第21話「甘い麻酔」
寝ていると、部屋の外から声が聞こえた。
女性の声だった。
でも、今はもっと寝たい。
少し覚醒しかけた意識が、自然に眠りへ沈んでいく。
「―――――――」
また声がした気がする。
近くにいる感じがしたが、意識はすぐに沈んだ。
その時、頬に温かい感触を覚えて、ボクは目を覚ました。
「お母さん?」
目の前にいたのは白川だった。
腰をかがめ、長い黒髪が垂れないようにかき上げている。
目を細め、うっすら笑うその眼差しは、とても優しかった。
「玲、おはよう」
白川が朝の挨拶をする。
彼女がいるのはボクの部屋で、ボクはベッドに横たわっている。
少し前に話し声が聞こえたし、母が白川を家に上げたのだろう。
うちは昔から家族ぐるみの付き合いなので、それ自体は不自然ではない。
でも、寝ているボクの部屋まで入っているのは、さすがに少し変な感じがした。
目が覚めた時、彼女の距離が近すぎる。
そう判断するボクが、頭の片隅にいた。
でも、その声は眠気と疲労に押し流された。
「おはよう……? なんで白川がボクの部屋にいるんだ?」
「玲を起こしに来たの」
「え? なんで急に?」
「忘れたの? 今日、HRで出し物候補の投票があるのに、昨日は選別が終わらなさそうだったでしょう? だから、今朝は一時間早く学校に行くことにしたじゃない。玲が寝坊してないか見に来たの」
ああ……。
確かに、早めに会う約束をしていた。
でも、わざわざ起こしに来るまでは……。
「今何時だ?」
隣に置いたスマホを見る。
朝六時を少し過ぎていた。
白川からのメッセージも来ている。
『おはよう、玲。ちゃんと起きた?』
『もしかして、寝坊してる? 返事がなかったら、そっちに起こしにいくね』
彼女は、ボクが朝にものすごく弱いことを知っている。
念のためにメッセージを送ったのだろう。
「悪いな。今から準備するから、ちょっと待って」
ベッドから体を起こし、洗面所に向かう。
足がとても重い。
朝はいつも気だるいが、今日は早く起きたせいか、鉛でできているみたいだった。
「急いで。あまり時間がないよ」
白川が先に移動し、部屋のドアを開けてくれた。
「ありがとう」と礼を言う。
だが、その言葉すらゆっくりで、足も重いままだ。
頭がぼうっとしている。
まだ半分、夢の中にいるようだった。
のろのろとした足取りで洗面所にたどり着く。
歯ブラシに歯磨き粉をつけ、歯を磨く。
鏡に映った自分の顔を見て、「間抜けな顔だな」と思った。
そのあと、顔を洗う。
水を拭こうと細目でタオル掛けを探すが、よく見えない。
その時、白川がタオルを渡してくれた。
「あ、ありがとう……」
理由のわからない違和感があった。
でも、渡されたタオルを受け取り、顔を拭く。
「服は隣に置いてあるから、それを着てね」
「ちょ、ちょっと」
ボクは止めようとしたが、言葉だけ残して白川は外に出た。
いや、ここまでしなくても。
そう思いながらも、だるい体を引きずって部屋に戻るのも、確かに大変だった。
子どもの時に戻ったような、成長が逆流したような感覚を覚えながらも、出された服を身につける。
リビングに行くと、白川が食卓に座っていた。
目の前には、弁当が二人分置かれている。
朝ご飯は、母が作って置いていってくれるはずだ。
なのに、食卓にあるのはどう見ても白川が持ってきた弁当だった。
「え? 母は?」
「自分の部屋にいらっしゃるよ。たぶん出社の準備中で、お化粧してると思う」
今日の白川は何か変だ。
起こしに来ること。
学校に行く準備を手伝ってくれること。
そこまでは、早く学校に行かないといけないから、という理由の範囲に収まる。
でも、弁当まで準備しているのは、さすがに用意が良すぎる。
白川がボクに執着しているのは知っている。
でも、ここまであからさまに行動することはなかった。
積極的になるきっかけがあったのか。
それとも、単純に今日は急いでいるだけなのか。
ボクが黙り込んでいると、白川が口を開いた。
「今日はいつもより早く学校に行かないといけないから、朝ご飯は私が作って持っていくって、昨日メッセージでおばさまに伝えておいたの。だから、作ってないだけだよ」
白川に促され、ボクは弁当を食べ始めた。
温かくて美味しい。
保温容器に入れてきたのだろう。
弁当なのに、まるで今ここで作ったみたいに温かい。
白川の方を見ると、彼女はボクが食べる様子を優しい目で見つめていた。
「美味しい?」
