第18話「時間と無作為変数」
「玲ちゃん?」
背後のペンギンの着ぐるみから、黒瀬の声がした。
心臓に衝撃が走る。
「黒瀬……なのか?」
ボクは振り返って着ぐるみを見る。
だが、反応はない。
「黒瀬さん、バイトしていたのですね」
白川も振り返って声をかける。
その声音は、少し冷たかった。
「わあ、はなちゃんだ〜!」
子どもたちが集まってきて、着ぐるみに抱きつく。
「ごめん。今は話せないから、後で話そう」
黒瀬はボクたちに背を向け、子どもたちの方へ向き直ると、ペンギンの演技を始めた。
どう見ても、今ここで写真を撮ったり話したりできる空気ではない。
「玲。黒瀬さんは忙しそうだから、別のところへ行きましょう」
ボクたちはそのまま水族館を見終え、出口へ向かった。
出口の通路を抜けると、そこには水族館のグッズショップがあった。
「玲、これ見て。可愛い!」
白川が、まん丸で赤いタコのぬいぐるみを持って笑っている。
さっきのことをもう気にしていないように見えた。
だが、ボクはどうにも気分が乗らなかった。
「うん、可愛いね」
しばらくして、白川はペンギンのキーホルダーとハンカチを持ってきた。
「はなちゃんの限定グッズ、まだ残ってたよ。玲はどっちがいいと思う?」
「……よくわからない」
ボクの気のない返事を聞いて、白川は心配そうな顔になる。
「黒瀬さんに会ってから元気ないけど、そんなに気になる?」
白川の問いに、ボクは答えられなかった。
黒瀬とはただの偽装恋愛だし、今日は幼馴染と遊びに来ていただけだ。
本来なら、何の問題もないはずだった。
なのに、なぜか後ろめたい。
偽りの設定に没入しすぎたのだろうか。
自分の感情がよくわからない。
「玲。今は私といるんだから、私を見てくれない?」
白川の言葉は正しい。
今ここで黒瀬のことを考えても、どうにもならない。
今は白川を失望させないように振る舞って、後で黒瀬と話せばいい。
なのに、頭の中は黒瀬のことでいっぱいだった。
「……帰りましょう」
白川はそう言って、グッズショップを出ていった。
ボクも黙ってその後を追う。
その後は、そのまま家に帰るだけだった。
電車の中では一言も話さず、気まずい雰囲気だけが漂っていた。
家にはすぐ到着した。
ボクの家と白川の家の間。
そこで、別れを告げた。
「また明日」
白川が家に戻るのを見てから、自分の家に入る。
玄関のドアが閉まるのと同時に、ボクはスマホを取り出して黒瀬にメッセージを送った。
そして、すぐにまた外へ出る。
向かう先は、水族館だ。
着ぐるみのせいで、黒瀬の表情は見えなかった。
だが、あの声は感情を押し殺すように震えていた。
その響きが、ずっと頭から離れない。
水族館の出口で待っていると、黒瀬が出てきた。
バイトが大変だったのか、足取りも表情も重い。
時間は二十時。
水族館の閉館時間だった。
「お疲れ様」
ボクが声をかけると、黒瀬は一瞬戸惑い、それから口を開いた。
「やあ、玲ちゃん。奇遇だね。バイト先で会うなんて」
黒瀬は、いつもの軽いノリに戻ったように話す。
恋愛の練習相手なのだし、ボクもそこまで気にする必要はないはずなのに。
なぜか、心が落ち着かなかった。
「夕食、まだだろう? 一緒に食べる?」
「うん。食べる!」
ボクたちは隣のショッピングモールのレストランフロアへ向かった。
黒瀬はボクから少し離れて歩いている。
それが妙に気になった。
「黒瀬、なんでそんなに離れてるんだ?」
「アタシ、今、汗臭いから」
今日ずっと着ぐるみを着ていたのだから仕方ない。
中はかなり蒸し暑かったはずだ。
……それだけならいいが。
「店、どこに行きたい? 冷たい飲み物がある方がいいか?」
「こことかどう?」
黒瀬が指さしたのは洋食店だった。
ボクたちは中に入る。
黒瀬は向かい側の席に座った。
普通のことだ。だが、黒瀬はいつも隣に座ろうとしていた。
今日は違う。
普通に戻っただけのはずなのに、ひどく寂しさを感じてしまう。
注文を済ませて、ボクは黒瀬の方を見た。
「黒瀬、バイトしてたんだな」
「うん。今のは短期バイトだけどね。イベントが終わったら、また別のを探さないと」
放課後はいつも遊びに誘ってくれていたから、黒瀬がバイトしているとは思っていなかった。
「何か買いたいものでもあるのか?」
「そういうわけでは……いや、近からず遠からずかな」
曖昧な返事だった。
言いにくいことなのだろうか。
「お小遣いがきついなら、遊びに行く時はもう少し安いところにするか?」
「そういうわけじゃないよ。これは、……将来のためだよ」
黒瀬は、卒業したら今の家を出て一人暮らしをしたいと言っていた。
確かに、それには金が要る。
だが、本来の計画では高校卒業後すぐ就職するつもりだったはずだ。
それが変わったのか?
