第104話 標準の範囲
――操作員を確認しています。
壁に浮かんだ文字が消え、代わりに新しい表示が現れた。
――局所認証の有効状態を確認しました。
その下にも文字が並び始めたが、読み終える前に壁の内側から声が聞こえてきた。
『操作員認証を確認しました。本区画の管理機能をご利用いただけます』
思わず身を引いた。
男とも女ともつかない、落ち着いた声だった。すぐ近くで誰かが話しているように聞こえたものの、壁の向こうに人がいる気配はない。声のする場所を探しても、目の前の装置以外にそれらしいものは見当たらなかった。
「アレン?」
リーネも驚いたらしく、俺の外套を軽く引いた。
「今、何か喋ったよね」
「ああ。俺を操作員として認めたらしい。この場所の設備を使えるって」
「操作員?」
「設備を扱う人間のことだと思う。どうして俺がそう判断されたのかは分からないけど」
リーネは不思議そうに壁を見つめていたが、俺にはもう一つ気になることがあった。
声が、前世の記憶にある言葉で話していたのだ。
古代文字を読む時にはそれほど意識しなくなっていたが、実際に声として聞くのは初めてだった。発音も言葉の区切り方も覚えのあるものに近く、内容を理解するのに苦労はない。
ならば、こちらの言葉も通じるのだろうか。
俺は装置へ向き直り、記憶にある言葉で尋ねた。
「こちらの声は聞こえているか?」
『音声入力を確認しました。ご用件をお伝えください』
短い音とともに表示の一部が切り替わった。どうやら、文字を読むだけでなく、こちらから話しかけることもできるらしい。
「今の、アレンも同じ言葉を喋ったの?」
「ああ。通じるか試したんだ」
「文字だけじゃなかったんだね」
「俺も驚いてる。実際に使う機会があるとは思わなかった」
リーネは壁と俺を交互に見比べていたが、やがて小さく頷いた。
「だったら、ここから出る方法を聞けるんじゃない?」
「そうだな。まずはそれだ」
前世の言葉を口にするのは随分久しぶりだったが、相手が普通に返事をしてくれると分かれば、次の質問は自然に出てきた。
「上の階へ戻りたい。安全に通れる道はあるか?」
『現在位置から上層への連絡経路を照会します』
壁の表示が消え、しばらくして簡単な図が現れた。
いくつかの四角い区画が細い線で結ばれ、その一角で小さな印が点滅している。現在地を示しているのだろう。
『主昇降路は使用できません。中央側連絡通路には構造損傷が確認されています。西側保守連絡通路については、直近の通行状況を確認できません』
「西側の通路なら、上へ戻れる可能性があるのか?」
『西側保守連絡通路は上層設備に接続しています。ただし、接続先の状態情報は更新されていません』
図の左側に一本の線が浮かび上がった。
現在地から壁沿いの通路を進み、途中の分岐を曲がった先まで続いている。さらに奥にも線は延びているようだが、途中から色が薄くなっていた。
「リーネ、西側に上へ通じる道がある。今も使えるかは分からないけど、途中までは案内できるそうだ」
「西側……この通路を奥へ進むの?」
「ああ。途中に分岐があるらしい」
リーネは図へ顔を近づけ、点滅している印と通路を示す線を目で追った。文字は読めなくても、大まかな位置関係なら分かるようだった。
「その先で壊れてたら、また戻ってくるしかないね」
「そうなるな」
「だったら、床は慎重に確かめよう。上だって、あんなに深い空間があるとは分からなかったし」
俺は頷いた。
ここまで歩いてきた保守通路は比較的無事だったが、途中の区画まで安全とは限らない。今の負傷では足場の悪い場所を強引に越えるのも難しく、経路が見つかったからといって安心はできなかった。
それでも、上へ戻るための手がかりは得られた。
俺は図を確かめてから、もう一つ尋ねた。
「上層には、人間を攻撃する黒い人型の兵器がいた。あれを止められないか?」
『対象の識別情報を提示してください』
「全身が黒い装甲で覆われた大型の人型だ。頭部に縦長の発光部があって、そこから強い光を放つ」
少し間が空き、表示が切り替わった。
『警備統制系統に属する機体の可能性があります。本区画の管理対象には含まれていません』
「管理対象じゃない?」
『本区画は保守設備、環境維持設備および操作員支援を管理しています。警備統制系統への命令は行えません』
「そちらへ連絡して、止めてもらうこともできないのか?」
『警備統制系統との通信を確立できません。状態照会および命令送信は利用できません』
同じ施設の設備なら、どこかでまとめて管理しているのかもしれないと思ったが、そう都合よくはいかないらしい。
