第1話 「観察日記」
その日の放課後、女子校の教室は退屈なほど平和だった。
ただ一つ、致命的なエラーを除けば。
夕焼けに染まった無人の教室で、ボクは他人のカバンを勝手に開けた。
理由は単純だ。提出期限の迫った数学の宿題ノートを借りるため。
他人とはいっても、幼馴染だ。よく物の貸し借りはしている。だが、何も言わずにカバンを開けるのは初めてだった。
幼馴染の名前は白川美琴。
成績優秀で、誰にでも穏やかに微笑むおしとやかな少女。すれ違う生徒の多くが振り返るほどの容姿を持ちながら、決して前に出ようとはしない。典型的な大和撫子。
少なくとも、ボクのデータベースでは、彼女はそう定義されていた。
だから、彼女のカバンを開けることに倫理的な罪悪感はあっても、身の危険を知らせるアラートは鳴らなかった。
この時までは。
「……なんだこれ」
整然と並んだ教科書とノートの中に、明らかに異質な一冊が混ざっていた。
黒い表紙。
無地。
タイトルすらない。
そこだけ光を吸い込んでいるような異物感。直感は、それに触れるべきではないと告げていた。
だが、ボクは開いた。
理由は簡単だ。危険は知らないまま放置するより、確認した方が安全だからだ。
『四月三日 晴れ』
日記だった。
文字は丸く、丁寧だった。いつも黒板を写す時の彼女の字、そのもの。だが、そこに書かれていたのは授業の板書ではなく、ボクの生態観察記録だった。
『今日も玲を見た。電車で吊り革に掴まる時、少しだけ眉を寄せる癖がある』
『人と話す時、視線が少しだけ右上に逸れる。思考している時の癖。可愛い』
『やっぱり好き』
ページをめくる手が止まった。
心拍数が上がる。指先からゆっくり温度が引いていくのがわかる。
閉じたい衝動に駆られ、一度、表紙を閉じた。
しかし五秒後、ボクは再び日記を開いていた。
これは単なる感情の吐露ではない。リスク情報だ。目を逸らす方が危険だ。
ボクはつばを飲んでから、次のページをめくる。
『玲は、私が話しかけると、少し安心した顔をする。人と話すのは苦手だけど、私には心を許しているのがわかる』
『その顔を見る時は、今日まで生きていてよかったと思う。同時に、この関係がいつか壊れてしまうのではないかと怖くなる。彼女をいつまでも私だけのモノにできればいいのに』
行間から、ねっとりとした執着が這い出してくるようだった。握っているページに少し汗が滲んできた。
『今日、玲が誰かと一緒にいるのを見た』
『女の子だった』
『手を繋いでいた。楽しそうだった。恋人に見えた』
ボクは記憶のログを検索した。
該当なし。
ボクに恋人はいない。そんな相手と手を繋いだ記憶もない。
つまり――誤認。
誰かとすれ違った時の遠近感のいたずらか、ただの見間違いか。いずれにせよ、彼女の中では「ボクに親しい人間がいる」という偽の事実が形成されていた。
『でも、大丈夫』
『あの子とは、そのうち終わる』
そこから急に筆圧が強くなっていた。紙の裏がぼこぼこに波打っている。
『その光景を見て、彼女も女同士でいいんだって知った』
『ずっと隠していた私の感情が、喉の奥から爆発するのを感じた』
ページをめくる速度が、無意識に上がる。
『玲が今の彼女と別れたら、告白する』
『それまでは待つ』
『でも』
そこで文章は一度途切れていた。
