第96話 七人目
翌朝、カシュラ盟の使者たちは日の出を待ってラウネを発つことになった。
俺がフィアナと朝食を終えて外へ出ると、北側の見張り場へ続く道にはすでに何人か集まっていた。昨日預けた武器を返しているらしく、使者の一人が腰に剣を戻し、その隣では戦士が弓と矢筒を手渡している。
「もう出るんだね」
「日が高くなる前に山道を越えたいんだろうな」
俺たちも施設へ向かう予定だったので、そのまま見張り場の方へ歩いた。
リーネは先に来ていた。グレンも少し離れたところで見張りの戦士と話している。左腕はまだ固定されたままで、腰に短い剣を一本差しているだけだった。
六人の支度はほとんど終わっていた。
昨日ヴァルドと話していた男がこちらに気づき、軽く頭を下げる。俺も同じように返したところで、リーネが集落の中央へ顔を向けた。
「……オルザ?」
オルザがこちらへ歩いてきていた。
肩には革の鞄を掛け、片手には細長い記録入れを持っている。書庫と施設を往復するだけにしては、荷物が多い。
「それ、どこに持っていくの?」
「北だ」
リーネの表情が変わった。
「カシュラ盟と行くのか?」
俺が聞くと、オルザは頷いた。
「ああ」
使者たちの方を見る。
先頭の男はオルザの荷物へ一度目をやっただけで、何も言わなかった。
その様子を、後ろから来たヴァルドも見ていた。オルザの隣まで来ると、まず使者の男へ目を向ける。
「話はついてるのか」
「こちらから誘った覚えはない」
使者はそれだけ答えた。
ヴァルドの視線がオルザへ戻る。
「前からカシュラと話してたのか」
「施設の記録を探すために、北の氏族とは何度も話している」
「カシュラとも?」
「ああ」
オルザは否定しなかった。
「施設を調べている者がいる。記録について尋ねたこともある」
「いつからだ」
「一度や二度の話ではない」
そこから先は答えなかった。
ヴァルドもすぐには何も言わず、今度は使者の男を見る。向こうも黙ったままだった。
俺には、それが昔からの研究上の付き合いだけなのか、ほかにも何かあったのかまでは分からなかった。
「持っていくものは?」
ヴァルドが聞く。
「私物と、自分で書いたものだけだ」
「見取り図は」
「書庫にある」
「封鎖の記録も?」
「置いてきた」
「古い記録は」
「一冊も持っていかん」
ヴァルドはオルザの記録入れを見てから、短く頷いた。
リーネはまだ納得していないらしい。
「本当に行くの?」
「ああ」
「昨日、あの人たちが何をしたいか聞いたよね」
「聞いた」
「それでも行く?」
オルザは肩の鞄を持ち直した。
「他の氏族に残っている記録を集めると言っていた。ハルヴァにないものがあるなら、見ておきたい」
「それだけ?」
「向こうは施設を調べ続けるつもりだ」
使者たちへ目をやる。
「入るなら、昔の記録も危険な場所も知らん者だけで行かせるよりはいい」
「オルザがついていれば、止められると思ってるの?」
「触るなと言える場所は分かる。退くべき時もな」
「向こうが聞かなかったら?」
ヴァルドが口を挟んだ。
オルザが振り返る。
「止める」
「一人でか」
返事はなかった。
ヴァルドは使者たちを見た。
「あいつらは施設を使えるようにしたくて、ここまで来た。お前が危ないと言っただけで帰る連中なら、昨日の話で終わってる」
「……分かっている」
「なら、忘れるな」
それ以上は言わなかった。
グレンも近づいてきた。
「決めたのか」
「ああ」
「無茶を始めたら止めろ」
「そのつもりだ」
グレンはオルザをしばらく見たあと、右手だけで肩を軽く叩いた。
「帰ってこいよ」
オルザが一瞬だけ目を細める。
「ああ」
今度は俺の方を向いた。
「アレン」
「何だ」
「入口を塞ぐまでに表示が変わったら、写しを残しておいてくれ」
「分かった」
「見覚えのない表示が出ても――」
「勝手に触るな、だろ」
先に言うと、オルザが少し眉を上げた。
「分かっているならいい」
「そっちもな」
今度は答えなかった。
フィアナが声をかける。
「オルザ」
「何だ」
「気をつけてね」
「私は君たちと同じ考えではないぞ」
「それは知ってるよ」
フィアナは少し笑った。
「でも、気をつけて」
オルザはしばらくフィアナを見てから、わずかに頷いた。
「ああ」
それを最後に、使者たちの側へ歩いていった。
