第20話「沼」
「文化祭の出し物に関するご意見の締め切りは明日です。良いアイデアがある方は、明日までに意見箱へお願いします。候補の選別作業は、私と花村玲さんが担当します」
朝の教室でのHR時間。
窓の外をぼうっと眺めていたら、自分の名前が聞こえてきて驚いた。
白川は文化祭準備委員長だ。
今、教壇で文化祭準備の会議を仕切っているのは彼女である。
誰に対しても優しく、クラスメイトからの人望も厚い。手順通りに正確に事を運ぶので、先生からの信頼も厚い。
だからこそ、おかしいと思った。
ボクに一言もなく、準備作業に組み込むなんて。
休み時間になるなり、白川の席に向かった。
「白川、なんでボクが候補を選ぶことになったんだ?」
「ごめんね、急に。でも、相談できる相手が必要だったの。候補は、ただ意見が多い順に決めればいいってわけじゃないでしょう? 予想される結果まで見据えて考えられる人が必要なの。それができそうなのは、玲しか思い浮かばなかった」
ある程度、納得できる理由だった。
だが、不可解なことは残っている。
この前、白川は自分を選ばずに黒瀬と付き合ったことに怒り、取り乱していた。
黒瀬の時みたいに、もう話せなくなるのではないかと思っていた。
でも今は、まるで何もなかったみたいに普通に接している。
心の整理ができたのか。
それとも、整理したように見せているだけなのか。
彼女の心理というか、変化の理由がよくわからない。
「まあ……わかったよ」
「ありがとう、玲。もし放課後に予定があるなら、遠慮なく言ってね」
「予定はない」
意見箱の締め切りは明日までだが、選別作業は今日から始めるらしい。
放課後は教室に残って、白川と作業することになった。
*
放課後、黒瀬の方を見ると、彼女はギャル友達と楽しそうに話していた。
最近はいつも黒瀬がボクの席に来て、強引に手を引っ張り、遊びに連れ出していた。
そんな彼女が、もう来ない。
話もしない。
仲直りも……できそうにない。
それを心苦しく思う自分がいる一方で、生存戦略として計算している自分もいた。
偽装恋愛が終わった以上、今度はそれを白川に悟られないようにしなければならない。
今日の放課後の活動は、ある意味では助け船だ。
予定があるなら、黒瀬と一緒に下校していなくても不自然には見えないはずだ。
それでも、胸の内側に妙な空白ができたような気分だった。
生存のための偽装恋愛だったが、彼女の賑やかな雰囲気は嫌いじゃなかった。
あるのが当たり前だったものが消えると、思っていた以上に空白が大きい。
元通りの生活に戻っただけなのに。
本当に、困ったものだ。
ぼうっと窓の外を眺めながら、白川との約束の時間を待った。
しばらくすると、白川が教室に戻ってきた。
手には小さな鍵を持っている。
意見箱の鍵だろう。
他の生徒が勝手に中身をすり替えたりしないよう、意見箱には鍵がかけられていて、先生がその鍵を保管していた。
それを借りてきたらしい。
「お待たせ。じゃあ、作業を始めようか」
白川が意見箱の鍵を開け、中身を机の上に取り出す。
一人が複数の意見を出すことも許可されているので、そこそこの量があった。
何枚か手に取って読む。
考え抜いた意見というより、ブレインストーミングに近いものが多い。
ありふれた案もあれば、どう考えても実行不可能な案もある。
一瞬、黒瀬と観た映画のことが頭に浮かんだ。
ボクは斬新ではない普通の意見を、つまらないと感じて切り捨てがちだ。
けれど、王道には王道である理由があることを、あの映画から学んだ。
黒瀬は、ありふれた話で涙を流していた。
そういう人もいる。
実行できないものは整理する。
でも、普通のアイデアは検討対象に残しておく。
「玲は文化祭をどう思う?」
「どうって?」
「玲は部活もしないし、人が多いところも嫌うでしょう? 文化祭も好きじゃないし」
「確かにそうだな……」
「でも、楽しむ心がないと、選別も企画も難しいよ」
その意見には同意する。
何がいいのかわかっていない人間が、ニーズに合うものを作れるわけがない。
やっぱり、文化祭の準備はボクに向いていないと思う。
「私はね、玲に今回の文化祭を楽しんでほしいと思ってるよ」
「それは……難しいかな。面倒くさいって感じてしまう」
「私たち、もう高校生だよ? もうすぐ、文化祭を楽しみたくてもできなくなる。思い出は、作れる時に作らないと。チャンスは戻ってこないし、未来は何が起きるかわからないよ」
小さくため息をつく。
言いたいことはわかる。
