第10話 残された違和感
その夜、礼拝堂の周囲には村人たちの安堵した声が戻っていたが、警戒までは解かれなかった。
装甲猪が二頭だけとは限らない。ローデンは神殿兵と冒険者を組み合わせ、普段より短い間隔で見張りを交代させている。
俺は焚き火のそばに腰を下ろし、木々の向こうへ沈んだ丘を眺めていた。
井戸水の変化、地面の揺れ、斜面の崩落。この辺りでは珍しいという装甲猪まで、短い間に立て続けに起きている。
それぞれ別の原因でも不思議ではない。
ただ、フィアナがここへ来る前から石段や礼拝堂を夢で見ていたことだけは、どうにも引っかかった。
「難しい顔してるね」
顔を上げると、ユリウスが木杯を二つ持って立っていた。
「そんな顔してました?」
「かなり」
隣へ腰を下ろし、片方を差し出してくる。香草を煮出したものらしく、湯気に少し苦い匂いが混じっていた。
「今日は酒じゃないんですね」
「仕事中だぞ。俺だってそのくらい分かる」
「安心しました」
「何でだよ」
一口飲んでから、昼間の井戸を思い出す。
「ユリウスさんが見た限り、あの水に魔法らしい異常はなかったんですよね」
「ああ。ただ、俺が分かるのは魔力の方だけだ。水そのものが安全かどうかまでは知らないよ」
「ですよね」
結局、今ある情報だけでは何も決められない。
ユリウスはしばらく火を眺めてから、杯を傾けた。
「それより、フィアナ様の方が嫌だろうな」
「神託がですか?」
「自分でも意味が分からないものを、寝てる間に見せられるんだろ。俺なら嫌だよ」
「意外と真面目なこと言いますね」
「夢の中まで仕事したくないだけ」
思わず笑う。
「そこですか」
「大事だろ」
「それは分かります」
答えの出ない話は、そのくらいで終わった。
◇
少し遅い時間になってから、村長のボルグへ改めて話を聞いた。
避難所で俺に状況を教えてくれた老人で、ローデンとベルナールを中心に、俺とガルドも同じ焚き火を囲む。
「水がおかしくなったのは、いつ頃でしょう」
「最初は三日ほど前だな。朝に井戸を使った連中が、今日は水がぬるいと言い出した。ただ、その時は誰も気にしなかった」
「避難を決めたのは、その翌日ですか?」
「ああ。今度は少し白っぽく濁って、鉄みたいな臭いまで強くなった。牛まで飲みたがらなくなったんでな」
俺たちが汲んだ時には濁りは消えていたが、金属に似た臭いは治癒術師も感じていた。
「そこで、昔からの決まりに従ったんですね」
「水がおかしくなったら、家畜を連れて礼拝所へ逃げろとな。わしの爺さんも、そのまた上から聞いたと言ってた」
「以前にも同じことがあったんですか?」
俺が尋ねると、ボルグは首を振った。
「わしは知らん。ただ、昔はこの辺りで小さく地面が揺れることはあったそうだ。戸棚が鳴る程度らしいがな」
「今朝ほどの揺れは?」
「初めてだ」
ガルドが続けて尋ねた。
「装甲猪が村の近くまで来ることは?」
「何十年か前に一頭出たって話なら聞いたことがある。二頭一緒は知らんし、あいつらはもっと北にいるもんだ」
昼間にガルドやミラが見た跡とも話が合う。
ベルナールが背後の礼拝堂へ目を向けた。
「この建物が造られた時期は分かりますか?」
「村より古いって話だ。最初にここへ住み着いた連中が来た時には、もうあったらしい。地下も同じだろうな」
「当時の記録は?」
「残ってないな」
古い礼拝堂そのものは珍しくない。
ただ、理由も分からない避難の決まりまで何世代も残っているのは気になった。
「中が気になるのか?」
ボルグに聞かれ、俺は頷く。
「少しだけ」
「明るくなってからなら見ればいい。村のもんしか使わんが、隠すような場所でもない」
「ありがとうございます」
ローデンが礼を言い、その夜はそれ以上調べなかった。
◇
自分の見張りまで時間があったので、怪我人の様子を見に行った。
昼間まで意識のなかった女性は既に目を覚まし、フィアナの問いかけにも時間をかけながら答えている。
治療が終わるのを少し離れて待っていると、フィアナがこちらに気づいた。
「どうしたんですか?」
「怪我人の様子を見に来ました」
「本当ですか?」
「何で疑うんです?」
フィアナが少し笑う。
「さっきから何度か、こっちを見ていたので」
「フィアナさんも疲れてないかなと思っただけですよ」
「今日は大丈夫です」
「本当に?」
「今度はアレンさんが疑うんですか」
「前例がありますから」
「一回でしょう」
不満そうな顔はしたものの、巡礼宿の崩落現場で見たような疲れはない。二人の治癒術師ときちんと交代できているらしい。
「怪我をした二人は?」
「脚を痛めた方も安定しています。この方もまだ頭痛はありますけど、受け答えはできています」
「それならよかった」
