第97話 北へ続く道
国境を越えて二日目、道は朝から細い谷を縫うように北へ伸びていた。
王国側にも山地はあるが、こちらへ入ると斜面が急になり、道幅も一気に狭くなる。荷馬がすれ違える場所は限られ、片側には灰色の岩肌、反対側には木々の隙間から谷底が見えていた。
「ヴァレク、この道を進めばハルヴァまで行けるのよね」
少し前を歩いていたセレナが振り返る。
「途中で何度か分かれるが、ラウネまではこの道でいい」
「その先も、ずっと氏族の土地なのよね」
「ああ。ハルヴァは北方でもかなり南にある」
後ろを歩いていたガルドが、道の先に重なる山々へ目を向けた。
「ハルヴァは盟主に従ってるんだったか?」
「従うという言い方は少し違う。盟主側だが、盟主の方針にはよく反対する」
「反対するのに盟主側なの?」
セレナに聞かれ、俺は頷いた。
「盟主の地位そのものは認めている。もっとはっきり対立している氏族もある。今、一番大きいのがカシュラ盟だ」
「カシュラ盟?」
「カシュラ氏族を中心にした反盟主派の連合だ。加わっている氏族は北方の各地にいる」
オスカーが前を向いたまま口を挟む。
「ハルヴァは入っていないんだな」
「入っていない」
そこまで話したところで、道の曲がり角から山羊の鳴き声が聞こえた。
鉱石と毛織物を積んだ六人ほどの一団が、斜面沿いの道をこちらへ下ってくる。先頭の男には見覚えがあり、向こうも俺に気づくと、山羊を路肩へ寄せながら片手を上げた。
「ヴァレク。戻ってたのか」
「数日前にな」
男は俺の後ろへ目をやり、ガルドの大きな身体からオスカーの斧へ視線を移した。
「人間を三人も連れて、どこへ行く」
「ハルヴァだ。人を探している」
「それなら、ちょうど妙な話を聞いたぞ」
俺が足を止めると、セレナも隣へ来た。
「南方から来た若い男女を、ハルヴァの連中が連れ帰ったらしい。施設の近くで見つかったとか」
「二人とも若い?」
セレナが尋ねる。
「ああ。男と女の二人だ」
セレナと目が合った。
「アレンとフィアナじゃない?」
「まず間違いないだろう」
北方の山中へ南方から若い男女が二人で入り、そのうえ古代施設の近くで見つかっている。別人を考える方が難しかった。
「いつ頃だ?」
「少し前だな。ハルヴァの若い奴が食料を受け取りに来た時に聞いた。詳しい日にちまでは覚えてない」
「怪我をしていたとか、そういう話は聞いてない?」
「そこまでは知らんな。二人ともラウネへ連れていったとは言ってた」
少なくとも、そこで死んだという話ではない。今はそれで十分だった。
男は仲間たちが山羊を通すのを待ちながら、ふと思い出したように続けた。
「そういえば、ハルヴァは今、石工も集めてるらしいぞ」
「何をする」
「施設の入口を塞ぐって話だ。石を運ぶ人手も足りないらしい」
思わず聞き返した。
「ハルヴァが施設を閉じるのか?」
「そう聞いた。俺は荷の話しかしてないから、それ以上は知らん」
「分かった。助かった」
男は軽く手を上げ、最後の山羊を連れて南へ下っていった。
道が空いてから歩き出すと、今度はガルドが俺の横まで来た。
「ハルヴァは施設を残す側じゃなかったのか」
「ああ。盟主側が再封鎖を求めても、今までは応じなかった」
「それが自分から閉じてるなら、中で何かあったな」
オスカーの言葉に、俺も頷いた。
「そう見るべきだろう」
石工まで集めて入口を塞いでいるなら、氏族の一部が勝手に始めた作業ではない。ヴァルドが認めているはずだ。
セレナが少し考えてから尋ねる。
「王都に出たものと同じものが、ハルヴァにも出た可能性は?」
「ある。だが、そこはまだ分からん」
「黒い獣かもしれねえし、別の何かかもしれねえってことか」
ガルドが言う。
「そうだ。ラウネで聞く」
昼には、街道沿いの小さな集落で足を止めた。
石と木で組んだ家が十数軒、斜面に沿って並び、水場の周囲には塩や布、毛皮を積んだ荷が置かれている。国境と北方内陸を往来する者が休む場所らしく人の出入りは多かったが、北へ向かうはずの荷が何組かそのまま残っていた。
俺たちは水と食料を補い、馬を休ませた。
何かあれば話の方から耳に入ってくると思ったが、聞こえるのは北から来る荷が遅れているという程度で、理由を知る者はいない。朝の男から必要な話は聞けているので、噂を一つずつ拾って時間を使うより先へ進むことにした。