だが、群れて遊ぶことに意味があるのか。
ボクは群れるのが大嫌いだ。
「私が文化祭を楽しむ方法を教えてあげる。玲は、自分が体験してみたいことを選んで」
手に持っていた意見用紙を見る。
体験してみたいこと。
戻ってこない青春の一ページ。
くだらない作業だと思っていたものが、少しだけ意味を持ち始める。
重さが出てきた。
「白川は優しいな。こんなボクにも」
「こんなボクって……。私は玲が大好きだよ」
白川の言葉はありがたい。
でも、ボクはボクを好きになれない。
いつも誰かを傷つけて、馬鹿みたいな失敗ばかり繰り返している。
「……玲、何か悩みでもあるの?」
白川が心配そうな顔でボクを見ている。
「なんでもないよ。はは……」
「何もないのに、“こんなボク”なんて普通言わないよ。苦しいことがあるなら、相談して」
相談はしたい。
でも、黒瀬と別れたことは白川には相談できない。
何も言わなければ、彼女はずっと気にするだろう。
適当にでも、何か言わないといけない。
「ちょっと知り合いと喧嘩して、気が重くなってるだけだよ」
「どうして喧嘩になったの?」
「……よくわからない。多分、ボクが何か無神経なことを言ったせいだと思う」
白川は顎に指を当て、何かを真剣に考えた。
「玲はその後、どうしたの? 謝った?」
「話せる雰囲気じゃないというか。どう謝ればいいのかわからなくて……」
白川は一度下を向き、小さくため息をついた。
それから、ボクを見つめ直す。
「また悪い癖が出てるよ。玲がそれで気が重くなってるなら、謝った方がいい」
確かにそうだけど、そんな簡単な問題じゃない。
いや。
でも確かに、いろいろ考えて先延ばしにするのはボクの悪い癖だ。
「ありがとう。明日、その知り合いと話してみる」
「うん。私は玲の幸せを応援してるよ。もし、謝ってそれでも戻らないなら……その時は、玲が悪いわけじゃないよ。できる精一杯のことはしたんだから、その時は胸を張ってもいいと思う」
白川は本当に頼りになる。
ボクたちはそのまま、文化祭の出し物案の選別を続けた。
*
次の日の放課後。
ボクは校門へ向かって走った。
白川は先生に鍵を借りるため、職員室へ行っている。
校門でなら、黒瀬と話せるはずだ。
そこで彼女を待つ。
「黒瀬! 話したいことがある!」
エントランスから校門へ向かって歩いてくる黒瀬を見つけ、声をかけた。
「こんにちは、花村さん」
黒瀬がボクを“花村さん”と呼ぶのは、初対面の時以来だった。
その冷たい口調から、とても深い溝を感じた。
「そ、その……この前のことを謝りたくて。ごめん!」
「ああ、別に気にしなくていいよ。アタシこそ、感情的になってごめん」
表面上は、謝罪を受け取った。
でも、本当はそうじゃないことくらいはわかる。
「あの……そうじゃなくて……」
「もう行っていいかな? お互い謝ったし。友達を待たせてるから」
「う、うん……。ごめん……」
もう謝った。
相手も受け取った。
その先を、ボクはどうすればいい?
もっと深く、心を通わせて話したい。
でも、その方法がわからない。
黒瀬は一度だけ足を止めた。
振り向きはしなかったが、肩がわずかにこわばる。
「……もう遅いよ。近づかないで」
黒瀬はそう吐き出して、去っていった。
ボクはその背中を見送ることしかできなかった。
教室に戻る。
白川とやるべき作業がある。
ドアの前で、重い気持ちを切り替えるために笑顔を作ってみる。
息を吐いて、吸って。
ドアを開けた。
「待たせてごめん。今日の作業を始めようか」
先に机に向かって作業していた白川が、顔を上げる。
「玲。昨日相談してた件、うまくいった?」
「ああ、ちゃんと謝って、仲直りしたよ」
白川は何も言わず、ボクを見つめた。
「玲……」
「なんだ?」
「うまくいったなら、泣かないと思うよ」
あれ?
目元に指を当てる。
温かい液体が指を濡らした。
口角を上げているはずなのに、頬の筋肉がうまく動かない。
視界の端が、少しだけ滲んでいた。
「なにこれ? ホコリが目に入ったのかな……はは」
白川は小さく息を吐いて立ち上がり、ボクに近づく。
そして、優しく抱きしめた。
「玲は十分頑張ったよ」
その言葉を聞いた瞬間、自分でも驚くほど涙があふれ出た。
喉が詰まって言葉にならない。
変な音しか出ない。
「玲……」
白川がボクの頭を撫でる。
すべてを受け入れる、甘い蜜の沼のように。
「私がいるよ。もう無理しなくていい……」
面白いと思っていただけたら、下部の☆☆☆☆☆から評価とブックマークをお願いいたします!




