第9話「行き止まり(デッドエンド)から深海へ」
ギロチン台へ進む時間が、刻一刻と迫っていた。
今日、三人で帰る。
それはすでに確定した事実だ。
いかなるコマンドでも回避不能で、地雷選択肢しか存在しないイベント。
デッドエンドだけは、何としても回避しなければならない。
「玲ちゃん、行こ」
背後から、鼓膜をくすぐる軽い声。
黒瀬だ。
ボクは椅子を引いて立ち上がる。
ほぼ同時に、左側からもう一つの気配が音もなく滑り込んできた。
「うん。行こう、玲」
右に黒瀬。
左に白川。
完全に左右から退路を封鎖された。
「でさ、どこ寄る? ただ帰るだけじゃつまらないでしょ」
黒瀬が少し前を歩き、軽く振り返る。
「ボクは授業で疲弊している。エネルギー消費を抑えるため、早く帰りたいのだが」
その合理的な提案に対し、白川が正面から顔を近づけてきた。
「私も、どこか寄りたいな。玲は、黒瀬さんとはいつもどこかに寄って、お話ししてるんでしょう?」
静かだが、一切の反論を許さない気配。
ボクはその圧に押され、無言で首を縦に振るしかなかった。
「いいカフェあるんだよね。駅前のとこ」
「いいね、黒瀬さん」
白川も、完璧に左右対称な笑顔で同意する。
表面上は、放課後を楽しむ女子高生たちの極めて平和な光景。
だが――ボクだけは知っている。
これからやるのは、起爆スイッチの入った爆弾を二つ抱えたまま、密室の檻に入る行為だ。
*
駅前のカフェは、ひどく静かだった。
木目調のテーブル。
落ち着いた暖色の照明。
外の喧騒を完全に遮断する、密閉された空気。
小綺麗で雰囲気の良い店だが、今のボクにとっては、猛獣二匹と一緒に閉じ込められた檻でしかない。
案内されたのは、壁際の四人掛けのボックス席だった。
ボクは一瞬だけ思考を巡らせ、最も安全な出口に近い席へ滑り込もうとした。
だが、遅かった。
「玲ちゃん、こっち」
黒瀬が当然のようにボクの右腕を引き、奥の席へ押し込む。
そのままボクの隣に腰を下ろし、白川に見せつけるように密着してきた。
「……」
反対側。
静かに、椅子が引かれる音。
白川が一切の躊躇なく、ボクのもう一方の隣――左側の席へ滑り込んだ。
挟み撃ち。
四人掛けの席で、向かいの二席は完全に空いている。
なのに、三人で片側に並んで座るという異常な座席配置。
ボクは両隣から伝わる異なる体温と香りに挟まれ、椅子の上で微動だにできなかった。
数ミリでも動けば、どちらかの肌に触れる距離だ。
だが、白川や黒瀬に「向かいに座れ」と指示することはできない。
下手に刺激して状況が暴走すれば、どうなるか予測できないからだ。
注文を終え、短い沈黙が落ちる。
そして――最初に均衡を破ったのは、やはり黒瀬だった。
「ね、玲ちゃん」
顔が近い。
距離、数センチ。
「なに注文したの?」
「……カフェモカとチーズケーキのセットだ」
「意外と甘党なんだね」
「糖分は脳のエネルギーになる。ついでに、自律神経の安定にも寄与する」
脳への燃料供給とストレスの緩和。
今のボクに最も必要なものだ。
運ばれてきたカフェモカを、ボクは砂漠でオアシスを見つけたラクダみたいに流し込んだ。
「玲ちゃん。クリーム、ついてるよ」
黒瀬の細い指が、ボクの口元に触れた。
柔らかい感触。
ほんの一瞬、唇の端を甘くなぞるような、意図的な接触。
「ほら」
黒瀬は自分の指先を見せ、悪戯っぽく笑う。
それだけの、些細なスキンシップのはずなのに、ボクの脳内の警報システムが、即座に最大音量で鳴り響いた。
横目で白川を見る。
黒瀬は今、白川の目の前で明確な挑発行為を行った。
これは、まずい。
「……じゃあ」
予測通り。
強い感情を極限まで圧縮したような、静かで冷たい声が左側から差し込まれた。
「私は、ケーキを食べさせてあげる」
白川がスプーンでケーキをすくい、ボクの口元へ運んでくる。
ボクは数秒間、完全にフリーズした。
どういうことだ?
