第11話「花見る野良猫」
今日、黒瀬が学校に来なかった。
どうやら、ボクの風邪がうつってしまったらしい。
先生が「誰か黒瀬さんにプリントを届けてくれない?」と言った時、なぜかボクが一番早く手を挙げていた。
不安定な今の状況から、逃げたいのではなかったのか?
自分に問いかける。
でも、風邪を移したのはボクだ。
昨日、お見舞いに来てくれたせいで苦しむことになった。
それを見て見ぬふりはできない。
昨日の黒瀬を思い出す。
笑いながら励ましてくれたし、優しくハグしてくれた。
善意には、善意で返したい。
放課後を待ち、チャイムが鳴った瞬間、カバンを手に取った。
「一緒に行っていい?」
後ろから話しかけてきたのは白川だった。
彼女が介入してくることは、ある程度予想していた。
「すまないが……今日はボク一人で行きたい」
「なぜ?」
「おかしいことはないだろう。大勢で行くと、病人に無理をさせてしまう」
白川は納得していない顔をした。
そして一度だけ、ボクの唇を見る。
それから何かを思い出したように、ほんの少し目を細めた。
「わかった。玲がそう言うなら」
ボクは安堵の息をついた。
白川は去っていくボクの背中に向けて、一言だけ残した。
「もしあの子が変なことをしようとしたら、すぐ逃げて。それで、私に連絡して。助けに行くから」
*
電車に乗って、黒瀬の家に着いた。
普通のマンションの一室だった。
ドアベルを鳴らす。
「どなたですか~」
「ボク。花村」
「えっ、玲ちゃん?」
向こうから、何かがぶつかる音がした。
「ちょっと待ってね!」
三分ほどしてから、彼女が出てきた。
なぜか制服姿だった。
「着替えたのか?」
「うん。パジャマ姿は恥ずかしいし」
「ああ、そうだな。ボクも昨日は恥ずかしかったぞ」
「全然そう見えない! それに、玲ちゃんはかわいいからいいの! アタシはだめなの!」
外で長話するのも何なので、中に入ることにした。
「思ったより元気そうで良かった」
「そうだよ、全然平気! わざわざ来る必要なかったのに~。ほぼ仮病だから」
いや、ボクが言ったのは言動の方だ。
顔は赤いし、汗も流している。
体が全然平気ではないことは、一目でわかった。
家の中は、なんとコメントすればいいのかわからないくらい普通だった。
そういえば、病人がいるのに家に誰もいない。
「お前、一人暮らししてるのか?」
「父と母と住んでるよ。ちなみにアタシは大切な一人娘!」
そうなんだ。
ボクの場合、お母さんが家に残ってくれるけど……普通はそこまで気にしないものなのか?
居間を通って、黒瀬の部屋に案内された。
部屋のドアの前で、ふと思う。
黒瀬の部屋なら、かわいいぬいぐるみや化粧品で埋まっていそうだな、と。
でも、目の前に現れた部屋は、想像とかなり違っていた。
ベッドと机以外、ほとんど何もない。
化粧品も、ぬいぐるみも、ポスターもない。
学校で見せる黒瀬の色が、この部屋にはほとんど存在しなかった。
「お前、引っ越しするのか?」
それにしては、引っ越し用の段ボールすら見当たらない。
「アタシ、ミニマリストだから」
笑顔で平然を装ってはいた。
けれど、目元と眉だけが「それを聞かれたら困る」と言っていて、笑みにうまく連動していなかった。
何もない部屋に驚きながらも、ボクはカバンからコンビニで買ってきたものを取り出した。
「お腹空いてないか? お粥とお菓子があるけど、どっちがいい?」
それを聞いた黒瀬の表情が、ぱっと明るくなる。
ちなみに、ボクは料理ができない。
考えるのは好きだが、手を動かすのは苦手だ。
だから、病人に良さそうなレトルトのお粥と、黒瀬がお見舞いの時に持ってきたのと同じお菓子とエナジードリンクを買ってきた。
両方あれば、大きな失敗はないだろう。
「んんん~。玲ちゃんが選んで」
「なんでだ。自分の好みは自分が一番わかるだろう」
「病気だからわからない! 玲ちゃんが選んで!」
なんだか、いつもよりわがままだ。
そう思いながら、まずお粥のパックを手に取った。
「玲ちゃんが選んでくれたのは、それなのね」
「まず健康そうなお粥である程度お腹を満たす。その後、話しながらお菓子と一緒にドリンクを飲む。お菓子は残してもいい。それはボクが処理する。このプランなら、すべて解決する」
説明を聞いた黒瀬は爆笑した。
「玲ちゃん、真面目すぎ!! ウケる!!」
