第95話 カシュラ盟
「カシュラ盟?」
聞き覚えのない名前だった。
俺がグレンを見ると、彼は答える前に、北側の見張り場から来た男へ向き直った。
「六人だけだな?」
「ああ。見張り場の前で待たせてる。武器は持ってるが、抜いてはいない」
「そのまま待たせろ。ヴァルドには俺から話す」
男が頷いて去っていく。
隣では、リーネも北の道へ目を向けていた。
「知ってるのか?」
「北じゃ有名だよ。今の盟主と対立してる氏族が集まった連合」
「ハルヴァも、盟主の方針には反対してたよな」
「してる。でも、カシュラ盟とは少し違う」
リーネが答えるより先に、グレンが歩き出した。
「ヴァルドは盟主の地位そのものを否定してない。人間との正式な和平にも、施設を閉じろという話にも反対してきたが、北方諸族連合から抜けるつもりはない」
「カシュラ盟は?」
「中にいる氏族全部が同じ考えじゃない。ただ、今の盟主に方針を変えさせようとしてる連中が多い」
今度はリーネが続ける。
「古代施設のこともそう。危険だから閉じるんじゃなくて、使えるようになるまで調べるべきだって考えてる」
「その氏族をまとめてるのがカシュラ?」
「中心はカシュラ氏族だ」
グレンが答えた。
「氏族長はゼイン・カシュラ。散らばってた反盟主派をまとめたのもあいつだ」
そこで初めて名前が出た。
「ゼイン・カシュラ」
「覚えておけ」
「そんなに有名なのか?」
グレンがこちらを見た。
「北で一番強い戦士は誰だと聞けば、今はあいつの名前が出る」
「一番?」
「俺は、他の名前を挙げる奴をほとんど知らん」
リーネも頷いた。
「強い戦士なら他にもいるよ。でも、ゼインが一番だって言われても、わざわざ否定する人は少ないと思う」
それなら十分に伝わる。
強いだけで複数の氏族をまとめられるとは思わないが、少なくとも北方で名前を知られているだけの氏族長ではなさそうだった。
「今日来てるのは、そのゼインじゃないんだろ?」
「違う。あいつが来るなら、こんな来方はしない」
グレンの返事に、リーネが少し笑った。
ヴァルドの家へ着くと、本人はすでに外へ出ていた。
グレンから話を聞くと少し考え、北の見張り場へ向かう戦士を呼び止める。
「武器は預かれ。中へ入れるのは三人だ」
「残りは?」
「見張り場で待たせろ。水と食事は出せ」
「護衛は?」
「つけろ。ただし囲むな。まだ話をしに来ただけだ」
グレンが頷いて北側へ戻っていく。
俺とリーネも離れようとしたが、ヴァルドに止められた。
「アレン、お前も来い」
「俺も?」
「向こうがお前のことを知っている可能性がある」
「もう伝わってるのか?」
「知らん。だから確かめる」
フィアナにも声がかかり、治療所から戻ってきたところで一緒にヴァルドの家へ入った。
オルザもすでに来ていた。
朝から使っていた記録を脇に置き、長椅子の端に座っている。俺たちが入っても、ちらりと顔を上げただけだった。
しばらくすると、グレンが三人を連れて戻ってきた。
先頭は四十代ほどに見える男だった。灰色がかった髪を後ろで束ね、厚手の旅装の下に革鎧を着ている。髪の間から、人間より少し長い耳が覗いていた。
残る二人は、小さな角のある男と、褐色の肌をした女だった。
三人とも武器は預けている。
先頭の男はヴァルドの向かいへ座る前に、俺とフィアナを見た。
「その二人か」
「先に俺と話せ」
ヴァルドが言う。
「そのために来た」
男は素直に視線を戻した。
「急に押しかけたことは詫びる。ただ、施設の入口を塞ぎ始めたと聞いた」
「早いな」
「昨日の騒ぎは周辺にも伝わっている。今日これだけ人と資材を動かせば、隠せる話でもない」
「それで?」
「入口を埋めるのは待ってほしい」
男はすぐ本題へ入った。
「中の隔壁を閉じるのも、石の封鎖を戻すのも止めない。ただ、その外まで埋めれば、調べ直すにも掘り返すところから始めることになる」
「そのために塞ぐ」
「分かっている。だから来た」
男は膝の上で手を組んだ。
「こちらは、あの施設をハルヴァだけの問題だとは考えていない」
「ここはハルヴァの土地だ」
「土地を寄越せと言ってるんじゃない。施設のことだ」
ヴァルドの目が細くなる。
「続けろ」
「百八十年前、北の各地で似た施設が動いた。今また黒いものが現れ、止まっていた設備まで動き始めている。それなら、今度は何が起きているのか調べるべきだ」
「昨日、グレンがその調査で腕を焼かれた」
使者の視線がグレンの左腕へ移った。
「聞いている」
「黒い獣も出た。今まで見たことのない、宙に浮くものもだ」
「それも聞いた」
「それで、まだ人を入れろと言うのか」
「ハルヴァだけで入れとは言わない」
男は外套の内側から折り畳んだ紙を取り出し、机へ置いた。
「こちらからも人を出す。施設を調べてきた者も、戦える者もいる。必要な物資も用意できる。他の氏族に残っている古い記録も集める」
オルザが顔を上げた。
ヴァルドは紙に手を伸ばさない。
「共同で調べさせろ、と?」
「そうだ」
「そのあと、使えそうなものが見つかったらどうする」
