第100話 北の防柵
北の防柵から角笛が聞こえたのは、俺たちがラウネ東側の坂を下っている時だった。
午後の陽はまだ山の上にあったが、集落ではすでに負傷者の搬送が始まっていた。広場を横切る荷車には血のついた布が積まれ、石造倉庫の前では治療師たちが人を呼びながら動き回っている。
「アレン、北東の斜面!」
リーネが指さした先では、三人の戦士が岩陰に追い込まれていた。
二人が倒れた仲間を抱えているものの、上の林から矢が飛んでくるため動けずにいる。防柵からの援護も届いているが、敵は木々の陰に散っており、射撃を止められていなかった。
俺たちはそのまま北へ走った。
グレンは防柵の内側で戦士たちを指揮していた。固定された左腕はそのままだが、右手で斜面を指し、負傷者を下ろすための盾兵を集めている。
「グレン!」
「戻ったか。報告は後だ。あの三人を下げたい!」
「俺が援護する。リーネ、登れるか?」
「内側から行ける。ついてきて!」
グレンが盾兵を二人付けてくれたので、俺たちはリーネを先頭に斜面へ入った。
途中から木の根が張り出した細い道になり、岩場が近づくにつれて敵の矢も増えてくる。盾兵が前へ出たところで、俺は林の弓手へ風を放った。
矢を射かけようとしていた男の腕が流れ、一本が大きく逸れる。続けて別の射手の足元を土魔法で崩すと、敵は木の幹へ身を寄せ、射撃が一瞬途切れた。
「今だ! 下ろしてくれ!」
盾兵たちが岩陰へ駆け込み、負傷者を引き受けた。
リーネも身体を支え、四人で慎重に斜面を下りていく。俺は後ろから矢を牽制し、全員が防柵の内側へ戻るのを確かめてから下がった。
運ばれた戦士はすぐに地面へ横たえられた。
胸元には矢が深く刺さっており、仲間が何度名前を呼んでも反応しなかった。グレンが近づいて首筋を確かめると、負傷者を運んできた二人も、その表情だけで結果を察したらしい。
「……倉庫へ運んでくれ。遺体は別にしておけ」
グレンの指示を受け、戦士たちが男を抱え上げた。
俺が北東の斜面を見上げると、先ほどまでハルヴァの弓手がいた岩場に、すでに敵の姿が見えていた。
「射点を取られたな」
「ああ。取り返すには林の連中を追い払わんといかんが、正面にも百人ほどいる」
グレンは近くの戦士を呼び、防柵の東端を指した。
「上の射点は捨てる。東側の弓手を内側まで下げて、盾を二人増やせ」
「取り返さなくていいのか?」
「今は人数が足りん。あそこを守ろうとして、さらに人を失う方がまずい」
戦士は頷き、すぐに持ち場へ戻っていった。
防柵の内側では弓手の配置が変わり、北東側へ盾兵が集まっていく。敵の矢は相変わらず林から飛んできていたが、岩場の下へ移ったことで、直接狙われる戦士は減った。
その代わり、北の道を守る人数が少なくなった。
敵もそれを見逃さなかったらしい。
角笛が鳴り、盾兵がまとまって前進を始めた。
「アレン、正面を頼む!」
「分かった!」
グレンは弓手たちを防柵の内側へ集め、俺を前衛の脇につかせた。
敵は盾を揃えて登ってくる。後方の槍兵も間隔を詰めており、こちらが矢を放っても、先頭の盾で防がれてしまう。
「まだ射つな!」
グレンの声が響いた。
俺は敵が防柵へ近づくのを待ち、道の右端へ風を放った。
先頭の盾兵が横から押され、隣の男と肩をぶつける。後ろにいた槍兵が穂先を上げて避けようとしたところへ、さらに風を重ねた。
狭い道で隊列の端が乱れ、盾の間に隙間ができる。
「射て!」
防柵から矢が一斉に放たれた。
盾を上げ直せなかった男が肩を射抜かれ、後ろの槍兵も脚に矢を受けて倒れ込む。前列が崩れたところへ続けて矢が飛び、敵は負傷者を下げながら後退し始めた。
「追うな! 防柵から出るな!」
グレンがすぐに追撃を止めた。
敵は道の途中まで下がったが、そのまま撤退する様子はない。負傷者を後方へ運ぶと、新しい盾兵が代わりに前へ出てくる。
一方、こちらでは矢を補充する戦士が走り回り、北東側からはまだ射撃が続いていた。
「グレン、東の連中が少し下がってきてる!」
リーネが防柵の端から声をかけた。
「盾を増やせ! 正面はそのまま維持する!」
指示を受けた戦士たちが動き、東側の守りを固め直す。
敵の攻撃は一度押し返したものの、奪われた高所は戻っていない。グレンもそこへ戦力を割くつもりはないようで、防柵の内側に新たな射撃位置を作らせていた。