インクの染みが、彼女が長くペンを止めていたことを示している。
そして、次の行。
『玲の初めては、私のもの』
ボクは呼吸を止めた。
『もし、それを他人に奪われそうになったら』
『殺してでも、私のものにする』
さらに次。
『玲に嫌われたら』
『彼女を殺して、私も死ぬ』
『玲といない未来なんて、訪れない方がいい』
……なるほど。
「詰んだな」
夕日の差し込む無人の教室で、ボクはそう結論を出した。
恐怖で手が震えるのを我慢して、論理がパズルを組み上げていく。
これは単純なラブストーリーではない。起爆装置の設計図だ。
白川美琴は、ボクに対して異常なレベルの執着を持っている。
そして、彼女の中には三つの行動ルールがある。
一つ。ボクに嫌われたと“確信”した場合、心中。
二つ。ボクの初めてを他人に奪われたと“確信”した場合、殺害。
三つ。現在の“恋人”と別れたら、告白。
致命的なのは三つ目だ。
ボクは誰とも付き合っていない。
つまり、この誤認はいずれ崩れる。
「別れた」と判定されても、「最初からいなかった」とバレても、白川の告白イベントは発生する。
断れば心中。受け入れても、ボクが彼女の重い感情に対応できるとは思えない。恋愛経験もないし、同性との付き合いを考えたこともないボクに、このレベルの思い流石に手に余る。何よりボクは他人と感情的交流が非常に苦手な性格だ。
きっと彼女との恋愛関係は遠からず破綻する。つまり、ボクは死ぬ。
結論は一つ。
解決策が見つかるまで、この「架空の恋人がいる」という誤認を、限界まで維持し続ける必要がある。
でも、どうやって?
一人で恋人がいるふりなんてできるのか。ずっと一人でいたら、さすがに気づかれるだろう。
その時だった。
「玲、なにしてるの?」
振り返るより先に、制服から漂う柔軟剤の清涼な香りが鼻をかすめた。
ボクは反射的にノートを閉じ、背中に隠す。
白川美琴が、そこにいた。
窓からの逆光を背に、彼女は笑っていた。穏やかで、優しくて、まるで純真無垢な天使のように。
長い黒髪と整った顔立ちは淑やかで、夜空を連想させる。
何も知らなければ、誰からも愛される完璧な幼馴染の顔だった。
「……宿題を借りようと思って」
「そっか。昨日は風邪で休んだもんね。体には気をつけてね」
白川がにっこり笑う。
その配慮に満ちた仕草が、スローモーションみたいに網膜へ張り付く。
普段なら気づかなかっただろう。
その瞳の奥では、鋭い眼光でボクのすべてを観察していることに。
「宿題ノートは見つかった?」
「いや、まだだ。探そうとしていたところに来たからな」
ボクは即答した。
声帯の震えを制御し、視線を彼女の鼻筋に固定する。ボクの緊張がバレないように。目を逸らせば、怪しまれる。
「じゃあ、私が探してあげるよ」
「いや、いい」
再び即答した。
距離を詰めさせてはいけない。背中に黒い観察日記を隠していると気づかれる。
「そう? 宿題ノートを借りに来たんじゃないの?」
彼女は「変なの」と言いたげに首を傾げた。
同時に、白川の視線がボクの足元から顔へと、舐めるように這い上がってくる。その視線が当たる場所に、ビリビリと電流が走った。
「それより、玲。昨日、手を繋いで一緒に歩いていた人は誰?」
来た。
どう答えれば、起爆装置に触れずに逃げられる?