「上で人が襲われているんだ。それでも何もできないのか?」
『本区画の損傷については確認しています。管理範囲外の警備設備については、復旧後に担当系統へお問い合わせください』
復旧後と言われても、俺が知りたいのは今すぐ統制体を止める方法だ。しかも、その担当系統とは通信できないという。
人が襲われていると伝えても、返ってくるのは管理できる設備と通信状態の説明ばかりだった。目の前の装置には警備設備を操作する手段がなく、こちらがどれほど急いでいるかも関係ないらしい。
これ以上尋ねても、答えは変わりそうになかった。
「黒い人型のことも聞いてた?」
リーネがこちらを向いた。
「ああ。でも、ここからじゃ止められないらしい。別の仕組みで動いてるそうだ」
「そうなんだ……」
彼女は少し残念そうに目を伏せたものの、すぐに顔を上げた。
「なら、まず戻ろう。外へ出た黒い獣がどうなったのかも、確かめないと」
「ああ。ラウネへ知らせに走った戦士も、無事に着いたか分からないからな」
隔壁は閉じられないままで、俺たち自身も下層へ取り残されている。地上で何が起きているのか確かめるためにも、西側の通路を調べる必要があった。
俺は案内図を見ながら、通行上の注意点を尋ねた。
しかし、返ってきたのは現地の表示と床の安全状態を確かめるようにという案内だった。結局、通れるかどうかは自分たちの目で確認するしかないらしい。
『なお、本区画の操作員向け標準支援は継続しています。対応範囲外への移動時には、支援内容が変更される場合があります』
何気なく続いた言葉に、俺は顔を上げた。
「標準支援?」
『はい。認証済み操作員に提供される通常の作業補助です』
画面の隅に新しい項目が並び、その中に魔力を示す文字を見つけた。
「その補助は、魔法にも関係するのか?」
『本区画では魔力供給補助および制御支援を利用できます。操作員が使用する魔法に応じて、出力、発動効率および制御精度を補助します』
俺は思わず自分の手を見た。
統制体を壁へ吹き飛ばした風も、落下中に二人の身体を支え続けた上昇気流も、この施設の補助を受けていたのか。
「……あれほどの出力も、標準なのか?」
『標準支援の稼働範囲内です。補助量は設備の稼働状況および操作内容に応じて調整されます』
あっさりとした返答だった。
俺は包帯を巻かれた肩へ目を落とした。命がけで使ったあの力が、ここでは通常の作業を助けるための機能だという。
いったい、どんな作業を想定していたんだろう。
「アレン、何か分かったの?」
リーネが尋ねてきた。
「ああ。ここでは魔法を使う時に、施設から補助を受けられるらしい。さっきの風も、その影響があったみたいだ」
「施設が魔法を……?」
彼女は壁を見つめ、それから俺の肩へ視線を移した。
「私たちがずっと封じてきた場所に、そんなものまであったんだ。でも、身体の傷まで治してくれるわけじゃないんだね」
「残念ながらな。魔法の方はまだ使えそうなんだけど」
「だったら余計に気をつけて。さっきみたいに無理な動き方をしたら、今度こそ身体がもたないよ」
「分かった。右膝も、これ以上傷めたくないからな」
風を細かく操れても、その勢いを受け止める身体まで強くなったわけではない。落下した時のことを思い出せば、力任せに使う気にはなれなかった。
俺は改めて装置へ向き直った。
「この補助は、施設の外でも使えるのか?」
『対応設備の稼働範囲外では支援を提供できません。供給状態によっては、範囲内でも補助量が変動する場合があります』
西側の通路を進むうちに、補助が弱まる可能性もあるわけか。脱出経路が見つかっても、魔法を当てにした無理な移動は避けた方がよさそうだった。
それよりも、気になることがある。
「そもそも、どうして俺が操作員として認められたんだ?」
『局所認証が有効です』
「その認証の基準を知りたい」
『登録情報の詳細照会には中央通信が必要です。現在、中央通信を利用できません』
「最後に中央と連絡が取れたのはいつだ?」
『中央時刻との同期を確立できません。正確な時刻情報および通信履歴の詳細を取得できません』
俺は表示を見つめた。
中央という別の場所と連絡が取れず、時刻さえ正しく把握していない。それでも局所的な認証は有効で、魔法の補助も続いている。
王都の地下で見た表示を思い出した。あそこでも操作員に関係する文字が現れていたが、誰に対して何が認められたのかまでは分からなかった。
同じ仕組みなのかもしれない。
ただ、これ以上質問しても、中央と通信できないという答えが返ってくるだけだろう。
