第10話 「侵食」
「もう限界。学校に行きたくない」
朝、スマホの目覚ましアラームを止めて、最初に浮かんだ思考がそれだった。
筋肉が痛むほど体がだるい。
脳みそが、過負荷を起こしたCPUみたいに熱い。
この数日で、ボクの人生に起こるとは思ってもみなかった事件が、立て続けに起こりすぎた。
自分の唇に手を当てる。
そのまま深海へ引きずり込まれそうなキスが、脳裏にフラッシュバックした。
あの濃度を思い出すだけで、心臓が暴走する。
でも、また休むわけにはいかない。
成績優秀でいることは、ボクのプライドの柱の一つだ。それを崩したくない。
ベッドから出て、部屋のドアを開けようとした瞬間。
理由のわからない吐き気が襲ってきた。
同時に、目の奥が焼けるような感覚が走り、視界が真っ白になった。
*
次にベッドで目を覚ますと、隣の椅子に座った母が、ボクの額に手を置いていた。
母の説明によれば、ボクを起こしに来たら床に倒れていて、慌ててベッドに運んだらしい。
「今日、学校休む?」
成績が落ちないように学校へ行きたい。
けれど、今はあの二人にどう対処すればいいのかわからない。
その二つの気持ちが交差する。
だが、体が選択権を与えてくれなかった。
「うん。心配かけてごめんね、お母さん」
その後は解熱剤を飲み、ベッドで天井を眺めていた。
ボクは昔から体が弱く、熱を出すことも多かったので、家族はこういう対応に慣れている。
ほかの家族は普段通りに過ごし、母だけが万が一に備えてリモートワークに切り替えた。
「明日には治るだろう」
いつものように目を閉じ、頭の熱が冷めるのを待つ。
自分の部屋。
布団の中。
外と隔離された安全地帯にいる感覚が、心を優しく包んだ。
*
ドアベルの音で目を覚ました。
部屋の外で話し声がして、それから誰かが歩いてくる音。
そして、ドアが開いた。
「玲、大丈夫? また風邪ひいたって聞いたけど」
白川だった。
昨日の、深海へ引きずり込むようなキス。
狂気に近い優越感に満ちた笑み。
それらが脳裏をよぎり、体が硬直する。
必死に平静を装い、口だけをなんとか動かした。
「今何時? もう放課後か」
「ううん。まだ十二時くらい。玲が心配になって早退した」
違和感。
いつもと違う。
昔から幼馴染である彼女は、ボクがよく病気になることを知っている。
だから、その程度でいちいち早退したりはしない。
「お前が早退したら、ボクは誰からノートを借りればいいんだよ」
「あ、ごめんね。でも、今回は“特に”心配だったから」
白川がボクに近づき、額を合わせる。
彼女の顔が近づくたび、またキスするのかと身構えてしまい、心臓の鼓動が速くなる。
「“本当に”熱いね」
ボクの具合を確認すると、彼女はすぐに離れた。
「玲、昼ごはんまだでしょう?」
「ああ」
「待ってて。美味しいもの作ってあげる」
彼女はそう言い残し、部屋を出た。
ドアの外から、白川と母の笑い声、包丁がまな板を叩く音、食器がぶつかる音が聞こえる。
やがて、白川がトレイを持って戻ってきた。
トレイから、すごく美味しそうなお粥の匂いがする。
彼女はトレイをベッドの前の床に置き、ボクに近づいた。
「玲、体起こせる?」
ボクが上半身を起こそうとすると、白川が背中に手を回して支えてくれた。
茶碗の中身が見える。
野菜があまり得意ではないボクのために細かく刻まれたネギ。
ボクの好物であるカニカマ。
それから、栄養豊富な卵。
「玲の口に合うといいんだけど……」
白川は自信なさげに言う。
だが、これ以上ボクに合うお粥はないほど、絶妙に完璧だった。
白川はトレイから茶碗とスプーンを手に取り、お粥をすくう。
それをふーふーしてから、ボクの口元へ差し出した。
「さあ、食べて」
自分で食べるよ、と言いたい。
だが、そこには“私たちの間ではこれが自然な流れだよね”という圧があった。
断れず、口にする。
お粥だから熱いだろうと少し心配していたが、熱すぎず冷めすぎず、ちょうどいい温度だった。
表情から驚きを読み取ったのか、白川が言った。
「調理を始める前に、お茶碗を冷凍庫で冷やしておくと、食べる頃にちょうどいい温度になるよ」
少し誇らしげな表情だった。
でも、その自信に満ちた黒い瞳が少し怖い。
ボクのなにもかもを見通されて、裸でいるような気分になる。
お粥はちょうどいい温度で、病人向けの控えめな量だったこともあり、すぐに食べきった。
食後、白川は制服のポケットからハンカチを取り出し、ボクの唇の周りをやさしく拭いてくれた。