午後になると谷はいっそう狭くなり、馬から降りて手綱を引く時間が増えた。岩が張り出した場所では一頭ずつ通し、向こうから荷が来れば、広い場所まで戻って道を譲る。急いでいても、足場そのものはどうにもならない。
日が山陰へ沈み始めた頃、街道脇にあった小さな宿へ入った。
客室は三つしかなく、一階の広間にも長机が二つあるだけだったが、この先を暗くなってから進む方が時間を失う。荷を下ろし、食事が来るまでの間に地図を広げた。
「明日はここまで行く」
俺が指した場所を、三人が覗き込む。
「ラウネまでは?」
「順調なら三日だ。雨が降れば延びる」
ガルドが嫌そうに息を吐いた。
「場所まで分かったのに、まだ三日か」
「山道だ。急いでも道は広くならん」
「分かってる。だから余計に長く感じるんだよ」
朝の話を聞いてから、俺も同じだった。
アレンとフィアナは、おそらくラウネにいる。そこまで分かっているのに、山を越えなければ顔を見ることすらできない。
オスカーは地図の北側を見ていた。
「昼に見た荷は気になるな」
「ああ。だが、止まっている理由までは分からん。俺たちは南からラウネへ入るから、この道が通っているうちは進める」
「三日後も通っていればいいがな」
「それは明日以降に見ればいい」
宿の主人が鍋を運んできたので地図を畳み、食事を始めた。
半分ほど食べたところで、外から馬の蹄が聞こえた。かなり急いで来たらしく、止まったあともしばらく荒い息が続いている。
戸を開けて入ってきたのは二人の男だった。どちらも泥の跳ねた外套を着ており、一人は肩から荷袋を下ろすなり主人へ声をかける。
「馬に水を頼む。今日はここで止まる」
「北からか?」
「ああ。ハルヴァ領の南まで行ってきた」
俺は食事の手を止めた。
主人が酒を出しながら尋ねる。
「荷はどうした?」
「受け取れなかった。北から来るはずの荷が止まってる」
「山でも崩れたか?」
「いや、人だ。ラウネの北で武装した連中が道を押さえてるらしい」
男が杯を取る前に、俺は声をかけた。
「誰がいる」
男はこちらを見て、俺の角に気づくと少しだけ表情を緩めた。
「分からん。名乗らないらしい」
「ハルヴァの戦士ではないのか」
「違うそうだ。北から来た連中だと聞いた」
ガルドとオスカーも食事の手を止めている。
男は酒を一口飲んでから続けた。
「カシュラ盟じゃないかって話も出てたぞ。北から下りてきた商人が、加盟してる氏族の印を見たらしい」
ガルドが俺を見る。
「さっき話してた連中か」
「ああ」
男に向き直る。
「どれくらいいる」
「俺は見てないから知らん。何日か前から、小さな隊が何組も南へ向かってるらしい。五人だったとか十人だったとか、聞いた話もばらばらだ」
「ラウネへ向かっているのか?」
「そこまでは知らんよ。俺が分かるのは、ラウネの北で荷が止まってることくらいだ」
「十分だ。助かった」
男は頷き、今度こそ酒に口をつけた。
こちらの卓では、少しの間誰も話さなかった。
先に口を開いたのはガルドだった。
「ハルヴァが施設を閉じ始めたところへ、北からカシュラ盟か」
「ああ」
「無関係とは思いにくいな」
「俺もそう思う」
オスカーが腕を組む。
「施設を狙ってるか?」
「あり得る。だが、まだ目的までは分からん」
「道を押さえてる時点で、ただ話をしに来ただけでもなさそうだがな」
ガルドの言葉には答えなかった。
朝までなら、ラウネへ向かう理由はアレンとフィアナだけだった。今はそこへ、施設の封鎖とカシュラ盟の動きまで重なっている。
「出発を早める?」
セレナが聞く。
「夜明け前に支度を始める。明るくなったらすぐ出る」
「夜は動かねえんだな」
オスカーに言われ、俺は窓の外へ目をやった。谷はすでに暗く、道の端も見えなくなっている。
「この先を暗闇で進めば、馬を傷める。朝まで休ませる」
「ならそれでいい」
宿の主人に朝一番で出ると伝え、馬の飼葉と水を頼んだ。
席へ戻ると、ガルドが地図の入った袋へ目をやる。
「ラウネまで三日だったな」
「順調ならな」
「なら、明日から少しでも詰めるぞ」
「そのつもりだ」
窓の外はもう暗く、谷を通る道も見えない。
アレンとフィアナはおそらくラウネにいて、その北ではカシュラ盟が動いている。
俺は冷めかけた食事を片づけ、地図を手元へ引き寄せた。




