第4話 「距離バグ」
放課後になった瞬間、ボクは黒瀬に腕をホールドされ、半ば連行される形で駅前の大型ショッピングモールに足を踏み入れていた。
「デートの練習なんだからさ、とりあえずそれっぽいことしよ?」
「それっぽいこと」の定義が、ボクのデータベースには存在しない。
ショッピングモールは物を買う場所だろう。なぜここに?
「具体的には何をする?」
「まずは、デート用の服を買おうよ。玲ちゃん、いつも制服だから、デートしてる気分になれないでしょ?」
嫌な予感しかしない。
黒瀬は結局、ボクを着せ替え人形にして遊ぶ気だ。
その不安を無視して、黒瀬は迷いなくボクの手首を引き、フロアの一角にあるアパレルショップへ連れ込んだ。
店に入ると、網膜を刺すような色とりどりの布地と過剰な装飾、鼻の奥にへばりつくような甘い香水と柔軟剤の匂いが押し寄せてきた。
そこには、ボクにはどうにも合わない可愛い服しかなかった。
「ここは却下だ」
「却下しませーん」
拒否権は、物理的な力によって容易く粉砕された。
黒瀬はボクの腕を引っ張って店の中へ進む。
その手を振り切れない。
こいつ、思ったより力が強い。
「玲ちゃん、ベースの素材はめっちゃいいんだからさぁ。もっと活かさないと」
「い~や~だ!」
ボクの抗議などBGM程度にしか聞いていない黒瀬は、ハンターのような目で店内の服を物色し始めた。
「これとか、絶対似合うって!」
「着ない」
「着るの」
「……なら、一着だけだ。一着だけ着たら、今日の練習メニューはボクが決める」
「交渉成立。じゃ、玲ちゃんを世界一かわいくするね」
店に入ってから数分後、試着室の姿見の前に立っていた。
手には、ボクのクローゼットには絶対に存在しない、黒瀬が選んだ「女の子らしい」服一式がある。
フリルの付いた白い上着と、チェック柄の短いスカート。
着ているところを想像するだけで恥ずかしい。
「……本当にこれを着るのか?」
「やるって言ったらやるの。ほら、早く」
カーテン越しに、容赦ない催促が飛んでくる。
ボクは深くため息をつき、制服のボタンに手をかけた。
着替える。
肌に触れる、慣れない柔らかな布の感触。
着替えた後、鏡を見てみる。
そこに映った自分は、出来の悪いコラージュ画像みたいで、強烈な違和感しかなかった。背が低いせいで、服に着られている感じがする。
デート用の服を選んでいる女の子というより、誰かに飾られた人形みたいだった。
自分の特徴を失った、か弱い存在。
そういう、小さくて怯えたウサギみたいな自分の体が嫌いだ。
だから、少しでも強く見せるために、男っぽい服装と喋り方を選んできた。
「玲ちゃーん? まだー?」
「……今出る」
意を決して、試着室のカーテンを引いた。
一歩外に出た瞬間――。
スマホをいじっていた黒瀬の動きが、ぴたりと止まった。
「……え」
数秒の沈黙。
「……何だ、その反応は。ほら、やっぱり変だろう。ボクにこういうのは似合わないって」
「いや、普通に……」
黒瀬はスマホを構えたまま、ゆっくり近づいてきた。
「めっちゃ可愛いじゃん」
「やめろ!」
写真を撮ろうとする彼女を即座に拒否し、試着室のカーテンを閉めようとする。
「ちょっと待って」
そう言って、彼女はボクの肩へ迷いなく手を伸ばした。
距離が近い。
一歩後ずさるが、背中はすぐ試着室の壁に当たった。
「動かないで」
前髪に指が触れる。
黒瀬の指先が、ボクの耳のすぐ横をかすめる。
彼女の体温と甘い息遣いが、直接肌に当たる距離。
「……近い」
「バランス、調整してんの」
黒瀬の顔から、いつものヘラヘラした笑いが消えていた。
真剣な顔で、ボクの前髪や襟元を優しく整えていく。
ほんの一瞬だけ、ボクの知っている黒瀬彩とはまったく別人に見えた。
「はい、できた」
ぱっと離れる。
物理的な距離が戻り、圧縮されていた空気が肺に流れ込んできた。
「どう?」
黒瀬に言われ、再び鏡を見る。
髪と服装が整ったせいか、少なくとも幼児には見えなくなった気がする。
それでも、小学生の令嬢くらいだが。
「……よくわからん」
「もったいなー。自分の価値、わかってないっしょ」
黒瀬は明るく笑った。
でも、彼女の指は襟元から離れない。
「……黒瀬?」
「玲ちゃんは本当にかわいいね。こんな服が似合う体で生まれたかったな……」
彼女は知らない顔をしていた。
何かを強く欲しがっているような……。それをボクは少しだけ怖いと感じた。
ボクが一歩下がる。
「あ、写真撮りたいから、そのままでいて」
黒瀬がボクを掴もうとして一歩近づく。
その足が、カーテンの裾に引っかかった。
「うわっ」
短い悲鳴。
黒瀬がつまずく。
バランスを崩した彼女の身体が、スローモーションのようにこちらへ倒れ込んでくる。支えようとしたが、軽くてひ弱なボクの体では受け止めきれず、一緒に倒れてしまった。
