第2話 「嘘と偽装」
「教えて。“昨日から付き合ってる”ってどういうこと?」
ボクは、嘘の恋人とマックに来ていた。
店内は油と塩、そして女子高生たちが放つありふれた幸福の匂いで満ちている。でも、ボクの心は幸福とは真逆で、混乱に満ちている。
「え~、覚えてないの? ひど~い!」
まるで、酒の勢いで恋人になった翌日、何も覚えていない相手を責めるような仕草だった。
その反応は困る。
白川美琴の脳内では、ボクは「すでに他人と付き合っている」ことになっている。ルールに従うなら、今の恋人と別れない限り、彼女の殺意や心中願望はトリガーされない。
でも、それは“誤認”の上に成り立った、薄氷の平和だ。
この平和は、黒瀬の言葉がその場のノリで言った冗談だったら、明日にでも壊れかねない。だから、ちゃんと事実を確認しないといけない。
もう少し真面目に頼んでみることにした。
「すまない。本当に付き合うことになっているなら謝る。でも、記憶にないんだ」
「なにそれ! ウケるんだけど! やっぱ玲ちゃん、面白いね。そういう真面目なとこ大好き! でも、傷ついたから教えてあ~げない!」
黒瀬が楽しそうにボクをからかう。悪乗りを始めた彼女を、どう説得すればいいのか。
「……どうしたら教えてくれる?」
黒瀬は少し考えてから、口を開いた。
「玲ちゃんって、名前も顔もかわいいのに、仕草は男っぽいよね。絶対、話し方とか女の子らしくしたらモテるよ」
「急になんの話だ?」
まるで意図が読めない。
「おしゃれに興味ない? ネイルとか化粧とかしてあげるよ。何なら可愛い服も買ってあげる!」
「興味ない。ボクがそんなことをしたら、大人のマネをする子どもみたいになる」
ちなみに、ボクの身長は百五十センチくらいで、胸も小さい。女の子っぽくしたら、小学生と区別がつかなくなる。
「それもそれでいいじゃん。もったいなさすぎる!」
黒瀬は「なんで嫌なんだよ~」と言いながら、スライムが溶けたみたいにテーブルへ倒れ込んだ。
本当に感情豊かで素直な子だ。
ボクはこうなれない。少し羨ましくも思う。
待て。
黒瀬が休み時間に友達といる時の記憶が浮かんだ。
彼女は同じギャル趣味の友達の髪型をいじったり、隠して持ってきたアクセサリーをつけて自撮りしたりしていた。この子はそういうのが好きな子だ。
「情報提供の条件はつまり、ボクが着せ替え人形になって、お前の趣味に付き合うことか?」
「そう言うと人聞き悪いじゃん。単純な話だよ。玲ちゃんもギャルにならない? 一緒におしゃれを楽しもうよ」
悩ましい。
情報は必要だが、さすがにギャルにはなれそうにない。
他に交渉の手はないか。
「ボクは恋人関係を維持したいと思っている。……デートとして、一時的に趣味に付き合うことはできなくもない」
これで通ってくれ、と願いながら妥協案を出した。
黒瀬は「ふーん」と鼻を鳴らし、何かを考える。
「恋人関係を維持か……。玲ちゃんは、もしかしてアタシのことが好きなの?」
うん、好きだ。
そう言えば、関係を維持できるかもしれない。
だが、黒瀬が「付き合ってるし」と言ったのは、その場の冗談だった可能性もある。
それをボクが本気にしていると思われれば、気持ち悪がられて、むしろ関係が悪化するかもしれない。
「いや、友達としては好きだが、恋愛感情は持ってない」
「じゃ、なんで恋人関係とか言ってるの?」
なんと答えれば合理的に見えて、怪しまれないだろうか。
数秒間、演算してから返答する。
「黒瀬は男にモテそうだし……経験も豊富そうだから、恋愛の先生兼練習相手になってくれないか?」
黒瀬のにこにこした笑顔が固まった。
さっきまでころころ変わっていた表情が止まる。
ストローの先を噛んだまま、視線だけを落とした。
「はは……玲ちゃんにも、アタシって……男経験多そうに見えてるの?」
彼女は少し悲しげに言った。
なぜ悲しむ?
モテるのは、いいことではないのか。
とにかく、慌てて謝る。
「気に障ったならごめん。黒瀬はきれいで、性格も明るくて、魅力的だから。ボクが異性だったら付き合いたいと思うはずだし、みんなもそう思うんじゃないかと思っただけだ」
黒瀬がボクの目を見つめる。
沈黙。
何かを考えているようだ。
もっと怒らせてしまったか?