過負荷のかかった脳内回路で、彼女の行動原理を推測する。
あれか。
死刑囚にも、死ぬ前には美味しいものを食べさせるという、あの恩赦か。
ボクは最後の晩餐になるかもしれないケーキを、機械的に口の中へ受け入れた。
「美味しい?」
白川が、漆黒の瞳でボクの奥を覗き込みながら質問する。
「ああ。美味しい」
「良かった。……玲、黒瀬さんがあーんしてくれたことはある?」
事態の輪郭が掴めた。
白川は今、黒瀬との競争で「初めて」を取りにきている。
「たぶん、ない」
白川は、小さく微笑んだ。
その表情は、ひどく穏やかで、満足げで――どこか、飢えを満たしきれていない捕食者の顔だった。
だが、彼女はそれ以上は何も言わなかった。
「え、玲ちゃんの恋人はアタシなのに!」
「知ってるよ。でも、私は玲の幼馴染だから。昔からの友達だから、このくらい普通だよ」
「また、幼馴染って……」
黒瀬の笑みが、ほんの少しだけ崩れた。
彼女も、言わない方がいいとわかっていたのだと思う。
それでも、白川の“昔から”という言葉が、彼女の中の何かを刺した。
「……まあ、アタシは玲ちゃんとキスもしたもんね」
爆発物に、火が点いた。
黒瀬は、じっとボクの唇を覗き込んだ。
彼女の瞳には、昨日の密室で見た、あの危険な熱がはっきり宿っている。
「そ、それは練習だと、お前から言っただろう」
ボクは慌てて論理の盾を展開する。
だが、白川の目がすっと細められた。
これは、白川の「はじめて」ルールに対する明白な違反宣言だ。
今度こそ逃げ場がない。
「へー。どんなキスをしたの?」
「それはね……とっても情熱的な……」
「嘘をつくな。唇がちょっと触れただけだ」
「アタシは情熱を持ってやったのよ?」
昨日の記憶が、脳裏で強制的にリプレイされる。
あの薄暗い密室。
押し付けられた唇。
酸素を奪うような、あの熱。
確かに、熱量というデータで言えば通常値ではなかった。
「ねえ、黒瀬さん。玲とはどんなデートをしたの? 聞きたいな」
白川の静かな質問に、黒瀬は得意げに乗ってきた。
ボクと遊園地で絶叫マシンに乗った話や、ボクがどれほどビビりだったかを、黒瀬は楽しそうに語り続ける。
その話を、白川はにこにこした表情を一切変えず、ただ静かに聞いていた。
それが逆に、底知れない不気味さとしてボクの背筋を凍らせた。
いつの間にか日は沈み、帰らなければならない時間になっていた。
*
「じゃ、また明日!」
黒瀬とは家の方向が違うため、途中の分岐点で別れた。
残されたのは、白川とボク。
二人で暗い夜の路地を歩く。
街灯が途切れ途切れに、闇の中の安全地帯をアスファルトの上に作っている。
その道を、無言で歩く。
白川にどう弁明すべきか。
演算をフル稼働させていると、隣を歩いていた白川がふと足を止めた。
背後で、スクールバッグの金具が開く乾いた音がした。
驚いて振り返ろうとした瞬間。
白川が、ボクの背中にぴたりと密着した。
「振り向かないで」
「――」
背中越しに、白川の柔らかな体温が伝わってくる。
耳元に、彼女の静かな呼吸が当たる。
他者から見れば、夜道で寄り添う恋人たちの甘い場面に見えるかもしれない。
だが、ボクの生体センサーは激しく警鐘を鳴らしていた。
白川は、ボクの背中に“何か”を向けているかもしれない。
「怒りたいのに、怒れないの。玲が悪いって言いたいのに、玲が悪いわけじゃないってわかってる。だから、苦しいの。黒瀬さんが玲に触ったって考えるだけで、息ができなくなる」
数秒の沈黙の後、言葉が続く。
「私、どうすればいいのかな」
青春の悩み相談みたいな、儚いトーン。
だが、そこに含まれている意味は、「ルール違反を犯したお前を、どう処理すべきか」という死刑宣告に近い。
何か局面を打開する答えを出力しなければ、このままボクの命は終わる。
なのに、恐怖でメモリが圧迫され、適切な単語が見つからない。
「……玲にそんなこと言っても、なんのことかわからないよね。もういいよ」
彼女が諦めて行動しようとした、その瞬間。
ボクの脳を通さず、生存本能が反射的に声帯を震わせた。
「子供の頃さ。この道の先にある公園で、よく遊んだよな。懐かしい」
白川は一瞬沈黙した後、「そうだね」と乾いた声で答えた。
爆発しそうな心臓の駆動音を抑えつけ、平然を装いながら言葉を繋ぐ。
「今思うと恥ずかしいが、おままごとをしたのを覚えているか?」