そこまで考えたところで、注文した料理が運ばれてきた。
黒瀬はドリンク付きの洋食プレートセット。
ボクはオムライス。
ボクたちはそれぞれ食べ始める。
ただ、黒瀬はいつもなら、ボクの皿を覗き込んで「一口ちょうだい」と言う。
今日は言わなかった。
自分の皿のハンバーグを、妙に丁寧に切っている。
やっぱり、距離を感じる。
「玲ちゃん。白川さんとのデート、楽しかった?」
「デートじゃない。幼馴染と気分転換に遊びに来ていただけだ」
ボクの言葉に嘘はない。
嘘ではないが、肝心なことを言っていない気もした。
空白。
乖離。
うまく二人との距離をコントロールしてきたつもりだった。
だが、その距離から真空を感じる。
離れると足りなさで痛むし、勝手に距離が埋まってしまう。
これはなんだ?
「そうなんだ。ごめんね。楽しく遊んでたのに話しかけちゃって。邪魔しちゃったのかなって、ちょっと気になってた」
「邪魔なんかじゃない。気にしなくていい」
黒瀬には、そんな遠慮は似合わない。
もっと気楽に笑っていてほしい。
ボクは空気を変えたくて、別の話題を出す。
「そうだ。勉強はうまくいってる?」
「うん。おかげさまで」
「次のテストでは、きっと成績もぐっと上がってるはずだ」
だが、ボクの激励を聞いて、黒瀬の表情はむしろ暗くなった。
「そうなるといいけどね。玲には……追いつけそうにないよ」
また何か変なことを言ってしまったらしい。
だが、何がまずかったのか見当もつかない。
焦りだけがこみ上げる。
「はは……ボクはずっと勉強に時間を使ってきたからな。すぐには無理でも、時間をかければできると思う」
「時間……時間ね……。なかなか難しいね。時間を重ねるのって。タイムマシンでもあればいいのに」
タイムマシンか。
ボクも欲しい。
一番合理的な選択をしているはずなのに、なぜ周りの人たちは傷つくのだろう。
わけがわからない。
やり直せるものなら、やり直したい。
その後、会話は弾まないまま、夕食を終えた。
そして、それぞれ家に向かった。
*
ボクの家の前には、白川が立っていた。
スマホで何かを見ている。
ボクが近づくと、それに気づいて顔を上げた。
「おかえり」
「ここで何してるんだ?」
要件があるなら、メッセージを送ればいい。
ボクの家の前でずっと待っているのはおかしい。
「玲、今日、私といて楽しかった?」
ボクは頷く。
なのに、白川の表情は曇っていた。
「私ね、今日、玲と楽しい思い出を作りたかったの」
白川は、見ていたスマホの画面をボクに向けた。
そこには今日、水族館で撮った二人の写真が映っていた。
写真の中のボクたちは笑っている。
「玲。私との時間より、黒瀬さんの方が大事なの? 写真を送ってくれるって言ったのに、どうして黒瀬さんのところへ行くことを優先したの?」
違和感が走る。
なぜ、ボクが黒瀬に会いに行ったと断定している?
コンビニに寄っていたかもしれないし、別の場所に行っていた可能性だってあるはずだ。
そこを一切考慮していない。
ふと、あの黒い観察日記が脳裏をよぎった。
ボクは白川の感情が爆発しないよう、ルールの管理ばかり気にしていた。
だが、白川はストーカーでもあった。
ずっとどこかで、ボクを見ていたのだ。
「……玲。私たち、一番仲のいい友達だよね」
「もちろん、そうだ」
白川が近づいてくる。
そしてボクの肩を掴み、震える声で、それでもまっすぐボクを見ながら言った。
「なのに、どうして……私を選んでくれなかったの? なんで黒瀬さんと付き合うことにしたの? 私に何が足りなかったの? ……なんで、私を選んでくれないの?」
白川に足りないものなんてない。
ただ、女同士では恋愛できないと思っていた。
そしてボクは、そこから逃げるために偽装恋愛をしていただけだ。
「玲。何か言ってよ。私が理解できるように説明してよ。説明は得意なんでしょう?」
「……たまたまだよ。理由はない。偶然、そういう流れになっただけ。白川に足りないものはない」
白川に自分を責めないでほしかった。
白川が悪いんじゃないと伝えたかった。
でも、それを聞いた白川は、失笑を漏らした。
「偶然。偶然ね。そういうのに負けたのね。私は……」
白川はくるりと背を向ける。
「邪魔してごめんね。おやすみ」
白川はそのまま、自分の家へ帰っていった。
本当に……今日は最悪な日だ。
そして、本当に最悪なのはボクだ。
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