第6話「接触エラーと増殖するバグ 上」
状況は――一度、収束した。
昨日の廊下での一件により、白川美琴の暴走リスクはひとまず鎮静化したように見える。
心の中で過激なことを考えているかもしれないが、言葉の通じない殺人鬼というわけではない。
つまり、ボクが想定していた最悪の心中シナリオは、考えすぎだった可能性が高い。
これから、ちゃんと話して解決していけばいい。
であれば――。
「……もう、必要ないな」
黒瀬との「偽装恋人関係」。
あれは本来、白川の誤認を維持し、ボクの命を守るためのダミーシールドだった。
だが、前提条件が緩和された今、白川を無駄に刺激する偽装恋愛を続けるのは、むしろリスクを再燃させる行為に等しい。
黒瀬はいい子だ。
ただ、嫉妬なのか過度に白川を刺激する傾向があり、正直悩んでいた。
残った問題は、この関係をどう安全にシャットダウンするかだ。
ボクは小さくため息をつく。
人間関係の繊細な調整など、ボクの大苦手な分野だ。
一方的に巻き込んでおきながら、こちらから一方的に終了を告げれば、プライドを傷つけられて激怒する可能性が高い。
それに。
「……世話には、なったしな」
少なくとも、ボクの命を一時的に繋ぐ防壁として機能してくれた。
そして、リスク管理のために、必要以上に彼女へ冷たい態度を取っていた自覚もある。
結論。
システムを安全に終了させるには、それ相応の「正常なプロセス」が必要だ。
稼働中のPCの電源コードをいきなり引き抜くのではなく、正しい手順でシャットダウンボタンを押す。
そうすれば、システムはエラーを吐かずに終了する。
最後に一度だけ、まともな恋人として振る舞う。
この「ごっこ遊び」に満足させてから、遊びの終わりを告げる。
「よく遊んだ。楽しかった」
それで、綺麗に終わらせるのだ。
「いわゆる、“本当の恋人のデート”ってやつか」
それが最も合理的だ。
……たぶん。
「ね、玲ちゃん」
思考の終端に、タイミングを計ったような愉快な声が割り込んできた。
振り向くと、いつの間にか黒瀬がすぐ背後に立っていた。
「明日土曜日だけど、空いてる?」
「……空いているが」
「じゃあ決まり。遊園地行こ」
なぜそうなる。
ボクの論理的予測を、常に斜め上から破壊してくる。
「なぜ遊園地だ」
「デートっぽいじゃん?」
論理が雑すぎる。
だが――ボクのシャットダウン計画には好都合でもあった。
「……いいだろう」
「え、いいの?」
黒瀬が、珍しく目を丸くした。
「どうせやるなら、それなりにやる」
「……なにそれ。急にやる気じゃん」
面白そうに笑うその顔を見て、ボクは内心で小さく頷いた。
これでいい。
これが――最後だ。
*
駅に着いて改札を出ると、遊園地の入口が見えた。
電車から降りた人たちが、吸い込まれるように入口へ流れていく。
人の多さだけで、軽く目眩がした。
「はい、手」
黒瀬が右手を差し出した。
「……なんだ」
「はぐれるでしょ」
合理性はある。
あるが――。
「その必要はない。ボクは一定の距離を保って――」
「いいから」
強制的に、ボクの手首が――いや、今度は指先が絡め取られ、完全にホールドされた。
温かい体温。
少し湿った掌の柔らかさ。
パーソナルスペースへの侵略。
彼女はいつも強引で、近い。
油断していると、いつの間にか心理的な隙間に割り込んできて、こちらを驚かせる。
ボクは即座に視線を逸らした。
これはただの接触だ。
意味はない。
意味を持たせる必要もない。
ただ彼女を満足させ、正常終了するためのプロセスを進めているだけだ。
遊園地のチケット売り場へ移動する。
窓口では、優しそうな女性スタッフが応対していた。
「チケット二枚、お願いしまーす!」
黒瀬が元気よく言う。
「大人一枚と……隣は弟さんですか? 小学生で合っていますか?」
その質問に、黒瀬が吹き出した。
「弟ですかって!」
爆笑が止まらない。
「違います! ボクは高校生です! あと、性別は女です!」
「あ、失礼しました」
思わずムキになって大きな声を出してしまったが、窓口の人には少し悪い気もした。
間違われても仕方ないというか、普段からよく誤解される。
身長は百五十センチほどのちんちくりんで、胸もない。
服装は短パンに、男物っぽいワイシャツ。
少し髪の長い男子小学生に見えても仕方ない。
それに比べて、黒瀬の私服は大人っぽい。
肩とお腹を露出した黒いタンクトップに、ジーンズ素材のミニスカート。
いわゆるストリート系というやつだろうか。
よく知らないが、雑誌の表紙に出てくるモデルみたいだと思った。
そんな黒瀬とボクが手を繋いでいたら、年上のお姉さんと遊びに来た弟に見えて当然だろう。
