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バレたら終わり。ヤンデレから生き残るために百合を演じる。  作者: SINYA


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第5話 「独占と救済」

 放課後の教室には、奇妙なアンバランスさが漂っていた。

 黒瀬は相変わらず、ボクの斜め前の席でクラスメイトたちと雑談している。


 だが――白川の周辺だけが、真空のように静まり返っていた。

 斜め後ろから、ずっと視線を感じる。


 ボクは目を閉じ、考える。

 今回は、何が問題なのだろうか。


「ね、玲ちゃん」


 黒瀬の声。

 目を開けると、弾力のある太ももが視界を占領していた。


 いつの間にか黒瀬はボクの机に腰を乗せ、極めてパーソナルな距離にいる。


「今日さ、どっか寄ってく?」


 その楽しげな言葉を聞いた瞬間、ボクの肌を刺していた真空の圧力が、わずかに緩んだ気がした。


「そうだな……どうしようか」

「予定はないってことね。駅前に新しいカフェできてさー」


 相変わらず強引だ。

 だが、黒瀬が次の言葉を紡ぐより早く、


「玲」


 もう一つの声が、横から鼓膜を打った。


 白川美琴。

 いつの間にか、足音も立てずにボクのすぐそばに立っていた。


「ちょっと、いい?」


 拒否権が存在しない響きだった。


「……ああ」


 ボクは立ち上がる。

 背後で黒瀬が「えー、アタシと話してたのに」とわざとらしく不満を漏らしたが、今はそれにかまう余裕がない。


「ごめん」


 そう言って、席を離れた。


 教室を出て、夕焼けの差し込む廊下の角を曲がる。

 人通りはあるが、会話の内容までは聞き取られない死角。


 前を歩いていた白川が、やがて足を止めた。

 振り返る。

 その表情は――いつもと同じ、絵画のように穏やかで完璧な笑顔だった。

 だが。


「玲」


 ボクを呼ぶ声の輪郭が、わずかに揺れていた。


「……あの子と、どこまでしたの?」


 ボクは爆発しそうに動く心臓の血流を、意図的に遅らせる。


 これは確認ではない。

 彼女のルールを実行するか否か、その最終的な確信を得るための質問だ。

 ここでの単語の選択ミスは、即座に破綻――死へ直結する。


 論理の壁で押し返すか。

 曖昧な表現で煙に巻くか。


 だが、どちらも危険だ。

 今の彼女は、論理で処理できる状態ではない。


「……昨日のは、完全に事故だ」


 まず、事実という杭を打つ。


「それ以上は、何もしていない」


 明確な線引き。

 物理的にも、関係性的にも。


 白川の瞳は瞬きもせず、ボクの言葉を黙って聞いていた。


 これで終わってくれればいいが……。

 だが、彼女の瞳の奥で揺れる漆黒の炎が、それを許さないことはわかっていた。


「……そっか」


 白川は少し黙り、それから話を切り出した。


「黒瀬さん、悪い子ではないと思う」


 彼女の声は、驚くほど穏やかだった。

 緊張で固まっていた肩から、知らずに力が抜ける。


「明るいし、友達も多いし、玲を退屈させない。たぶん、玲にとって新鮮で、惹かれるのも無理はないと思う」

「……なら、なぜそんな暗い顔をしているんだ?」

「心配なの」


 白川は、少しだけ視線を伏せた。


「玲は疲れてない? よく知らない人に振り回されてない? 黒瀬さんに合わせすぎてない?」

「確かに振り回されて疲れる時もあるけど、まだ大丈夫」


 群れるのは大嫌いだし、他人に合わせるのも苦手だ。

 だから、エネルギーに溢れた黒瀬といると、確かに疲れる。頭も痛い。


 でも、彼女といるのは嫌ではない。

 言われて気づいたが、不思議なことだった。雰囲気の影響だろうか。


「……そうなんだね。玲も成長していくんだね。《《いつかは変わっていく》》と思っていた」

「ボクは特に変わってないと思うが……」


 黒瀬との関係は、生き残るために作った偽装恋愛関係だ。

 そんなに影響を受けているとは思えない。


「いいえ。黒瀬さんといる時の玲は、私の知らない顔をしてる。困って、怒って、少し照れて……でも、楽しそうで。私の知っている玲が、少しずつ遠くなる気がするの」


 白川が、音もなく一歩近づく。

 距離が縮まる。


 ボクはこのまま刺されるのかと思った。


「玲が……取られるの、やだ」


 ひどく小さな、かすれた声。