「詳しいことは分からなかった?」
リーネが尋ねる。
「ああ。俺が操作員と認められた理由は、ここじゃ調べられないらしい」
「だったら、今は仕方ないね」
彼女は壁へ手をつき、慎重に左足へ体重をかけた。少し顔をしかめて、すぐに反対側へ重心を移している。
「リーネ、もう少し休んでから行こう。足、さっきより痛むだろ」
「アレンも右脚を庇ってるでしょう?」
「まあ、そうだな」
「歩けなくなったら困るから。少しだけ休んで、それから進もう」
俺も近くの壁へ背を預け、右膝を伸ばして座った。
立っていた時より痛みが和らぐ。肩の包帯に新しい血が滲んでいないことも確かめ、装備袋から水を取り出してリーネへ渡した。
彼女は少し口をつけ、残りを返してくれた。
通路の奥では低い振動音が続いているものの、新たな崩落の気配はなかった。
壁の装置も静かなままだ。こちらから尋ねなければ何も言わず、表示された案内図だけを淡く照らし続けている。
俺はその図を眺めながら、西側の通路を確かめた。
主な通路が使えず、残された経路の状態も分からない。あの図が正しければ、少なくとも次の分岐までは進めるはずだが、その先は現地で判断する必要がある。
今の負傷では移動に時間もかかるだろう。
リーネが休んでいる間に、自分の装備も確かめた。剣は鞘に収まっており、柄も問題なく握れるが、刃に残った小さな欠けはそのままだ。外套の裂け目も広がっているものの、今すぐ直せる状態ではない。
しばらく休んだところで、リーネが壁へ手をついて立ち上がった。
「そろそろ行けそう?」
「ああ。無理しない程度にな」
俺も立ち上がり、右膝の具合を確かめた。
歩くたびに鈍い痛みは残るが、ゆっくりなら動ける。できればこのまま剣を抜かずに済ませたかった。
出発する前に、装置へ向き直る。
「最後に一つだけ。この区画は、何のために造られた場所なんだ?」
少し間が空いた。
『本区画は、初期入植基盤に属する保守区画です。周辺設備の環境維持、点検および操作員支援を担当しています』
聞き慣れない施設名だった。
初期入植基盤。
入植地の建設や維持を目的とした設備なのだろうか。
そう考えれば意味は通る。ただ、この古代施設が誰のために、どの土地への入植を支えていたのかとなると、まるで見当がつかなかった。
「その初期入植というのは、いつ、どこのことを指しているんだ?」
『入植履歴の詳細情報は本区画の管理対象外です。中央記録への照会が必要です』
また中央記録か。
古代の施設がいつ造られ、どんな人々に使われていたのか。その記録が残っているとしても、この装置からは確認できないらしい。
俺は表示された施設名をもう一度確かめた。
エルムの地下でも、王都の遺構でも、これほど具体的な用途を示す名称を聞いたことはなかった。
少なくとも、この場所が何かの設備を維持するために造られたことは、周囲の構造からも納得できる。
問題は、その設備が何を支えていたのかということだった。
「アレン?」
リーネの声で顔を上げた。
彼女は通路の先へ視線を向けながら、俺を待っている。
「何か分かった?」
「ここの施設が何のために造られたのか、名前だけは分かった。でも、詳しい記録は調べられないらしい」
「気になること?」
「ああ。初期入植基盤っていうらしいんだが、何の入植を指しているのか分からない」
「初期入植……」
リーネはその言葉を繰り返し、少し考え込んだ。
「ハルヴァの記録にも、そんな名前はなかったと思う」
「そうか」
「でも、オルザなら何か知ってるかもしれない。古い施設の記録をずっと調べてたし」
「無事なら、聞いてみたいな」
オルザが今どこにいるのかは分からない。カシュラ側がこの施設へ何をしたのかも、俺たちにはまだ確かめられていない。
それでも、古代の記録を長く調べてきた彼なら、何か手がかりを持っているかもしれなかった。
俺は装置へ向き直り、案内図をもう一度表示してもらった。
『西側保守連絡通路を表示します。区画内の操作員支援は継続します』
短い返答とともに、画面は通路を示す図へ戻った。
俺たちは進む方向を確かめ、壁沿いの通路へ足を向けた。
リーネは左足を庇いながらも、自分で歩ける場所を選んでいる。俺も右膝へ無理な負担をかけないよう、彼女の歩調に合わせた。
奥には弱い白色照明が点々と続いているが、分岐の先までは見通せない。
俺は曲がり角へ向かいながら、教えられた施設の名前をもう一度思い出した。
初期入植基盤。
何のために、これほどの設備を必要としたのか。
その名前は覚えておこうと思いながら、俺はリーネとともに薄暗い通路へ進んだ。