「……っ」
視界が大きく揺れ、背中が試着室の壁に叩きつけられる。
次の瞬間。
ボクと彼女の距離が、ゼロになった。
黒瀬の身体が、完全にボクの上に重なる。
胸元が押しつけられ、呼吸のたびに布が擦れる。
顔が近い。
鼻先が触れそうな距離で、彼女の少し早い呼吸が唇を撫でた。
「……近い」
思考を挟むより先に、アラートのように心臓が脈を打つ。
黒瀬は目を丸くして一瞬固まり――。
「……あ、これ、ヤバいやつ?」
なぜか、楽しそうに笑った。
「笑うな。どけ」
「いや、だって、玲ちゃん顔真っ赤だよ? 面白いじゃん」
「違う。これは強い衝撃による血流の過度な活性化だ」
ボクは必死に論理の盾で防御する。
だが、完全に密着したこの距離と、伝わってくる異常な熱量は、どんな理屈でも否定できなかった。
その瞬間、視野の向こうに白川の姿が見えた。
彼女は黒瀬ではなく、ボクを見ていた。
それから、ほんの少し遅れて、床に倒れたボクたちを見下ろした。
「服、似合ってるね」
白川はまずそう言って、言葉を続けた。
「それで、何してるの?」
ひどく静かな声が降ってくる。
試着室の前の空気が、一瞬で絶対零度に凍りついた。
ボクは生存本能に従い、状況説明を開始した。
「転倒による、偶発的な接触だ」
白川の視線が、ボクから黒瀬へとゆっくり横滑りした。
「……そうなんだ」
声は優しい。
だが、そこには生命活動の温度が欠落していた。
黒瀬は白川を見た。
ほんの一瞬、彼女の笑顔が薄くなる。
たぶん、何かを感じ取った。
それでも黒瀬は、ボクの上から離れない。
まるで、ボクは自分のものだと主張するように。
「……ごめん。でも、事故だから。ね、玲ちゃん?」
「いいから、早く退いて」
ボクは黒瀬の両肩を掴み、物理的に押し離す。
強すぎず、弱すぎず。
彼女を突き飛ばしたと判定されず、即座に距離を空けるための最適な力で。
距離が空いて、肺に冷たい空気が戻った。
白川は、ボクたちのやり取りを、無機質な監視カメラみたいに数秒間見つめていた。
そして――。
「……近かったけど、キスした?」
判定のための質問だ。
ボクは一瞬だけ目を閉じ、脳内リソースのすべてを回答生成に回す。
もし「はじめて」の境界がキスにあるなら、かなり危ない。
さっき、一瞬だけ黒瀬の唇とボクの唇が触れたかもしれない。
よく覚えていないが、白川にはそう見えた可能性がある。
今回は、難易度が桁違いに高い。
「少なくとも、今のは違う」
ボクは白川の黒い瞳を真っ直ぐに見据え、明確に否定した。
「不可抗力による事故だからな」
線引き。
意思を伴わない接触は、関係性の深度にはカウントされないというルールの提示。
これを白川は受け入れるだろうか。
白川は、ボクをじっと見つめ返した。
その視線が、一秒ごとに何層も沈み込んでいく。
数秒。
息の詰まるような沈黙。
そして――。
「……そっか」
彼女は小さく頷いた。
顔に、いつもの柔らかな笑顔が戻る。
いつも通りの、優しい幼馴染として。
だが、その瞳孔の奥の照準は――確実に、逃げ場のないボクの喉元を捕らえ続けている。
ボクは静かに理解した。
今日のこの接触事故は、かなりアウト寄りだった。
そして今はまだ、ギリギリのところで命拾いしたに過ぎない。
「デートの邪魔してごめんね。私はもう少し服を選んでから帰るから」
白川はそう言って、店の奥へ移動した。
黒瀬が横で、ボクの耳元に顔を寄せる。
「ね、玲ちゃん」
「なんだ」
「今のさ」
黒瀬の顔はいつものようにからかっているような笑顔だ。
「ちょっと、ドキドキした?」
ボクの心臓が、一拍だけ不規則なリズムを刻む。
だが、ボクは即答した。
「してない」
黒瀬は一瞬真面目な顔でじっとボクの瞳の奥を覗き込む。
「……そっか」
その声は、思ったより小さかった。
「残念」
すぐに、いつもの軽い笑顔が戻る。
「じゃあ次は、事故じゃなくてちゃんと練習しよっか」
「何をだ」
「もっと、それっぽいやつ」
やめろ。
ボクは内心で強く念じながら、横に立つ白川美琴の様子を視界の端で確認した。
「……行くぞ、黒瀬」
ボクは短く告げ、これ以上の問題を避けるため早足で歩き出した。
「待ってよ、玲ちゃん!」
黒瀬が早歩きでついてくる。
このままではだめだ。
黒瀬の暴走を制御し、白川の判定基準をもう少し正確に把握する必要がある。
そのためには、白川から逃げるだけではなく、こちらから接触する必要があるかもしれない。
逃げるだけでは、白川のルールはわからない。
わからないままでは、次の接触で死ぬ。
だから、こちらから確かめるしかない。
白川美琴が、どこまでなら壊れないのか。
そして、どこから先で、ボクを殺すのかを。
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