「さて、施設の方を聞こうか」
配置を確認し終えたグレンが、俺のところへ戻ってきた。
「入口は奪われた。第三封鎖を外し始めていて、敵は百人以上いる。作業員は全員逃がしたが、守備の戦士が一人、肩に矢を受けた」
「戦死者は?」
「施設側では出ていない」
「それならよかった」
グレンは短く頷いた。
「それと、オルザが敵と一緒にいた」
「……オルザが?」
「ああ。指揮官と話しながら、作業員にも何か説明していた。封鎖を乱暴に壊そうとした者を止めていたから、慎重に外させているみたいだった」
グレンはリーネへ目を向けた。
彼女も頷いたが、何も言わなかった。
「ヴァルドには俺から伝える。ここを離れられんから、伝令を使おう」
グレンが近くの戦士を呼んだところで、南側から別の伝令が駆けてきた。
「グレン! 施設へ出していた斥候が戻った!」
その後ろから、泥だらけの外套を着た男が現れた。
男は差し出された水袋を受け取り、一口飲んでから話し始める。
「施設の見張り場は敵に押さえられていた。巡回路から入口を見たが、第三封鎖の石積みがかなり外されている」
「中へは入っているのか?」
「ああ。工具を持った者が何人も坑道へ入っていた。外には三十人ほどの戦士がいたが、ほかにも林に見張りがいる」
「第二封鎖は?」
「そこまでは見えなかった。ただ、中から石材を運び出している。奥でも作業しているはずだ」
俺たちが施設を離れた時には、まだ入口の石材を外しているところだった。
斥候の報告が正しければ、すでに坑道の内部まで作業が進んでいる。
「ヴァルドへ伝えろ」
グレンが伝令へ向き直った。
「敵は第三封鎖の撤去を進め、坑道へ人を入れている。こちらは北の防柵を維持できるが、これ以上戦士を抜けない。施設へ向かわせるなら、別の控えを使ってほしい」
伝令は頷き、すぐに広場へ走っていった。
グレンは俺たちへ向き直る。
「アレン、リーネ。ヴァルドが施設へ人を出すと決めたら、また頼むことになる」
「俺は動ける。リーネも大丈夫か?」
「うん。水と食料を補充すれば行けるよ」
「なら、少し休んでおけ。決まったら呼ぶ」
俺たちはグレンに頷き、北の防柵を離れた。
石造倉庫では、フィアナが負傷者の処置を続けていた。
壁際には包帯を巻かれた戦士たちが座り、中央の寝台では腹部を負傷した男が治癒を受けている。施設から退いた戦士も無事に運ばれてきたらしく、肩を包帯で固定され、別の治療師に診てもらっていた。
俺とリーネは倉庫の入口で水袋を満たし、処置が終わるのを待った。
フィアナは治療師へ短く指示を伝えてから、こちらへ歩いてきた。
「アレン、リーネ。二人とも戻ってたんだね」
「ああ。北の防柵にいた」
「怪我はしてない?」
「俺は大丈夫だ」
「私も平気」
フィアナは二人の顔を確かめると、少し表情を緩めた。
「施設は?」
「入口を取られた。今は敵が封鎖を外してる。ヴァルドにも報告が行ってるところだ」
「そっか……」
フィアナは倉庫の奥を振り返った。
治療師の一人が新しく運ばれてきた負傷者を診ており、別の者が寝台の横へ水桶を運んでいる。
「こっちは大丈夫か?」
「今のところはね。ただ、重傷の人が続くと少し厳しいかな。治癒が必要な傷を先に診るようにしてる」
「分かった。グレンにも伝えておく」
倉庫の奥から彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「今行く!」
返事をしたフィアナが、もう一度こちらへ向き直る。
「また出ることになりそう?」
「たぶんな。施設の様子を見に行くと思う」
「分かった。じゃあ、傷がなくても戻ったら顔を見せてね。何があったかも聞きたいから」
「ああ。そうする」
フィアナは頷き、倉庫の奥へ戻っていった。
俺たちが外へ出ると、ちょうどヴァルドの使いがやってきた。
「二人とも、広場へ来てくれ。ヴァルドが待っている」
広場の東側には六人の戦士が集まっていた。
弓手が二人、剣や斧を持つ者が四人で、いずれも山道を歩くための軽い装備を整えている。ヴァルドは俺たちが近づくと、すぐに話を始めた。
「施設へ戻ってもらいたい」
「第二封鎖の確認か?」
「ああ。敵がどこまで進んでいるか知りたい。入口を奪い返す必要はないが、奥の封鎖まで手をつけられているなら、その状態を確かめてくれ」