六人で来た一行は七人になり、北へ続く道へ入っていく。
リーネはその背中が木々の間へ消えても、しばらく動かなかった。
「行きたくなるのは分かるよ」
俺が何も聞く前に、リーネが言った。
「昨日あんな話を聞いたら、オルザなら他の氏族の記録を見たがると思う」
やがて北の道から目を離す。
「でも、そのまま一緒に行くとは思わなかった」
「前からカシュラとも話してたんだな」
「施設のことなら、いろんな氏族に聞いてたよ。私が小さい頃からずっと」
リーネは少し考えてから付け加えた。
「カシュラの誰と、どこまで話してたかは知らないけど」
ヴァルドが使者を見ていた時の目を思い出す。
俺にも、それ以上は分からなかった。
施設へ着くと、封鎖作業はすでに始まっていた。
オルザがいなくても手は止まらない。必要な記録は書庫から出され、石工の長が手順を確かめながら、昨日までに運び込んだ石と梁を組んでいく。
俺は足場の悪いところだけ土を締め、リーネは石工と戦士の間を行き来して道具を回した。
昼を少し過ぎた頃、最後の横梁が入った。
数人が太い梁を石の間へ押し込み、左右から楔を打つ。槌の音が何度も岩壁へ返ったあと、石工の長が梁へ手を掛けて揺すった。
「よし。明日の朝、もう一度見ればいい」
昨日まで人が通っていた場所は、石と梁で塞がれていた。横から覗いても、人が抜けられるような隙間は残っていない。
これで二つ目の封鎖は戻った。
残るのは、さらに外側にある入口そのものだった。
片づけを始めたところで、山道を走ってくる戦士が見えた。
息を切らしながら入口まで来ると、周囲を見回す。
「グレンは?」
「ここだ」
少し離れていたグレンが近づいた。
「どうした」
「北東の尾根に二人いた」
「誰だ」
「分からない。こっちに気づいたら下がった」
「追ったか?」
「いや」
「それでいい」
グレンはすぐに答えた。
俺とリーネも近づく。
「ラウネの近くか?」
「北の道から少し外れた尾根だ。集落へ降りる道と、施設へ分かれる道が両方見える」
「狩りじゃないの?」
リーネが聞く。
「弓は持ってた。でも、獲物を追ってるようには見えなかった」
「足跡は?」
「二人分は見つけた。途中から岩場へ入って消えてる」
グレンは少し考えた。
「三人連れて戻れ。見つけても近づくな。どっちへ下がるかだけ見ろ」
「分かった」
男が走っていく。
「カシュラかな」
「まだ決めるな」
グレンは北の山へ目を向けた。
「今夜から北の見張りを増やす。東の巡回も一人増やせ」
「施設は?」
「明日もやる。入口を埋め始める」
フィアナも治療道具を片づけながら近づいてきた。
「何かあった?」
リーネが簡単に話すと、フィアナは山の方を見た。
「見張りの人たちは?」
「増やして戻した」
「分かった。何かあったら呼んで」
「ああ」
フィアナはそれ以上聞かず、荷物をまとめる方へ戻った。
北東の尾根にいた二人が誰だったのか、その日のうちには分からなかった。
夕方、俺たちがラウネへ戻る頃には、朝に二人だった北の見張り場に四人の戦士が立っていた。
◇
夕食を終えてしばらくした頃、宿の戸を叩く音がした。
近くにいた俺が開けると、リーネが立っていた。
「まだ大丈夫?」
「ああ。どうした?」
「フィアナもいる?」
「いるよ」
奥から声がして、フィアナも顔を出した。
リーネを中へ通し、三人で小さな居間に座る。昼の二人について何か分かったのかと思ったが、リーネはすぐには話し始めなかった。
「オルザのことなんだけど」
「うん」
フィアナが待つ。
「昔から、施設のことになるとうるさい人だったんだよ」
「それは今もだな」
「今よりうるさかった」
思わず顔を見ると、リーネが少し笑った。
「私が子供の頃、書庫に勝手に入ったことがあるの。棚の上にあった古い紙を引っ張ったら、端を破っちゃって」
「怒られただろ」
「すごくね。外まで聞こえるくらい」
「それはリーネが悪いよ」
フィアナにまで言われ、リーネが口を尖らせる。
「子供だったって言ってるでしょ」
「それで?」
「半日、書庫の掃除をさせられた。破れたところを直すのも手伝わされて、終わったら今度はその紙に何が書いてあったか説明された」
「怒ったあとに?」
「うん。たぶん、破ったことだけじゃなくて、何の紙かも知らずに触ったのが気に入らなかったんだと思う」
「何の記録だったの?」