「それも含めて話し合う」
「誰と?」
「関わった氏族でだ」
「つまり、ここをどうするかをハルヴァだけでは決めさせない」
使者はすぐには答えなかった。
「北全体に関わるものなら、そうなる」
「昨日までは、何年調べても誰も来なかった」
ヴァルドが机の上の紙を見る。
「閉じると決めた途端、北全体のものになるらしい」
「今までと同じではない」
「何が違う」
「動かなかった施設が動いた。古い記録に残っているものまで現れた。それに――」
男の視線が俺へ向いた。
「古代の文字を読める人間がいる」
俺のことまで伝わっていたらしい。
「誰から聞いた?」
ヴァルドが尋ねる。
「そこまで話すつもりはない」
「分かった」
ヴァルドはそれ以上追及しなかった。
使者が俺を見る。
「アレン・クロイツだな」
「そうだ」
「本当に古代文字を読めるのか」
「読めるものはある」
「施設の操作も?」
「できない」
男の眉が少し動いた。
「表示に何が書いてあるかは分かる。でも、設備の動かし方まで知ってるわけじゃない。昨日も隔壁が開く表示は読めたけど、止められなかった」
「それでも、何も読めないよりは大きい」
「それはそうだと思う」
「なら、調査に協力してほしい」
「俺に?」
「ああ」
男は一度ヴァルドを見てから、俺へ視線を戻した。
「君自身は、まだ調べたいと思っているんじゃないのか」
否定する理由はなかった。
「あの施設について、まだ分からないことは多い」
「なら――」
「ただ、俺がここを開けておけとは言えない」
「なぜだ」
「ハルヴァの施設だからだ」
ヴァルドへ目を向ける。
「何年もここを調べてきたのも、昨日怪我をしたのもハルヴァの人間だ。閉じるかどうかは、まずハルヴァが決めることだろ」
「君は閉じても構わないのか?」
「構わないとは思ってない」
昨日の通路が頭に浮かんだ。
「でも、閉じた隔壁が勝手に開く理由も、あの浮いてたやつの光をどう防ぐかも分かってない。今すぐまた奥へ入るのは危ない」
「閉じれば、次に調べられるのがいつになるか分からない」
「それも分かる」
「それでも止めない?」
「俺が止める話じゃない」
使者はしばらく俺を見ていたが、やがてヴァルドへ向き直った。
「第三の封鎖までやるのか」
「やる」
「数日後には簡単には開けられなくなる」
「そのために塞ぐ」
男が息を吐いた。
「ヴァルド。人間との戦争が終わって、まだ三十年ほどだ」
室内が静かになった。
「正式な和平を結べば、もう戦争は起きないのか。今の王が約束しても、次の王まで守るのか。その次もか」
「だから施設を残す?」
「使える可能性があるならな」
「昨日、使う前にこっちを殺しかけた」
「だから調べる」
「いつ使えるようになる」
使者が黙った。
「一年か。十年か。それとも、次に戦争が起きるまでに間に合うのか」
「そんなことは今は誰にも分からない」
「なら、まだ戦力じゃない」
ヴァルドは机の上の紙を見た。
「俺も人間を信用して和平しろと言ってるわけじゃない。施設を閉じろと言われても、今まで従わなかった」
そこでグレンの左腕へ視線を移す。
「それでも昨日のものを見て、俺は閉じると決めた。盟主に言われたからじゃない。カシュラに止めろと言われても変えない」
使者は何も言わなかった。
代わりに、オルザが口を開く。
「他の氏族の記録を集められると言ったな」
使者がそちらを見る。
「ああ」
「施設の封鎖について残っているものもあるのか」
「あると聞いている。残り方は氏族ごとに違うが、ハルヴァにない記録もあるはずだ」
「実物を見られるのか」
「話がまとまれば用意する」
「オルザ」
ヴァルドが名前を呼んだ。
「分かっている」
オルザは短く返した。
「聞いただけだ」
それでも、目は使者から離れなかった。
先頭の男もそれ以上オルザへ話しかけず、ヴァルドへ向き直る。
「今日ここで返事を変える気はないか」
「ない」
「入口の作業も?」
「続ける」
男は一度、机の上の紙を見た。
「分かった。今日の返事は持ち帰る」
「ゼインへか?」
グレンが尋ねる。
「誰に報告するかまで答える必要はないだろう」
「聞いただけだ」
使者はグレンの左腕へ目をやった。
「お前はそれでいいのか」
「何がだ」
「また人間と戦うことになった時、何を使って氏族を守る」
「使えるものを使う」
「施設もそうだ」
「使えるならな」
グレンは固定した左腕を右手で軽く叩いた。
「昨日はこっちが使う前に焼かれた。今のあれを武器だと思うほど、俺は楽観してない」
使者は返さなかった。
ヴァルドが立ち上がる。
「話は終わりだ。今日は泊まっていけ」
「必要ない」
「もう日が落ちる。北の道へ出して途中で死なれても面倒だ。朝にしろ」
男は少し考え、頷いた。
「分かった。世話になる」
三人が立ち上がる。
外へ出る前、先頭の男がオルザを一度見た。
声はかけない。
オルザも何も言わなかった。
使者たちが出ていったあとも、机の上には折り畳まれた紙が残っていた。
オルザの視線は、しばらくそこから動かなかった。