その問いに、ボクは頷いた。
すると、彼女の笑みはさらに満ち足りたものになる。
ドアが開く音がしたかと思うと、母がこちらへやってきた。
「美琴ちゃん、朝から助かったよ」
「いいえ。今日は玲が、私のやることを手伝ってくれるんです。だからせめて、ご家族の迷惑にはならないようにしたくて」
母の言葉に、白川が礼儀正しく返す。
「いい子ね。娘にほしいわ」
「と、とんでもないです」
白川がうつむく。
長い髪に顔は隠れていたが、声だけでひどく照れているのがわかった。
ボクみたいに不器用で、人を傷つける娘より、白川が娘である方が母も幸せだろうな。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
黒瀬とのことが、相当精神にきているらしい。
昨日は黒瀬に完全拒絶されて、精神的に限界だった。
だから、やるべき作業もできず、家に帰ることにした。
今、白川が朝から来て、いろいろ世話してくれるのは、彼女なりの優しさかもしれない。
温かいごはんを食べながら、そう思った。
食事を終え、ボクたちは学校に向かった。
教室に着いて時計を見ると、HRまでまだ一時間半ほどある。
さすがに少し早く来すぎた気もする。
机に座ってノートを開く。
候補は二十個まで絞ってある。
今日はそこから五個に絞る段階だ。
机の向かい側に座っている白川に、二十個の企画案を伝える。
彼女はボクの考えを真剣に聞き、先生側の視点も含めてフィードバックしてくれた。
こういう時の彼女は、本当に頼もしい。
五個まで絞り終えると、HRまではまだ二十分残っていた。
「先生に伝えに行くね」
白川は立ち上がり、教室を出ていった。
教室に一人で座っていると、クラスメイトがだんだん入ってきた。
静寂に包まれていた教室が、少しずつ騒がしくなる。
「おはよう」
黒瀬の声が聞こえて、無意識にそちらを向いた。
だが、その朝の挨拶はボクに向けられたものではない。
彼女の席の周りにいるクラスメイトたちが、「おはよう」と返す。
その中に、ボクはいない。
黒瀬と一瞬だけ目が合った。
何か話しかけようとしたが、彼女は気づかないふりをして、他の子と話し始めた。
そこに割って入る勇気はない。
「……」
なんだか気まずくなって、ボクは席を立って外へ向かった。
黒瀬の視線を感じた。
でも、「もう話しかけないで!」という言葉が頭に浮かび、何も言えなかった。
「いやだな……。ボクが」
いつも逃げることしかできないバカだ。
教室の外、廊下で立ち尽くしていると、職員室から戻ってきた白川と鉢合わせた。
「ここで何してるの?」
「別に、なんでも」
そう言って、ボクは教室へ戻った。
HRは順調に進んだ。
委員長である白川が会議を進行し、ボクが出し物案の企画内容を説明する。
そして、投票で一番多く手が挙がった案を採用する。
クラスの出し物は「メイド喫茶」となった。
*
放課後。
ボクはすぐには席を立たず、そのまま座っていた。
馬鹿みたいな期待だけど、また黒瀬が話しかけてくれないかと思って。
でも、そんなことは起こらなかった。
黒瀬はギャル友達と一緒に教室を出ていった。
「何やってるんだ、ボクは……」
一人ごとをつぶやきながら、天井を見つめる。
ふっと、誰もいないところに旅行に行きたいと思った。
すべて忘れて、のんびりしたい。
そう思っていると、白川が近づいてきた。
「玲、始めようか」
机の上に置いてある書類を見る。
これから、メイド喫茶の予算案を作らないといけない。
必要なメイド服の数。
お菓子やドリンクの費用。
それらをまとめて、学校に申請書を出す必要がある。
胸の奥で淀んでいる感情を鎮めて、資料に向き合おうとする。
でも、手が震えてペンをちゃんと持てない。
それを、白川が静かに見つめていた。
「玲、手伝ってくれてありがとうね」
白川が、座っているボクの頭を抱くようにして撫でた。
顔に彼女の体温が伝わってくる。
甘い薬が、麻酔のように胸の痛みを和らげる。
彼女の愛情は、執着は、危険だ。
知っているはずなのに、拒むことができなかった。
そのままではいけないとわかっているはずなのに、安楽から抜け出せない。
もう、いいんじゃないか。
今だけは、逃げても。
危険な薬だとしても、今はそれがほしい。
嫌な現実から逃げるように、ボクはそのまま目を閉じた。
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