、あんな目には遭わない方がいい」
「そういう意味じゃないよ」
フィアナは小さく笑った。
「私もアレンの戦いは今まで何回も見てた。どう動くかも、ある程度は分かってるつもりだったんだけど」
「ああ」
「今日、リーネが話してるのを聞いてたら、あの時のアレンのことは、私よりリーネの方がよく知ってるんだなって思ったの」
そこまで言ってから、フィアナは少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「変だよね。ちゃんと帰ってきてくれたんだから、それで十分なはずなのに」
俺はすぐには答えられなかった。
施設の中で何があったかは、フィアナにも話してある。リーネに助けられたことも、二人で下層へ落ちたことも隠していない。
ただ、俺とリーネが施設にいた間、フィアナはラウネで負傷者の治療を続けていた。俺が戻らなければ、何が起きたかを知ることさえできなかったはずだ。
「……待ってる方も、大変だったよな」
そう言うと、フィアナは顔を上げた。
「うん。少しね」
答えは短かったが、無理に笑おうとはしなかった。
「あの日、グレンがアレンたちを迎えに行ってくれたでしょ。私はここで治療を続けてたけど、外で誰かの足音がするたびに、つい顔を上げちゃって」
「そうだったのか」
「怪我をした人が運ばれてくるたびに、アレンじゃないかって思ったこともあった。そんなこと考えてる場合じゃないのにね」
フィアナは器へ目を落とした。
「でも、帰ってきてくれたから、もう大丈夫」
その表情を見ているうちに、俺も少し胸が詰まるような気がした。
施設の中では、目の前のことを考えるので精一杯だった。隔壁をどう閉じるか、統制体からどう逃れるか、リーネを連れてどう戻るか。フィアナがラウネで待っていることは分かっていたが、その時間をどんな気持ちで過ごしていたのかまでは考えられていなかった。
「俺も、フィアナがいてくれてよかったと思ってる」
「え?」
「施設から戻ってきた時、フィアナの顔を見て安心したんだ。ああ、ちゃんと帰ってこられたんだなって」
フィアナは黙って俺を見ていた。
「あの時は怪我のこともあって、ろくに話せなかったけどな。フィアナが待っててくれて、助かった」
「……そっか」
フィアナは小さく答え、それから器を持ち直した。
少しだけ頬が赤くなったように見えたが、炉の火が揺れていたので、はっきりとは分からなかった。
「怪我してたのは全然嬉しくなかったけどね」
「それは悪かった」
「そうだよ。もう少し大事にしてほしいな」
フィアナはそう言って笑った。
俺もつられて笑う。
しばらくして、フィアナは器を机へ置き、椅子から立ち上がった。
「アレン」
「ん?」
「隣、座ってもいい?」
「ああ。もちろん」
フィアナは自分の椅子を俺の左側へ運び、膝にぶつからないよう気をつけて寄せた。
すぐ隣に腰を下ろすと、肩が触れそうな距離になる。向かい合って座っていた時よりも近くなって、俺は少し驚いたが、フィアナは何も言わずに炉の火へ目を向けていた。
俺も同じ方を見た。
薪が小さく爆ぜ、赤い火がゆっくり揺れている。外では夜の見張りが交代する声が遠くに聞こえたが、家の中は静かだった。
「今日は、久しぶりに二人でゆっくりできるね」
「ああ。こういう時間も必要だな」
「うん」
フィアナは少し身体を寄せ、俺の左腕へ肩を触れさせた。
怪我をした右肩には触れないよう、気を遣ってくれているらしい。俺も身体の向きを少し変え、彼女が楽に座れるようにした。
しばらくして、机の上に置いていた俺の左手へ、フィアナの指先がそっと触れた。
俺が顔を向けると、彼女もこちらを見た。
少し恥ずかしそうに笑いながらも、手を引く様子はない。そのまま指を重ねてきたので、俺もそっと握り返した。
「……帰ってきてくれて、ありがとう」
フィアナが小さな声で言った。
「こちらこそ。待っててくれてありがとう」
そう答えると、フィアナは嬉しそうに目を細めた。
それから少しだけ身体を寄せ、俺の左肩へ頭を預けようとして、途中で顔を上げる。
「痛くない?」
「左は大丈夫だ」
「よかった」
安心したように笑ったフィアナが、今度はそっと頭を預けてきた。
俺も椅子の背へ身体を預け、彼女が寄りかかりやすいよう少し姿勢を変えた。隣に誰かがいると、いつもより窮屈なはずなのに、不思議と落ち着く。
フィアナは目を閉じ、握った手を離さなかった。
炉の火がゆっくり小さくなっていく。
薪を足した方がいいかとも思ったが、まだ部屋は十分に暖かい。フィアナも気持ちよさそうにしていたので、もう少しそのままにしておくことにした。
俺たちは寄り添ったまま、静かに炉の火を眺めていた。