外見のコンプレックスを刺激され、ため息が出る。
とにかく、無事に遊園地の中へ入ることはできた。
休日の遊園地は、ボクの脳内CPUを焼き切るには十分すぎるほどの“データ量の暴力”だった。
極彩色のイルミネーション。
無遠慮に明るいBGM。
エントランスに漂う甘ったるいポップコーンの匂い。
高密度の人間の熱気。
すべてが過剰で、激しい処理落ちを引き起こす。
もう帰りたくなってきた。
「玲ちゃん、何から乗る?」
「黒瀬が選んでいいよ」
頭に良い案が浮かばないので、黒瀬に任せることにした。
「じゃ、あれ乗ろうよ! 大人気だから、早めに並ばないと乗れないらしいよ」
黒瀬が指差したのは、物理法則を無視して落下する、明らかに致死的な絶叫系アトラクションだった。
「却下だ」
「なんで!?」
「わざわざ体を危険に晒す行為に、何の意味があるのかわからない」
黒瀬は一瞬ぽかんとしてから、腹を抱えて吹き出した。
「なにそれ! ウケる!」
「笑うな! 危険を感じたら逃げるのは、動物として当然の本能だろう!」
「その危険が面白いじゃん。乗ってみればわかるから」
……ボクの論理は、まったく理解されていないらしい。
黒瀬はボクの手を引っ張り、待機列へ強制連行した。
時間が経つにつれて、ボクの生体センサーが警報を鳴らし始める。
呼吸が浅く、速くなってくる。
「おい、やめよう。時速百キロ超で降下するなど、パイロット訓練を受けていない素人が乗っていいものではない」
「本当に無理ならやめるよ?」
黒瀬は意外にも、そこで足を止めた。
「でも、乗ってみて。絶対面白いから」
これは最後のデートだ。
彼女を満足させ、綺麗に終わらせるためのプロセス。
なら、もう少し頑張ってみるしかない。
「……一回だけだからな」
「大丈夫、大丈夫。あっちの中学生たちも楽しそうにしてるよ。玲ちゃんにも、これの楽しさを体験してほしいだけだって」
待機列はどんどん短くなっていく。
心臓の鼓動が激しくなる。
結局ボクは、地獄への直行便であり、地獄そのものでもある鉄の塊に縛り付けられた。
安全バーが降りてきて、もうどうしようもなくなる。
せめて最低限の安全を確保するため、両手で安全バーを精一杯掴み、震える腕を安定させるように深呼吸した。
その時、黒瀬がボクの腕に手を添えた。
「余計な心配してるから苦しくなるんだよ。前を見て楽しんで」
怖がるボクの手を掴み、安全バーからそっと下ろす。
そして、強く握ってくれた。
彼女の手は力強い。
ボクを守ってくれているようで、少しだけ頼もしかった。
だが、その次の瞬間、列車が高速で出発し、ボクは自我を失って悲鳴を上げるだけの存在になった。
*
「玲ちゃん、絶叫系、マジで苦手なんだね。ごめんね」
「いいよ、別に。興味深い体験ではあった」
自分では絶対に選ばないので、人生に一度くらいは乗ってみるのも悪くないと思う。
二度と乗らないけど。
ベンチに座ってくらくらする頭を抱えていると、黒瀬が少し先のフードスタンドから、飲み物とクレープを買ってきた。
ボクは自分の分を受け取る。
「これ美味しいよ。食べてみて」
「ボクの口に異物を強制挿入しようとするな。今は、胃と魂が体内から逃げようとしている状態だ」
「酔ってる時は甘いもの食べると良くなるって、友達が言ってたよ。あーん」
三半規管のバグと戦うボクに、黒瀬は容赦なくクレープを差し出してくる。
このまま拒絶すれば、顔面に強引にねじ込まれそうな勢いだ。
仕方なく、差し出された一口分を食べる。
プラシーボ効果かもしれないが、少し良くなった気がした。
「あー」
今度は黒瀬が目を閉じ、無防備に口を開けた。
ボクの手にある別の味のクレープを要求しているらしい。
仕方なく、一口分を彼女の口に運んだ。
「まあ、おかげで酔いも収まってきたし、感謝の意味で。あー」
「へへ。美味しいね」
黒瀬は無邪気に、本当に楽しそうに笑う。
その顔を見て、彼女の顔も少し赤くなっていることに気づいた。
彼女も絶叫系マシンで酔っているのだろうか。
「……玲ちゃんさ」
「なんだ」
「今日、なんか優しくない?」
「……気のせいだ」
不意に、核心を突かれた。
「ふーん。普段なら嫌なことは絶対しないし、すぐ逃げるのに。今日はアタシがやりたいことに全部付き合ってくれるから。なんかあるのかなって思ったけど」
シャットダウン計画の意図を見透かされたようで、心臓を細い針で刺されたような感覚に陥る。
「玲ちゃん。なんか言いたいことでもある?」
面白いと思っていただけたら、下部の☆☆☆☆☆から評価とブックマークをお願いいたします!