フィアナが聞く。
「昔、施設の中で怪我をした人の記録。古代文字じゃなくて、後から北方の言葉で書かれた方ね。どこへ入って、何が出て、どこまで戻ったかって書いてあった」
今もオルザが何度も開いていた類いの記録だ。
「一通り説明したあと、『分からないものには勝手に触るな』って、もう一回怒られた」
「今日も同じこと言ってたな」
「でしょ」
リーネは笑ったが、すぐに手元へ目を落とした。
「調査を始めた頃もそうだったよ。記録にないところへ行こうとすると止めるし、何か違えばすぐ戻れって、一番うるさかった」
「今とは少し違うね」
フィアナが言う。
「うん。前は『分からないなら入るな』って言ってた」
「いつから変わったんだ?」
「分からない」
リーネは少し考えた。
「大きな事故が何年もなかったからかな。ここまでは大丈夫、これは前にも動いたから大丈夫って、だんだん言うようになった」
昼間、使者たちと北へ向かった後ろ姿を思い出す。
「それでも、行きたくなるのは分かるんだよ」
リーネが続けた。
「ほかの氏族に記録があるって聞いたら、オルザなら絶対に見たい。たぶん、私が止めても聞かなかったと思う」
「腹は立ってる?」
フィアナが聞く。
「立ってるよ」
返事は早かった。
「朝になって、いきなりあんな荷物持って出てくるし」
「心配もしてる?」
「それも」
少し間を置いて、リーネは息を吐いた。
「昔から知ってる人だから」
フィアナが小さく頷く。
「戻ってくるといいね」
「うん」
リーネはそこまで言ってから、少し困ったように笑った。
「記録を見ただけで満足して帰ってくればいいんだけど」
「満足するかな」
俺が聞くと、リーネはすぐに首を振った。
「しないと思う」
俺もそう思った。
しばらくしてリーネは立ち上がった。
「ごめん。話したかっただけ」
「別に謝ることじゃないよ」
フィアナが言う。
「また来てね」
「うん」
外まで見送ると、北側の見張り場にはまだ灯りが残っていた。
リーネもそちらへ一度目を向けてから、自分の家へ戻っていった。
◇
翌朝、外の声で目が覚めた。
宿を出ると、北側から戻ってきた二人の男がヴァルドの家の前にいた。片方には見覚えがある。何度か荷を積んだ山羊を連れてラウネを出るところを見た男だった。
今日は山羊の荷がほとんど残ったままだ。
リーネも家の方から来た。
「どうしたの?」
「北へ行けなかった」
男が答える。
「峠の手前で戻された」
「誰に?」
「知らん顔ばかりだ。十五、六人はいた」
その声を聞いて、ヴァルドが家から出てきた。グレンも少し遅れてやってくる。
「武装してたか?」
「ああ。弓と槍を持って、道を塞いでた」
「何を言われた」
「ラウネへ戻れって」
「理由は?」
男は隣の連れを見る。
「施設の話が片づくまで、ラウネから来た者は北へ通すなと言われてるって」
グレンが男を見る。
「誰の命令か聞いたか?」
「聞いた。答えなかった」
「武器は向けられた?」
「そこまではされてない。でも、あれだけいたら通れんよ」
十五人以上の武装した相手を前に、交易の荷を連れた二人が押し通れるはずもない。
「昨日の二人は?」
ヴァルドがグレンに聞く。
「北へ下がるところまでは見た。その先で見失ってる」
「そうか」
ヴァルドはしばらく黙り、荷を持ち帰った二人へ向き直った。
「今日は北へ出るな。ほかに行く予定の奴にも伝えてくれ」
「分かった」
二人が山羊を引いて離れていく。
グレンが低い声で言った。
「使者を返して終わりじゃなさそうだな」
「まだカシュラだと決めるな」
「施設の話を知ってる連中だぞ」
「ああ。だから見張る」
ヴァルドはそこで施設のある東へ目を向けた。
「入口の作業は予定どおり始める」
「止めないのか?」
俺が聞く。
「向こうが道を塞いだからって、こっちが石を戻す手を止める理由はない」
すぐにグレンへ向き直る。
「北の見張りを増やせ。東の巡回は二組にする。北へ狩りに出てる奴がいたら戻せ」
「南は?」
「まだ空けておけ。出入りも止めるな」
「分かった」
「弓と矢は見張り場へ回せ。相手が近づいても、先に射るな」
グレンが頷き、近くの戦士を呼んだ。
ヴァルドは施設のある山から目を離さない。
「入口は予定どおり塞ぐ。遅らせるな」
石を積んだ荷車の脇で、戦士たちに弓と矢筒が配られ始めた。




