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バレたら終わり。ヤンデレから生き残るために百合を演じる。  作者: SINYA


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第3話 「接触テスト」

 偽装百合の一日目を迎えた。

 授業が始まる前の教室は、いつも通りくだらないくらい平和だった。そんな日常の中に、ボクだけが非日常を迎えている。


 昨日は黒瀬彩との“偽装恋人関係”の交渉は成功した。

 一時的な対処にはなった。

 だが、現在のシステムには致命的なウィークポイントが一つ残っている。


 白川から見て、どこからが「セーフ」で、どこからが「アウト」なのか。

 その境界線が曖昧なのだ。


「おはよ、アタシの玲ちゃん♥」


 思考の流れを叩き割るように、頭上から楽しげな声が降ってきた。

 黒瀬彩。

 校則ぎりぎりに着崩した制服に派手なアクセサリーをつけた彼女が、無駄に高いテンションでボクの視界に割り込んでくる。


「……“アタシの”はやめてくれ」

「えー、昨日自分で言わせといて?」


 言わせてない。

 恋愛の練習相手になってほしいと言っただけだ。


 黒瀬はボクの机の角に体重を預け、長い脚を揺らしながらニヤニヤ笑った。

 シャンプーの甘い香りが教室の匂いを押しのけ、ボクの周囲だけを甘く変えていく。


「で? デートプラン、考えた?」


 昨日はいろいろ起こりすぎて、ほとんど眠れなかった。


 幼馴染がヤンデレだったこと。偽装恋人を作ったこと。そして、その偽装恋人からの色っぽい囁き。

 デートプランまで考える余裕はなかった。


「……すまないが、まだだ。恋人が何をするのかわからない」


 その言葉を聞いた黒瀬が、ボクの右手首をガシッと掴んだ。

 生地越しではない。

 めくれ上がった袖口から露出していた素肌に、彼女の少し高めの体温が直接流れ込んでくる。


 指が、思ったより熱い。

 手首の内側に触れられただけなのに、心拍数の表示が一段階跳ね上がった。


 もちろん、これは驚いたせいで起きた反応だ。

 過度に意識しない方がいい。


「ね、手、繋いでみよっか? そこから始めてみる?」


 確かな恋人同士なら、自然なスキンシップだ。

 でもボクは即座に、しかし乱暴にならないように腕を引き抜いた。


「人前だ」


 照れ隠しを装った合理的な拒絶。

 断じて、本当に照れているわけではない。

 白川の『はじめて』の定義がわからない今、彼女がいる教室では慎重に行動した方がいいと判断しただけだ。


 黒瀬は一瞬きょとんとした後、面白がるように瞳を光らせた。


「へー、意識してんの?」

「違う。周囲の視線を無駄に集める行為を避けたいだけだ」

「ふーん」


 黒瀬は腕を組み、上からボクを品定めするように見下ろした。

 その視線に、一瞬だけ奇妙な粘り気を感じる。


「玲ちゃんさ」

「なんだ」

「アタシとそういうの、嫌?」


 質問のトーンには、いつもより少し不安が混じっていた。


「そういうわけではないが……」


 なんて言えばいいのだろう。

 黒瀬は数秒、ボクの目を見つめていた。


「ふーん。玲ちゃんって、思ったより照れ屋さんなのね」


 黒瀬は何かに納得したように頷く。


「まあいいや。玲ちゃんみたいな子、少しずつ慣らしていくの楽しそうだし」

「語弊のある言い方をするな」

「えー、何を想像したの?」


 いつもの、何を考えているかわからない軽い調子で笑う。


「じゃあ次はさ――」


 黒瀬が指先でボクの顎をぐいっと持ち上げた、その時だった。


「玲」


 背後から名前を呼ばれた。

 振り向く必要すらない。

 脊髄を直接撫で上げられたような、静かで滑らかな声。


 白川美琴。

 ボクは半呼吸置いて表情筋を緩め、ゆっくり振り返る。


「……白川」


 白川は、ボクの斜め後ろの通路に立っていた。

 いつも通りの、無害で可憐な幼馴染の微笑み。

 だが、その漆黒の瞳は――ボクの顔を見ていなかった。


 彼女の視線は、ボクの右手首へ向いていた。

 正確には、たった数秒前まで黒瀬の指が巻きついていた部分に、物理的な重さを持って突き刺さっていた。


「仲いいね、二人」


 穏やかな声。

 教室のノイズの中で、その声だけが不自然なほどクリアに響く。


「まあな」


 ボクは極力、声帯を震わせず短く答えた。

 そこで黒瀬が、まるで油に火を注ぐような無邪気さで口を挟む。


「でしょ? 恋人だしねー」


 やめろ。

 ボクは内心でその口を塞ぎたかったが、表面上は否定しない。