 白川はボクを抱きしめながら、そう言った。


 夕暮れの廊下に落ちたその言葉は、驚くほど静かだった。

 怒りではない。

 殺意や狂気の叫びでもない。


 ただ、限界まで押し殺され、圧縮され続けた感情の器がひび割れ、そこから致死量の熱が零れ落ちたような声。

 予想外の状況に、思考が止まった。


 白川の涙が、ボクの制服に落ちる。

 ボクの背中で、制服のしわを握る彼女の指先が、かすかに震えていた。


 思っていたより、白川の反応は普通だった。

 少なくとも、今すぐ誰かを傷つけようとしているようには見えない。

 ボクはそれに戸惑うしかなかった。


 今までの言動だけを見て、彼女を危ない相手としか思っていなかった。

 いつの間に、そうなったのだろう。

 大切な幼馴染なのに。


 白川がゆっくりと顔を上げる。

 その目は薄い涙の膜に覆われ、今にも音を立てて砕け散りそうだった。


 ボクも、あのノートを見た衝撃で異常になっていたのかもしれない。

 必要以上に警戒して、幼馴染に寂しい思いをさせたのかもしれない。


 昔みたいな関係に戻れるかもしれない。

 だからボクは――彼女を抱きしめ返した。


 そして、そっと手を伸ばし、彼女の頭に触れる。


「……え?」


 白川の喉から、間の抜けた小さな音が漏れた。


 ボクは構わず、彼女の柔らかい髪を軽く撫でる。

 強すぎず、弱すぎず。

 過呼吸気味の背中を、一定のリズムで落ち着かせるように。


「落ち着け」


 短く告げる。


「大丈夫だから」


 嘘ではない。

 少なくとも、今この瞬間、ボクは誰のものでもない。


「ボクはここにいるから」


 白川は、驚いた顔で動かなくなった。

 手のひらから、彼女の少し高い体温と、かすかな震えが伝わってくる。


 できるなら、知りたい。

 彼女が過激なことを考えるほど、心を病んでしまった理由を。

 元の優しい幼馴染に戻れる道があるなら、探したい。


 数秒。

 世界からすべての音が消えたような、長い数秒。

 やがて、


「……玲、優しいね」


 泣き笑いのような、かすれた声。

 俯いたままなので顔は見えない。

 だが、こわばっていた彼女の肩の力が、ゆっくり抜けていくのがわかった。


「……何してんの?」


 不意に、その奇妙な安堵を物理的にぶち壊す声が響いた。

 振り返る。


「もしかして、浮気?」


 黒瀬が、いつもより少し不自然な笑顔でそう聞いた。

 普段の軽さはない。


「そんなんじゃない」


 ボクが答えようとする前に、白川が否定した。


 ボクは白川の頭から、自然な動作で手を離す。

 白川もすぐに一歩下がり、いつもの「幼馴染の距離」へ戻った。


「へー」


 黒瀬は笑っている。

 でも、その笑顔はいつもより薄かった。


 黒瀬はゆっくり靴音を鳴らして近づいてくる。


 一瞬、彼女の視線がボクを通り越し、白川へ向いた。

 だがすぐに、


「ま、いっか。で、今日はどこ行くの? 話の途中だったでしょ?」

「……カフェとか言ってなかったか。そこでもいいかもな」

「やった! じゃあパンケーキね!」


 黒瀬が無邪気に笑う。

 その横で、白川もまた、いつもの完璧な笑顔に戻っていた。


「玲、ありがとう。疲れたら、私のところに戻ってきて」


 さっきまでの重圧が嘘のように、軽やかな声。


 だが――ボクを真っ直ぐ見つめるその漆黒の瞳の奥では、確かな熱を持った『何か』が、まだ燻り続けている気がした。


 それでもボクは、直前に味わった恐怖と驚きが正常な判断を邪魔しているのだと思い込んだ。


 生存本能が発するかすかな直感を、意図的にミュートした。


     *


 西日が沈みかけた廊下。

 花村玲と黒瀬彩の背中が階段の奥へ消えていくのを、白川美琴は静かに見守っていた。

 二人の姿が見えなくなった後も、そのまま立っている。


「良かった。玲は昔のまま。私に飽きていなかった。……そして」


 白川は、誰もいない廊下で甘く呟く。


「玲はやっぱり優しい。玲は私を見てくれる。私を抱きしめてくれる。ずっと私のそばにいる。私と一緒にいるべき……」


 泣いたら、玲は抱きしめてくれた。

 寂しいと言ったら、玲は戻ってきてくれた。


 まだ大丈夫。

 玲は、まだ私の声を聞いてくれる。

 玲を傷つけるかもしれない女から、救ってあげられる。


 白川は、そう思った。


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