第26話「文化祭 ③」
いつものように朝起きて、身だしなみを整える。
制服に着替え、玄関を出る。
一日の始まりはいつもと同じなのに、今日の終着点だけが違っていた。
今日の夜、キャンプファイヤーのフィナーレまでに、白川の告白に答えなければならない。
学校の校門は、誰でも歓迎すると言っているかのように、両手を広げていた。
学生、先生、その家族、遊びに来た人たち。
大勢の人が、学校の中へ入っていく。
ボクも学校に入ろうとした。
だが、足が重い。
いや、動かない。
校門の前で固まってしまった。
学校に入れば、選択しなければならない。
白川の告白を受け入れるか。
拒絶するか。
問題を先延ばしにするか。
相手を傷つけるか。
震えていた足が勝手に動き、後ろを向いた。
我慢できない衝動に押されるように、ボクは逃げた。
気づけば、学校と家の間にある小さな公園に着いていた。
まずはベンチに座って、落ち着いた方がよさそうだ。
公園の外側にあるベンチに腰を下ろし、公園を見渡す。
公園には、一人の子どもがブランコに乗って遊んでいた。
それ以外に人はいない。
ブランコに乗っているのは、七歳くらいの女の子だった。
どうしてあんな子どもが、親も友達もいない公園で一人でいるのか気になったが、近所の子なんだろうと考えて片づけた。
それより、ボクはボクのことで精一杯だ。
ため息が出る。
今まで、一番いい方法を考えてやってきたはずなのに、どうしてこうなってしまったんだろう。
何もかも、得たい結果の正反対だ。
「夕方には学校に行かないとな」
白川と約束した時間までに行かないと、一番悪い方向で彼女を刺激することになる。
時間が来たら、行くしかない。
どうにか回避する方法がないか考えていると、喉が渇いてきた。
公園にある自販機へ行き、お茶を買う。
飲み物を取り出して、口をつけた。
「お姉さん、私も一口ちょうだい」
声が聞こえて視線を向けると、さっきブランコで一人遊んでいた女の子がいた。
「え……飲みたいもの、ある?」
口をつけたものを渡すのは抵抗があったため、一つ買ってあげることにした。
女の子は、自販機を見ながら悩む。
「何がいいのかわかんない」
子どもだし、お茶よりは甘いものの方が好きそうだ。
それに、喉が渇いているようだから、スポーツドリンクの方がいいか。
適当にスポーツドリンクを買って、女の子に渡す。
「ありがとう、お姉さん!」
女の子は嬉しそうに飲み始めた。
「喉が渇いたなら、家に帰った方がいいんじゃないか?」
自然に浮かんだ疑問を口にする。
どうしてこの子は、公園に一人でいるんだ?
「家……遠いから」
近所の子ではないのか。
「じゃあ、どうやってここまで来た?」
「お父さんの車に乗って、お姉ちゃんの学校に来たの」
文化祭に来た家族連れの子なのか。
たぶん、家族とはぐれたのだろう。
「そうか。一緒に学校に行って、家族を探そうか」
ボクの言葉に、女の子は首を横に何度も振った。
かなり嫌そうだった。
「一人じゃ帰れないだろう。どうして嫌なんだ?」
「今帰ったら、怒られる……」
女の子は視線を下に向け、もじもじしている。
「怒られるのは嫌だろうけど、ここにいても状況は良くならないぞ」
「怒られるの……いや!」
「でも、ずっとここに住むわけにはいかないだろう?」
女の子は答えず、ブランコの鎖を握りしめた。
次の瞬間、ボクの横をすり抜けて逃げ出した。
その後を追いかける。
その後ろ姿が、校門から逃げた自分の姿と一瞬重なった。
足が重くなる。
そして、立ち止まってしまった。
「……おい、逃げても解決にはならないだろう」
もはや、その子に向けた言葉ではなかった。
自分に言い聞かせるための言葉になっていた。
「……何もしないことも、選んでいるのと同じだ」
「お姉さん?」
変わった雰囲気を感じ取ったのか、女の子はボクを見つめる。
怒られるのが怖いから。
傷つけるのが怖いから。
だからボクは、選ばないまま、ここにいる。
ボクは選んでいないつもりだった。
でも実際には、白川を不安にさせる選択をし、黒瀬を傷つける選択をし、自分だけ安全圏にいるふりをしていた。
黒瀬とのキスをノーカンと言って、なかったことにした。
白川のノートを見て、直接話さずに恋人がいるふりをした。
その結果、両方を傷つけることになった。
ボクはバカだ。
「なあ。怒られるかもしれないけど、家族とちゃんと話してみないか? 家族は君をいじめようとしているわけじゃないから」
女の子はしばらく悩んだ後、「うん」と答えた。
彼女と手を繋いで、学校に向かう。
校門の前で、また足が重くなるのを感じた。
これから選択しなければならない。
その後の責任も負わなければならない。
誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりするのが怖い。
でも、逃げたからといって、誰も傷つかないわけではない。
逃げたつもりで、他人と自分の傷から目を背けているだけだ。
白川の告白から、もう逃げない。
受け入れるにしても、断るにしても、曖昧な態度で逃げるだけの生き方は、もうやめる。
ボクは女の子と一緒に学校に入った。
*
女の子を迷子センターに案内し、そこで焦りながら待っていた親に会わせた。
確かに親は怒った。
でも、最後にはお互いを抱きしめ合っていた。
円満に解決だ。
ボクの問題も、こんなハッピーエンドになれるだろうか。
ボクは教室に向かった。
これからは、白川とちゃんと話す。
そう心に決めて教室に入った。
教室では昨日と同じく、メイド喫茶をやっている。
働いている生徒とお客さんで賑やかだ。
そこで白川を探したが、姿が見当たらなかった。
周りのクラスメイトに、白川がどこにいるのかを聞く。
「え? 花村さんが学校に来ないから、白川さんが見に行くって言って早退したけど、会わなかったの?」
それは予想外だった。
嫌な予感がする。
白川が戻ってくるまで待つべきだろうか。
それとも、会いに行くべきだろうか。
それと、気になることがもう一つあった。
「黒瀬は?」
「黒瀬さんも早退したよ。白川さんが出てすぐだったから、同じく花村さんに会いに行ったと思ったけど」
以前、ボクが風邪を引いて倒れた時のことを思い出す。
あの時、二人はお見舞いに来てくれた。
今回も風邪だと思って、お見舞いに来てくれているのだろうか。
今の時間なら、二人ともボクが家にいないことに気づいた頃だろう。
白川にはすぐ会いに行くとして、黒瀬には連絡しておこう。
余計な心配はさせたくない。
スマホを取り出し、メッセンジャーアプリでテキストを送信する。
『黒瀬、もしかしてボクの家に来ている? ボクは遅刻しただけだから、心配しなくていいよ。今は学校にいる』
『ああ、よかった。無事なんだね』
無事?
