第8話「ノーカンのはずなのに」
ボクの脳は死んでしまったらしい。
もちろん、物理的な死ではない。
だが――脳内OSだけが、致命的なエラーを吐き続け、正常に起動していなかった。
原因は明白だ。
昨日の――。
……。
思考プロセスが、そこで強制的にシャットダウンされ、心臓が激しく脈を打つ。
再生するな。
あれはノーカウントだ。
練習という名目の、接触事故に近い偶発的な出来事。
意味はない。
意味を持たせてはいけない。
深呼吸しながら、暴走する血流を正常化させる。
「おはよ、玲ちゃん」
頭上から、鼓膜を直接撫でるような軽快な声が降ってきた。
黒瀬彩。
ボクは意図的に深く息を吐いた後、顔を上げた。
「……おはよう」
視線が交差する。
その瞬間――思考のファイアウォールをすり抜けて、昨日の密室の記憶がフラッシュバックした。
触れ合った粘膜の柔らかさ。
近すぎる甘い呼吸。
あの、圧倒的な熱。
「……」
ボクはまた体が熱くなっているのを隠すために、視線を斜め下へ逸らした。
「なんでアタシの顔を見て、目をそらすの?」
「特に意味はない。光の反射角の問題だ」
平静を装う。
体の火照りは静まってないが、声帯から出る声はまだ冷静なものだ。
……よし、問題ない。
だが、黒瀬はボクを上から見下ろしたまま、じっと動かなかった。
数秒の、粘り気のある沈黙。
「……ふーん」
いつもの軽い声。
だが、その細められた瞳の奥には、ボクの動揺を精密に計量するような観察の色があった。
「昨日さ」
「なんだ」
「楽しかった?」
質問そのものは極めて普通。
だが、ボクには強すぎる刺激として刺さった。
思考はエラーの海に沈んでいて、次の一手を考えられない。
今、何と返せば正解なのか。その返答をまだ準備できていない。
「……ああ。合理的に見て、有意義な時間だった」
「なにそれ。デートの感想じゃないでしょ」
黒瀬が笑い出す。
いつもの反応。
いつもの軽いテンション。
――の、はずなのに。
ボクはなぜか、その「いつも」の輪郭に微細な違和感を覚えていた。
「玲ちゃんってさ」
黒瀬が、不意にボクの机に肘をつき、上半身を沈め込んできた。
距離が、一気にゼロへ近づく。
「キス、ノーカンにするタイプなんだ?」
ボクは肺の動きを完全に停止させた。
いろいろと複雑な気分が交差するが、それは一旦おいておく。
ここは学校。
しかも、授業が始まる前の教室だ。
白川が聞いているかもしれない。
そのリスクを忘れてはいけない。
「……あれは、練習って言ったのはお前だろう。練習は本番ではない。だから練習と呼ぶ」
「そう……」
彼女はほんの数ミリ、さらに顔を近づけてきた。
シャンプーの匂いが、ボクのパーソナルスペースを侵食する。
「じゃあさ。何度しても、ノーカン? 玲ちゃんは練習ってことで忘れるの?」
「――やめろ」
「なんで?」
「……」
黒瀬は、瞬きもせずにボクの顔を数秒見つめて――。
「……無理にはしないよ」
小さく笑った。
だが、ほんのわずかにだけ、彼女の中に熱い何かがあるように見えた。
その静かな緊張を物理的に断ち切るように、
「玲」
背後から、鼓膜の温度を奪う声がした。
振り返る。
白川美琴。
「おはよう」
「……ああ」
彼女は、いつも通りの完璧に左右対称な笑顔を浮かべていた。
だが、その漆黒の視線が、ほんの〇・一秒だけボクの唇へ落ちる。
極めて精巧なスキャナーで、そこに残った他者の痕跡を読み取るような視線の動き。
ボクは背筋に這い上がる悪寒を、強靭な意志で押さえ込んだ。
「昨日は楽しかった?」
黒瀬とまったく同じ質問。
だが、背後で稼働しているアルゴリズムの殺意が違う。
「……問題なかった」
限りなく無色の単語で返す。
白川は小さく頷いた。
「デートなんだから、楽しまなくちゃ。黒瀬さんに悪いよ。それとも、私がいるから遠慮してるの?」
そう言って、白川はボクの隣に、ごく自然な動作で立った。
距離が近い。
だが、黒瀬の熱を帯びた近さとは違う。
絶対零度の、一切の逃げ場を許さない静かな距離。
「玲」
「なんだ」
「今日、一緒に帰れる? ちょっと話そうよ」
不意打ち。
思考が正常に働かないせいで、状況をまったくコントロールできない。
そう思いながらも、返事を求められている以上、口は無計画に開いてしまう。
「……特に予定はない」
昨日の「綺麗に終わらせる」という計画は、あの密室での事故によって完全に崩壊している。
なら、白川と話して状況を終わらせることに、まだ希望があるかもしれない。
「じゃあ、決まりだね」
白川が微笑む。
ひどく柔らかく。
光を吸い込むブラックホールのような瞳に、少しだけ光が戻った気がした。
「……モテモテじゃん」
横から、黒瀬の声。
いつの間にか、ボクの机の反対側に立っていた。
「アタシとも一緒に帰る予定だったでしょ?」
「そういう約束はしてない」
「いつも一緒に帰ってたじゃん。約束なら今すればいいじゃん」
ボクは内心で頭を抱えた。
なぜ、わざわざ状況を修羅場みたいにするんだ。
「玲は、私と帰るんだよね?」
「いやいや、昨日デートしたのはアタシだし?」
やめろ。
ここは教室だ。
クラスメイトたちの好奇の視線が、すでにいくつかこちらへ向き始めている。
心拍数が急上昇するのがわかる。
右から黒瀬の視線。
左から白川の視線。
逃げ道はない。
「……三人で帰るか」
どうにでもなれ。
パンクした頭が、最悪かもしれない答えを出した。
どちらかを選べば、どちらかが壊れる。
選ばなくても――たぶん壊れる。
確実なのは二つだ。
白川との約束を破れば、殺される可能性が高まること。
そして黒瀬は、ボクがだめだと言ってもついて来るだろうということ。
選択権は、どうせボクにはない。
「えー」
「……いいよ」
反応は見事に真逆だった。
黒瀬は露骨に口を尖らせて不満を示し、白川は凪いだ海のような顔で静かに頷いた。
その静けさが、逆に怖い。
「じゃあ、放課後ね」
その一言で、地獄のようなトライアングル・トークは強制終了した。
黒瀬が自分の席へ戻り、白川も離れる。
そして、ボクは絶望的な事実に気づく。
状況は何も解決していない。
それどころか、両者のリスクゲージは確実に限界突破へ向かっている。
……はあ。
横から見れば、ただの青春恋愛ものに見えるのかもしれない。
だが、白川はその黒いノートに「殺す」と書いた。
それを知っているのは、ボクだけだ。
冷静に、ポジティブに考えようとしても、孤独感が押し寄せてくる。
そして、感じだ。
斜め後ろの席に座る白川美琴の、監視カメラのような瞳が。
絶対にそれを見逃さなかったことを、ボクは肌の粟立ちで理解した。
……今日の放課後、ボクは死ぬかもしれない。
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