「へー、異性だったらね。玲ちゃん、アタシを魅力的だと思ってたんだ。ちょっと嬉しいかも」
黒瀬の目に、だんだん光が戻る。
彼女は目を細め、笑みを浮かべた。
「で、なにするの? 恋愛の練習って。デートとか?」
「そうだな……」
そこまでは考えていなかった。
恋人が何をするのかは、ボクの方が知りたいくらいだ。
「じゃ、明日まで考えておいてよ。これ、宿題!」
その宿題を引き受ける条件で、黒瀬は「ボクたちが昨日から付き合っている」ことになった経緯を説明してくれた。
昨日の学校のエントランスで、黒瀬がボクに話しかけてきた。
歩く途中、陽キャと話せる話題がないことに焦ったボクは、通りすがりの学生カップルを見て、「ああ、みんな青春してるのに、ボクは全然男にモテないな」とこぼした。
すると黒瀬が「じゃ、アタシと付き合う?」と言った。
そして、そのままボクの手を引っ張ったりしながら、恋人ごっこを半ば強引に始めたらしい。
そのごっこ遊びの続きが、神がかったタイミングでボクを助けたわけだ。
同時に、白川の爆発スイッチを押す事件でもあったのだろう。
説明を終えた黒瀬が立ち上がった。
トイレにでも行くのかと思ったら、こちらへ近づき、口をボクの耳元に寄せる。
「もともと恋人役をやめるつもりはなかったよ。玲ちゃんのこと、前からもっと知りたいと思ってたし。でも、もう一度誘ってくれてありがとう。デート、楽しみにしてるね」
その声は濃密で、少しだけ色っぽかった。
黒瀬はボクの頬に軽くキスして、少し離れる。
「じゃ、また明日。“アタシの”玲ちゃん♥」
頬に残った熱い感触に、無意識に手を当てた。
*
マックを出て、黒瀬とは駅前で別れた。
一人になり、隣の空白を感じていたその時、聞き慣れた声がした。
「……玲? 奇遇ね」
そこには白川がいた。
いつもの白い花みたいな笑顔で、ボクに話しかけてくる。
「本当に奇遇だな。家に帰ったと思ってた」
「ちょっと買い物に行こうと思って」
それは嘘だ。
彼女は買い物袋を持っていないし、学校の制服のままだ。
間違いなく、ボクたちが店に入った時から待っていた。
彼女は「観察日記」をつけている。
店の中にも入っていただろうか。黒瀬との会話を聞かれていたなら、ボクはチェックメイトだ。
「そうか」
ボクは平然を装う。
そうしながら、少し悲しい気分になった。
白川とは、この前まで本当に親しい友だちだった。
何もかもが冗談に思える。
あのノートも、ただの小説だった可能性をまだ期待してしまう。
「黒瀬さんとのデート、楽しかった?」
「まあな」
誤解であることを期待しながら、ボクは嘘を続けている。
なんの準備のなしに、直接真実を確認する勇気はない。
同時に、警察や先生に頼ることにも躊躇している。
彼女はボクの一番の親友だ。
あのノートは、白川がボクに見せたものではないし、殺害予告を受けたわけでもない。
ただ、自分の感情をまとめたものだ。
それを警察や先生に見せた瞬間、白川は社会的に苦しむことになる。大切な幼馴染にそんなことはできない。
取り返しがつかないことをする前に、少なくとも一度は、彼女の本心を確かめたい。
なぜボクに異常なほど執着しているのか。
なぜ、そうなってしまったのか。
理由を知ってから、話し合いで解決したい。
「女の子同士で付き合うなんて意外だね。玲はもっと普通だと思ってた」
「まあ、ボクは恋愛とかよくわからないし。とにかくやってみないと、わからないままだと思っただけだ」
白川はボクの答えに「なにそれ」と言って、くすくす笑った。
「……ねえ、玲」
「なに?」
「本当に、付き合ってるの?」
白川は視線を落とし、自分の足元を見た。
「……そういうことになっている」
曖昧に肯定する。
そして、演技を続けた。
「女の子同士って……どう思う? 白川は気持ち悪いと思う派?」
「別に。当事者同士が好きならいいんじゃないかな。愛は個人のものでしょう? 世の中がなんて言っても、二人の大切なものを壊してはいけないと思う」
そこで、ようやく少しだけ理解した。創作物のヤンデレみたいに、恋敵に直接被害を被害を与えない理由を。
白川は、壊したくないのだ。
自分の愛を誰かに壊されたくないから、他人の愛もすぐには壊さない。
「そっか。理解してくれてありがとう」
小さく呟き、数歩進む。そしたら、白川が心配そうな顔で、ボクを見た。
「……私と歩いてたら、怒られない?」
白川の質問の意図がわからなかった。
日記を見たのがバレたのか?
それにしては、言い方がおかしい。
「なぜ怒ると思った?」
「ほら、浮気していると誤解されたら嫌でしょう? 玲は女の子と付き合ってるし、私も女だし」
そういうことか。
「黒瀬はそういう性格じゃないと思う」
「じゃあ……」
白川は少しだけこちらを見た。
いつの間にかオレンジ色になった街灯が、彼女の顔を悲しげに照らしている。
「私、これからも話しかけていい?」
白川が不安そうに言う。
崩れそうで、儚くて、消えてしまいそうな存在に見えた。
「それはもちろん。今まで通りでいい。白川は大切な友達だから」
白川の目が大きくなる。
そして——。
「うん!」
白川は嬉しそうに、弾むような足取りで前へ歩いていった。
ボクの言葉に嘘はない。
彼女とは、これからどうなるのだろうか。
そう思った時、彼女が振り返った。
その瞳は、オレンジ色の街灯に照らされ、怪しげに光っていた。
ボクを逃がさないと決めた猛獣のように。
「玲。これからもよろしくね」
——白川美琴の観察は、まだ終わっていない。