「玲、少し元気になった?」
「うん。ありがとう。明日は治って学校に行けると思う」
「よかった」
白川が嬉しそうな笑みを浮かべる。
満点の成績表を受け取ったような表情だった。
「でも、辛いなら明日も学校に行かなくていいよ、玲。私が明日も来て、看病してあげるから」
「白川に悪いよ。明日は頑張って行く」
その答えに、白川は心配そうな顔になる。
そして、ボクの手を握った。
「私には遠慮なんてしなくていいよ、玲。私には……」
汗まみれのはずのボクの手を、ペットみたいに何度も撫でる。
しばらくして、白川は立ち上がり、部屋を掃除し始めた。
まるで病院の個室みたいに綺麗にしてしまった。
綺麗すぎて、自分の部屋ではないみたいで、逆に落ち着かない。
「玲、寂しくなったら電話してね。夜中でも遠慮しなくていいから」
そう言い残して、彼女は部屋を去った。
部屋は、彼女の制服の匂いに似た清涼な芳香剤の香りに包まれていた。
*
ベッドでスマホを見ていると、またインターホンが鳴った。
白川が戻ってきたのかと思ったが、部屋へ向かってくる足音が、彼女のものより速くて力強い。
「玲ちゃん、生きてる?」
ドアを荒っぽく開けて、黒瀬が大声を上げながら入ってきた。
静かだった部屋が、一気に騒がしくなる。
「死んでるから、葬式の場では静かにして」
ボクの不満半分の返答に、黒瀬は何がそんなにおかしいのか爆笑した。
「これ、お供え物だよ」
黒瀬はスクールバッグから、お菓子、エナジードリンク、プリンなどを大量に取り出した。
「お見舞いにも、お葬式にも合わないものばかりだが?」
「美味しいよ? 元気になるよ?」
「確かにそうだが……」
全部、甘党であるボクの好物ではあった。
でも、今は十七時に近い。
夕食の前にお菓子を食べるなと、お母さんに怒られそうだ。
とはいえ、黒瀬の好意を無下にもできない。
ボクは上半身を起こし、お菓子を口に入れ、エナジードリンクを飲んだ。
熱で苦しんでいた体に、“これこれ、これが欲しかったんだよ”と言うみたいに染みてくる。
背徳的快楽とは、こういうものなのだろう。
黒瀬もボクのそばに座り、一緒に食べ始めた。
「今日、体育の授業でさー」
今日学校で起こった出来事。
ゴシップ。
電車で見たショート動画の話。
黒瀬はとめどなくしゃべり続けた。
聞いていると、まるで今日一日、黒瀬と一緒に登校して学校にいたような気分になる。
いろんな出来事や感情がきらめいていて、彼女の見ている世界はこんなにも色で溢れているのかと思った。
同じ学校に通っているはずなのに、別世界みたいだ。
黒瀬からは、いつも不思議さを感じる。
話し終えると、黒瀬は部屋を見渡した。
「せっかくだし、玲ちゃんの部屋、もう少し見ていい?」
「まあ、どうぞ」
黒瀬はゆっくりと部屋を見渡す。
そして、机の隣の本棚に向かった。
「エッチな本はないかな♪」
「一応、ボクも女の子だぞ。何を言うんだ」
「女の子も見てる子、多いよ? BLとかは特に」
黒瀬は本棚から一冊の漫画を取り出して読む。
「へー。玲ちゃんはこういう漫画が好きなんだね」
変な本ではないが、趣味がバレているみたいで恥ずかしい。
「この漫画、面白いね。また読みに来てもいい?」
「毎日来るってわけじゃなければ、いいよ」
「やった♪ じゃ、これは次来た時に読もうっと」
漫画を本棚に戻し、それからボクの隣に戻ってきた。
「玲ちゃん、早く元気になってね。また、一緒に遊びに行きたいよ」
「ああ、頑張る」
黒瀬はボクをぎゅっと抱きしめた。
いつもの情熱的なスキンシップではなく、温かい応援のハグ。
悪寒で苦しんでいた体に、日差しが差すようだった。
「病人の部屋に長居しても悪いから、そろそろ行くね。また明日」
黒瀬はそう言い残して、部屋を去った。
*
本来、静かなボクだけの空間であるはずの自室が、一日で随分変わってしまった。
部屋を包む、白川の制服と同じ清涼な芳香剤の匂い。
甘い快楽をくれた、お菓子の包み紙とエナジードリンクの缶。
白川が完璧に整理した部屋は、黒瀬の訪問でまた少し乱れている。
ここは、本当にボクの部屋だっただろうか。
そんな違和感があった。
最近始まった非日常は、学校での出来事だけでは終わらない。
思ったより、ボクの足元は深い沼に沈んでいるようだ。
落ち着かなくなったボクは、無性にお母さんに会いたくなり、部屋を出た。
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