「分かった。ただ、巡回路も見張られてると思う。近づけるかは分からないぞ」
「無理なら戻れ。北の防柵にも人数が要る。お前たちまで失うわけにはいかん」
ヴァルドは六人の戦士へ目を向けた。
「移動はリーネが案内する。敵と接触した場合は、アレンとも相談して判断しろ。施設へ踏み込むようなことは勝手にするな」
戦士たちが頷いた。
ヴァルドは最後にリーネへ声をかけた。
「オルザがいると聞いた。だが、今は連れ戻そうとするな」
「……分かってる」
リーネは短く答え、先頭へ進んだ。
俺たちは水と携行食を受け取り、広場を離れた。
北の防柵では再び角笛が鳴っていたが、グレンの指示に従って戦士たちが持ち場を守っている。東側の高所からはまだ矢が飛んでいるものの、防柵の内側に配置を下げたことで、すぐに押し込まれる様子はなかった。
リーネは一度そちらを確かめてから、東側の森林斜面へ入った。
俺たちも後へ続く。
施設へ向かう巡回路は何度も歩いているが、今日は八人での移動になる。狭いところでは一列になり、後方にも見張りを置いた。
途中で敵の姿は見えなかったものの、尾根へ近づくにつれて、リーネは何度か足を止めて周囲を確かめた。
陽が山際へ近づき、木々の影が長く伸び始めた頃、施設の見張り場が近づいてきた。
リーネが片手を上げると、全員が足を止めた。
「この先は声を落として。見張り場に敵がいるか確かめてくる」
彼女は一人で岩場の先へ進み、しばらくして戻ってきた。
「見張り場に三人いる。巡回路の方にも一人いたから、下から回った方がいいと思う」
「入口は見えるか?」
「昼間に使った岩のところなら。少し遠いけど、何をしてるかは分かるはず」
俺は同行する戦士たちへ向き直った。
「六人はここで待っていてくれ。リーネと入口を確認してくる」
弓手の一人が頷き、残りの戦士とともに岩陰へ入った。
俺とリーネは見張り場を避け、木々の間を通って張り出した岩へ向かった。
入口を見下ろすと、昼間に積まれていた石材の多くが脇へ移されていた。
第三封鎖の中央には人が二人並んで通れるほどの隙間ができ、工具を持った作業員が坑道を出入りしている。通常道には盾兵が立ち、入口の左右にも弓手が配置されていた。
「もう中に入ってるね」
「ああ。第二封鎖まで進んでるかもしれない」
坑道からは空の荷籠を持った作業員が出てきて、代わりに工具を担いだ男たちが入っていく。
オルザの姿は見えなかった。
俺は入口の奥へ目を凝らしたが、日が傾いたせいもあって、中の様子までは分からない。
「もう少し近づけるかな」
リーネが小声で言った。
「見張りが多い。今はここから確認しよう」
「うん」
その時、坑道の中から男たちの声が聞こえた。
入口にいた戦士が振り返り、近くの作業員へ何かを指示している。三人の男が慌ただしく坑道へ入り、外に残った者たちは運び出された石材を脇へ寄せ始めた。
しばらくして、奥から何かを引きずる音が聞こえてきた。
入口の戦士たちが左右へ退き、道を空ける。
最初に出てきたのは、太い横梁を担いだ二人の作業員だった。
重いらしく、後ろからもう一人が支えている。男たちは何度も足を止めながら、ようやく横梁を外へ運び出した。
黒ずんだ木肌に、古い鉄帯が何本も巻かれている。
「……アレン、あれ」
リーネが俺の腕を掴んだ。
俺もすぐに気づいた。
第三封鎖のために運び込んだ新しい木材とは違う。あの太さと鉄帯には見覚えがあった。
第二封鎖を復旧した時、俺たちが据え直した古い横梁だった。
「第二封鎖の梁だ」
リーネは唇を結び、入口から目を離さなかった。
作業員たちは横梁を地面へ下ろすと、すぐに坑道へ戻っていく。その後ろから、鉄の棒を担いだ男たちが中へ入った。
「もう外し始めてる……」
「ああ」
俺は入口の周囲を改めて確かめた。
ここからでは坑道の中へ踏み込めない。見張り場も通常道も敵に押さえられ、同行した六人を連れて正面から進めば、すぐに見つかるだろう。
「いったん戻ろう。六人にも伝えたい」
「分かった。先に行くね」
リーネが身を引こうとした時、坑道の入口で作業員たちが再び道を空けた。
今度は四人がかりで、先ほどより長い横梁を運び出そうとしていた。
その片端が入口の外へ現れたところで、リーネが小さく息を呑んだ。
二本目も、第二封鎖の横梁だった。




