第23話「君のいない世界 下」
校庭の人けの少ない場所まで連れてこられて、ようやく口を塞いでいた手を離してくれた。
涼しい風が吹く、緑の木の下。
木漏れ日が降り注いでいる。
黒瀬は気づいているだろうか。
そこは、前に黒瀬と弁当を食べたベンチの前だった。
「さっきのは何? どういうこと?」
「黒瀬はかわいい。嘘はない」
黒瀬はよろめくようにベンチに座った。
熱を冷ますかのように、左手で顔を隠している。
「頭が痛い……」
ボクも黒瀬の隣に、恐る恐る腰を下ろす。
「黒瀬はかわいい」
「それはもういいのよ。話したいことがあるんでしょう?」
どう切り出すか迷う。
ただ謝れば、この前みたいに「聞きたくない!」と拒否されるかもしれない。
「この前のことは、もう怒ってないよ。いや、怒ってはいるけど……。なんて言えばいいのかな」
どっちだ?
彼女が何を言いたいのか推測しようとしたが、よくわからなかった。
「とにかく、もう謝らなくていいから」
「では、前みたいな関係に戻れる?」
沈黙。
黒瀬は唇を噛むようにして、しばらく黙った。
「……それは、ないよ」
黒瀬は重い声でそう答えた。
「まだ怒っているじゃないか」
「違うよ」
何が違うんだ。
意味がわからない。
無言の中、黒瀬がまた逃げるかもしれないと不安になった。
力なく垂れた彼女の右手を掴む。
黒瀬の手がびくっと震えた。
そして手に力が入り、ボクの手を握り返そうとした。
だが、すぐに力を抜く。
「もうアタシに構わないで」
「それはいやだ」
黒瀬は何か言い返したそうだったが、言葉にならないようで、口をぱくぱくさせている。
やがて、小さくため息をついてから声を発した。
「……玲ちゃんには白川さんがいるでしょう?」
白川?
なぜ今、彼女の名前が出る?
黒瀬の態度がよそよそしくなったのは、白川と水族館に行った時、バイトしていた黒瀬と会ってからだった気がする。
「もしかして、怒っているのは、水族館で白川といたことの方か?」
「違うよ」
ウミガメのスープゲームをしたいわけではないんだが。
なぜ、正直に教えてくれない?
答えの見えないなぞなぞに、頭が疲れてきた。
ふっと空を見上げる。
日差しは少し熱いが、涼しい風が頬を撫でた。
気持ちが少し晴れる。
「なあ、黒瀬。以前ここで弁当を食べたこと、覚えている?」
「……そういうこともあったね」
明らかに覚えているのに、知らないふりをする言い方だった。
「ボクはその時、嬉しかったよ」
「そう……。意外ね」
『意外』という言葉が気になる。
彼女は何か言いたいのに、我慢しているように見えた。
「まあ、最初はちょっと面倒くさいと思ったよ。テスト期間だったしね。でも、箱の中に閉じこもりがちなボクを、新しい世界に連れ出してくれたことには感謝している。その時の爽やかな風は、とても気持ちよかった」
繋いでいる黒瀬の手が、またびくっと震えた。
横目で見ると、彼女は顔を隠している。
だが、呼吸が少し乱れているのがわかった。
「アタシ……玲ちゃんの邪魔になってないかな?」
その声から、不安が伝わってくる。
「なぜ邪魔になっていると思う? 邪魔だと思ったことはないよ」
「それは嘘。わがままで、勝手に連れ回しているのに、邪魔だと思わないわけがない」
彼女が不安になっている理由は、ボクの言動にあるのだろう。
たぶん、ごまかしてもすぐ見抜かれる。
ここでは正直に、誠実に答えることにした。
「まあ、嘘も混ざっているな。確かに疲れる。面倒だ。予定も壊れる」
「……」
「でも、黒瀬がいないと、世界が静かすぎると気づいた」
黒瀬が、顔を隠していた左手を下ろす。
目を見開き、驚いた表情でこちらを見ていた。
ボクは目を逸らさないようにした。
本当にそう思っているのだと伝えたい。
この数日、火をなくしたロウソクのように無気力になっていた。
それが寂しさなのかはわからない。
でも、大事なところに穴が空いたような感覚だった。
「普段なら予想通りに終わることが、黒瀬がいると変わる。それが怖くもあるけど、灰色で終わるはずの日常に色を足す。その感覚は悪くなかったよ」