情報が足りない。少し探りを入れるしかない。
「誰とも手を繋いだ記憶はないけど……」
「ほんと?」
視線が絡みつく。柔らかいのに、絶対に逃がそうとしない粘着力があった。
ここで完全否定を重ねるのは、彼女の“誤認”を壊すリスクがある。防壁を壊さないよう、演技しなければならない。
「……多分、クラスメイトだ」
「女の子と繋いでいたの?」
誰とも手を繋いだ記憶がないので、一瞬返答に詰まる。
だが、日記に手がかりがあった。
女同士でいいんだ、と書いてあった。
「そうだ」
ボクは肯定した。
白川は一瞬だけ目を細める。だがすぐに、花が咲くように笑った。
「そっか」
何かに納得したように頷く。
口角は上がっている。けれど、眉は動いていない。嬉しそうにも、怒っているようにも見えた。
……まだ大丈夫だ。
ギリギリのところで、首の皮一枚繋がっている。
でも質問が続けばどうなるかわからない。その時だった。
「やっほー、玲ちゃん!」
張り詰めた水面を蹴り破るように、聞き覚えのある軽快な声が教室に響いた。
黒瀬彩。
明るい性格のギャルで、クラスの中心にいるタイプの陽キャ。友達も多い人気者だ。ボクとは違う世界の住人。
誰とでも距離が近く、冗談みたいに人の心の防壁を飛び越えてくる。
派手なカーディガンを羽織った彼女が、軽い足取りで近づいてくる。
「何してんの?」
「玲と雑談していただけ」
白川の視線が黒瀬に向いた隙に、ボクは黒い日記をカバンへ戻した。
「アタシも混ぜてよ」
黒瀬は笑いながら、ボクの隣に立った。そして、ごく自然にボクの腕へ絡みついてきた。距離が近い。近すぎる。
ボクは即座に判断した。
このイレギュラーは利用できる。彼女を昨日一緒に帰ったクラスメイトに見せれば、時間稼ぎができるはずだ。
「黒瀬、今日帰りにどこかに寄ろうか?」
目の前で、白川の表情が微妙に固まった。
普段なら、その変化には気づかず、いつもの笑顔だと思っただろう。だが今は、彼女の心の中を知っている。
けれど同時に――これは最適解でもあった。
これなら、誤認を維持できる。
ボクは一瞬だけ思考し、絡んできた腕を放置した。
「いいね!」
黒瀬は嬉しそうに肯定する。
その瞬間、白川の視線の温度が下がった。
黒目の中の光が、すっと消える。
「……二人で行くの?」
白川の声は、さっきまでと同じ高さだった。
同じ高さのまま、感情だけが完全に削ぎ落とされていた。
黒瀬は何も知らずに笑う。
「うん、だってアタシたち――」
一拍。
黒瀬は一瞬ボクに視線を向けた後、それから白川に言い放った。
「付き合ってるし?」
沈黙。
夕日の差し込む教室で、時間だけが凍りついた。
ボクは心の中で猛烈に計算を回した。
これはどういうことだ?
単に時間稼ぎをするつもりだった。なのに、別のコントロール範囲外のことが起きた。
白川は――
ゆっくりと、本当にゆっくりと、再び微笑んだ。
「……そっか」
彼女の視線が当たる胸のあたりが、まだ刺されてもいないのに、血を流しているみたいに熱い。
「わぁ、本当? いつから付き合ってたの? 知らなかった~」
「最近だよ。昨日から付き合うことにしたんだよね」
白川は一瞬黙り、やがて口を開いた。
「じゃあ、まだ大丈夫だね」
その声は、ひどく優しかった。
まるで手のかかる子どもを愛しむ母親のように。
でも、何が「まだ大丈夫」なんだ?
ボクが推測した“まだ”の意味はこうだ。
「初めて」を奪われるには、まだ日が浅い。
そして、今の恋人と別れるまでは、彼女はボクを殺さない。無理心中も図らない。
つまり、ボクはまだ死なない。
だが――それはあくまで、執行猶予に過ぎない。
ボクは小さく息を吐いた。
隣で黒瀬が無邪気に笑う。
「それより、どこ行くか話そうよ」
「ああ。そうだね。じゃ、マックで何か食べようか」
どうなっているのかはわからないが、とりあえず話を合わせる。
一応、生き残った。
けれど、黒瀬が言う「昨日から付き合い始めた」とはどういうことだ?
胃が痛い。
まずは黒瀬の真意を確認しつつ、白川との距離感を調整する計画を立てないといけない。同時に黒瀬との演技に夢中になって、白川が「嫌われた」と思ったら、その時点で終わりだ。
そして、最終的には、大切な幼馴染である白川がどうして、殺意に至るまでの感情の歪みを持つようになったのか調べて、関係を正常に戻さないといけない。
これは青春の恋愛ごっこではない。サバイバルだ。
そしてどうやら、無人島より過酷な混沌の中に放り出されたようだ。