 ここで関係を否定することは、白川のルール上、死に直結する。


「……そう」


 白川は、音もなく一歩近づいた。

 距離が縮まる。

 制服から漂う柔軟剤の清涼な匂いが、酸素を薄くしていくようだった。


「手、繋いでたの?」


 彼女は、明確な事象確認フェーズに入っていた。

 ボクは即答しない。

 意図的に、わずかな間を作る。


 否定すれば、彼女は自分の観察眼とボクの証言の不一致から「嘘を吐かれた」と判断し、不信感を募らせる。

 肯定すれば、交際の深度が進んでいると判定され、リスクが跳ね上がる。


「掴まれただけだ」


 事実ベースの報告。

 手は繋いでいない。だが、接触はあった。

 最も安全な中立ライン。


 白川は一瞬だけ目を細めた。

 そして、ふわりと笑う。


「……そう」


 だが、その笑顔は、普段よりほんの少しだけ色が薄い気がした。

 白川は一歩近づき、ボクの右手首を取った。

 黒瀬の指が触れていた場所を、まるで汚れを確かめるように親指でなぞる。


 黒瀬の熱とは違う。

 低くて、静かで、逃げ道を塞ぐような温度だった。


「人の手を掴むのは、特に変なことではないものね」

「まあ、そうだな」


 ボクが答えても、白川の指はまだ手首を掴んだままだ。


「……そろそろ、離してくれないか」

「うん」


 彼女はようやく手を離した。

 でも、手首の内側には彼女の体温が残っている気がした。


「ねえ、玲」


 再び、名前を呼ばれる。


「なに?」

「恋人って、どこからが恋人だと思う?」


 ……最悪のタイミングでの質問だ。

 ボクは脳細胞をフル回転させる。


 これは恋愛相談ではない。

 白川美琴の中にあるトリガー条件の確認だ。


「……定義は人によるだろう」


 一般論による回避。


「玲はどう?」


 逃がさない。即座の追撃。

 ボクは肺に残っていたわずかな空気を、細く長く吐き出した。


 ここが分水嶺だ。

 ここでボクが設定したラインが、そのまま白川美琴の安全基準になる。


「少なくとも、手を繋いだ程度では決まらない」


 ボーダーラインの引き上げ。

 手を繋ぐ程度の接触は、ボクにとって特別な意味――つまり“初めて”――を持たない。

 そういうルールの明文化だ。

 これが今のボクに打てる、最大の防衛線だった。


 白川は――。

 数秒間、瞬き一つせずにボクの顔を見つめていた。

 そして、


「……そっか。私たちも小さい頃は、よく手を繋いで歩いたもんね」


 白川は、何かを思い出すように微笑んだ。


「じゃあ、そのくらいじゃ、恋人にはならないね」


 小さく、しかしはっきりと頷いた。

 その瞬間、張り詰めていた教室の空気が、ごくわずかに緩むのを感じた。

 セーフ。


 だが――安心するのは早すぎた。


「じゃあさ」


 黒瀬は一瞬だけ、白川の顔を見た。

 顔は笑っているが、目つきは鋭い。

 まるで、何かを測るように。

 それから、わざと明るい声を出した。


「じゃあさ、どこまでしたら恋人らしいと思う?」


 白川の視線が、再び氷のように鋭くなる。

 今、張り合うのはやめろ。

 ボクは心の中で絶叫した。


 せっかく築いた防衛壁を、味方だと思っていた側が崩しに来ている。

 日記のことは黒瀬に言っていない。

 だが、白川がボクたちの関係を気にしていることくらいは感じ取れたはずだ。


「ケースバイケースだ」


 逃げ。

 何も答えていないに等しい。

 だが、必要不可欠な逃げだった。


 白川のルールのラインを知りたい気持ちはある。

 しかし、ここで聞いて黒瀬が実行したらまずい。


「つまんない答え」


 黒瀬はすねたように口を尖らせる。

 一方、白川はボクの手首と顔を交互に、舐めるように見つめていた。


 始業を告げる予鈴が鳴る。

 その音で、白川は席へ戻った。


 席へ戻る前に、黒瀬が隣で小声で囁く。


「ね、玲ちゃん」

「なに?」

「人前では恥ずかしいなら、放課後には存分に楽しもうね」


 そう言い残して、黒瀬は席へ帰った。

 味方だと思っていた黒瀬は、想像以上に時限爆弾かもしれない。

 どうやら、思ったより縄張り意識が強い。

 正直なのは良いところだが、白川の前でもそれを隠さない。


 黒瀬の熱が残った手首に、白川の冷たい体温が上書きされている。

 どちらも、まだ消えない。


 ボクは今、二人の爆弾に挟まれている。

 しかもその導火線は、どうやらボクの身体に結ばれているらしい。


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