「お前、ボクをバカにしてるのか?」
不満を表明しながら、レトルトのお粥を手にして部屋を出た。
電子レンジは、入口付近のキッチンにあるのを見ていた。
パックの上を少しちぎり、レンジで温める。
お粥を準備しながら考えた。
家は普通なのに、この部屋だけが何か変だ。
小さな引っかかりが胸に残る。
レンジの音で我に返り、茶碗にお粥を注いで部屋へ戻った。
「ほら、できたぞ。熱いから気をつけて食べろよ」
黒瀬がお粥を口にするのを、隣で眺める。
少し、静かすぎるな。
そういえば、黒瀬は学校であったことを話して、ボクを賑やかな気分にしてくれた。
「今日、学校でこういうことが起きたんだが……」
ボクは黒瀬の真似をして、学校で起きたことを話してみた。
でも、話しているうちに、どんどん自信がなくなってくる。
ボクが並べているのは、ただの出来事の羅列で、まるで面白くない。
ボクは雑談が苦手なのだ。
「玲ちゃん。知りたいことがあるんだけど」
「何が知りたい?」
「ダイエットする時、お腹にお肉はついてるのに、なんでお腹が空くのかな?」
その質問は簡単だった。
「それは、人がお腹が空いたと判断するのは血糖値によるものだからだ。脂肪でエネルギーが十分でも――」
ボクの説明を、黒瀬は楽しそうに聞いていた。
それでボクの気分も少し高揚し、口が止まらなくなる。
黒瀬がお粥を食べ終わったことに気づき、ようやく我に返った。
「いや、つまらない話を長くしすぎた。全然楽しくないだろう」
「アタシ、玲ちゃんの賢そうな話を聞くの、好き」
自分の顔が赤くなるのを感じる。
なんだか恥ずかしい。
黒瀬が、手に持っていた茶碗を戻そうと立ち上がった。
「黒瀬は病人だから、安静にしてろ。ボクがやる」
「玲ちゃんはお客さんなのに、そうできないよ」
「座・わ・れ」
黒瀬の手から茶碗を奪って、キッチンに戻す。
部屋に戻り、お菓子とドリンクを広げた。
「残していいからな? 無理するなよ」
「はーい」
黒瀬は幼稚園児みたいに返事をした。
部屋を空けた数分で、年齢が逆戻りしたのか?
「頭がくらくらする。お菓子食べさせて」
「いくらなんでも、お菓子は自分で食べられるだろう」
「あーんして!」
「わかった。わかった」
病人なのだ。
それくらいは特別にしてあげてもいいだろう。
お菓子を一つずつつまみ、黒瀬の口に運ぶ作業を反復する。
「美味しいか?」
「うん!」
「喉乾いた! 飲み物も飲ませて!」
なぜかわがままになった黒瀬は、聞く耳を持たない。
仕方なく、エナジードリンクを口元へ近づけた。
「ぶはっ」
エナジードリンクの炭酸が、黒瀬の口から溢れる。
口の中にお菓子が残っていて、反応したらしい。
彼女はケホケホと咳をする。
ボクはカバンのポケットからティッシュを出し、拭いてやった。
「今日の玲ちゃん、お母さんみたい。へへ」
「そうだな。今日はもう諦めてお母さんになるよ」
黒瀬の目が大きくなる。
少し沈黙。
その口から、小さく言葉がこぼれた。
「お母さん……」
黒瀬の目が揺れる。
「大丈夫か?」
黒瀬が我に返るように頬に手を当てた。
すると、また子どもみたいな表情に戻る。
「だっこして!」
お前、調子に乗りすぎじゃないか?
そう思いながら、やってあげる。
もう、考えるのをやめた。
「玲ちゃんは温かいね……。本当に温かい」
そこまでか?
熱を出しているお前の方が体温は高いだろう。
その時、頬を寄せ合っていた顔に、何か温かい液体を感じた。
「黒瀬、泣いているのか?」
「え? え、ええ……? なんで?」
黒瀬は慌てて離れ、手で涙を拭く。
ボクは、それを無言で見ていた。
黒瀬は、ボクが知っている顔だけでできているわけではないのだと思った。
もう少し話した後、時間がかなり過ぎていたので、家に帰ることにした。
「また明日な。早く元気になれよ」
「うん。今日はありがとう。バイバーイ」
いくつもの違和感を胸に抱え、黒瀬の家を後にした。
*
暗い部屋でベッドに横たわっている黒瀬は、何もない天井をずっと眺めていた。
深夜になっても、家には誰も帰ってこない。
虚ろ。
玲が去った後、部屋はまた静寂に戻ってしまった。
「玲ちゃん。アタシ……」
黒瀬は闇の中で一人、すすり泣いた。
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