ボクは、彼女を離さないように握った手に力を入れた。
ボクの気持ちを理解してほしい。
ちゃんと話をしたい。
そう願った。
それに応えるかのように、黒瀬の手にも少しずつ力が入る。
お互いの体温が伝わり、温かい。
でも、彼女は手を離した。
「そろそろ教室に戻ろう。玲ちゃん」
彼女はぎこちない笑みを浮かべていた。
拒絶ではない。
だが、受け入れてもいない。
彼女がそうする理由がわからない以上、強引にどうこうすることもできない。
ある程度の進展はあった。
それに満足するべきなのだろうか。
*
ボクたちは教室に戻った。
机の上には、まだ膨らませていない風船が山積みになっていた。
ボクたちはお互いを見て、苦笑いするしかなかった。
「倉田さん、どこに行っちゃったんだろう」
「あいつ、明日会ったら半殺しにしてやる」
倉田さんは、ボクと黒瀬が話す時間を稼ぐために、どこかに隠れているのだと思っていた。
でも、まさか本当に家に帰ったんじゃないよな。
仕方なく、二人で風船を膨らませる作業を始める。
黒瀬が頬を膨らませながら、風船に空気を入れる姿を横で見る。
さっきは彼女が離れるのを止めるために『かわいい』と連呼した。
だが、客観的に見ても彼女は可愛い。
でも、彼女もボクも女だ。
そこに恋愛感情はあり得るのだろうか。
そもそも男とも付き合ったことがないので、恋するというのがどういうことなのか知らない。
だから、ボクには答えのない質問だ。
黒瀬が、よくわからない生き物のように感じた。
好奇心に満ちた子どものように、無意識に彼女の膨らんだ頬へ指を当てる。
黒瀬が「ぷぅーっ!」と空気を吹いた。
口から離れた風船が、空中を舞う。
「何するの!」
「あ、ごめん」
我に返って指を離す。
自分の指を見る。
黒瀬の頬の感触を思い出す。
柔らかく、温かい。
ボクはその感触が好きなのか?
いつの間にか外は夕方を過ぎ、暗くなり始めていた。
残っているクラスメイトはもういない。
ボクたちも、膨らませた風船を壁に貼り付ける作業まで終えていた。
「随分遅くなってしまったな。家に帰ろうか」
「うん」
黒瀬が頷く。
その時、教室のドアが開いた。
みんな帰ったと思っていたが、まだ誰かいたのかと思ってそちらを見る。
白川だった。
白川は数秒、何も言わずにこちらを見ていた。
そして、口を開く。
「待たせてごめんね、玲。帰ろう」
彼女は文化祭準備委員会の会議に出ていたはずだ。
先に帰ったのかと思っていたが、かなり長く会議をしていたらしい。
白川は一緒に帰ろうと言っている。
生き残るためにも、今日は黒瀬と帰るべきだ。
でも、それだけじゃない。
今ここで黒瀬を一人で帰したら、二度と戻ってこない気がした。
「ごめん、白川。今日は黒瀬と帰ることにしたから。埋め合わせはする。理解してくれ」
白川は答えずに、ただこちらを見ている。
その視線を見つめ返すことはできず、勝手に目を逸らしてしまった。
ボクの視界に、拳を握り締めている黒瀬の姿が入る。
黒瀬の視線が、白川の顔とボクの顔を往復した。
そして、何かを諦めたように、拳から力を抜く。
その後に出てきた言葉は、ボクを驚かせた。
「玲ちゃんは……白川さんと帰った方がいいよ」
彼女は苦しそうな表情をしていた。
そういう表情をしながら、なぜ?
「何を……」
「バイバイ」
そう言い残して、黒瀬は逃げるように教室を出ていった。
彼女を捕まえようと手を伸ばしたが、突然のことで反応が遅れた。
逃してしまった。
ドアを開けて出ていく背中を、見ていることしかできなかった。
「黒瀬さん、わかってくれたみたいね」
白川が近づいてくる。
ボクにもたれかかるように、そっと抱きしめてきた。
「玲、帰りましょう」
彼女は耳元で、静かに囁き続ける。
「……私たちの場所に」
*
黒瀬は、さっきまで玲と話していたベンチに一人で座っていた。
両手で顔を隠している。
「玲ちゃんは、アタシといるより白川さんといる方が、きっと幸せだよ」
手と手の間に、温かい雫が落ちていた。
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