風邪を引いたくらいで、無事という言葉を使うのは大げさな気がするが……。
『元気。風邪は引いてないから』
『そうじゃなくて。アタシ、見たんだ。白川さんが変なノートを持ってるの。玲ちゃんのことを記録してた』
メッセージと一緒に、白川の黒いノートの写真が送られてきた。
『見たんだ……。ボクも知っている』
『そうだったんだ。どうする? 警察に連絡する?』
それが一番常識的な対応かもしれない。
でも、ボクは……。
『待って。白川とちゃんと話してみたい。彼女が何を考えているのか、ボクは一度も正面から聞いていない。それをしないまま、警察に渡すのは嫌なんだ。……まず、できることはしてみたい』
『……気持ちはわからなくもないけど。それは危険だと思うよ』
『頼む』
『わかったよ。じゃ、アタシも一緒に行こうか?』
『ありがとう。でも、一人で行ったほうが白川とちゃんと話せると思う。黒瀬が側にいると変に刺激するかもしれない。何かあったら連絡するから』
『わかった。白川の家の近くで待つよ』
保険として、黒瀬に白川の家の住所を送る。
さらにメッセージ欄に『助けて』と書き、送信ボタンだけ押さずに残しておく。
逃げないことと、無策で死にに行くことは違う。
ボクは白川と話す。
でも、白川に殺されるつもりはない。
そのために、できる準備はしておく。
教室を出て、白川の家に向かった。
白川の家に着き、チャイムを押す。
『どなたですか?』
インターホンから白川の声がした。
「ボク、花村だ。話がしたいんだけど、今、大丈夫?」
しばらくして、玄関のドアが開いた。
白川の顔が見える。
笑みを浮かべているが、目元が赤い。
もしかして、泣いていた?
「来てくれたんだ。さあ、上がって」
白川に誘われ、中に入る。
「お邪魔します」
中は電気がついておらず、薄暗かった。
綺麗に整理されているが、そのせいか、人が住んでいない廃屋のようにも見える。
なんとなく不気味だった。
だが、白川が電気をつけると、その不気味さは少し薄れた。
綺麗すぎてモデルハウス感はあるが、真面目な白川の性格を思うと、普段からきちんと整理整頓しているのだろう。
ボクたちはリビングのテーブルへ移動し、椅子に座った。
「玲、今日はどうして学校に来なかったの? 家にもいなかったし」
家に来たんだな、と気づく。
そして、「学校に行く途中でお腹が痛くなってさ……」と無難な嘘を口にしそうになったが、考え直す。
逃げずに真剣に話し合うと決めたばかりだ。
相手をちゃんと見て、誠実に話そう。
「正直……怖かったんだ」
「なぜ?」
また適当な嘘が頭をよぎる。
その衝動を抑えて、会話を続ける。
「選択するのが怖い。その結果が怖い。選択で誰かを傷つけるのが怖い」
「……それは、私の告白を断ろうとしていると思っていいかな」
驚いて、体が前のめりになる。
「待って。それだけじゃない。早とちりするな」
「そうなんだ。否定はしないんだね」
言葉を続けようと口を開いたが、白川は耳を塞いでしまった。
「もう聞きたくない!」
ボクは立ち上がり、白川の近くへ行く。
耳を塞いだ彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。
白川の指から、少しずつ力が抜けていく。
「正直に、心から思っていることを伝えたいんだ。聞いてくれ」
「……そう」
白川は耳を塞いでいた手を、だらりと下ろす。
虚ろな瞳で、何もないテーブルを見つめている。
すべてを諦めているような、何かを考えているような沈黙が流れた。
「それなら、玲。私の部屋に来てくれる?」
その声は、さっきまでより落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
何かのスイッチが、静かに切り替わったようだった。
「あ、ああ……」
わざわざ部屋に移動する必要があるのだろうか。
まあ、リビングよりは自分の部屋の方が落ち着くのかもしれない。
ここは彼女の要求通りにすることにした。
「ここが私の部屋だよ」
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