少し間が空いたあと、フィアナの方から口を開いた。
「夢のことは、聞かないんですか?」
「昼にも聞いたでしょう」
「もっと詳しく、です」
「思い出そうとすると頭がおかしくなるって言ってたじゃないですか。無理に聞く必要はないですよ」
「気にはなってるでしょう?」
「それはまあ」
否定する理由もなかった。
「でも、俺の仕事はフィアナさんを無事に連れて帰ることですから。神託を調べるために具合を悪くされたら困ります」
フィアナは少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「ありがとうございます」
「自然に思い出したら教えてください」
「結局聞くんですね」
「自然に、です」
「都合いいですね」
今度は普通に笑った。
◇
翌朝、村人たちが戻る準備をする間に、避難所の中を改めて見せてもらった。
治癒術師たちは地上に残り、ローデン、ベルナール、ガルド、ミラ、ユリウス、フィアナと俺で中へ入る。
百人以上が集まっていた時には気づかなかったが、人がいなくなると壁の補修跡がよく分かった。入口側は比較的新しい石も混じっているが、奥へ行くほど古い部分が残っている。
ユリウスが途中で壁へ顔を寄せた。
「これ、文字かな」
細い線がいくつも刻まれている。
「読めます?」
「無理。こういうのは専門外」
ベルナールも確認したが、神殿で使う古い聖句や見慣れた碑文とは違うらしい。
「装飾かもしれません。これだけでは何とも言えませんね」
それ以上は触らず、奥へ進む。
避難所は最後に石壁で行き止まりになっていた。
フィアナがその前で足を止める。
「ここですか?」
しばらく壁を見つめてから、ゆっくり首を振った。
「違うと思います」
「夢では、もっと先が?」
「はい。そんな気がします」
ガルドが何か所か壁を叩いた。
「裏が空洞って感じでもねえな」
「別の場所だったのかもね」
ミラの言葉に、フィアナも曖昧に頷く。
そのミラが、今度は壁際へしゃがんだ。
「これ、何だろう」
石床の隅に、自然なひび割れとは違う直線が走っていた。
砂を払うと途中で直角に折れ、一枚の大きな石を囲んでいる。
「蓋みたいですね」
ガルドが縁へ手を掛けようとしたところで、ベルナールが止めた。
「待ってください。動かすなら、まずボルグ殿へ確認しましょう」
呼んできたボルグ本人も、その石の存在は知らなかった。
「壊さないなら構わんよ」
許可をもらって調べてみたが、取っ手も隙間もなく、押しても引いても動かない。
「割るならできますけど」
ユリウスが言う。
「そこまでする必要はありません」
ローデンが首を振った。
「村人の救助は終わっています。本来の巡礼を止めてまで、正体の分からない床を壊す理由はありません」
「そうですね」
気にはなるが、それ以上の理由はなかった。
場所だけ覚え、俺たちは地上へ戻った。
◇
昼前には、村へ戻る準備が整った。
重傷者は担架と荷車で運び、歩ける者は家畜と一緒に自分たちの足で戻る。井戸は原因が分かるまで使用せず、当面は別の水場から運ぶことになった。
ベルナールも、次に立ち寄る神殿からルミエルへ報告を送り、水と地面の異常について調査を依頼するという。
「もう行くのか」
ボルグに尋ねられ、ベルナールが頷いた。
「本来の行程から遅れていますので。ただ、こちらの件は大神殿へ報告します」
「そうか。世話になったな」
午後には村人たちをベルカ村まで送り届け、俺たちも西への巡礼を再開した。
歩き始めてしばらくすると、フィアナが隣へ並ぶ。
「皆さんが助かったのは、神託があったからなんでしょうか」
「少なくとも、ここまで来たきっかけではありますね」
フィアナは少し考えてから頷いた。
「嬉しいんです。ちゃんと間に合ったから。でも……少し怖くなりました」
「どうしてです?」
「あそこまで同じだったからです。知らない村も、石段も、礼拝堂も。本当に見た通りのものが目の前に出てきて……どうして私が知っていたんだろうって」
俺にも答えはない。
「未来を見たのか、どこかで起きてることを見たのか。それも分かりませんしね」
「はい」
「今は分からないままでいいんじゃないですか」
フィアナがこちらを見る。
「アレンさん、昨日からそればっかりですね」
「分からないものを考えても仕方ないので」
「昨日、ずっと焚き火見ながら考えてたでしょう」
「……見られてました?」
「見てました」
少し笑われた。
村が遠ざかるにつれ、家並みも丘も木々の向こうへ隠れていく。
井戸の異常も、揺れも、装甲猪が現れた理由も分からない。避難所の奥には、誰も知らなかった床石も残したままだ。
それでも一つだけ、来る前にフィアナが見た景色と、実際のベルカ村が重なったという事実は残った。