「……覚えてるよ。玲との思い出は、何も忘れない。今までも、これからも」
肺の空気を静かに吐き切り、深く吸い込む。
白川が対話のテーブルに残ってくれている。
このわずかな隙を逃さないよう、ボクは最もリスクの高い勝負に出る準備をした。
「本当に? だったら、その時、誰がお父さん役で、誰がお母さん役だったのか覚えているか?」
「玲といつも、それで軽く喧嘩したよね。私がお母さん役をしたかったのに、玲もいつもお母さん役がいいって言ってた。それで、結局私がお父さん役になった」
この脆弱な論理が通るかはわからない。
それに、これは最低の手だ。
白川の好意を利用している。
白川が本気で大事にしている思い出を、ボクは防弾チョッキとして使おうとしている。
でも、最低でなければ、たぶん生き残れない。
「そりゃ、恥ずかしいからだ。お父さんがお母さんに、おかえりのちゅーをする役だったからな」
「――っ!」
正確には、頬への接触。
だから、唇を黒瀬に先に占拠されたという物理的事実は変わらない。
それでも、ゴリ押しで定義を書き換えるしかない。
初めてのキス――ちゅーは白川としたことにする。
その上で、行為のレベルは黒瀬と同等にする。
狙うのは、詭弁と錯覚だ。
ボクは、ゆっくりと後ろを振り向いた。
白川がわずかに驚き、手に持っていた“何か”を咄嗟に背後へ隠すのが見えた。
「ボクが黒瀬とキスしたのが嫌だった? 幼馴染が同性恋愛者なのは気持ち悪い? ボクが、恥ずかしい?」
「ち、違う。そういうのじゃ……」
白川が、珍しく慌てて否定する。
「本当か? なら、一つお願いしてもいいか。確認したいんだ」
「……何を、お願いしたいの?」
ボクは拳を強く握りしめ、すべての退路を断って、その言葉を出力した。
「白川に、キスしてもいいか?」
白川の目が限界まで見開かれ、驚きで顔が固まった。
そして、数秒の時間差をおいて、その白い頬が急速に熱を帯び、赤く染まっていく。
「軽く唇を合わせるだけだ。同性同士でも本当に許容してくれる人間なのか、それを確認するだけのテストだ」
論理的には破綻している。
同性愛を認めることと、実際に行為を受け入れることはまったく別だ。
だが、白川がボクに異常な好意を抱いていることは知っている。
そして今、黒瀬への嫉妬でシステムが暴走しかけていることも。
だから、そのバグを利用して、状況をボクの生存ルートへ強引に引きずり込む。
白川は、静かに目を閉じた。
そして何も言わず、ただ待っていた。
ボクは、女の子をそういう対象として見たことがない。
だが、今は生き延びるために、女の子に恋している人を演じ切るしかない。
彼女に密着し、唇を合わせた。
約一秒。
接触の確認。
タスク完了とみなし、ボクが顔を離そうとした瞬間だった。
――白川が、軽くボクの下唇を噛んだ。
驚いて固まった、その一瞬の隙に、彼女はさらに踏み込んできた。
呼吸の仕方を忘れる。
どこまでが自分の熱で、どこからが白川の熱なのか、わからなくなる。
黒瀬のキスが火傷なら、これは深海だった。
静かで、暗くて、底が見えないところへ引きずり込み、侵食する。
逃げなければ。
そう判断したのに、足が震えてうまく逃げられなかった。
どれだけの時間が経過したのか、脳内時計が完全に狂っていた。
意識の輪郭が熱でぼやけ、膝から力が抜けそうになった時。
ようやく白川は、ゆっくりと唇を離した。
「私たち、もう子供じゃないでしょう? 本当のキスが何なのか、知ってるから」
その声は優しかった。
ひどく満足げな笑みを浮かべている。
でも、その優しさの奥で、白川は明確に勝ち誇っていた。
それは単なる欲望の充足ではない。
黒瀬の残した痕跡を上書きし、『黒瀬に勝った』という優越感から来る、縄張りを守り切った猛獣みたいな愉悦の笑みだった。
「玲。……これで私が、玲を嫌いじゃないって、わかってもらえたかな?」
「ああ」と音声を出力しようとしたが、焼け焦げた喉からは空気の漏れる音しか出なかった。
水に溺れてから這い上がった人のように、心臓が狂ったように脈を打ち、肺が呼吸を渇望している。
もう思考だけではなく、体も制御不能になっていた。
「じゃあ、帰りましょう。いつも一緒に帰る、私たちの帰り道で」
白川はボクの力の抜けた手を強く引き、再び夜の底へと歩き出した。
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